Side F 37(Fumine Hinokuchi) 監督の猛省

 昼休憩は、ショウマット・アベニュー内の撮影場所付近のレストラン・バーで取る。

 撮影による道路の封鎖に伴い、その間、道路に面している店は営業ができなくなるので、撮影協力費は支払っていると言う。とは言え、気持ち良く撮影に協力してもらいたいという思いから、武蔵監督のこだわりで、なるべく営業ができなくなっている店を利用させてもらっている。もちろん、その店がOKと言えば、の話だが。


 こういう粋な計らいに乗ってくれる店の店主は往々にしてミーハーだったりするらしく、サインを求めてくる。武蔵監督は、流暢りゅうちょうな英語で談笑しながらサインをしたり、握手に応じたりしている。


「ほら、店主がヒロイン様のサインも欲しがってるぞ」

 武蔵監督はあたしに向かってにっこり笑いながら、ファンサービスをしなさいと促す。

 まだ、あたしはデビューしてないし、異国の地でファンと言われてもまったく実感が湧かない。

 しかも、ボストンに来てから、特に例の一件があってから、調子が出ない。何と言ったって、頼みの綱の憑依ができなくなってしまっているのだから。いまのあたしは、さながらおのれを持たぬ『カオナシ』のようだ。

 でも、店主はそんなことお構いなしに、色紙とサインペンを渡してくる。今日我々がここを利用することを知って、慌てて用意したのだろうか。

 ペンと色紙を持ってあたしは立ちすくむ。武蔵監督のサインは、野球選手のサインボールみたいに、格好良く崩したサインだ。今村さんの方はと言うと、『Irena Milankovitch』を、流れるような見事な筆記体でしたためている。

「あたし、監督みたいなカッコいいサイン書けないです」

「別に楷書で構わんだろう。デビュー前のサインなんて逆に価値が出たりするかもな」

 あたしは人生初のサインを認める。『Shion Kadokawa』と書いたが、楷書だと何だかビシッとしない。でも店主は、まったく意に介さず、センキューと言っている。

「え? 写真も?」

「ミンナデトリタイデース!」

 ボストンは親日的だと聞いた。カタコトだが日本語を使うあたり、本当にその通りのようだ。

 今村さんやアレクさんも含めて、みんなでパシャリと撮る。何だか照れ臭い。


『シオン・カドカワとイレーナのサインは、必ず価値が出る。売らないように』と監督は店主に言う。

『絶対売らないよ。僕は既に、シオン・カドカワのファンさ』

『完成された作品を観たら、もっとファンになりますよ』

『これ以上ファンになったら、僕はラブレターを送ることになるな』

『そりゃ大変だなぁ』

 初対面のはずなのに、一般の人と笑いながら気さくに軽口を叩き合えるのは、武蔵監督の人間性の豊かさが窺える。カオナシのあたしとは大違いだ。


 しばらくすると、美味しそうなサブマリン・サンドイッチが出てくる。不覚にもお腹がぐぅーと鳴る。

 このテーブルには気付くと、あたしと監督だけだ。今村さん、アレクさん、他のスタッフたちは、みんな別のテーブルだ。

 監督は神妙な顔つきだ。やっちまったな、と天井を仰ぐ。これからお説教でもいただくのだろうか。

「監督、すみません」

 これから言われることを察して、最初に予防線を張るようにまず謝っておく。

「なぜ、謝る?」

「だって、憑依できないなんて、迷惑かけて……」

 もし、このまま憑依ができなくなったらどうなるのだろう。そうしたら、撮影は中止だろうか。最悪のシナリオを想像して、急にとてつもない不安に襲われる。

「謝らなきゃいけないのは、僕の方かもな。昨日、お父さんかもしれない人を追いかけたのを咎めてしまったことを悔やんでるんだ。君にとっては、宇宙への興味、それから、篁作品へのリスペクトは、お父さんとの幼少期の想い出が生きてるからだろう。それだけ君にとって大きな存在との邂逅かいこうを、僕は歓迎しなかった。撮影スケジュールが狂うと言って叱責した。我ながら、最悪なことを言ってしまったと猛省してるんだ」

