鮮血の魔女に捕虜として捕まったけれど彼女があまりに可愛すぎる
猫子
鮮血の魔女に捕虜として捕まったけれど彼女があまりに可愛すぎる
「へえ……最近の聖騎士は、なかなかやるものなのね。まさか、この私がニンゲン相手に、十秒も掛けることになるなんて思わなかったわ」
金の滑らかな髪が、女の動作に靡いて華麗に舞う。
微かに笑みを湛えた艶のある唇からは、人外の証である犬歯が覗いていた。
白い指先に纏っていた真紅の長爪は、彼女が指を曲げると霧となって消えていった。
吸血鬼の技術、血装だ。
血に己のマナを込め、ああして牙や爪に纏って武器とする。
実際に見たのはこれが初めてだが、知識として知っていた。
俺は再び斬り掛かるべく立ち上がろうと試みるが、身体が動かず、無様に前のめりに倒れることになった。
手から自然と剣が離れる。
既に腕に、力が残っていない。
「……ただの調査で、大当たりを引いてしまうとは。俺も運がない」
一ヵ月前、三十名以上が同行していた商隊がまとめて行方不明になる、という事故が発生したのだ。
これを世の理に背いた化け物……怪異の仕業であると判断した教会は、聖騎士を動かして大掛かりな調査を行っていた。
聖騎士の一人であるこの俺ロイド・ローベルンもまた、周辺の地を回って怪異の噂がないかの聞き込み調査を行っていた。
その際、俺はとある村で吸血鬼らしき目撃証言があるらしい、という話を聞いてその村へと調査に訪れることになった。
ただ、事件が起こった場所からはかなり距離が開いていた上に、実際に話を聞いたところ、正確には目撃証言ではなく、そういう伝承が村に残っているというだけの話だった。
――森の奥には、恐ろしい《鮮血の魔女》がいる。
そんな教訓話めいたありふれた伝承を信じているのは、その村の中でも長老である老婆だけであった。
こうなれば報告に聖騎士団へと戻るのも馬鹿らしいと、あろうことか俺は単騎でそのまま森奥への調査へ向かってしまったのだ。
騎士団長は生真面目で融通が利かない人であるし、実際事件の調査は難航している。
どんな迷信であろうが、最悪の想定をしてまた部隊を編成し直して調査に送り……と、二度手間になることは容易に想像ができた。
そういうことで俺が単独で様子を見てくるということになったのだが……不幸なことに、これが大当たりだった。
考えが甘かった、としか言いようがない。
どうせ外れだろうとしか考えていなかった。
伝承が本当であれば、護衛付きの商隊を単騎で壊滅させられるような《鮮血の魔女》に、聖騎士一人で敵うわけがないのだから。
「不躾な客人ね。館に押し入り、主へ刃を向けるなど」
吸血鬼が俺を見下ろして笑う。
高位の吸血鬼であれば、まともに戦って勝ち目などない。
故に不意打ちに出るしかなかった。
怪異相手とはいえ、騎士道精神を欠く行いであるとは自覚していた。
しかし、その上で全く歯が立たなかった。
彼女は最小限の動きで刃を躱し、即座に血装を用いて武器とした爪での反撃に出てきた。
こうなった以上、どうしようもない。
自刎しようとしたが、身体に力が入らなかった。
吸血鬼の血は人間には毒となる。
血装を受けた際、俺の傷口から入り込んだのだろう。
「……殺すがいい、とうに覚悟はできている」
「そ、そんな物騒なことしないわよ」
俺の言葉に、彼女はびくっと身体を震わせてそう漏らした。
「……む?」
俺が彼女の言葉を不審に思っていると、彼女はこほんと咳払いを挟み、表情を取り繕う。
「ら、楽に死ねるとは思わないことね。せっかくニンゲンの客人が来……いえ、せっかく隠れ住んでいたのに、聖騎士が乗り込んできたんですもの。どこから情報が漏れたのか、何の目的で来たのか、洗いざらい吐いてもらうわ」
俺は唇を噛んだ。
無念……身体さえ動けば、拷問を受ける前に自刎できたというのに。
いや、拷問であれば訓練を受けている。口を割らない自信があった。
だが、高位の吸血鬼は、人間に自身の血を大量に入れることで、眷属として操ることもできるという。
◆
「ふん、ふん、ふん……」
『《鮮血の魔女》だなんて、リーゼロッテ様に相応しくない名がついていたものニャね』
私が鼻唄を歌いながら廊下を歩いていれば、ふと頭に声が響いた。
リーゼロッテ、というのはこの私の名である。
慌てて鼻唄を止め、表情を引き締めて振り返る。
灰色の体毛と、二つの尾を持つ猫……ミタマが歩いていた。
ミタマは地面を蹴って飛び上がると宙返りをし、黒いエプロンドレス服姿の少女へと変化した。
スカートの下からは二つの尾が悪戯げに揺れ、灰色の髪からは大きな猫の耳がぴょこぴょこと伸びていた。
好奇心に満ちた猫目を細めて私を見つめ、くひっと小さく笑みを漏らす。
ミタマは猫又、人に化ける妖術を有した猫の怪異である。
私のペット兼館の使用人として、ここに長らく置いている。
「そう? 高貴な私に相応しい名だと思うけれど」
「しかし、厄介なことになったニャね。ひっそりと隠れ住んでいたのに、聖騎士に見つけられるニャんて。どうするニャ? 生きて返したら、すぐに大勢が押しかけてくるニャ」
「殺すわけにもいかないでしょ。私はそういうのは嫌いなの。適当に返して、引っ越すわよ」
私は溜め息を吐いて、そう口にした。
私は吸血鬼だが、自身と同じ姿形の相手を無感情に殺される程残酷ではない。
もっとも同族はそうではないらしいので、吸血鬼としては私が変わり者だろうが。
きっとニンゲンに育てられたことが一番大きな要因なのだろう。
「やー! どうせそう言うと思ってましたけど! せっかくいい所見つけて、頑張ってお掃除したのにいい! 農作物だって、ミタマが頑張って育てたんですよぉ! 収穫楽しみにしてたのに! あんなニンゲン、適当に食べちゃいましょうよぉ、ね?」
「前の引っ越しは五十年前でしょう? そろそろいい時期だわ」
