Side P 29(Moriyasu Agui) 光栄ある孤立

 時任先生の説明によると、C′世界から送られたようなメールはなかったらしい。

 その代わりに、B世界(離婚して地球が救われる世界)から送られたとおぼしきメールがあったと言うのだ。それが俺が見落としていたメールだったのだ。同時に、パラレルワールドの存在を裏付けるものとなった。

 正直なところ、むちゃくちゃ複雑な気分だった。こんな歴史的大発見の根拠が、俺にとっての醜聞なのだから。ましてや、これが論文やらになるのであれば、安居院家の末代までの恥とならないだろうか。

 研究者として、パラレルワールドの存在を何とか形にしたいという気持ちはやまやまだが、プライベートがインパクト・ファクターの高い雑誌にアクセプトされて、世に知られることはゴメンだ。オブラートに包んでいただきたい。


 でも、ある意味吹っ切れたような気がする。我々が想定しているB世界では、夫婦関係が破綻しているだろうという客観的事実が確認されたのだ。

 もちろん、C′世界が存在していないことの証明にはならない。ないものを証明することは『悪魔の証明』であり、困難を極める。でも1つ、諦めがつく判断材料となった。


「……そうなの」

 当事者であるはずの舞理には、まったく動揺が見られなかった。

 離婚しなければいけない事実よりも、むしろそのリアクションに俺は辟易した。黙って判をした。これを提出すれば、戸籍上は他人となる。あとは、身の振りをどうするかだ。


「本当にここを出ていくのか」

 舞理は、こっそりと自分の荷物をまとめていた。断捨離が得意な舞理は、もともと荷物は少ない。荷物をまとめられても、一見しただけではこの部屋のレイアウトの変化に気付きにくいほどだ。

「……うん」


横浜ここに残るのか? それとも熊本に戻るのか?」

「それを答えたら、あなた絶対に来るでしょ?」

「行く、行かないは別として、答えてくれたっていいじゃないか?」

「ダメだよ。これはただの離婚じゃない。文字通り、すべての繋がりを断ち切る必要があるんだから」

 舞理は、まるで達観しているかのように言う。


「分かった」

 溢れ出そうな未練、無念、悔恨、悲憤慷慨ひふんこうがいを、ギリギリのところで押し留めて、つとめて平静に首肯した。


 舞理が旅立つのは明日の昼だという。せめて羽田空港の保安検査場のゲート前まで見送りたかったが、愛惜あいせきを増長させるとして、それさえゆるされなかった。


 その日の夜は、眠れなかった。未練がましく女々しい俺は、舞理と詞音の寝顔ですら、目に焼き付けておきたかった。まばたきすら惜しい気がした。涙が出てきた。しかし、これは目の乾きによるものではないのは自明の理だった。

 別れを惜しめば惜しむほど、俺を苦しめるのは充分承知しているはずなのに、それにあらがうことはどうしてもできなかった。



 翌日、俺はいつもどおり出勤だが、今日の午前中には、2人は住み慣れたはずの自宅を出て、離婚届を役所に提出し、おそらく日本のどこか遠い果てに去りゆくことが判明している以上、研究室への足取りは極めて重かった。菊名駅のホームに立つと、存在しているはずのホームドアが消滅し、入線時に無意識に線路の方に身体ごと引っ張られるかのような錯覚さえ感じた。


 結局その日の午前中は、俺は使い物にならないおじゃま虫だった。朝のミーティングも正直、何も頭に入ってこなかった。


「ポアンカレくん。その顔は、とうとう三行半みくだりはんを突きつけられたって感じだな」

 相変わらず、時任先生は容赦ない。共感性が欠如しているのか。いまの俺には傷口に塩を塗るようなデリカシーのなさだが、かえってこのイライラを呼ぶ感覚が、現実を忘れさせてくれているのかもしれない。


「センセー? 離婚したの!? マリちゃんと」

 部屋にいるのは、時任先生だけではなかった。面倒なことに、慧那に聞かれていた。この女に知られたら、その時点で終わりだ。光よりもニュートリノよりも早く拡散させる。

「で、慰謝料いくら払ったの?」

 慧那こいつはこいつで、デリカシーがニュートリノ並の軽さだ。さすが時任教室の一番弟子。いきなり日本刀で斬りつけるような、でも、本人は無自覚の言葉のやいば

「何で? 俺が不貞行為を働いた前提になってんだ? 間違えるなら養育費だろ」

「センセー! その反応はっ! やっぱ離婚したんだ」

 慧那はもともと大きな瞳をさらに大きくして驚いた。この女はわざと慰謝料と言って鎌をかけてきやがった。

「みんなー! ポアンカレくんが、アインシュタイン博士になったよー!」

 慧那は、幼稚園児のように叫びながら、みんなに知らせに走っていった。


 隠し立てするつもりもないし、どうせいつかはバレると思っていたが、もう少しそっとしといてくれよ。落ち込みを通り越えて、何だか笑えてきた。どうでも良くなってきた。



 でも、俺のこの電撃離婚は、パラレルワールドの分岐点になっている可能性があるのだ。同じプロジェクトチームのメンバーに事の顛末てんまつを説明しろと言われた。

 はっきり言って、自分の醜聞スキャンダルな身の上を仔細しさいに語らなければならない拷問のようなはずかしめ。屈辱的だが、屈辱だと思っていたら、このプロジェクトは前に進まない。ここは割り切って、光栄ある孤立とでも開き直って、情報を開陳することにした。


「名誉の負傷じゃないですか!」

「てっきり浮気だと思ってました……」

「こんな理由で離婚したの、世界で先生だけですよぉ」


 みんな言いたい放題だ。ここまでの言われようだと、いっそのこと本にでもして出してやろうか。そう言えば、邨瀬が俺の半生を書いてくれると言ってたな。いや、待て。ノーベル賞を獲ってからと言っていたかもしれない。まぁーどーだっていいわ、この野郎、と最後は捨て鉢になる。


 実は、指定された未来に、メールを送る試みはずっと続けていた。

 そして、正直うまくいっていなさそうだと言うのが現状である。電波は、文字通り『波』なので何もないところでは直進するが、その他反射、透過、回折、干渉といった性質も持ち合わせている。地球上は障害物だらけなので、15光年(約135兆5000億km)電波を伝搬させないといけない。


 加えて、電波は、『距離の2乗に比例して減衰する』という性質があり、天文学的な距離を飛ばし続けるのは、どんなに出力の大きい電波でも不可能だ。同時に、『波長が長いほど』『周波数が低いほど』減衰は小さく伝搬距離は長くなるという性質があるので、出来得る限りの電波を発信させてみたが、あまりにも長距離なので、15年どころか24時間飛ばすのもできないでいる。

「やはり中継局が必要だな。それもできるだけ遠い場所に。地球上では限界がある」

 これが、プロジェクトチームの中での共通見解になっていた。つまり地球上で無理なら、宇宙の何処かに基地局のようなものが必要になる。

「理論的には可能だ。理論的に可能なのに上手くいかないのは、工夫が不足しているからだと僕は思ってる」

 それが時任先生の口癖だ。

 俺の離婚がパラレルワールドの分岐点であれば、絶対近々成功裡せいこうりに収められるはずだ。アイディアを振り絞れ。昨日までは、詞音や舞理のことを考えながらの研究生活だったが、離婚したので、ある意味、研究を妨げる要素はなくなった。

 人類をB世界にいざなうか否かの命運は、我々自身に懸かっていた。

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