 意外な言葉だった。武蔵監督は続ける。

「お母さんとの約束では、いまこの機会にお父さんと会うなとは言われている。でも、約束しよう。この作品を必ずお父さんに届け、君とお父さんを再会させよう。君がこんな魅力的な女優として輝く姿を、見てもらいたい。そして、僕からも感謝を伝えたい」

 あたしは涙で視界を滲ませた。

「だから、安心しなさい。僕は、君たちの味方だ。焦らずじっくりやろう。きっと、椎葉美砂も戻ってくるさ」

「ありがとうございます……!」

 涙でせっかくのメイクをぐちゃぐちゃにしてしまわないように、ハンカチで目元を必死に拭う。それでも涙が溢れてくる。

「やめてくれ。レディーを泣かせてるみたいで、体裁ていさいが悪い」


 その日の午後からは、美砂のシーンを撮影すると言う。不安はあったが、武蔵監督の言葉に救われたのか、あたしにはスイッチが切り替わったかのように美砂が戻ってきた感覚があった。

「頼むね、美砂」何も聞こえないはずなのに、あたしには美砂の返事が聞こえた。

 同時に、美砂が召喚され憑依する。いつもどおりのこの感覚だ。

「アクション!」


 美砂は自分の役割を完璧にこなした。

「戻ってきたね! 詞音。いままで見た中でいちばん良かった」

 今村さんの笑顔。「ちょっと悔しいね。キャシーもなかなかの美人設定なのに、あなたの演技に霞んじゃうんじゃないかってくらい、輝いてた」

「ありがとう」

 今村さんは、あたしにお世辞を使うような人じゃない。本心なのだろうと思う。

「この映画、きっとめちゃめちゃ良くなると思う。映画評論は詳しくないけど、詞音の撮影シーンを見てるだけで、引き込まれるゎ。私も気合い入れなきゃね」

 今村さんも、日々の演技のトレーニングで、表現力はぐんぐん高くなっていった。中学生の時から光るものはあったが、そのときとは比べ物にならない。篁未来の、そして武蔵監督が追求するキャシー像を確立させている。

「お父さんが監修した作品で、あたし、演技ができて嬉しいよ」

 どこか近くにいるだろうお父さんに向かって、小さく独り言を呟いた。



 無事、ボストンでの撮影を終え、次はいよいよスペインに飛び立つ。

 あれからお父さんに会うことはなくなったが、武蔵監督の言葉を信じているから、あたしは満足だった。きっと届くはず。

 バートン監督にも別れを告げる。邸宅は立派だったが、本人は良い意味でそんな垣根を感じさせない気さくな人物だった。

「いずれ、僕が手掛ける作品にも出てもらうときが来るかもしれない。そのときはよろしくね」

 リップサービスかもしれないが、「そのときは喜んでお受けします」と笑顔で返した。


 次はバルセロナだ。バルセロナのシーンの撮影と、研究所のあとわずかの撮影を残すのみだ。クランクアップも近づいている。

 例外なく日本人に温かかったボストンの人と街と別れるのは名残惜しかったが、いつかプライベートで訪れたい街だ。


 ボストンからバルセロナは直行便が出ていた。それでも大西洋を越えるから、7時間を超えるフライトになるらしい。北アメリカ大陸の東海岸から、ヨーロッパ大陸の西側。日本の世界地図では、大西洋で分割されているからよく分からないし、何となく近そうなイメージだったけど、やっぱり遠いのだ。


 初の海外渡航にして、2つ目の国に飛び立つ。あたしはドキドキワクワクが止まらなかった。

「お父さん、今度はちゃんと会いに行くね」

 ローガン国際空港の搭乗口の窓から、姿は見えぬがきっと近くにいるだろうお父さんに、別れを告げた。

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