私が言えば、ミタマはがっくりと項垂れる。
「しっかし、リーゼロッテ様、ならどうしてニンゲンを監禁しているのニャ? 別に何を聞いたって、返して遠くに逃げる以外に選択はないんだし、尋問する意味もないんじゃ……」
「い、色々あるでしょ! 聞いてみるまで、無意味かどうかなんてわからないんだし! それに、その……そう、どこから漏れたのか、今後の参考にもなるかもしれないでしょう? 時代の偏移だって何も知らないのだし、その辺りの情報を引き出しておいたって悪くはないわ。それに、他にも……えっと……」
私が考えてあれこれと口にしていると、ミタマが疑わしげに目を細める。
「さっき上機嫌だった時点でちょっと疑ってましたけどぉ……リーゼロッテ様、久々のニンゲンにちょっと燥いでません? 元々リーゼロッテ様、五十年前に聖騎士に襲撃されて諦めるまで、あれこれと理由付けて人里近くに居座ろうとしてましたし……」
「そんなわけないでしょう! この私を、馬鹿にしないでちょうだい! 心外だわ! 前のだって、ニンゲンの街近くの方があれこれと手に入って便利だったというだけよ!」
私が言い返せば、ミタマが口許を隠してクスクスと笑い始める。
「本当ですかニャ? なんだか言い訳っぽいですし……そう必死にならなくとも。もしやリーゼロッテ様、あの騎士に恋心でも抱かれているのでは……」
私は血装で爪を伸ばし、廊下の壁を薙ぐ。
壁が容易く裂け、窓の硝子が割れた。
「主を馬鹿にするのも大概になさい。猫鍋にするわよ」
「ひゃ……ひゃいひゃい、リーゼロッテ様。余計な口は挟まずに、猫は猫らしく大人しくしてますよう」
ミタマはそう言って頭を下げると、あっという間に小さくなって猫の姿へと戻った。
私は安堵の息を吐く。
『今のは何の安心で、リーゼロッテ様?』
ミタマの念が頭に響いてくる。
私が無言で血装を用いて爪を伸ばすと、ミタマはさっと地面に伏せてから腹を見せて横になり、降伏の姿勢を取った。
「貴女に口出しされると調子が崩れるわ。あの聖騎士を帰すまで、そっちの姿のままでいなさい」
ミタマがさっと元の体勢に戻り、こくこくと頷いて見せる。
私は溜め息を吐き、廊下を歩いて聖騎士を捕らえている地下へと向かった。
全くミタマは騒がしい。
ただちょっと彼を通して世情を窺おうとしただけだというのに、何故ここまで言われなければならないのか。
◆
「……意外と丁重なのだな」
地下室に運ばれた俺は、そこのベッドへと寝かされることになった。
血の毒のためか体力の消耗していた俺は、そこですっかりと眠りにつくことになった。
起きれば身体の毒は抜けており、近くの机には飲み水とパンが置かれていた。
吸血鬼の用意したものなど……とは思ったが、殺すつもりなら何とでもできたはずだ。
脱出のためにも、体力を確保しておく必要がある。
俺はベッドから起き上がってパンを口にし、水で流し込んだ。
丁度そのとき、扉が開いた。
隙間から灰色の猫が飛び込んできて、その後に続いて吸血鬼の女が姿を現した。
「ミタマ……下がっておきなさいと言っていたのに」
吸血鬼は人形のようなその綺麗な顔を歪め、猫を睨み付ける。
彼女の妖艶で威圧的な雰囲気に気圧されそうになる。
俺は少しでも気丈に振る舞うため、表情を引き締めた。
「拷問に来たか。可愛らしいのは身なりだけだな」
状況は悪いが、気持ちで負けてはいけない。
聖騎士たるもの、どんな絶望的な状況でも敵に屈してはならない。
余裕振ってみせるため、俺は皮肉を口にして挑発してみせた。
相手が激情して俺を殺すなら、それでもいい。
眷属にされて怪異の下僕になるよりは余程マシだ。
「かっ、かかか、私が可愛らしいですって! ば、馬鹿にするのも、大概してもらえるかしら!」
吸血鬼は白い透き通るような肌を赤く染め、落ち着かなさげにぱたぱたと手足を動かす。
それから指先で髪の毛を触り、そわそわとしたように前髪を整える。
「……うん?」
おかしい、想定していた怒り方と何か決定的に違う。
「ご、拷問だなんて暴力的な真似は気が進まないから、貴方から進んで話してくれた方がありがたいのだけどね。従順に聞かれたことを全て話すのなら、貴方は無傷で解放してあげるわよ」
その言葉を聞いて、俺は合点が行った。
扱いが妙にいいと思った。
吸血鬼は個体や力量によって扱える妖術が異なるのだという。
報告例自体が少ないため、その程度のざっくりとした情報しかわからないのだが。
恐らく彼女は、血を分け与えて眷属を作る能力を有していないのだ。
拷問や尋問にも高い技術が必要となる。
彼女は俺を懐柔し、命を対価に取引に出るつもりらしい。
「妙に扱いが生優しいと思った。その美貌で俺を篭絡し、甘い言葉で誑かす狙いだったか」
吸血鬼がくらりとふらつき、壁へと凭れ掛かった。
「び、美貌って……そんな、別に私……。ね、ねぇ、ミタマ?」
吸血鬼は顔を真っ赤にしたまま、猫へとぼそぼそと何か話しかけている。
……さっきからなんだ?
やはり妙だ。
何だ、馬鹿にされているのか?
「見縊るなよ、吸血鬼。怪異の提案になど俺は乗らない。聖騎士となった以上、殺される覚悟はできている。人間程度どうにでもなると思っているのだろうが、俺は貴様の首を落とす機会を常に窺っているぞ。それが怖いのならば、とっとと殺しておくことだな」
「フフ、死に急ぐのが余程好きなようね。でも、そう気張る必要はないかもしれないわよ。私にとって貴方達ニンゲンなんて、虫けらに等しいもの。逃がしたところで脅威にもならない、取るに取らない存在。私の気紛れに感謝して、もう少し素直になったらどうかしら」
吸血鬼はそう言いながら、持ち上げた猫で自身の顔を隠していた。
猫越しに、真っ赤になった顔と、緩んだ頬が見えた。
猫もどこか呆れた様子である。
「……何の真似だ?」
やはり馬鹿にされているのか?
