Side F 32(Fumine Hinokuchi) 新たな壁

 撮影は、順調に進んだ。恐ろしいほどにトントン拍子だった。

 これまで親が離婚して、大好きだったお父さんとも離ればなれになって、成績は良かったけど中学校ではいじめを受けてきて、決して明るかった半生とは言えなかった。

 人生がイーブンだとしたら、宮本先輩や千尋ちゃんとの出会いが転機だったのだと思う。


 JAXAでの撮影がある程度進んだとき、武蔵監督がみんなでご飯を食べに行くことになった。個人的な誘いではあるものの、あたしたちと監督だけじゃ、さわりがあるだろうと言って、シリングさんやアレクさんも同席した。アレクさんとあたしたちは20歳を迎えていないので、もちろんノンアルコールで乾杯した。


 武蔵監督は言ってくれた。君たちを抜擢したのは、間違いじゃなかった、と上機嫌だ。

 これまで、世界的な名作品を撮り続けてきた敏腕の監督だから、演技の素質を見極める目は確かなのだろうが、そう言われると照れ臭い。

「正直ね。君たちのそのルックスがあれば、女優が入口かどうかは別として、芸能界へのスカウトはあったと思う。それくらい光るものはある。でも、何と言うか、演技に深さがあるんだよな。詞音はこれまでの人生、結構苦労してきたのかなというのが見えてくる。憑依というベテランの俳優でも羨むくらいの稟賦ひんぷを持ち合わせていながら、性格は謙虚だ。イレーナは、憑依型ではないけど、影でものすごく努力しているのが分かる。最初は、キャラクターを自分色に強引に染め上げてしまおうというのがあったから心配したけど、最近は原作者の描きたかった人物像を再現し、俯瞰ふかんしながら忠実に演技しているよね」

 ビールを片手に武蔵監督が言う。

『これだけの才能があれば、尊大な態度を取る人も多いよね。例えばアレクとか、本当にビッグマウスだった』

 シリングさんは、スマホの翻訳アプリを通じて、会話に参加していた。

「ええ? 俺、そんなことないですヨー」

「ヤだぁ。アレクって、そんな人だったの?」イレーナがおちょくる。

『大丈夫。いまは僕が教育したから、最初に比べると丸くなったけどね』

「それ言わないでくださいヨ。僕の黒歴史だったんですから」

『黒歴史って、半年前くらいの話じゃないか』

 そう言うと、どっとみんな笑った。



 JAXAでの撮影がある程度進むと、アメリカとスペインに渡航し、海外でしか撮影できないシーンを撮影しなければならない。ここからはラボの外の撮影となる。これまでは、セリフも専門用語が出てきたりして覚えるのも一苦労だったが、ラボの外では、プライベートの会話が中心なので、少し楽になる。

 何と言っても、あたしにとっては初めての海外なのだ。


 しかし、1つだけ問題があった。あたしにはパスポートがない。

 そして、未成年であるため、どうしても親の署名が必要なのだ。それに、もともと生活費がギリギリでしか支給されておらず、アルバイトをする時間的余裕もないあたしに、パスポートを発行手数料を支払えるかというと、それも怪しい。

「はぁ」

 また、お母さんを説得しなきゃいけないのかと思うと気が重い。

 普通科に入学したあたしは、この間の学期末考査では、真ん中くらいの成績だった。水道橋高校はレベルが高いので、真ん中くらいの成績でもあたしにとっては上出来だが、順位と偏差値しか興味のないお母さんは、不満に感じるかもしれない。


 思うと、そういう忌避感から、お母さんにはロクに連絡を入れていなかった。忙しさにかまけていたと言えばそれまでだが、決して安くない私立高校への入学と寮生活を許してもらっているわけだから、親不孝者だといえばそのとおりかもしれない。


 そう考え始めると、本当は熊本に帰って近況を伝えるべきなんだろうなと思う。でも、帰省のためのお金もないので、渋々電話することにした。


 呼び出し音が5回くらい鳴ったあと、お母さんは出てくれた。

 あたしは、連絡がおろそかになっていたことを謝った上で、近況を伝えた。

 成績のこと、今村さんのこと、千尋ちゃんに再会したこと、武蔵監督にはお世話になっていること、それから、オフレコだが、映画の主演に抜擢されたこと。舞台芸術科の先輩に嫌がらせを受けたことだけは伏せておいた。夢に向かって順風満帆に進んでいると、気丈に振る舞いたかった。


 普通に考えれば、朗報ばかりはずなのだ。しかし、お母さんから返された言葉は、歓びではなかった。

『何かあんた、騙されてない?』

 もともと疑り深い性格の人にとっては、そう聞こえるらしい。巧妙な特殊詐欺とでも思っているのだろうか。

『そんでもって、いままで電話をかけてこなかったあんたが、急に畏まって電話をかけてくるってことは、何か頼みごとでもあるんでしょ?』

 口調から、あたしが置かれている状況が、決して歓迎されたものではないことが伝わってくる。

「パスポートを取りたいんです。だから、法定代理人のサインが必要なんです」

 ここで、ついでに手数料も払って、とは、とても言える雰囲気ではなかった。


 暫しの沈黙。これがとても気まずい。何のためにとか、せめて聞いてくれれば良いのに、勉強以外に興味のない証拠だろうか。

 ここで『NO』と言われてしまったら撮影が止まってしまう。もっと普段から、良好な母娘関係を築いてこなかった自分を恨んだ。


『パスポートって、どこに行くの?』

 ここでようやくお母さんが口を開く。ここは、詐欺だとか思われないよう、できるだけ詳細に応えたほうが良さそうな気がした。

「アメリカのメリーランド州グリーンベルト近郊と、スペ──」

『グリーンベルト!? ゴダード宇宙飛行センターがあるグリーンベルト?』

 あたしが言い終わらないうちに、お母さんが返してきた。それまでの無関心な態度を一転させたので面食らった。

「うん。宇宙探査の研究者を演じるの。内緒でお願いしたいんだけど『ハーシェルの愁思』って知ってる?」

『篁未来でしょ。あんたの好きな』

 お母さんが、あたしが篁未来のファンであることを知っていてもおかしくないが、お母さん自体は篁未来に関心はなかったと思う。だからこそ、『ハーシェルの愁思』を知っていることは意外だった。篁作品では、知られざる名作という立ち位置で、知名度は高くないからだ。そして、武蔵監督による映画化で、知名度を高くするわけだが。


『あんた、本当に、女優の道を進んでるの!?』

 そ、そうだよ、と返答するも、あたしの方が狼狽うろたえてしまう。

『これって因縁なのかな。どうも宇宙と切っても切れない運命にあるのかしら。は』

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