Side F 20(Fumine Hinokuchi) それぞれの芸名
閘詞音。確かにふりがななしで、初見で読まれたことは皆無だ。電話で予約をするときも、10回に8回は聞き返されて、複数回名乗る羽目になる。印鑑は必ずオーダーメイドだ。無い物ねだりで平凡な苗字、読みやすい名前に憧れたことがないわけではない。確かに名前が原因でいじめられた過去があり、嫌な思い出もある。でも、自分の名前が、7月23日『ふみの日』が誕生日で、その日に音(泣き声)を発したという由来は、嫌いではなかった。どうやらお父さんが考えた名前らしく、大事にしたい気持ちもある。
「考えてみます」
「よろしくね。いろいろ
「分かりました」
武蔵監督は辞去し、部屋には今村さんとあたしが取り残される。あたしは今村さんに聞いた。
「ひょっとして今村さんも?」
「私は芸名を変更しないけど、あんたも察してるとおり、私たちは武蔵監督に選ばれてる」
「ホントに!?」
「だから、声でかいって! いまは他言無用。私らが舞台芸術科だったら良かったんだけど、そうじゃないから余計に知られるとまずいんだ。いくら演技が上手いと言ってもね」
確かに演劇部にいる全員ではないが、舞台芸術科の人間の一部には、かなり毛嫌いされている。全国でも数少ない舞台芸術科に所属し、舞台上もしくはスクリーン上でスポットライトを浴びる選ばれし者という特権階級意識があるのかもしれない。加えて、今村さんは容姿端麗で成績優秀。語学にも堪能だ。
すべてにおいてハイスペックな今村さんはともかく、地味なあたしはかえって輪をかけて目障りなのかもしれない。なまじ演技力が評価されているから、監督の映画に出るなんて噂が出ようものなら、何をされるか分かったもんじゃない。
「分かったよ。でも、あたしが監督に呼ばれたのを気付いた人もいるみたい」
「そのときは、そのときだな」
今村さんが頼もしく見えた。
†
一週間後再び武蔵監督が部活にやって来た。たまに部活に来ることで知られているが、こんなに短いインターバルで来ることは珍しいとのこと。
顧問の先生によると、用事は今村さんとあたしにあるらしい。事情を知らない他の部員たちは、なにかあるのではないかとそわそわし出す。
あたしは芸名のことだろうと思う。芸名を伝えるだけなら、電話やメールで伝えれば充分かと思う。実は、水道橋高校に入学するかどうかというときに、武蔵監督と連絡先を交換していた。
今村さんと部屋に入る。ここはこの前呼ばれた部屋と違って、部室から離れた部屋だ。武蔵監督だけでなく、顧問の
「芸名は決まったかな?」
案の定聞かれた。あたしの中ではもう候補がある。ちゃんとした由来もある。でも、それを今村さんと北原先生に聞かれるのは少し恥ずかしかった。まだ誰にも候補の名を打ち明けていないのだから。
「は、はい。あの、か、
『シオン』って、監督と一緒じゃん、と今村さんが呟いたようだった。当然の反応でやはり恥ずかしくなるが、当の監督は表情を崩さない。
「ほう? その心は?」
「一つは、門河文庫に
「なるほど。『カドカワ』とは門河文庫のことか」
「はい。それにもう一つあって──宮本先輩、監督の息子さんが、閘詞音って名前を褒めてくれたんです。『詞と音とが織り成す演劇の才能が、水門から溢れ出すようだ』って」
「俊哉がそんなことを言ったのか」
「はい。『閘』っていう漢字には、運河の水門に似た意味があります。それなら『門河』って、まさに水門のようじゃないですか」
「確かに言い得て妙だな。息子ながら
「そして、詞音の方は言うまでもなく、監督の名前を拝借しています。漢字は本名から変えません。偶然にもあたしの『
「なるほどな。それは奇遇だな」
監督は年齢不相応に照れ臭そうにしていた。
「いいですか?」
「いいって?」
「か、監督の名前を拝借しても?」
監督もそうだが、他の2人の反応を窺いたかった。
「拝借するも何も、自分の本名を使ってるじゃないか。しかも、僕の名前に著作権なんてないからね。でも門河と聞いて、由来が気になったけど、想像以上にしっくりきたよ。素敵な名前だと思うよ」
「監督ぅ、私もいいですか」今度は今村さんが口を開く。「私は、このとおり、外国人顔だし髪の毛もブリュネットだし、今村じゃギャップがあるかなって思うので、外国人名で行きたいと思うんですけど」
今村さんの顔は、お母さんの遺伝子が強いのか外国人顔だ。ブリュネット(栗色)というが、明るめのアッシュブラウンだ。しかし、さすがと言うか、外国人名があるとは。
「何ていう名前なの?」
「『イレーナ・ミランコビッチ』です。ミランコビッチは母の苗字です」
「イレーナか。いいね。スラヴ系の女性の名前だな。すると、日本人名の『
「ご明察です。お母さんはセルビア人です。英語と少しセルビア語も話せます!」
なるほど。セルビア人とのハーフだとは知らなかった。セルビアと言えば東欧だ。英玲奈なんて、日本人にしてはシャレた名前だな、ハーフの今村さんによく似合う名前だなと思っていたが、武蔵監督の指摘で合点がいった。
ヨーロッパは美人が多いというイメージがある。純日本人で、見た目も日本人以外に間違われることのないあたしには羨ましい限りだ。
でも、英語がペラペラだというのは噂で聞いていたけど、やっぱり羨ましいな。その上、セルビア語まで話せるなんて、あたしには勝ち目がない。それにしても、最近やけにあたしを意識しているのか、武蔵監督へのアピールが積極的なような気がする。
「で、本題なんだけど」一つゴホンと咳払いをついてから武蔵監督は言った。「君たち2人には、僕の今度の作品に出てもらえないかと思ってる」
急に鼓動が速くなった。芸名を考えるように提案されたので、こういう展開を期待していなかったわけじゃないけど、まさか本当にそう言われるとは、喜びで舞い上がってしまいそうだ。
「ありがとうございます」今村さんは深々とお礼をする。あたしもそれにつられるようにして頭を下げる。
「映画は、『ハーシェルの愁思』って言って、原作は篁未来だ。篁作品ではどちらかというとマイナーな部類に入るけど、隠れた名作として実写化希望の声が多くってな。それで僕が手掛けることになったんだ。ちなみに、脚本も僕が書いている。主人公のヒロインは日本人なんだけど、天王星探査がテーマになっていて、NASAが出てきたりするんだ。そこで、詞音には主演のヒロインである日本人研究員の役をお願いしたい。今村さんには、同僚のアメリカ人女性研究員を演じてもらいたいんだ。本来ならば知名度の高い女優を起用すれば、それだけで注目度は上がるが、僕はあえて新人の君たちを抜擢したい。できるかな?」
あたしにとって、まさしく夢のような打診だった。
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