というより、俺は何か、決定的な思い違いをしているのではなかろうか。
吸血鬼は猫を床へと投げると、俺から顔を逸らし、自身の表情を確かめるようにぺたぺたと触る。
それから深呼吸をして俺へと向き直った。
元の凛々しい表情に戻っている。
本当に何の真似だ? 何かの妖術の手順か?
「どこから私のことを知ったのか吐きなさい。単騎で館に入ってくるなんて、この私相手に勝つ自信があったのかしら? とはいえ下級吸血鬼を相手取るにも、ニンゲン一人じゃさすがに足りないと思うけれど?」
先程までの奇行などなかったかのように、そう口にした。
「どうだかな。だが、忠告しておいてやろう。聖騎士団には、俺よりもずっと強い者達がいる。いずれ俺の足取りを追って、彼らが貴様の存在に気が付く。そのときが貴様の最期だ」
聖騎士団は現在、商隊の神隠し事件の調査で大忙しだ。
俺も報告を飛ばして乗り込んだ身であるため、ここまで調査に出てきてくれるまでにかなり時間を要してしまうだろう。
だが、いずれは俺の行方不明を切っ掛けに、この《鮮血の魔女》の手掛かりを掴み、彼女を追い詰めてくれるはずだ。
もっとも彼女は、かなり高位の吸血鬼だ。
聖騎士団総出でも、仕留めきれるかどうかは怪しいところかもしれないが……。
「おお、おお、それは怖いところね。貴方を追い出したら、とっとと雲隠れさせてもらおうかしら」
吸血鬼はどうでもよさげにそう口にする。
心にもなさそうな様子である。
聖騎士程度、敵だとも思っていないのだろう。
俺は自身の不甲斐なさに唇を噛み締めた。
せめて十全な準備をしてから仲間と共に調査に向かっていれば、生きて情報を持ち帰ることもできたかもしれないというのに。
普段、団長は慎重過ぎると思っていたが、やはり彼女の方が正しかった。
遅すぎる教訓であった。
「……さて、これ以上、貴方から話を引き出すのは難しそうね」
吸血鬼はそう言うと、扉を開けたまま室内へと入ってきて、扉の前を開けた。
「ほら、私の気が変わらない内に、早く出ていきなさい。毒はもう抜けているでしょう?」
「なに?」
「言ったでしょう、ニンゲン如き取るに足らない存在、生かそうが殺そうが、私にはどうだっていいのよ。部屋に死体が増えるのも面倒だわ」
しっしと、追い払うように手を振った。
「ほ、本気か? 聖騎士団に戻れば、俺は貴様の討伐隊を組むように進言するぞ! そうなれば……!」
「どっちにしろ、連中はここに来るんでしょう? だったら変わりないじゃない。そんなに無駄死にがお好みなら、手伝ってあげようかしら?」
理解しがたいことだが、どうやら本気らしい。
殺そうと掛かった相手に情けを掛けられ、また殺すために画策するというのも妙な話だが……彼女は商隊神隠し事件の容疑者であり、何よりも人を家畜とする吸血鬼である。
俺がつまらぬ拘りで見逃せば、それは聖騎士としての責務の放棄に他ならない。
「……後悔するなよ。ここで逃がせば、俺は必ず貴様を討ちに戻るぞ!」
「え? また会いに来てくれるの!?」
吸血鬼がぱあっと表情を輝かせる。
「……む?」
吸血鬼は俺の反応を見て、しまったというふうに顔を顰め、こほんと咳払いをする。
「ニ、ニンゲン如き恐れるに足らないと、何度もそう言っているでしょう。でも……今日はたまたま私の機嫌がよかったけれど、次に会ったときは、そんな幸運は続かないと覚悟しておきなさい」
「…………」
俺は思わず、彼女の横の猫へと目をやった。
猫もどこか呆れたような顔をしており、俺と目が合うと、疲れたように小さく首を左右へ振った。
……なんだか、もしかしたらこの吸血鬼は無害なんじゃなかろうかと思えてきた。
戻ったら聖騎士団には黙っておくべきか。
い、いや、騙されてはならない。
数十人の神隠し事件……明らかにその犯人は彼女だ。
こんな森奥で、吸血鬼が飢餓を抑えてずっと生きていけるはずがない。
恐らく彼女は普段は森奥のここに隠れ住みながら、定期的に人通りがある地まで出向き、狩りを行っているのだ。
そう考えれば、事件が少々離れた地で起こったことの説明もつく。
俺はちらりと吸血鬼の顔を見る。
白い頬は、やや朱が差している。
俺と目が合うと、まるで照れてたかのようにそっと視線を逸らした。
……できるか?
あっさりと数十人を死に追いやるような上級怪異が、あんな可愛らしい表情を。
演技か? 有り得るのか、そんなことが?
