Side F 17(Fumine Hinokuchi) 反抗と限界

『え? 閘さんがそこまでお母さんに言って食い下がるとは思わなかったな』

 電話越しの宮本先輩は、さすがにドン引きしてしまっていることだろう。

「ごめんなさい、先輩、どうしよう……」

『一応、親父には言ってみるけどね』

「ありがとうございます」

 爽やかな宮本先輩が監督のことをと呼ぶところにギャップを感じつつも、先輩の配慮に感謝した。


 先輩と監督は、今週の土曜日に福岡で完成披露試写会のイベントがあると言う。忙しい隙間を縫って、東京から遠路はるばる来るのだ。そのついでで(?)、日曜日に我が家に寄ってもらうことになる。

 お母さんは未だあたしのことを信用していない。実際、監督は女優の道を勧めているだけで、映画出演を確約しているわけではない。化けの皮が剥がれて、監督にそっぽを向かれたら、これこそ映画の道はなくなったも同然ではないか。



 そして、すぐにその日曜日はやって来てしまう。我が家にお客さんが来るだけでも一大イベントなのに、それが有名人だと言うから、朝から掃除に化粧に大忙しだ。食卓に出すコーヒーカップすらろくなものがないから、前日にわざわざ買い直す必要性にかられた。

 お母さんは、珍しくばっちり化粧をした。悔しいがお母さんは美人だ。40歳代前半にして、体型はまったく崩れていないし、しわらしい皺もほとんどない。30歳より若いと言ったとしても、疑われないレベルではなかろうか。

 普段はほぼスッピンでそれでも綺麗だが、化粧をしっかりすれば鬼に金棒のごとく美しくなる。まさしく『美魔女』だ。


 しかし、そんな美貌とは真逆まぎゃくで、きっと東京から来た監督に『塩対応』をするに違いない。あたしは内心気が気でなかった。


 スマートフォンがブルブル震える。先輩からのメッセージだ。

『あと、10分くらいでそちらに

 最初は駅まで迎えに行こうと思ったが、駅からタクシーなので、それは不要だと言われた。あたしとしては、監督に先に謝りたい気持ちでいっぱいだったが、そういう予防線すら許されないらしい。

 着くそうです? ふと、この言い回しに気になった。先輩は監督と一緒じゃないの? すると、その胸のうちを読んだかのように回答となるメッセージが送られてくる。

『あ、親父は前日の予定が立て込んで、今日博多から熊本に来てるから、1人でこっちに向かってるよ。僕は自転車でそっちに向かってる。ということで、悪いけど、閘さんが大見得を切っちゃったことは言えてない』

 あたしは目の前が真っ白になった。先輩もイケメンの割に、やり方が強引だったり、ちょっと抜けているところがあるとは思っていたが、これは大チョンボだろう。


 もう、その場のノリでやりきるしかない。半ばやけっぱちな気持ちになりながら、全然10分もしないうちにインターホンが鳴る。

 せめてマンションのエントランスで2人を出迎えようと思っていたが、それすらも頓挫とんざする。ヤバい、何もかもが後手に回っている。


「あ、どうも! はじめまして! 今日は遠いところありがとうございました! うちの詞音がお世話になってます。こんな狭いところですが、どうぞ」

 予想とは裏腹にお母さんがしなを作っている。あたしはあまり意識しなかったが、宮本先輩は学校一のイケメンだし、テレビにも出るほど著明な武蔵監督は、ダンディーそのものだった。

 眉目秀麗びもくしゅうれいなメンズのルックスに懐柔され、ひょっとして上手くいかないかな、とあたしは期待した。


「でも、この子、昔から科学が好きで、映画や演技なんてずっと無縁で、ほんのつい1年くらい前から始めたばかりの素人なんです。いきなり女優だなんて、母としては心配です」

 残念ながら期待空しく、いくら二枚目な映画監督がわざわざ熊本まで直談判しに来たって、そう簡単に牙城がじょうは崩れなかった。

「それはそうでしょう。ご息女はずっと勉学に励んでこられて成績優秀だと伺っております。いきなり演技の道、女優の道を目指すと言われて、心配にならない方が珍しいことでしょう。ただ、百聞は一見にかず。この映像をご覧頂きたいのです」

