Side F 13(Fumine Hinokuchi) スタンディング・オベーション
いよいよ本番当日を迎えた。顔の皮膚炎は幸い大事には至らなかった。全快というわけではないが、赤みは引きつつあった。皮膚科で薬を処方してもらったのもあるかもしれない。
あたしは
3月末の九州中学校演劇コンクールは、北九州芸術劇場で行われた。博多のキャナルシティ劇場みたいな、大きな劇場がいいなと思ったが、さすがにそれは無理かと少し残念に思う。昔1回だけ、博多駅から地下鉄
実は、あたしに乗り移った『ヒパティア』には、中学校の体育館の舞台は手狭だなと思っていた。小惑星に置き去りにされた『ヒパティア』は混乱し
しかし、実際に本番の会場となる劇場に着くと、思ったより広くて安心した。
「これで、ばっちり演技できるね!」千尋ちゃんがあたしの肩を叩いた。
小道具係は、舞台の広さにセットが釣り合わないかなどを気にしていたりしていたが、あたしには小惑星のだだっ広さを表現するのに、ちょうど良い宇宙船の大きさではないかなどと思った。
まだ少し赤みの残る肌に、久しぶりにメイクを乗せた。千尋ちゃんの魔法のメイク。赤みは敢えて隠さず頬に残す。アンドロイドだが、今村さんが演じる『ヒパティア』よりも未熟さ、稚拙さ、無邪気さ、人間臭さを出したかった。と言うか、あたしにいつも憑衣してくる『ヒパティア』がそうなのだ。この『ヒパティア』の不完全さは、今村さんが演じた『ヒパティア』にはなかった要素だと思っている。つまり、あたしの
訓練して、『ヒパティア』を召喚するのも時間がかからなくなった。あたしにとっては、可愛がっている動物がようやく懐いてきたような感覚だった。
あっという間だった。時間など最初から気にならなかった。自然に振る舞っているうちに勝手に過ぎていく。昼休みにいじめに耐えている時間は全然過ぎていかないが、劇に没頭している時間は比べ物にならないくらい早い。時間は相対的だ、とアインシュタイン博士は語ったが、何かに没頭し続ければ未来にタイムスリップできるのではないかと思うくらい、時間の経過の感じ方が異なるものだ。
そして、感動のフィナーレがやってくる。セリフは脚本どおり読んでいるが、言葉が要らないくらい身体が動いていた。アンドロイドなのに大粒の涙が流れる。あたしが実物のアンドロイドでも涙を流すのでないか。そしてそれに感化されたかのように博士にも涙が流れる。抱擁はきつく、温もりを感じる。涙が、お互いの顔を伝った。
気付くと、突然豪雨が降ったかと思うくらいの拍手。スタンディング・オベーション。「ブラボー」という声も聞こえてくる。演者にとって最大の賛辞。
その瞬間、『ヒパティア』から閘詞音に戻り、すぐ宮本部長と身体が密着していることに気付いて慌てた。宮本部長にとっては中学最後の舞台。中・高一貫なので卒業の感覚は希薄だが、それでも3年間を全うし有終の美を飾った。
舞台裏では、皆が皆の健闘を讃え合った。
「あんたに『ヒパティア』を託して正解だったわ。あたしじゃ、あそこまで迫真の演技はできなかったかもしれない」今村さんは言った。そして「ありがとう」と。今村さんがあたしに初めて感謝を告げた瞬間だった。
大会の結果は、演技後の観客の反応で半ば決定していたように思う。全国大会への出場権、最優秀脚本賞は、我らが『龍宮スイングバイ・ノスタルジア』に輝き、あたしは最優秀演技賞を受賞した。
†
演劇大会での快挙は学校でも知れ渡った。綺麗に収められたビデオは時間割を変更してまで各クラスで流れた。
正直、自分の演技を部員以外の皆と一緒に観るのは、拷問のように恥ずかしいが、クラスメイトがあたしを見る目は明らかに変わった。
中学3年生になり、今村さんが部長となって部を仕切っていた。抜群の美貌とカリスマ性を誇る今村英玲奈、役に身体を預ける閘詞音、役者の魅力を魔法のメイクで引き出す園田千尋。
この3人は学校で有名になり、演劇部は入部希望者で溢れ返った。嬉しいのだが、練習にならないほどだった。演劇部は人数が多ければ多いほど良いわけではない。今村新部長が敢えて『冷たく』振る舞うことで、本当にやる気のある部員にまで
一方であたしへのいじめは、目に見える暴力という形ではないが、さらに陰湿なものになっていく。実行犯がいつも目の前にいない分、たちが悪い。
ノックすると電気ショックが流れるボールペンを仕込まれたり、椅子に
女子のやっかみとはこれほどまで陰険で卑怯ものなのだろうか。高校生に入ってからも続くのだろうか。しかし、あたしはいじめの苦痛よりも演劇の悦楽の方がはるかに上回っているので、学校を辞めたいとはこれっぽっちも思わない。
だから、休み時間があたしにとっての懸案事項だった。ちょっと席を離れている間に色々やられるので、おちおちトイレにも立てない。帰ってきて、机の上や周囲に何か異変がないかをしっかり観察しておかないといけない。
そんなある日の昼休み。尿意を我慢することは授業の集中力を削ぐことになるので、やむを得ずトイレに入ったときだった。
トイレの鍵をかけた直後に数人の生徒がトイレに入った音がした。そのとき経験から危険を察知したのだろう。
あたしは便座から腰を離して、スペアのトイレットペーパーを両手に持って頭上をガードしつつ、トイレのドアに身体をへばりつかせた。
水をかけられると思った。しかし、半分は正解で、半分は不正解だった。上からバサッと何かが降り掛かったのは確かだが、水ではなく熱湯だった。
「
顔への直撃は免れたが、床や便器の跳ね返りが制服や下着を濡らした。また頭上をガードした手にも熱湯がかかる。
「キャッキャ!」と嘲笑う女子たちの声。
「くっそぉ!!!」
あたしは何かが乗り移ったようにトイレの中で叫んだ。この無念のやり場をどうすれば良い。顔だけでも拝んでおこうか。しかし、スカートは下ろしたままだったし、女子たちはとうに逃げて行ったようだ。
悔しさで涙が出そうになったとき、思いがけない声がした。
「きゃあああ!」
もちろん、あたしの声ではない。声色からして先ほどトイレに侵入してきた一派の一人か。
「あんたら、うちの閘詞音に何しちょるんや!!」
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