俺は腑に落ちない思いの中、そそくさと彼女の横を通り、開いたままの扉へと手を触れた。
そこで足を止め、彼女へと顔を向けた。
「その……本当に行くけど、いいんだよな? 本当に報告するからな?」
「ど、どうぞ、ご勝手に。私の気が変わらない内に行くことね。私は気は短いのよ」
いまだに変わっていない辺り、どう考えても気が長すぎる。
俺は首を引っ込めて廊下へと出ようとしたが、なんとなく後ろ手を引かれるような気持になって、また彼女を振り返った。
「あの……その、パン、美味しかったから」
何かしら礼を言っておかなければならない気になり、咄嗟に俺はそう口にした。
恐らく俺は混乱していたのだ。
「そ、そう、よかったわね」
何がよかったのかわからないが、彼女はそう返した。
俺は小さく頭を下げると、また首を引いて、今度こそ廊下へと歩み出そうとした。
その瞬間、がっしりと手を掴まれた。
「ま、待って!」
吸血鬼が、真っ赤な泣きそうな顔で、上目遣いに俺を見ていた。
近くで見た彼女の顔は、思わず息が止まりそうになる程美しかった。
……ただ、膂力は俺よりも遥かに強く、その証拠に、彼女の手の爪が物凄い勢いで俺の腕に喰い込み、激痛を生み出していた。
「わ、私、その、寂し……」
俯いて小さな声でぼそぼそと何か言った後、きゅっと表情を引き締め、俺の顔を見る。
「やっぱり貴方、捕虜にすることにしたわ!」
「捕虜……?」
「え、ええ、そうよ、捕虜よ。いずれ聖騎士団が総出で私の討伐に向かってきて、そのときが私の最期になるのでしょう? だったら、無策で待ち構えているわけにはいかないわ」
「ニンゲン程度、どうにでもなるのでは……?」
「貴方が言ったんでしょう!? 言葉を翻さないでちょうだい! と、とにかく貴方は、いざ聖騎士団が押しかけて来たときのための保険として、人質にさせてもらうわ! だから、絶対この館からは逃がさないわ!」
俺は呆気に取られ、ぽかんと口を開けたまま彼女を見ていた。
『捕虜って……リーゼロッテ様、お考え直しくださいニャ!』
灰色の猫が吸血鬼の足許に立ち、彼女の顔を見上げる。
その途端、頭に甲高い言葉が響いてきた。
これは、怪異の妖術……念話だ。
自身の思考を、周囲の者の脳内に直接送りつけることができる。
恐らくはこの猫のものだろう。
『聖騎士が人質一人のために、攻め入るのを躊躇うわけがないニャ! 変な不確定要素を抱え込む利点なんて、何一つないニャ! やっぱりリーゼロッテ様、その男に惚れたんじゃ……!』
「だっ、だだだだ、黙りなさい! 貴女は口挟まないで、ただの猫の振りをしてろって言ってたでしょおおおお!? ほんっとに猫鍋にするわよ! いや、もう、するから!」
吸血鬼が顔を真っ赤にし、灰色の猫の首を絞め上げる。
目には涙が滲んでいた。
『リ、リーゼロッテ様! ぐるしい、ぐるしい! 死んじゃうニャ! 本当に鍋の具材になっちゃうニャ!』
「よ、よくわからんが止めてやれ! 本当に苦しそうだぞ!」
俺は状況に頭が追い付かぬまま、猫の首を絞め上げる吸血鬼を止めに掛かることになった。
◆
「このミタマ様を助けてくれたことはひとまず感謝しておいてやるニャ。だが、この館ではミタマが先輩ニャ。厳しく教育してやるから、覚悟することニャ」
先の騒動から一時間。
俺はエプロンドレス姿の、灰色髪の少女と共に先の地下室にいた。
彼女の頭からは、ぴょこぴょこと大きな猫の耳が伸びている。
スカートの下からは、二又の尾が覗いていた。
どうやら彼女はミタマという名で、吸血鬼に従っている怪異、猫又であるらしい。
猫又はそう珍しくはない。
様々な要因で、呪いや穢れを溜め込んだ猫が変異する、下級の怪異である。
「お前は捕虜兼、ミタマの手下としてこき使ってやる。ひとまずお前には、館の地下階層であれば自由に歩き回ることを許可してやるニャ。だけど、脱走しようなんて考えないことニャね。ミタマの五感は、ニンゲンのそれよりも遥かに鋭い。ちょっとでも怪しい素振りを見せたら、即座にリーゼロッテ様に報告してやるニャ。一回捕まったら、今のような自由は与えられないと思うことニャね」
ミタマは腕を組み、上から目線でそう口にする。
怪異にこき使われることになるなんて思いもしなかった。
眷属にされていないのが幸い、とでも思うべきか。
吸血鬼は、自身の血を人間に与え、自分の言いなりとなる下級吸血鬼を作り出すことができる。
幸運なことに、どうやらあの吸血鬼……リーゼロッテには、その能力はなかったようだが。
「ちょっとでも反抗的だったら、すぐボコボコにしてやるニャ。聖騎士とはいえ、丸腰でミタマに勝てるとは思わないことニャ。ミタマをただの猫又など侮らないことニャね。ニンゲン、お前なんて……」
「……ニンゲン、ではない。ロイド・ローベルンという名のがある。先程伝えたはずだ」
「ニンゲンはニンゲン、ニャ。ニンゲンの名前なんて、ミタマにはどうでもいいことニャ」
ミタマが小馬鹿にしたように笑った。
「まぁ、いいが……俺が素直に貴様らの言うことに従っていると思えば大間違いだぞ。そもそも聖騎士相手に、捕虜などが意味をなすと思っているのか?」
「……そんなもん、ミタマが一番悩んでるニャ」
ミタマが首を竦め、苦虫を噛み潰したような顔でそう口にした。
「まぁ、雁字搦めに縛られて監禁されたいわけでもないなら、大人しくミタマに従うことニャね。いつか隙を突いて逃げ出そうと考えているのなら、尚更従順であるべきニャ。みみっちいプライドで、聖騎士団の責務とやらを台無しにしたいわけではないのニャらね」
痛いところを突いてくる。
思わず俺は舌を鳴らした。
ミタマの思惑通りに動くしかないのは歯痒いが、俺が今聖騎士としてすべきことは、従順な素振りを見せつつ、ここから逃げ出す算段を整えることだ。
「ま、このミタマにも、リーゼロッテ様にも、むざむざニンゲンを逃がすような隙なんてないんだけども。せいぜい短いニンゲンの生涯を、ミタマ達の奴隷として使い潰されるがいいニャ。仮に聖騎士団が攻めて来たときには、どうせ人質としては期待できニャいから、とっととお前の首を落として連中に投げつけ、士気を崩すのにでも使ってやるニャ」
