第七話 人の書きしもの


 〈前回までのあらすじ〉

 連休消失ホリデーインパクトは避けられた。今までの失敗(抜けないケーキ、戻らない大豆、沸騰したポタージュ、食べられなかった豚)を大型連休前の慣らし期間と称し、〝シナリオ通り〟と政治家並みの世迷い言を吐く作者。果たして、思いつきか、筆滑りか、自暴自棄ヤケクソか。

 本当にオチなしとなるのか、読み物エッセイとしてどうなる、4話連続連休編、開幕──



 *



 文学部哲学科卒である。

 第参話『染みない、味』を読まれている方にはなんとなくお察しいただけるかもしれない。ああ、自意識の塊ね、ワタシミンナトチガウノ症候群ね、十八過ぎても治らなかったのね、と。これは自虐ではない。


「大体、そういう人が入ってくるんですよ」

 

 とは、初講義で新入生に向けて教授が放ったお言葉である。つまりは虐であるが、教授もかつては〝そういう人〟だったわけで、肉を斬らせて骨を断ち、若人の自意識を見事粉砕してくれた。そこかしこから呻きというか、怨嗟が上がっていたのを覚えている。

 西洋哲学を修めるにあたり、避けては通れない哲学者がいた。三大理性批判の著者であり、近代哲学の祖である、カント。私たち哲学科の学生はゼミでその著『純粋理性批判』の序論を原文から読み解いていたのだが、これがもうまったくわからなかった。二年も続けていたのに、あれ、純粋理性批判の著者って誰だっけ、ハイデガー? と検索してようやく思い出す程度である。よくまあ、二年続けられたものだ。

 ゆえに、私の理解はひどくあやしく、曲解している可能性があるということを前提として述べておく。

 飲食店のバイトと一時間半の通学で、終始船を漕いでいたゼミだったが、今もなお忘れ得ぬ衝撃的なカント先生の教えがあった。


 後天的アポステリオリな経験による認識は、あてにならない。

 

 一般にいうところの経験は、前世からの記憶でもなけりゃ後天的に決まっているから、すべての経験から導き出される認識はあてになんないというわけだ。対して経験によらない先天的アプリオリな認識を純粋認識と呼び、上位であり、エライであり、良し! だそうだ(ちなみにアプリオリな認識とは時間とか空間らしいが、何年経っても意味わかんない)。


 経験全否定といことは、受験勉強して大学入ったのに努力全否定? 涙の数だけ人は強くなれない?? 君と夏の終わり将来の夢、大きな希望は???


 さすが偉大なる哲学教授、霞を喰ったお考えである。


 なれど後年、この考え方は私を楽にしてくれた。

 俺の時代はこうだった、私のやり方はこうよ、という他者の経験に基づくありがたい金言を鵜呑みにしない癖がついたので。

 いや、カント先生の言いたいことと違うのは百も承知で、真面目に研究している方には渋い顔をさせてしまうのだろうけれど、ともかくこの考え方は楽だった。自分の経験すらあてにならないのだから、他者の経験などなにほどのもの。受け容れるのは、吟味してからでも遅くない。

 もっともこの捻くれた性質で不要な遠回りをすることも多々あったが、自業自得であり、他者を呪うよりかは精神衛生上に良かった。


 


 

 連休初日は掃除洗濯、父の入院先へ物資搬入と慌ただしかった。

 二日目からが本番である。産地直売所とスーパーへ出陣、目当ての品を安値で購入、戦果は上々、厳しい猫の検閲を経て、しかるべき場所へ納める。

 さあ、ホットクックの饗宴の幕が上がる。その日は少なくとも三回は使用するつもりだった。

 

 まずは昼食。生米、トマトの水煮、玉ねぎみじん切り、きのこ、ベーコン、コンソメ、バター、ニンニクチューブ、調味料、水を内鍋に入れて、まぜ技ユニットを装着して、メニューからトマトリゾットを選択してボタンをピ。付属のメニュー集に掲載されていたレシピに忠実に従った。

 しばらくしてふんわりニンニクが香り、二十分後には完成。

 ビジュアルはちょっとあれだが、米は少し芯が残る本格派。もちろん美味。美味しい、美味しいのだが、美味しいゆえに・・・・・・



 足りない。

 

  

 レシピには米一合、四人分と記載されていたが、足りない。

 兄とつついていたのだが、二人とも大食ではないが、全然足りない、瞬殺である。

 そも、作り出す時、あれ少ないんじゃないのとは疑っていたのだ。だが、私の料理経験からの認知は所詮アポステリオリで疑わしい。もともと存在していたレシピに従うべきだ。でもレシピとて、所詮他者の経験による認知で書かれており、しかも私が信用しない他人のそれだ。あれ、なんか混乱してきた、何を信じたら良いのか。空間と時間? いや、哲学教授と違って霞食べて生きているんじゃないし。

 もしかしたら、リゾットという洋風小洒落雑炊は主食ではなく、前菜やら副菜やらにあたるのだろうか。ならばこちらの認知不足であり、ホットクックになんら非はない。

 そう、たとえできあがりの儚さのわりに洗い物(内鍋、内蓋、まぜ技ユニット)が多かろうと・・・・・・めんどうくさいな。



 洗い物をしながら思い出す。

 卒論で『人間は自らの姿に似せて神を作った』というフォイエルバッハ哲学と日本のアニミズムを絡めた論文というか妄想を書いた。大概の卒論がそうであるように難産で、口頭試問はまったく自信がなく逃げ出したかったのだが、意外にも教授からは「面白かったよ、後半尻すぼみだったけど」とのお感想をもらった。続けて教授は言った「ただ、製本がひどい。それも判定には加味するから」と。

 大学指定の原稿用紙に印刷せねばならず、家庭用プリンターは紙詰まりを起こし、印刷に四苦八苦、迫る提出期限、電車の出発時刻、見直しもせずに家を飛び出し、特急列車の指定席でホチキス止めした。教授曰く、印刷ずれがあったり、同じページが二枚続いたり、白紙が挟まれていたりしたそうだ(抜けがなかったのは奇跡だ)。小説公募ならば読まれもしなかったろう。

 結局、卒論の判定はBだった。もしも、後輩が何かのはずみで私の卒論を開いてしまったと思うとぞっとする。どうか、純粋理性批判の精神で読んでほしい。

 そして、今エッセイの読者の皆様、特にホットクック購入意欲が高まってきていた方、同様に純粋理性批判の精神をお願いしたい。前述、洗い物めんどうくさいな云々かんぬんのくだりは、あくまで人が書いた、人の経験なのだから。

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