Side P 26(Agui Moriyasu) 舞理の提案

「え? 休みが取れたの? 旅行? いいの?」

 3日間の休暇をいきなり命じられたので、舞理は困惑していた。せっかくだから旅行に行くことを提案したら、素直に喜んでいた。こういう表情を見せるのは、久しぶりかもしれない。もともと、妻は旅行が好きなのだ。


「どこがいい?」

「せっかくだし、普段あまり行けない所がいいよね」

 3日間だ。本当は海外にバカンスに──、と言いたいところかもしれないが、ちょっと日にちが少ない。国内が現実的だろう。


「札幌? 九州? 沖縄? それとも四国?」

 九州と言ってみて、舞理の実家に行くのも悪くないな、と思った。熊本なんて、日帰りで行くにはもったいない場所だ。


「大阪とか、名古屋とか?」ちょっと意外な回答だった。

「近くない? 日帰りでも行けると思うけど」

 特に名古屋なんて、リニアが開通して、東京、横浜の通勤圏内になってしまったのだ。

「でも、ほとんど行ったことないんだよね。あまり用事がないし」

「そっか。じゃあUSJとか、ナガシマスパーランドとかかな」

 ナガシマスパーランドは正確には三重県だが、桑名くわな市なので、名古屋にほど近いところにある。

「絶叫マシンはちょっと……」

「じゃあ、海遊館? 通天閣? 愛知県ならジブリパーク? レゴランドもあるよね?」

「プラネタリウムは?」

「プラネタリウム?」

 ほぼオウム返しになってしまった。旅行だから、一般的にはテーマパークとか、グルメとか、温泉とかをイメージすると思うのだが、プラネタリウムは東京にも横浜にもある。

「名古屋市科学館ってさ、世界最大のプラネタリウム、あるんでしょ?」

 言われて思い出した。確かにある。でも、俺自身行ったことはない。

「たまには私のわがまま聞いてもらってもいいでしょ。それに、詞音も好きだと思うんだ。だってあなたと私と子どもだから」

 舞理も事務職とは言え、JAXAに勤めていたのだ。宇宙が好きなのは今も昔も変わらないということか。



 こんなに長距離運転をするのは、本当に久しぶりのことだった。新東名高速道路を使って名古屋に向かう。詞音にとっては、旅行自体はじめてではなかろうか。


 高速道路はスムーズだったが、名古屋市内の運転は戸惑った。とにかく道が広いのだ。100メートル道路という言葉は聞いたことがあるが、片道4車線や5車線だってざらにあるし、進行方向別通行区分も複雑だ。そんな道路を、地元の車はヒュンヒュンと車線変更をしながら快走する。ペーパードライバーとまでは行かなくとも、運転慣れはしていない俺は、車線の位置取りを間違えて、何度か遠回りの末、ようやく科学館付近のコインパーキングにありついた。


 科学館は想像以上に広かった。『宇宙館』、『生命館』、『理工館』と3つのエリアに分けられている。幼稚園の休みを最小限にしたいという理由で、土日を利用しての3日間の休暇。おかげで人が多かった。

 しかも、企画展は、狙ったように『アインシュタイン展』。妻は、せっかくだから入りたいと言う。正直、幼稚園年中の詞音には早すぎると思ったのだが、いつも来ることのない新鮮な景色に、テンションが上りまくっている。血は争えないということか。


 時任先生には、プロジェクトを忘れろと言われたのに、これではリフレッシュもへったくれもないではないか。先生に、どこ行った、と聞かれて、正直に答えてしまったら怒られそうだ。ここではお土産は買えないな、と失笑する。


 プラネタリウムは、さすがは世界最大。広かった。科学館の建物自体、巨大な金属の球体が浮いているようなフォルムなので、その大きさは入館前から想像できていたのだが、入ってみて、改めて大きさを再認識する。

 夏の大三角形や天の川の話など、職員がわかりやすく説明してくれる。もうそんな季節なんだなと、寝ぼけたような感想を抱く。太陽に浴びない生活が続いたせいで、季節感が皆無なのだ。