「……今は貴様らに従っておいてやる。だが、必ず寝首を掻いてやるからな」
「ハッ! わざわざそんな宣言しちゃうような、青臭い愚かなニンゲンに何ができるのか、楽しませてもらうとするニャ」
ミタマが口を大きく裂けさせ、悪意に満ちた笑みを浮かべる。
◆
夜の食事の時間となった。
地下階層の掃除を命じられていた俺は、自身が掃除したばかりの一室で食事を摂ることになった。
長机の上には料理が並んでおり、対面には館の主リーゼロッテが、横には不本意ながら同僚ということになるミタマが座っていた。
「……おい、ミタマ、どういうことだ?」
俺はミタマへと小声で話し掛けた。
「どうしたもこうしたもないニャ。ミタマが育てた作物と、ミタマが飼ってきた獣を、ミタマが料理してやったものニャ。ニンゲンなんかに振る舞うのは不本意だけど、リーゼロッテ様がお前を飼うと言い出した以上、餓死されても困るニャ。せいぜいこのミタマ様へ感謝することニャね」
ミタマが口から牙を覗かせ、不機嫌そうに俺へと零す。
「いや……そうではなくて、なぜわざわざリーゼロッテが食事のためにわざわざ地下へ降りてきたんだ?」
別にリーゼロッテが俺と食事を共にする理由など何一つないはずだ。
「ミタマが一番聞きてーニャ」
「そしてなぜ俺の料理だけ、明らかに量が多いんだ? もしかして怪異界隈の文化にそういう嫌がらせでもあるのか?」
館の主リーゼロッテと、その使用人ミタマの料理の量は同程度だというのに、明らかに俺の料理だけ倍以上の量があった。
全く意図が読めない。
「ミタマの意向じゃねーニャ。リーゼロッテ様が、そうしろって」
ミタマは不貞腐れたように机に膝を突きながら、リーゼロッテに目線を向ける。
「な、何よ? 言いたいことがあるなら、はっきりと口になさい」
リーゼロッテがミタマを睨み返す。
「ええとも、はっきり口に出していいなら言ってやりますともニャ。この男が来てから浮かれっぱなしで、何やりたいのかさっぱりわからないニャ。こんな男一人いたって何の交渉材料にもなりやしないのにやれ捕虜にするだの、飯は豪華に盛り付けておきなさいだの……」
リーゼロッテが立ち上がり、素早くミタマの眉間に血装で伸ばした真紅の爪を突き立てた。
ミタマが「ヒニャッ!」って悲鳴を上げる。
あと僅かでも血装を伸ばしていれば、ミタマの頭蓋を貫いて即死させていただろう。
「そ……その、しょ、食事の時間に、だらだらと長話をするのはよしてちょうだい。行儀悪いわよ、ミタマ」
リーゼロッテは頬を赤らめ、落ち着かなさげな表情でそう口にすると、血装を解いて身を引いた。
さっき口にしていたことと今口にしていることが全く違うのはともかく、机越しに身を乗り出して相手の眉間を突き刺すのはどう考えても行儀以前の問題なのだが、そこに口出しする気にはなれなかった。
ミタマも同意見らしく、こくこくと無言で頷いて服従を示していた。
「ま、全く……しょっ、所詮、猫又のミタマにはわからないのね。その……私の高度な駆け引き……謀略が」
リーゼロッテはあからさまに動揺した素振りで、場の空気を誤魔化すように食事を開始した。
軽く焦げ目の付けられたチキンステーキへと豪快にナイフを突き刺し、大きな塊を無作法に口へと運ぶ。
その動作は彼女の上品なドレスと、品性漂う顔立ちとはあまりに対照的であった。
「これは……そう、色仕掛けのためよ! わ、私のこの美貌でロイドを篭絡して、甘い言葉で誑かすためのね!」
「今口にしたら全て台無しだと思うのだが……」
俺はそう言ってから、隣のミタマをちらりと見た。
ミタマはジトっとした目を自身の主へと向けていた。
「けふっ! えふっ! えふっ! く、くるし……」
料理を口に押し込むように食していたため、どうやら喉に詰めたらしい。
彼女の高貴な風貌が台無しである。
何なんだこの吸血鬼は本当に。
「お、おい、ミタマ、早く彼女に飲み物を……」
「わ、わかってるニャ! ちょっと、リーゼロッテ様! 本当に落ち着いて!」
俺が言うとミタマは慌ただしく立ち上がり、部屋の隅の机に置いてあった、鈍色の壺を手に取った。
なんだ、あの壺……?
先が細長く、表面には苦悶の表情の人面が彫られている。
ミタマがリーゼロッテのグラスへと注ぐと、何かが腐ったような、錆びた鉄のような匂いが鼻をついた。
毒々しい赤と薄い黄色が、混ざり切らずに分離している。
赤い部分はどろりとしており、薄い黄色の部分は半透明でほとんど水のようだった。
見た瞬間、俺は理解した。
あれは血だ。
吸血鬼は人間のような食事を『趣向として』楽しむことはある。
だが、その食事から活動エネルギーを得ることはできない。
吸血鬼は、マナの滲んだ人間の血液を主食とする。故に吸血鬼、故に人類の敵なのだ。
俺はリーゼロッテの様子を見て絆されかけていた。
彼女は人間を襲ってなどおらず、静かに森奥で暮らしているだけなのではないか、と。
だが、とっくに答えは出ていた。
森奥で住まう吸血鬼が、主食である血液量を安定して得ることができているのは何故か?
定期的に人間の集団を襲撃し、ああして血を搾り取って保管しているからだ。
血を飲み干したリーゼロッテが苦しげに喘いでおり、ミタマがその背を摩っている。
俺は二人の様子を眺めながら、内心である決心をしていた。
一日でも早くこの館を脱出し、聖騎士団へここで見た全てを報告する。
そしてそのときが、リーゼロッテと俺の決着のときとなるだろう。
そのためにも今は、リーゼロッテに懐柔されている振りをすべきだ。
俺はナイフで肉を切って口へと含み、続いてサラダを食す。
そのとき、何か奇妙な感覚があった。
料理の味が妙だったわけではない。
悔しいが、ミタマの料理は普通に美味しかった。
だが、違和感があったのだ。
存在してはならないものが、この場に混じり込んでいたことに気づいたかのような、奇妙な感覚。
俺の五感が、直感が、この部屋にある異物の存在に気付けと警鐘を鳴らしている。
俺は……俺は何か、見落としているのか?
