Side F 28(Fumine Hinokuchi) 撮影の始まり

 映画の撮影期間は、その長さや予算にもよるが、2週間〜2ヶ月程度らしい。意外に短いものなんだなと思った。

 しかも、この夏休みに、あたしたちが登場するシーンを集中的に撮影するのだという。あくまで、あたしたちの本分は学業で、その前提は覆らないとのこと。

 加えて、水道橋高校普通科の夏休みの宿題は、進学校のためかとても多いらしい。撮影であっても、普通科に所属する以上、減免はされないのだ。

 撮影がなくてもなかなか厳しい量なのに、大丈夫だろうか。バルセロナの飛行機では、台本じゃなくてプリントとにらめっこかもしれない。


「宿題分からなかったら、星簇総括に聞いたらいいさ」と、武蔵監督は言った。

「あのギャr……、じゃなかった、研究員にですか?」

「詞音、心の声出すぎだろ。見た目はああだけど、横浜理科大の首席だから、そこは安心しなさい」

「しゅ、首席!?」

 人は見た目によらないと言うけれど、ギャップという点で、これ以上大きい人はいるだろうか。未だ信じがたいが、確実に水道橋の教育レベルは高いし、頼れるもんなら頼りたい。でも、映画の監修に、宿題見てもらっていいのだろうか。



 翌日からさっそく撮影がスタートする。ほぼ連日だ。日本での主な撮影はJAXAでのシーンと、自宅の部屋にいるシーンらしい。

 外の撮影は、海外となる。ちなみに、アメリカ、スペインでそれぞれ2泊しかしないという弾丸旅行。まったくもって余裕がない。NG連発したら大変なことになる。

 宿題も撮影も心配だらけだ。本当に大丈夫なのだろうか。


 そして、その翌日はすぐにやって来る。正直寝坊が怖くてあまり眠れなかった。大物ハリウッド女優ならリムジンで移動なのかもしれないが、あたしたちは無名の女子高校生だから、始発電車に乗って都内某所の集合場所に向かう。

 あたしも今村さんもすっぴんだ。撮影現場でメイクをするのだから、家でメイクするわけにはいかない。ハーフ美女の今村さんは、すっぴんですら芸術的に美しいが、純日本人のあたしはまるでのっぺら坊だ。中学時代は毎日ノーメイクなのに、何も気にならなかった。でも、高校生になって、寮生活ながら東京暮らしとなった現在いま、化粧をしないことに気恥ずかしさを感じた。環境は簡単に人の価値観を変えてしまうようだ。


 集合場所からロケバスで府中ふちゅう航空宇宙センターに向かう。撮影は、職員の業務の邪魔にならないように隙間の時間を使って行われるらしい。ゆえに、朝早くスタートし、夜遅くまでかかる。日中は、会議室など使われていることが多いのだ。

 でも当然、到着してすぐに撮影が始まるわけじゃない。メイクやら衣装やら、舞台のセッティングやら、少なからず色々と準備がある。あたしたちも忙しいが、スタッフさんはもっと忙しいのかもしれない。もちろん武蔵監督も。


 思えば、いままであたしが演じてきたのはすべて舞台の上だった。スポットライトがあり、客席があり、オーケストラ・ピットがあり、舞台裏がある。演技の是非は、劇のあとの観客のリアクションで即座に分かる。緞帳どんちょうの開閉が、憑依のオン/オフの切り換え役だった。

 しかし、映画は違う。客がいる場所で演技はしない。その代わり、監督というプロの目で評価される。舞台では客席のある方向が明白だから、どこを意識して演じれば良いのか明白だが、それがカメラになったら上手にできるだろうか。また、舞台とは違って一発勝負ではない。納得がいくまで繰り返される。撮影が長時間に及ぶ場合、憑依し続けられるのだろうか。いや、明らかに異なる環境で、憑依ができるのだろうか。

 ここに来て、いろいろな不安があたしを襲う。あたしの演技は『憑依』あってこそ評価されているようなものだ。憑依できませんでした、じゃ話にならない。


 心配は焦りを生み、焦燥は演技の乱れに直結する。そして、さらなる焦燥をもたらす。負のスパイラルだ。加えて、随所に出てくる英語のセリフ。さんざん練習してきたと言っても、今村さんという同志の前だからこそ。今度は、お初にお目にかかる外国人俳優たちの前でだ。憑依どころか頭が真っ白になったらどうしよう。


