Side F 25(Fumine Hinokuchi) 得も言われぬ嫌な予感

 演技についてのすれ違いが解消されてからは、これまで以上に距離が近付いたような気がする。篁作品でも映像化の希望が高い未映像化作品『ハーシェルの愁思』を、言わずと知れた名監督の武蔵紫苑が手掛け、その主役に抜擢されるという、この上ない光栄な状況。テンションが上がらないわけがない。


 最初は悩みに悩んだ英語のセリフも、着実に自分のものにしつつある。いや、自分のものにしつつあるという表現はあたしに限っては正確ではない。椎葉美砂という人格があたしの肉体を借りて、話しているのだから。


「賞、狙おうね! 絶対」

 そう言って、今村さんはあたしの両手を握ってきた。彼女の顔を見ると、目が涙で潤んでいるように見えた。

「そだね!」ちょっと大仰な気がしたけど、あたしも今村さんの意気込みに呼応した。


 そのとき、扉の方で物音がした。

 寮生が廊下を歩いたりすれば、物音の1つや2つするものだが、どうも得も言われぬ嫌な予感がした。しかし、そのあとは、物音がしなくなった。

「どうしたの?」

 今村さんが問う。

「い、いや、何でもないよ」

 あたしは姑息な笑顔を取りつくろった。



 それから、部活の後、先輩たちがいなくなってから、あたしたちは『ハーシェルの愁思』の練習に練習を重ねた。ときに、練習は夜9時くらいまで続くことがあった。気付くとそれくらいの時間になってしまうのだ。

 そのあと、たんまりと出されている宿題もこなさないといけない。演技と勉強を両立させないといけないので、忙しいことこの上ないが、今村さんがいてくれたから、疲れていてもこなせたと思う。夜中の1時くらいまでかかるけど、何か打ち込むことのできる疲労は、心地良さも感じる。


 そして、翌日に武蔵監督の来校を控えた日の部活後。演技の細かいところをお互いに確認し合った。


 充実した練習のあと、寮の部屋に戻ろうとすると、扉の下に一枚の紙が挟まっていた。

 何だろうと思って、紙を開けた瞬間、あたしは震慄しんりつした。


『武蔵監督の映画に抜擢されたと言って調子に乗るな! 詞音シネ! この情報をバラされたくなかったら、明日の12時、リハーサル室に20万円持って来い!』

 太いマジックで殴り書きされた脅迫状だった。あたしは部屋に入らず、そこにへたり込んでしまった。


「詞音、何ばしよっと?」

 あたしのただならぬ様子を察知し、熊本弁で駆け付ける今村さん。

「こ、これ……」

 紙を見せた瞬間、みるみるうちに表情が険しくなる。あたしが恐怖で戦慄いているのとは対照的に、今村さんは怒りの炎がともった。


「何や! 誰や! これは!」

 今村さんは紙をぐしゃっと握り潰して、廊下の床に叩きつけた。

「もう、何でこんなことばっかり……」

 きっと、昨日の夜の嫌な予感が的中した。物音の正体は、誰かがあたしたちの会話を盗み聞きしていたのだろう。


 涙が出そうになった。舞台芸術科は女の世界。出る杭は打たれるところか、ズタズタにされる。欲望と嫉妬にまみれたドロドロの世界。

「どうしよう……、もしこんなことされたら、監督のオファーの話が消えちゃう」

「……いしてやるよ」今村さんが何か呟いたがよく聞こえなかった

「え?」

「用意してやるよ。20万やろ? その後の成功報酬に比べれば安いもんよ」

 一瞬耳を疑った。聞き間違えじゃないかと思った。

「どう用意するの?」

「いまだけは父さんに頼むとするよ。出世払いで返すと約束してさ」

 今村さんの家はお金持ちだということを思い出した。しかし、あたしは是認する気になれなかった。それは決して、もともと女優を目指すことを反対していたあたしのお母さんが、お金を出すと思えないという理由だけじゃない。

「でも、みすみすお金を差し出したら、味をしめて、また要求してきかねないよ」

「悔しいし、ムカつくけど、千載一遇のチャンスを絶対逃したくない。将来の栄光に比べたら、これくらいの損失、小さなもんさ」

 あくまで彼女は、悪意に満ちたこの要求に応えようとしている。

「でもさ、これ、お金出したとして、ちゃんと情報をバラさないって確約してくれるのかな?」

「分からない。でも20万を拒否したら、確実に漏洩される。そんなことになったら、監督を幻滅させるよ。二度とお声はかからない」

 そうかも知れないが、あたしはどうしてもお金を払っても、約束は守られないような気がした。だって、舞台芸術科の先輩たちは、お金ではなくあたしたちを甚振いたぶることが目的なのだ。20万、40万、60万とエスカレートしていった挙句あげく、情報はバラされる最悪な結末が待っているような気がしてならない。

 今村さんは続ける。

「詞音の気持ちは分かるけど、女優の道は、どんなに演技力があろうとも、どんなにルックスがよくても、それだけじゃ叶わないと思うんだ。夢は叶うものじゃなくて、勝ち取るもの。それは時に、お金が必要になることもある。もっと嫌なことを言えば、身体で支払わなきゃいけないことだってある。それくらいしないと、のし上がれないもんなんだと思ってる」

 思いの外、彼女の決意は固い。ここまで固いと、もう簡単には曲げることはできない。

「大丈夫だよ、詞音。あんたには迷惑かけないから! 絶対に」

 そう言って、今村さんはあたしに微笑んだ。



 翌日、今村さんは、練習場に茶封筒を持ってきていた。膨らんだ厚みがちょうど紙幣20枚分くらいに見える。本当に渡すつもりだろうか。

 なお、脅迫状の差出人は、リハーサル室のグランドピアノの響板きょうばんの中に封筒を入れろと指示している。ずっと見張って、封筒を受け取りに来た人物をチェックしたい。しかし、特殊詐欺の受け子のように、黒幕とは別の人物の可能性もある。


 武蔵監督がやって来た。本当はいますぐにこのことを打ち明けたい。とても、高校一年生2人で抱えきれる問題ではなかった。


 休憩時間の隙を狙って、リハーサル室に今村さんは入り、そして戻ってきた。手には茶封筒がない。犯人の要求どおり、実行したのだろう。今村さんには迷いが感じられない。

 一方のあたしは1円も捻出していないのに、今村さん以上に緊張している。休憩時間が終わる。そして、再び練習が始まるが、指導がなかなか身に入らない。きっと、あたしたちが練習に打ち込んでいる間にも、犯人(の受け子)が茶封筒を取りに来るのだろう。


 今日の練習は正直、まったくもって時間を空費しただけのような結果だった。それだけ、あたしは集中できなかった。今村さんは、そういうところを微塵も見せない。強靭なメンタルだ。


「詞音」

 背後から声をかけてきたのは、武蔵監督だった。思わず、身体をビクッと震わせた。

「どうした。今日の君は、なんかおかしいな。具合でも悪いのか」

「いえ、そんなこと……」

 そううそぶそばから汗が出る。体が熱い。

「いや、きっと何かある。隠し立ては感心しないな」

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