◆
深夜、俺はベッドから起き、足音を殺して廊下を歩いていた。
圧倒的に情報が足りない。
地下にも、ミタマから入ってはならないと言いつけられている部屋が複数あった。
まずはミタマが寝ている内に禁じられている部屋を調べ上げて情報を集める。
それが満足に終わったなら、どんどん可動範囲を広げていく。
建物の部屋を把握すると同時に、リーゼロッテとミタマの生活習慣、そして彼女達が感知できる限界を探る。
ここから逃げるには、ミタマの感知能力の限界を知る必要がある。
それを確かめるためには、何度か捕まる必要がある。
その際には、俺が極力考えなしの間抜けであるふうを装い、ミタマに警戒心を抱かせないことが重要だろう。
俺は立ち入り禁止とされていた扉を開く。
薄暗い一室をカンテラを照らす。
部屋の奥には、夥しい数の樽が敷き詰められていた。
俺はその光景に何か、異常なものを覚えた。
リーゼロッテとミタマが二人で暮らしているのに、何をこんなに大量に用意する必要があるのか?
それは当然、決まっている。
リーゼロッテの力の源である、人間の血液だ。
万が一長期間狩りを行えなくなっても問題がないように、地下室へと大量に保管していたのだ。
樽の蓋を開く。
食事の際に覚えた、血の腐ったような匂いが広がる。
どろりとした赤い液体、それから分離したような薄透明の黄色い液体。
「これ全て人間の血だとしたら、三十人どころの話じゃない……」
俺がそう呟いたとき、背後から足音が響いてきた。
「入らぬようにと、言っていたのに。本当に不躾なニンゲンニャね」
ミタマが立っていた。
俺は振り返り、くすねておいたナイフをミタマへと向けた。
ただ、猫又は下級怪異とはいえ、ミタマを通常の猫又と同程度だと侮らない方がいい。
上級吸血鬼が側近として置いているのだ。
足音を殺していたというのに、ミタマの寝床は地上階層だというのに、あっさりと気が付いてここへと向かってきた。
少なくとも五感は俺の想像を遥かに上回る。
おまけに猫又は暗がりでも目が視える。
ただのナイフ程度で対抗できるかには疑問があった。
ミタマが手から爪を伸ばし、俺を真っ直ぐに睨み付ける。
彼女から強い怒りを感じる。
「オーガトマトのワインは、このミタマ様の管轄ニャ! 今すぐミタマの縄張りから出ていかないなら、リーゼロッテ様のお気に入りとは言え容赦しないニャ!」
俺は手にしたナイフを懐に仕舞い、深い溜め息を吐きながらその場へと屈み込んだ。
俺は、何と戦っていたんだ……?
その後、ミタマからオーガトマトのワインの蘊蓄を聞かされることになった。
「いいか、ニンゲン。これはお前みたいな半端者のできる仕事じゃないニャ。オーガトマトは、獣や怪異を肥料にして、丁寧に育ててやらないと、すぐに枯れてしまうのニャ。おまけにリーゼロッテ様の趣向に合わせて、敢えて濁りや渋みを適度に残す必要がある。数十年リーゼロッテ様に連れ添ってきた、このミタマ様にしかできない仕事ニャ」
長々とミタマが蘊蓄を話す。
その様子はどこか得意げでさえある。
なぜ俺は深夜にミタマのワイン作りの苦労話を聞かされなければならないのだろうか。
「血は……リーゼロッテは、エネルギー源である血はどこから摂っているんだ?」
「はぁ、何を聞いていたのやら、このニンゲンは。だから、そのためのオーガトマトのワインだと言っているニャ。吸血鬼の主食は、マナ含有量の高い液体ニャ。別に血である必要はないニャ。それに一番適していて、かつリーゼロッテ様が好んでいるのが、このオーガトマトのワインだと……」
「……血は飲まないのか?」
「リーゼロッテ様がぁ? 飲むわけないニャ、見知らぬ他人に噛みついて血を飲むなんて、気色悪いって言ってるくらいニャ。第一、定期的にニンゲンの血を飲む必要があるなら、こぉーんな森奥でずっと暮らしてるわけがないって、ちょっと考えれば馬鹿でもわかるニャ。リーゼロッテ様程高位の吸血鬼が、ニンゲンなんて弱っちい種族の体液で空腹を満たそうとしたら、毎日何人襲えばいいのかわかったもんじゃない。聖騎士のお前ならいざ知らず、ニンゲン一人のマナなんて、このミタマの育てているオーガトマト一個に劣るくらいニャ」
ミタマがドヤ顔で講釈を垂れる。
頭が痛くなってきた。
一応樽を振り返り、蓋を軽く開けてみた。
今見返してみれば、血だと勘違いしたのが不思議なほどただのトマトの汁である。
果肉の赤みが沈殿して分離しているだけだ。
匂いもせいぜい熟しすぎて腐ったトマトである。
確かにあのときや今さっきは血液っぽい気がしたのだが、完全に雰囲気に呑まれていたのだろう。
「馬鹿らしい……」
「あー! 馬鹿らしいって言った! ミタマの使命を、馬鹿らしいって言った! ニンゲン、お前、ほんっと嫌いニャ! お前には、ぜぇったい飲ませてやらねーニャ! 今度、目の前で美味そうに飲んでやるニャ!」
本格的に神隠し事件と関係がない可能性が高くなってきた。
俺はなぜこの館にいるのだろう。
◆
翌朝、俺はベッドから起きてから欠伸をした。
昨夜はワイン貯蔵庫へ侵入してミタマと揉めたせいで、まともに眠れなかった。
しかし、俺はどうするべきなのだろうか。
どうにも俺には、リーゼロッテが神隠し事件と関係があるとは思えなくなってきていた。
ミタマの言動から考えても、恐らくリーゼロッテは、人間の客人が珍しかったため迷走しているだけだ。
とても害のある怪異だとは思えない。
怪異、この世に存在するべきではないとされるモノ達。
とはいえ低位で無害なものであれば見逃されている例も多く、必ず人の害になるものだともいえない。
だが、人間に友好な高位怪異の話など聞いたことがない。
いや、教えられていないというべきか。
怪異の中には、単騎で城一つ攻め落とせるようなモノもいる。
ニンゲンに友好的とはいえ、そのような怪異を放置するべきか否か。
彼らの気紛れ一つで、何千何万の人達が死ぬかもしれないと知っていながら。
教会はきっと、そんな存在を認めない。
だから記録に残っていないのだ。
