Side P 38(Moriyasu Agui) 最後のチャンス

 慧那はひどく酔っていて、重力に抗わず、上半身分の体重をすべて俺にあずけていた。

 しかし、俺の両手は慧那の両肩を支えていた。それがなかったら、慧那の口唇は俺の口唇に強く接触していただろう。そして色香に迷い、勢いのまま本能のまま慧那の身体を貪っていたかもしれない。慧那も俺を受け容れているかもしれない。


 両手は、俺の間一髪の理性だった。ある意味、咄嗟にこの両手が出て、すんでのところでフレンチ・キスを避けた。それでも、10 cmも満たない間隔の先には、慧那の麗しい口唇があるのだが。

 俺は、ゆっくりと両腕を伸ばして、慧那の上半身を離すようにした。彼女は、成人男性なら簡単に起こせるくらい細身で華奢だ。

「だ、大丈夫か。慧那。怪我はないか?」

 つとめて冷静を装い、声をかけた。

「あーあ、半分は狙ってたんだけどな」慧那は、意外にも、しっかりした口調で言った。「ここままセンセぇ押し倒して、逆プロポーズしようと思ってたのに」

「な?」

「酔っ払ってたのは半分演技だよ。そーじゃないと、あたしを介抱する口実ができないでしょ」

「は?」

「あたしが、センセのこと好きなのは、酔った勢いじゃなくて、素面しらふでもそうだったんだから」

「……」私は、慧那が何を言いたいのかよく分からなかった。

「センセぇがNASAに行くって決まったとき、あたし泣いてたんだよ。寂しくて、好きな人が遠く行っちゃうって。でも、鈍いセンセは、あたしの気持ちには気付いてないし、あたしのことを異性として好きじゃないということも分かってた。でも、最後のチャンスで、ここまま押し倒して、身体で結ばれたら、大逆転あるんじゃないかと期待してたけど、そんな不純な考え方じゃダメだね。センセぇは私のキスしないようにしっかり身体を支えてた。諦めがついたよ。あたしの恋は成就しないって」

「俺は……!」

「分かってる。センセは優しいから、あたしのこと好きだって言ってくれるでしょ。でも、それは、センセの中では『プロジェクトチームの仲間』としてなんだ。女として、センセが好きなのはマリちゃんだけ。そう確信したよ」

 慧那はゆっくり立ち上がった。そして、家の方向におもむろに歩いていく。

「ありがとう。センセと一緒にいれてめっちゃ楽しかったよ。遠くに行っても忘れないでね」

 忘れるわけないだろう、リモートでも一緒に研究はやるから、という声かけは野暮ったくて、慧那が求めている回答ではないことは、鈍い俺でも察しがついた。

 俺は黙って、コクリと頷く。

「センセー、NASAあっちでも元気でやってね!」

 最後は、いままで見てきた慧那の笑顔の中でも、とびきり美しい晴れやかな笑顔で手を振った。


 小さな穴が空いたような寂寥感せきりょうかんが俺を取り巻いた。夜の静かな公園に吹くそよ風が、思いのほか冷たくて、身震いした。



 数ヶ月後、パスポートを取得して俺はアメリカにいよいよ飛び立つことになった。場所は、メリーランド州グリーンベルトにあるゴダード宇宙飛行センターだ。

 海外自体は学会で行ったことはあるけど、住むのは初めてだ。英語は、論文を読んだり書いたりしている関係で苦手意識はないが、日常会話が不自由なくできるかと問われれば否だ。きっと、文法上は正しくても、現地の人からするとすごく不自然な会話になるだろう。

 それに、アメリカの文化や風習にも明るくない。そんな俺が、いきなり一人暮らしだ。でも日本の名だたる研究者たちは、科学の分野でも、医療の分野でも、大抵どこかで海外に身を置いているものだ。恐れおののいていては、みんなの笑い草だ。


 海外の空港のトランジットは、広すぎて迷う。ちょっと乗り換えるだけなのに、ターミナルどうしが離れすぎていて、モノレールを使って移動せねばならない。新幹線とリニアでの移動が主流の日本と違って、広大なアメリカでは空路が発達している。空港の規模も日本とは違うのだ。


 半日くらいかけてワシントンDCに到着する。

 メリーランド州の最大都市と言えばボルチモアだが、ゴダード宇宙飛行センターからは遠い。いろいろ調べてみると、ワシントンDCから地下鉄でグリーンベルトまで行けるし、そこからバスに乗り継いでセンターまで行けるとある。

 車もなくよく分からないうちは、多少高くても市街地に住居を構えたほうが良いだろう。ただでさえ家賃の高い地域らしいので出費はきついが、もともと物欲のない俺は貯金はある。

 社会保障番号ソーシャル・セキュリティー・ナンバーの申請とか、銀行口座の開設とか、ガス、電気、インターネットの開栓・開通など、一通りの手続きを済ませ、ようやく初出勤だ。


 研究所の敷地内はかなり広く、研究所だけじゃなくて、レクリエーションセンター、球技場、託児所、カフェテリアなども完備されている。約1万人がここで勤務しているというから驚きである。さすがはNASAというべきか。事前に行くべきところは聞いていたが、それでも迷う。かなり早めに到着していたが、迷っている間に結局、時間ギリギリになってしまった。

 ダニエル・エリソン博士が、NASAここで俺が師事すべき研究者だ。10人くらいの比較的コンパクトなチームメンバーである。日本でのプロジェクトチームと同規模だが、異なるのは目で見て分かるくらい多国籍であることだ。白人もいれば黒人もいる。そして俺以外にアジア人っぽい人もいる。さすがに慧那みたいなギャルはいないが。

 平均年齢は若そうで、俺は比較的年長の部類になるかもしれない。ポスドクも多いのだろうか。それでも、世界屈指の技術者たちの集まりなのは間違いないだろう。


「あなたが安居院先生ですね?」

 いきなり日本語で話しかけられたのでびっくりした。アジア人っぽい人の1人の男性だ。年齢は俺と同じくらいか。

「は、はい、そうですが……。日本の方ですか?」

「日系アメリカ人です。日系五世です。でも、日本語はそんなに得意じゃないので」

 五世ともなれば、日本語を話せない人のほうが殆どだろう。きっと、俺をリラックスさせるために、日本語で話しかけてきてくれたのだろう。

「あ、いえ、とてもお上手かと」

「ありがとうございます」とその男性は礼を言う。「実は、別の日本人男性で、安居院先生の友達と名乗る人が来ていて、取材をさせて欲しいと強く言われていて……」

「えっ?」

 まだ、ここのボスとちゃんと挨拶もできていないときから、何か厄介なことに巻き込まれているような気がして、先が思いやられる。そもそもアメリカに日本人の友達はいないはずだが。

「タカムラという男性です」

「タカムラ?」

 『高村』なんて友人いたっけな、と思った瞬間、脳内で誤変換をしていることに気付いた。

たかむら未来みらいですか?」

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