Side P 33(Moriyasu Agui) 左頬の感触

 みんな、プロジェクトの大きな第一歩の歓びと、久しぶりの飲み会で飲み放題、しかも、時任先生のおごりであることが重なって、序盤からビールのおかわりのペースが早かった。

 思えば、子どもが生まれてからは、こうやって外でお酒を飲むことはあまりなかった。知らず知らず舞理に気を遣っていたのだろう。


「安居院センセー、もう奥さんのこと気を遣わなくていいんでしゅから、パーッと飲みまひょ! ねぇ」

 知的でクールな印象の山崎煌子こうこだったが、飲むとキャラクターが変わるようだ。明らかに呂律ろれつが回っていない。同じJAXAながら、彼女の初めて見る一面に驚く。

「そぉですよ! 安居院先生、いい人なのに、真面目すぎて損してますよ。こんな時くらい羽根を伸ばして下さい」横浜理科大の日向陽太も、今日はやけにノリノリだ。

「そぉだそぉだ! 時任センセーほどじゃないけど、安居院っちも、けっこーカッコいいんでしゅから。まだまだ、再婚のワンチャンありましゅよ」と、山崎の謎の同調。

 やたらと、俺の離婚にかこつけてくるのは気に食わないが、素面しらふのときですら発言に遠慮というものがないのだから、酔興すいきょうしているときにデリカシーを求めるのは無謀である。もっとも、彼らの協力がなければ、プロジェクトを進めることができなかったわけだし、悪気もないことも分かっているので、またかと思って受け流している。


「しかし、離婚していない世界から、あの映画が送られたんでしょ? 離婚したら、あの映画はなくなっちゃうのかな」

 山崎や慧那ほど酔っていなさそうな波多野さんが言う。確かに、無事にC世界からB世界へ軌道修正されている場合、詞音の女優への道は絶たれてしまうのだろうか。


 それはそれで残念な気はするが、でもその後、夭逝ようせいする未来が待ってちゃ、女優の道を渇望するわけにはいかない。すべては生きて、生きながらえてこそ意味をなすのだ。


「ほら、センセー、また難しい顔になったぁ。そんな真面目な話題出しちゃダメですよぉ」

 慧那はとっくに顔が赤くなっている。

「そうだね。って、安居院くんから、真面目を取ったら、たぶん何もなくなるよ」

「だから、あたしが、真面目じゃないセンセーを、開拓するんですっ」


 最初、確か、俺の隣には野口銀河がいたはずだが、いつの間にか彼は隅に追いやられ、慧那が隣に迫っている。美意識が高く、研究所内でもメイクがばっちり決まっている慧那の上目遣いが、JKのときより妙に色っぽく見えた。

「きゃー、じょ~だんだよセンセー! あたしは時任派だから、センセーがいくら独身貴族でも眼中じゃないって、ウケる~!」

 そう言って、1人で盛り上がって、俺の肩をバシバシ叩いてくる。

「痛いって。慧那のこと、ガキの頃から知ってるから、こっちだって願い下げだよ」

「ガキって、あたし、最初に会ったのは思春期真っ只中だったんだよぉ。悪いけど、成績も男子の人気もぶっちぎりのイチバンだったんだからー」

 そう言いながら俺の肩をもう一発叩こうとしたので、ひょいと避けると、勢い余ってソファ席に突っ伏した。そしてそのまま寝てしまった。


 慧那は慧那で、頑張っている姿をあまり見せないけど、こう見えて、夜遅くまでプロジェクトをことを考えてくれていたのだろう。もともと酒は強くないかもしれないが、疲れていたのは間違いないだろう。



「時任先生、ごちそうさまでした!」

 あっという間に2時間の宴会が終わり、解散となった。ひょっとしたら、二次会の人もいたかもしれないが、元来あまりお酒でわいわいやるのが苦手な俺は、遠慮させていただいた。慧那は誰かに寄りかかれば歩いてくれるものの、起きているのか寝ているのか分からない状況だ。仕方なく、帰る方向が同じ俺が肩を貸して担いでいる。横浜理科大の他のメンバーは東京23区内から通っているらしく、横浜方面は、俺と慧那だけなのだ。


「ほんじゃ、帰るぞ、慧那! 歩け」と言って、駅の方向に誘導する。

「安居院先生、慧那さんを襲っちゃダメですよ」

「襲うか!」野口の的外れな警告に、俺は柄にもなく突っ込んだ。


 夜10時半を回っていたが、電車は混雑している。それでも1人分が座るスペースがあったので、慧那を座らせる。酔っ払った金髪ギャルと、三十路を過ぎたおっさんの2人組。はたからはパパ活と思われているかもしれない。

 分倍河原から慧那が住んでいる武蔵小杉むさしこすぎまで、JR南武なんぶ線で1本だ。電車に揺られてすっかり眠りに落ちている慧那を起こして、武蔵小杉で下車する。


 家庭教師のしていたときの記憶を頼りに、彼女の家に向かう。

 途中、自販機で2本烏龍茶を買い、うち1本を慧那に強制的に飲ませた。

 電車の中で寝たことと、烏龍茶で少し元気になったのか、先ほどより歩調はしっかりしてきている。

「センセー、ありがと。こんな泥酔したギャルにも優しいんだね」

「泥酔したギャルって。パパ活みたいなこと言うなよ。立派な研究員だろ?」

「ね、ちょっと、あのベンチで休もぉよ」

 慧那は公園のベンチを指差した。もうあと家までちょっとじゃないかと思ったが、慧那がそっちの方に進むので、従うことにした。


 公園には誰もいない。電車の音以外は静かだった。

「ねぇ、センセーさ。マリちゃんに未練あるの?」

 この女は、いきなり何を聞いてくるのかと思った。

「未練があったら、何なんだ?」

「いや、隣に泥酔した美女がいるのに、センセー、襲ってこないなーって思って」

 ブッ、ゲホゲホっ。お茶を噴き出した。

「バカヤロ。襲うわけないだろ。仲間なんだぞ」

「あたしは、センセーだったら別にいーかなって」

「ぬかせ。俺のことはじゃなかったのか?」

「キャハハ! って死語でしょ! 」

「悪かったな。ギャルの標準語は分からんもんでな」

「そんなセンセー好きよ」

 次の瞬間、俺の左頬につややかで柔らかいものが接触した。慧那のファンデーションとサラサラな髪の微香がくすぐる。

「センセーがマリちゃんに未練がなくなったらでイイ。あたしも適齢期だし、実はこー見えて、良妻賢母になれると思うんだよね。それに、時任先生じゃないけど、センセーもまぁまぁイケメンだし」

「酔っ払って、目が霞んでないか?」

「……かもね! よし、じゃあ行こ」

 伝えたいことは伝えた、と言わんばかりに慧那は立ち上がり、俺の手を引っ張った。気付くと手と手を繋がれていた。


 ギャルと手を繋ぐのは体裁が悪いが、妙齢の女性と手を繋ぐのは久しぶりだった。不覚にも心を揺さぶられる。慧那は美意識が高いし、黙っていれば間違いなく美人だ。何もなければ、先ほどの申し出は嬉しいが、やはり俺は離婚したばかりで詞音の養育費もあるし、慧那と舞理とは知り合いだし、何と言っても同じプロジェクトの人間同士。落ち着くまでは、彼女の気持ちに応えることは、ちょっとできない。

 酔った勢いに任せた発言だろう。そう言い聞かせて、残り僅かな道のりを、転ばないように歩いた。

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