いや、教会でなくても、人間達が認めはしないだろう。
リーゼロッテがこんな森奥の地で暮らしているのが、その証拠のようなものではないか。
「……適当に機会を見つけて逃げ出して、何も見なかったことにするか。つまらぬ怪異に襲われて、村人の治療を受けていたとでも説明しよう」
俺が溜め息を吐いた。
聖騎士の一人として、危険な可能性のある怪異を見なかったことにするなど、あってはならないことだ。
だが……俺にはどうにも、リーゼロッテが人間に害を及ぼすとは考えられなかった。
いや、もっといえば、傷つけたくない、ひっそりと暮らさせてあげたいと、そう思ったのだ。
そのとき、上からミタマの声が聞こえてきた。
騒がしい猫……いや、猫又だ。
勝手に上がってくるなとは言われていたが、この様子はただごとではない。
それに俺も、いよいよ緊張の糸が解れかけてきていた。
どうせ見つかっても大した罰も受けないだろう。
俺が階段を上がると、その音を聞きつけたらしいミタマが飛んできた。
段差の前を陣取って俺の進路を遮る。
「どうした、騒がしいぞミタマ」
「おまっ、お前、なーに普通に上がってきてるニャ! 下がって! 下がって! 頼むから、今は下の階層にいて! 今日の料理、ちょっとおまけしてやるから!」
ミタマが俺の腕に腕を絡め、縋りつくかのように纏わりついてきた。
「お、おい、止めろ、落ちるだろ!」
「とにかく下に戻るニャ! 戻れニャ!」
ミタマの顔色が青い。
どうやら俺が思っていた以上に大変なことになっているらしい。
「……騒ぎ過ぎよ、ミタマ……私なら、心配ないわ」
階段の上から声が聞こえる。
顔を上げれば、病的に青白い肌のリーゼロッテが、壁に手をついて立っていた。
目は眠たげで、足取りは覚束ない。
原因はわからないが、一目見て体調が悪いらしいと、そう理解した。
「ちょちょっ、ちょっとリーゼロッテ様! 明らかにヘンなんだから、その、歩き回らない方が……!」
ミタマがそう声を掛けたとき、リーゼロッテの身体がふらりとその場に倒れた。
ミタマは俺に組み付くのを止め、慌ただしく階段を駆け上がり、彼女の身体を抱き起した。
俺は状況が呑み込めないまま、ぽかんと口開けてリーゼロッテの様子を見つめていた。
どうやら、思いの外早くに脱出の機会が訪れたらしい。
その後、ミタマがリーゼロッテの身体を運び始めた。
手伝おうとしたのだが、ミタマから凄い剣幕で睨まれた。
「近づくんじゃねーニャ、ニンゲン! お前が隙を見て、リーゼロッテ様をぶっ殺そうとしてることはバレバレなんニャよ! そうはいかね―ニャ!」
そう言って聞かなかったため、距離を取って彼女の後に続くことにした。
リーゼロッテは、彼女の寝室のベッドへと寝かされた。
「ミタマ、こういうことはよくあるのか?」
「……リーゼロッテ様が病気に伏せるなんて初めてニャ。お前、さては料理に一服盛ったニャ! そうとしか考えられねーニャ! リーゼロッテ様の好意に付け込んで、毒殺を試みるニャんて! 鬼! 悪魔! 怪異!」
「よりによってお前がそれを悪口に使うのか……」
だが、どう責められようとも、知らないものは知らないとしか言えない。
全く心当たりがない。
俺が来たことで、この館の何かのバランスが崩れたとでもいうのだろうか。
「あー! リーゼロッテ様の様子を見ないといけないのに、食事も用意して運ばなきゃならないニャ!」
「……食糧庫の場所や扱いを教えてもらえれば、簡単なものでよければどうにか準備しよう」
それに、栄養の大半は血……あの紛らわしいトマトワインで賄っているはずだ。
「おめーが信用できねえんだろうがニャー! なんか盛ったクセにー! こんの馬鹿リーゼロッテ様! なんでわざわざ敵招き入れて寝込むのニャ! そういう嫌がらせ!?」
ミタマはわしわしと自分の頭を掻く。
「ミタマ……」
リーゼロッテが目を覚ましたらしく、弱々しい声でそう言った。
「はい何なりと! リーゼロッテ様のミタマですニャ!」
「頭が熱くて……それなのに、お腹がすっごく冷たい……。ミタマ……私、死ぬのかなあ……」
身体が衰弱しているためか、リーゼロッテもかなり弱気になっているようだった。
昨日の気丈だった様が見る影もない。
「しっかりしてください、リーゼロッテ様ぁ! 身体が冷えてるんですニャね? わかりましたニャ! ミタマが、あったかいワイン煮のスープを作って差し上げますからね!」
ミタマがリーゼロッテの背中を撫でながらそう言う。
「ミタマァ……もしかしてこれ、恋煩いかなあ……。私、それくらいしか、心当たりがなくて……」
「しっかりしてくださいニャ、リーゼロッテ様! 恋煩いは別にそういうのじゃないですニャ! あわわ……駄目だリーゼロッテ様、発熱のせいで思考が溶けてる!」
ミタマはリーゼロッテの背中を撫でると、彼女から離れて入口へと向かった。
「とにかくっ! リーゼロッテ様は栄養が必要ニャ! 体力さえあったら、呪いにも毒にも病魔にも負けるはずがないニャ! ニンゲン、お前、リーゼロッテ様に何かしたら、どこまでも追い掛けて、殺してやるからニャ!」
ミタマはそう言うと、ドタバタと廊下を駆けていった。
料理と、例のトマトワインの準備だろう。
「……全く状況がわからんが、ここを逃げて聖騎士団に戻る好機が訪れてしまったな」
俺はリーゼロッテの顔を見つめながら、ぽつりとそう零した。
一日、二日の仲だが、とても彼女達が神隠し事件の犯人だとは思えない。
リーゼロッテの様子ならば、今後も人に危害を加えるような真似はしないだろう。
リーゼロッテのことは聖騎士団には伏せておくべきだ。
もし、この先に万が一、リーゼロッテが人を殺めるようなことがあれば……そのときは聖騎士として俺が命を賭して彼女を殺し、己の罪を懺悔して自刎しよう。
元より、殺そうとして命を見逃された身である。
命懸けで庇うことに何を惜しむ必要があろうか。
「さようなら……リーゼロッテ。願わくば、もう二度と会わぬことを」
俺はリーゼロッテへ小さく頭を下げ、そう口にした。
