Side F 21(Fumine Hinokuchi) スピーキングの壁
「お、お願いします!!」
この上ない光栄な言葉だった。この作品は、篁作品の中で特に理系的な色合いの強い作品であり、それでいてヒューマンドラマも備えた、あたしの大好きな作品の1つである。だから、条件反射的に受けてしまった。しかし、素直に喜んで良いのか、2つの心配があたしを襲った。
今村さんは悔しさで表情を歪めているだろうか。
ただ、『ハーシェルの愁思』のヒロインは確かに日本人だし、ヒロイン以外の登場人物は外国人ばかりだ。
作中のヒロインは『
一方、今村さんはハーフだけど、東欧出身のお母さんの血を多く受け継いでいるのか、外国人寄りなのだ。
そう言った状況下で、あたしと今村さんが割り当てられる役は、必然と決まってしまうのかもしれないが、それでも悔しいだろう。
監督に告げられたときの今村さんは、表情こそ笑顔だったが、何しろ彼女は役者だ。心では本当は泣いているかもしれない。監督が去ったあとに、今村さんにどう声をかけて良いのか非常に悩んだ。気まずさで早く時間が過ぎてくれればいいのに、と心から思った。
しばらくの沈黙のあと、今村さんは口を開いた。
「あんたで良かったよ。ヒロインの役。これで譲ることになったの2回目だけど、他のプライド高い先輩たちに獲られてたら、私どうにかなってたよ」
「……」
ありがたい発言で安心したが、どう返答すればいいのかあたしは分からなかった。
「──英語はいけるか?」
安堵している場合じゃなかった。これが2つ目の心配だ。英語は学校の科目としては苦手ではなかったが、スピーキングとなれば話は別だ。留学経験なんて皆無のあたしが、
「……自信ない」
武蔵監督からのオファー、大好きな篁作品ということで、思わず受けてしまったが、落胆させることになるだろうか。武蔵監督はあたしが英語をしゃべれるものと思っているのだろうか。それとも敢えて試練を与えているのだろうか。
「詞音、私の英語もネイティヴな発音とは言い切れないけど、できる限り付き合う。一緒に頑張ろう。そして賞獲ろう」
†
武蔵監督は明言していなかったが、映画の名だたる賞にノミネートされることが多いらしい。今村さんは、ひょっとしてこの映画とて例外ではないのではと考えているようだ。
でも、正直言って、プレッシャーになるからあまり言わないで欲しい。目標を高く持つことは大事だが、高く掲げられすぎると重荷に感じてしまう。
その日から、日中は学校で授業、授業後は演劇部、寮では英語の練習を重ねた。今村さんは映画全般に詳しいらしく、数ある洋画で『インターステラー』を使って練習しようと言ってきた。SFだからあたしにも馴染みやすいんじゃないかという理由で。
本当を言うと、脚本は武蔵監督から近々もらう予定になっている。しかしながら、それを使って学校の舞台で練習するわけにはいかない。狭い寮で、他の誰も知らない脚本のセリフを練習していたら怪しまれる。そもそも『ハーシェルの愁思』が映画化されると言う情報自体極秘である。脚本を使って実践的な練習をするのは、指定されたスタジオしかやれないことになっているらしいのだ。
『インターステラー』のアメリア博士を例に、セリフと演技を真似てみた。しかし、1つ致命的な自分の
あたしの中で憑衣させる動作は、例えるならあたしの脳を劇中の登場人物の脳と入れ替える作業に近かった。スイッチ1つで、と言うわけにはいかないものの、自分の中で役柄のイメージをより精密に構築できれば、それだけスムーズに脳の入れ替えができた。
しかし、それはあくまで自分の中で日本語のデータベースがインストールされているからだった。言語だけはどうしても入れ替えるわけにはいかない。あたしには日本語以外のデータベースがない。外国人の役であってもセリフが日本語なら上手くいくだろうが、日本人の役でもセリフが英語なら上手くいかない。考えてみれば自明の理だ。
また、セリフが終始英語だから、内容がいまいち頭に入りにくい。英語の内容は分かっても、微妙な英語のニュアンスは掴めない。男勝りな言い方なのか、しおらしい言い方なのか、丁寧な言い方なのか、砕けた言い方なのか、あたしには判別がつかない。幸い、原作の篁作品は持っているし何度も読んでいる。それには日本語で書かれているので、キャラクターの人となりは想像できる。だが、演出を手掛けるのは武蔵監督だ。武蔵監督の捉え方とあたしの捉え方は違っているかもしれないし、『武蔵』色にアレンジされる可能性だってあった。
考えれば考えるほど、上手に演じられる自信が遠ざかっていく。安請け合いしなければ良かった。受けるにしても「英語は期待しないで下さい」と、予防線を張っておけば良かったか。任せて下さい、という感じで受けたわけじゃないけど、嬉しさで舞い上がって、また、遠慮してしまえば二度とチャンスが巡ってこないような気もして、お母さんを見返したいのもあって、つい二つ返事してしまった。無謀さと浅薄さを嘆いた。落胆させることを覚悟で、素直に無理です、と頭を下げようか、真剣に悩んだ。
「あんた、まさか、ここまで来て諦めるわけじゃないでしょうね!?」
今村さんはあたしの消極的な胸の内を見抜いたように、厳しい言葉を突き付けてくる。今村さんはこの今の
予定どおり脚本が届くと、数センチと言う分厚さに圧倒され、その中身は想像を絶するほどの英語の量だった。日本語は、たまに出る独り言や、故郷を懐かしんで母と国際電話で話すシーン、それと帰郷するシーンくらいだ。もともと単行本で900ページくらいある大作だし、英語が多いのは当然だけど、現実を見るとやはり気が遠くなる。
絵本レベルでも英語の本をしっかり音読したことがない。一応、あたしと今村さんの脚本には、日本語訳をつけてくれていた。ト書きも日本語が付記されていた。それでもSFだから難しい単語も出てくる。お父さんのおかげで、宇宙科学に関する初歩的な単語は理解しているつもりだが、原作にもなかった難解な専門用語も少なくはない。
今村さんのセリフはあたしよりずっと少ない。羨ましい。今村さんは英語が話せるし、楽勝のレベルかもしれない。
どうしよう。不安に押し潰されそうになった。今村さんと役を交換してもらうか。しかし、監督の中でヒロインの日本人研究員はあたし、同僚のアメリカ人研究員は今村さんと、しっかりイメージングされているのだろう。それを取り替えてくれと言うのはあまりにも失礼な話だ。顔だって、今村さんの方がアメリカ人っぽいし。
とにかくやるしかない。しかし、見れば見るほど不安が蓄積される。1ページ、いやワンフレーズ覚えるのに時間がかかる。
何で、あたしを選んだんだ。心の中で何度も何度も武蔵監督に問いかけた。
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