 大迫力のプラネタリウムを堪能し、展示だけでなくサイエンスショーにも入りたいとはしゃぎまくる詞音を見て、連れてきて良かったなと思った。


「今日はどこに泊まるんだっけ?」

 プロジェクトに忙殺されていた俺は、今回の旅程をすべて舞理に任せていた。俺はいわゆる運転担当である。

蒲郡がまごおりのホテルだよ」

「がまごおり?」変わった名前の地名だな。

「愛知県の観光地だよ。温泉もあるんだから」


 聞くところによると、ジブリパークもレゴランドも行かないらしい。理由は、詞音が興味を示さなかったから、とのこと。2日目は『ラグーナ蒲郡』というテーマパークに行くのだそうだ。結局遊園地に行くんじゃないかと思ったが、目的はプールらしい。ジェットコースターは好きじゃないけど、プールには入りたいらしかった。


 7月中旬。まだ梅雨が明けていないが、中休みの今日は、35℃近いうだるような暑さだ。確かにこんなに暑くちゃ、遊園地よりもプールだろう。広いが、広すぎるというわけではなく、幼稚園児の娘1人連れていくには、ちょうど良かったかもしれない。

 娘は、はじめての大きなプールにテンションが上っている。


「パパの水着もこのために買ったんだから。だって一着も持ってなかったでしょう?」

 そう言って、ブルーのサーフパンツを渡してきた。確かに、就職してからはもちろんのこと、大学や大学院に行っている間も、プールには無縁だった。それどころか、趣味と言えば映画くらいなもので、レジャー施設に無縁だった。小学校の頃、水泳は習っていたから、泳ぐことはできると思うけど、あまりにも久しぶりだから、何だか緊張する。


 インドア続きで、白い素肌に、男として情けなさを感じながらも、海パンを穿く。サイズはピッタリだ。

「パパー!」と詞音は一足先に飛びついてくる。

「プールサイドで走っちゃだめだぞ。転ぶから」

「うん! 流れるプール! 入っていい?」

「ちょっと待って。ママは?」

「もうすぐ来ると思うよー」


 すると30秒後、舞理は紺碧こんぺきのパレオの水着をまとって登場した。よわい30になるはずの妻だが、20歳と言っても疑う余地のない、艶めかしい肢体を披露していた。

「遅くなってゴメン。更衣室からここに来るまで、2組くらい、ナンパされたんだから」

「マジで?」

「そーよ。言っとくけど、私、イイ女なんだから、モテまくるんだから、放っておくと、ナンパについてっちゃうかもしれないよ」

 小悪魔っぽい笑みを見せる舞理は、どこか嬉しそうだ。こういう表情の妻を久々に見たかもしれない。



 ひとしきり遊んだ後は、再びホテルの温泉で疲れを癒やす。日焼け止めの塗り方が中途半端だったのか、

さっそく肩や背中がヒリヒリと痛む。しばらくまともに地肌を太陽に晒していなかったので、無理もない。数日後はベロベロに皮がめくれることを覚悟せねならない。


 詞音は、今日一日本当に楽しかったのだろう。疲れ果てて、8時前にはすやすやと寝息を立てている。

 ちゃっかり、舞理は家からスパークリングワインを持ってきて、冷蔵庫で冷やしている。ワイングラスはないので、普通のグラスで乾杯だ。


「久しぶりだね、2人っきりで夜ゆっくり過ごすのって」

 舞理は、すぐに顔を紅くして、身体を俺にもたげてくる。妊娠・出産を経て、お酒にはすっかり弱くなってしまったらしい。

「そうだな」

 そう言うと、上目遣いの舞理と目が合った。スッピンでもお世辞抜きで美しい妻の顔を、久々にこんなに間近に見た。

「守泰くん」

「何だい?」

 出産前の呼び方で俺を呼んだ。しかし、その次に発せられた舞理の提案に、俺は耳を疑った。


「ねぇ、しちゃおっか?」

「え?」よく聞こえなかったか、聞き間違えかと思った。

「だから、離婚しちゃおっか、って言ってるの……」

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