 タブレット端末を取り出し、お母さんによく見えるように立てた。動画ソフトが起動しており、あの横浜での大会の様子が映し出される。実は、あたしはこの映像を観るのは初めてだった。そして、お母さんに観られる気恥ずかしさも大きかった。

 小惑星リュウグウで取り残されるヒパティアが混乱する様子、博士からの通信をキャッチして一縷いちるの希望を抱く様子、最後地球に帰還して涙の再会を果たす様子。我ながら、自分とは別の誰かが演じているくらい、映像の中のあたしはされていた。


「どこかの劇団に属していたくらいの演技のクオリティーです。審査員満場一致で優勝、満場一致でご息女が最優秀主演賞に輝きました」

 監督にここまで言われてあたしは嬉しくなる。しかし、お母さんの反応は渋かった。

「でも、いま演技の素質があっても、じきにライバルたちが演技を上達させたら、人並みになりませんか?」

 その心配はごもっともだが、そのように言われてしまうことに寂しさを感じる。お母さんは続ける。

「──私としては、ハリウッドで主演張れるくらい、アカデミー賞とか獲れるくらいの確約がないと、安心できないんです。安心できない以上、安心できる進路を確保したいんです。それが親のつとめかと思ってます」

 ついに来てしまった。心臓が早鐘を打つ。普通に考えれば、何、無理難題な高望み言っているんだよ、というレベルの発言だが、あたしがお母さんの挑発に乗ってしまったがために、本当にこんなに恥ずかしい要求を世界的な監督に突き付けている。明らかに絶望が近付いている。万事休すだ。


「──いけますよ、詞音さんなら」

 意外な反応にあたしは目を見開いた。監督は続ける。「普通のちょっと演技が上手な女優さんとは違う。ご息女は、役柄のキャラクターを詳細に読み込み、とても丁寧に向かい合っています。もし自分がこの役の人物であったらどうなのかということを、きっちりイメージングして、いつでもその役柄を引き出す確かな力があります。役になりきっていると言えば凡庸に聞こえますが、彼女は自分の中でしっかり役に『色』を与えています。それは簡単そうに見えて簡単ではありません」

 あたしは目頭が熱くなった。演技については褒められてきたが、やはりその世界の権威に具体的な評価をつけて称讃されるのは、一段と嬉しい。

 今まで、あたしは『ヒパティア』に身体を預けているつもりで演じてきたが、預けるにも『ヒパティア』のイメージができていないと不完全な役に成り下がってしまう。たとえ脚本に書かれてなくても自分がイメージした『ヒパティア』ならこういう表情をするだろうな、とか、こういう行動をとるだろうか、とか、素人ながら考えてやってきた。


 お母さんが言う。

「私は演技については素人なので、監督のおっしゃる違いについてはよく分かりません。ただ、親心として不安定な芸能界。学歴がすべてとは言いませんが、路頭に迷ったときにも食い扶持ぶちに困らないように、名の通った大学を卒業して欲しいだけなんです」

「ご心配されるのはごもっともでしょう。確かに新陳代謝の激しい芸能の世界で生き残るには、ちょっとした才能や努力ではなし得ません」

「そうでしょう!?」お母さんの口調が少し強くなった。

「もちろん、水道橋高校の舞台芸術科に行けば、才能のある高校生が集まっています。箸にも棒にもかからず挫折して転校や中退する人も少なからずいます」

「それが嫌なんです! 私は愛する娘の履歴に傷を付けたくない。残念ながら我が子をギャンブルに出られない」

「ご息女が、演技の道に進みたいと言っていてもですか?」

「もちろん。娘の人生は私の人生。挫折して喜ぶ親は、親じゃありません」

 この人は何を言っているのだろう。怒りがふつふつと湧き上がってくる。だってこれまでいじめを受けてあざを傷を負って帰って来ても、我関せずではなかったか。

「分かりました。そこまでおっしゃるならこれ以上強くは言えません。ダイヤの原石のような詞音さんを諦めなければいけないのはとても残念なことです」

 あたしはとうとう限界に来た。

「お母さん!」

 気付くと衝撃でカップからコーヒーがこぼれるほど強く机を叩いていた。

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