Side F 22(Fumine Hinokuchi) 敵対
そんな数日間、絶望の淵に立たされていたあたしだったが、今村さんが助け舟をくれた。何と、今村さんが、あたしが登場するセリフを全部録音して提供くれたのだ。同じ場面に登場する他の登場人物のセリフも添えて。
もちろん録音だから映像はない。それでもあたしは助かった。「私の英語もネイティヴな発音とは言い切れない」と言っていたが、バイブルのように重宝した。
篁未来の原作と日本語訳のついた脚本で、演ずべきヒロインの人物像は分かってきた。
それからは、とにかく聞いては音読の繰り返しを続けた。すると耳が慣れていき、不思議なことに英語の意味まですっと入って来るような気がする。そのうち暗唱ができるようになり、脳内で英語のセリフを和訳するというステップを経ずに意味を理解できるようになってくる。不思議なことに、新しく聞く英語のセリフまで比較的容易に理解できるような気がした。予備校のCMで、あるカリスマ英語講師が、上達の最善の方法として『音読』を挙げていたのを思い出して、本当なんだなと舌を巻いた。
そして、穴が開くほど読み込んだ脚本によって、明確に演ずべきヒロインのイメージが構築されていく。名前は『
頭脳は
ある日、寮の今村さんの部屋で、練習の成果を披露したときのことだ。
「なにぃ、あんた日に日に役に染まっていくじゃない?」
今村さんに怪しまれるくらいにまで役になりきっていた。まるであたしの
「今村さんのおかげだよ。本当に感謝してる」
「あんたと出た映画で賞を獲るって言ったでしょ。けど、あんたがここまで仕上げてくるとは思わんかった。私も負けてられんな」
今村さんも必死に、アメリカ人研究員である『キャサリン・ティンバーレイク(愛称:キャシー)』に近付けていった。奇しくも中学のときの『龍宮スイングバイ・ノスタルジア』でも、今村さんはアメリカ人研究員の役を演じた。ただ、職業は同じであれど、あたしの中で明確にキャラクターは違っていた。『龍宮スイングバイ・ノスタルジア』では完全無欠、クールな女性研究員という感じだったが、キャシーは聡明さの中に少し臆病な印象を受けるのだ。
キャシーと美砂は一緒に天王星探査機を開発するメンバーで、苦楽を共にする。そして、二人は研究員の中最年少で、惑星探査機の開発に携わるのもはじめてで、重大なプロジェクトの渦中で二人は
しかしながら、今村さんは『龍宮スイングバイ・ノスタルジア』のときと同じような演技に終始しているような気がして違和感があった。
「ところで、『キャシー』の性格について今村さんはどう思う?」
思い切ってあたしは質問してみた。『キャシー』のキャラクター形成の仕方によって、視聴者が彼女にもっと感情移入できるような気がする。微妙な違いかもしれないが、篁未来は、研究員として未熟な2人が手を取り合って、難題に立ち向かっていくという姿を描きたかったに違いないと思っている。篁作品を読破してきたあたしには何となく分かる。彼の作品は、どの登場人物も魅力的で感情移入させるような隙を作っていることが多い。いま演じようとしている今村さんの『キャシー』は、完璧で隙がないのだ。
「
違う、とあたしは心の中で言下に呟いた。それはあくまで表面上のキャラクターだ。中身はもっと繊細なんだ。
でも、きっと今村さんは自分がこうでありたいという理想とキャラクターを重ね合わせているかもしれない。実際今村さんは中学生のときも現在も、異彩を放っている。何をやらせてもできてしまう天才なのかもしれない。けれども、キャラクターを自分の理想に近付けるのは良くないような気がする。キャラクターに自分が近付いていかないといけないと思う。
「あたしはもっとキャシーは弱いと思う。だって、このシーン。ほら、キャシーの意見が採用されなかったシーンだけど、ベッドの上で三角座りをしているけど、きっと
「──そうかな? 私はそうは思えなかったけど」
確かにト書きを見ても、涙を流しているとは書かれていない。しかし、原作の小説を見たときに抱いたキャシーの印象、あたしが描いている美砂の像からして完璧すぎるキャシーとは
どうしよう。あたしは困り果てた。
きっと、今村さんなりに努力して構築してきたキャシー像だろう。そして、その役になりきりつつある。しかも、確固たる自信を持って。それを、いまさらキャシーのキャラクターがあたしのイメージとかけ離れているから、修正してくれなんて、言えない。
対立関係にあった以前とは異なり、現在は同じ道を志す戦友だ。仲良くないときに敵対関係になるのは、さほど心は傷まなかったが、仲良くなったいま、もし敵対関係に戻ってしまったら、とても苦しい。
ここは譲歩すべきか。いや、自分の結像した椎葉研究員を貫き通すか。あたしの椎葉研究員では、今村さんのキャシーとは、上手くやっていきにくい。脚本では二人三脚でプロジェクトを進めるわけで、これでは観る者にとって違和感を与えかねない。かと言って、今村さんを譲歩させるのは、かなりのリスクを伴う。
武蔵監督はどう考えているのか……。
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