「……ぉん、しおん! 詞音!」

 あたしを繰り返し呼ぶ声が、だんだん近くなる。はっと我に返ると、今村さんがあたしの顔を心配そうに覗き込んでいる。

「どうしたん?」

「ぃっ、今村さん」

「すごい顔しとったよ!」

 指摘されて、恥ずかしくなった。思い詰めたときは、人を心配されるほどの顔つきになるようだ。

「ごめんごめん。何だか、急に緊張しちゃって……」

「──私もだよ」今村さんから小声で耳打ちするように言われた。「昨日の夜はほとんど眠れなかった」

「ウソ?」

 意外な言葉だった。しかし、彼女の腕はわずかに震えているように思えた。

 今村さんは、あたしが知る中でも指折りの、肝が据わっている人だと思っていた。目の前に誰がいても、どんな大舞台でも、常に自分の魅力を最大限に見せつけ、輝かせることができる、パフォーマーを目指す者として、最高の適性と資質を兼ね備えた金甌無欠きんおうむけつなる人だと思っていた。

 そんな今村さんが、ビクビクと震わせている。武者震いと言っては聞こえは良いが、もっとネガティブな感情に起因するような震えのような気がする。震慄しんりつという表現に近い。


「私は、詞音のように憑依させることはできない。まるで、キャラクターが、私の身体を拒んでるんじゃないかと思うくらいに……。詞音に心の底から憧れることがあるよ」

 そう言うと、今村さんはあたしの左手の甲に右手を重ねてきた。思わずドキリとしたが、詞音の様子から他意はないと思われる。純粋に気持ちを落ち着かせたいだけなのだろう。

 こういうときに何と声をかけて良いか分からない。でも、下手へたに気休めの言葉をかけたり、気のない同情を示したりするのは逆効果で、黙って聞くことがいちばん彼女を落ち着かせるには良いのではないかと思った。


 同時に、慰められるべきあたしが、いつの間にか慰める立場になっていたことに気付き、心の中で少しだけ苦笑いすると、あたしの緊張が取れてきた。

 でも、本人にいま言うべきではないと思うが、何となく今村さんの演技はうまくいきそうな気がしている。なぜなら、キャシーがまさしくそういうキャラクターだからだ。

 一見、非の打ち所のない完璧な女性に潜む、ガラスのように脆いハート。無意識のうちに、今村さんはキャシーに近付いていっているのだ。

 自然体で良いんだ、と胸の奥で呟いてみた。声こそ出さないが、その言葉を意識した途端、まるで自分に言い聞かせるような金科玉条きんかぎょくじょうめいた示教しきょうとなって、しこりを融かしていった。



 30分ほど揺られて、撮影場所となる目的地に到着する。

「今日は最初だから、スタッフと顔合わせもする」

 一足先に現地入りしていた武蔵監督は、あたしたちにそう告げた。

「はい、お願いします」

「まず、メイクアップアーティストの、イッコー・ウエムラだ」

「ひの……、いや門河詞音です。よろしくお願いします」

「イレーナ・ミランコビッチです! あ、あの有名なイッコー・ウエムラさん?」

 大きなリアクションは今村さんのものだ。あたしは失礼ながらよく知らないのだが、ウェーブがかったカラフルな髪、中性的な出で立ち、そして隠しきれないオーラが、著名な人物であることを匂わせている。

「あら、何て可愛いらしいお嬢さんなこと。脚本のキャラクターにピッタリね。メイクにも気合いが入るわ」

 微笑みを浮かべながら、ウエムラさんは言った。

「で、そのアシスタントが、チヒロさんだ!」

 どこかで聞いたことのある名前だ、と思った瞬間、確信に変わった。


「詞音ちゃん! 今村ちゃん!」

 懐かしい顔は、あのときよりちょっとだけ大人びたように見えた。園田そのだ千尋ちひろは、夢を諦めずに、しっかりとメイクの道を邁進まいしんしていたのだ。

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