もしも次があれば、そのときは俺が彼女を殺しに来るときだからだ。
高熱に魘される彼女は、どうやら俺の声など届いていないようだった。
「まっ、て……待って……」
背を向けようとしたとき、腕を掴まれた。
「寂しい……苦しい……待って、行かないで……手、握って……」
顔付きを見るに、意識が不明瞭な状態のようだった。
熱に浮かされたような表情で、リーゼロッテはじっと俺の顔を見つめていた。
腕を振り解いて去るべきだとしばし逡巡したのだが……結局俺は、その場に残ることにした。
ミタマが戻ってくるまでの間くらい、ここにいても罰は当たるまい。
しばらく手を繋いでいると、彼女は苦痛から解放されたかのように、安らかな表情で眠りについた。
俺はそっと、リーゼロッテの頭を撫でた。
こうして見れば、高位吸血鬼様が、まるでただのか弱い少女のようであった。
「大丈夫だ、きっとよくなる。百年前の勇者が殺した吸血鬼は、頭を落として胸に刃を突き立てても死ななかったそうだ」
慰めとしては物騒な言葉だったかと、口にしてから俺は気が付いた。
◆
リーゼロッテの体調が回復したのはそれから二日後のことであった。
俺は未だに、逃げずに館に残っていた。
逃げる時間はいくらでもあったのだが。
「心配を掛けたわね、ミタマ。そ、それから……ロイド。逃げずに残ってたなんて、な、何のつもりかしら?」
リーゼロッテが、チラチラと俺の顔を見る。
「俺は元々、この森に人間を襲う怪異がいると聞き、その調査に来た。お前達が無害なのかどうか、もう少し時間を掛けて見極める必要があると判断した。野放しにするには危険過ぎる」
それがここ二日の間に俺が出した答えであった。
それに、彼女が神隠し事件と完全に無関係であるかどうかもまだわからないのだ。
犯人でなくとも何らかの形で関与している可能性は充分にある。
それに、人間に敵対的行動を取らない怪異が本当に存在するのかどうか、それをもう少し時間を掛けて確かめる必要がある。
もしリーゼロッテが本当にそうだとすれば……教会は人間の平穏のために、罪のない高位の怪異を悪と断じて殺し、その事実を隠していることになる。
それが正しいことなのかどうか、俺如きには何もわからない。
しかし、彼女の傍にいてその答えに少しでも近づけるのならば、俺一人の聖騎士の戦力などより、ずっと価値のあることなのではないかと思う。
だから俺はもう少しの間、この館に残る。
怪異とは、正しさとは何なのか。
今しばらくはそのことについて向き合いたい。
俺が残る理由はそこにある。
……だから、この胸の中にある騒めきは、断じて俺が彼女に恋をしたからではない。
俺は聖騎士である。
そんな腑抜けた理由で、聖騎士の職務を放棄して許されるわけがない。
「大きく出てくれたわね。ニンゲン如きが私を見極めるだなんて、見下したような口調で気に喰わないわ。ニンゲンにとって無害かどうかなんて、私の知ったことじゃない。貴方は外を歩くとき、小さな虫を踏み潰したかどうかなんて、覚えているのかしら? 私を殺さなかったこと、きっと後悔するわよ」
リーゼロッテが俺へとそう返す。
「しかし、なんでリーゼロッテ様、体調を崩されたのかニャ? その理由がさっぱり……」
「あ……」
ミタマの言葉で、ふと俺の頭の中にあった違和感が繋がった。
やはり、あのときおかしかった。
リーゼロッテが体調を崩す前日、料理が並べられたとき、確かにガーリックの香りがしていた。
だが、明らかに料理にガーリックが用いられていなかったのだ。
おかしいと思ったら、そこだった。
「ミタマ……聞きたいことがあるんだが、吸血鬼はガーリックを口にしても平気なのか? 話では苦手だと聞いていたが、この間の料理には明らかに使われていたが」
「駄目に決まってるじゃないかニャ。あれはあくまで、ミタマ用ニャ。リーゼロッテ様は駄目でも、ミタマは大好物なのニャ。ニンゲンの方にも入れておいたニャ。感謝するニャ」
「入ってなかったが」
「ん?」
「いや……入ってなかったが」
俺の言葉に、ミタマが真っ蒼になった。
全てを察したらしい。
どうやらいつもと量も配膳も違ったため、ミタマも混乱していたのだろう。
リーゼロッテの体調不良は、ミタマによるガーリック混入のためであった。
「え……嘘? あれ、なんでニャ!? あ、でも確かに……いやいやいや、そんなはず……ある、かも……?」
「ミタマ……貴女」
リーゼロッテが、がっしりとミタマの肩を掴み。
ミタマの目に涙が潤んでいた。
「ももももっ、申し訳ございませんでしたリーゼロッテ様ぁ! その……あの畑、やっぱりもう焼いちゃうんで! 全部処分しますんで! お許しくださいニャ……!」
リーゼロッテが、ミタマの肩にぽんと手を置いた。
「はぁ……次から気を付けてちょうだい。まったく、ドジな子ね」
リーゼロッテはなんてことでもないふうにそう言った。
「リーゼロッテ様ぁ……!」
ミタマが安堵したように表情を緩める。
「……やっぱりリーゼロッテ様、ロイドに手を握ってもらって甘えてたときのこと、忘れた振りしてるけど結構鮮明に覚えてるんじゃ……げふニャばぁっ!」
リーゼロッテが熟したオーガトマトの如く顔を真っ赤にし、ミタマの首へと手を掛けた。
血装の爪が伸びており、ミタマの首に喰い込んでいた。
「なななな、何を意味の分からないことを言っているの! 本当に意味がわからない! もう黙ってて! ずっと黙ってて! 猫鍋……そうだ、猫鍋にしましょう!」
「落ち着いてくれリーゼロッテ! 俺は何も聞いていないし、何も察してもいない!」
俺は慌てて二人の間に入り、ミタマからリーゼロッテを引き離しに掛かった。
――こうして俺の、賑やかで騒がしい、吸血鬼と猫との森奥の暮らしが始まったのだった。
鮮血の魔女に捕虜として捕まったけれど彼女があまりに可愛すぎる 猫子 @necoco0531
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