Side F 02(Hinokuchi Fumine) 水門から溢れ出すように

「えっ!?」

 あたしは驚いた。たぶんこの瞬間、自分でも分かるくらい目が点になっていたことだろう。

 人違いではないかと思い、きょろきょろ見回すと、唖然あぜんとしたような表情のいじめていた女子たちが目に映る。当然の反応だろう。泥まみれで痣だらけで、華やかさの欠片かけらもない地味な女だ。不釣り合いも甚だしいと、あたしでも思う。

「いや、間違いない。君だよ。今考えている秋の学園祭の劇のヒロインになってくれないか?」

「劇?」


 そう言えば宮本先輩は演劇部の部長で、自分が役を演じるだけでなく脚本や監督役を担うこともあると聞いたことがある。イメージに合う役者がいないときは、演劇部に入っていない人間を勧誘し、イメージに近い作品にしている噂だ。

 一応そういう情報は漏れ聞こえてくるものの、あたしにとっては心底どうでも良かった。異世界の住人のごとく無縁である。


「あ、あの……、あたしは劇なんて縁がないですし、経験もありません。しかも、もう二年生ですし」

 小学校の学芸会は経験しているが、特段目立たなかったあたしは、背景の『木』の役だった。当然セリフもなかった。

「経験なんて関係ない。僕はキャスティングには自信あるんだ。絶対君ならできる。いや君じゃなきゃダメなんだ!」

「で、でもそういうのは、他の部員さんが黙ってはいないんじゃ……」

 あたしは動揺しながらも、敢えて宮本先輩の噂を知らないふりをした。地味ないじめられっ子で、演劇未経験のあたしがいきなり現れてヒロインを務めたら、さぞ部員の反感を喰らうだろう。さらなる仕打ちが想像される。

「それは気にしなくていい。今回のヒロインのキャスティングについては、部員以外の生徒にするってことは、みんな承知済みなんだ」

 噂を知っていたあたしには想像通りの回答だったが、やっぱりヒロインなんて、荷が重すぎる。

「そ、それでも困ります。だって、人前に出るのは慣れてないですし、見た目もこんな感じですし……」

 そう言ってから、ちょっと後悔した。今しがたリンチを受けていたあたしの顔は、傷だらけで酷いことになっているはず。口唇が切れて痛い。いじめられていることを悟られるような真似はあまりしたくない。しかも、すぐ近くに加害者の女子たちが見ている。その女子たちがキャーキャー言うほどの先輩の前で、被害者ぶる言動をするなと因縁をつけられること請け合いである。


「いや、君の顔は、そして大きくて綺麗な瞳は、万人を引きこむほどの魅力がある。将来きっと大女優になれる逸材だよ!」

「大女優!?」

 むちゃくちゃな。いくら何でもお世辞が過ぎる。やっぱり無理だ。断ろうとしたときだ。

「頼む! この通りです。一作品でも構わない。だから劇に出てください」

 宮本先輩はいきなり土下座をした。困惑を極めたことは言うまでもない。

「や、やめてください! こんな所で……!」

「だから頼みます。一生のお願いと言ってもいい。何なら劇の内容を見てから考えてもいい。お願いだから一度うちに来てください」

「あ、頭を上げてください。ぃ、行きますから……」

 いじめていた女子たちの視線がとにかく痛い。土下座はやめてほしいという気持ちが、あたしを小声で承諾させた。

「い、今、何と?」

「あ、見に行けばいいんですよね? 見てから考え直してもいいんですよね……?」

「そう! とにかく来てみてほしい。きっと部員のみんなは見て納得してくれるだろうから」

 ありがとう、と言ってあたしの手を握ってきた。だから視線が痛いんですって。

 部員が納得してくれることよりも、あたしがヒロインを受け容れられるかどうか、自分の気持ちの方が重要だと思うのだが、勢いに圧倒され、口には出せなかった。

「わ、分かりました。いつ行けばいいんですか?」

「今日の放課後、いいかな?」

 悔しいが、帰宅部のあたしに予定はなく、断る理由はない。というか、宮本先輩は端からあたしのことを帰宅部だと決めてかかってきたのだろうか。

「わかりました」

 見事に拝み倒された。

「あ、ごめん。まだ名乗ってなかったね。僕は三年C組の宮本みやもと俊哉としや。ここの演劇部の部長をやってます。君の名前は?」

「二年E組のひのくち詞音ふみねって言います」

「ひのくちふみね? 漢字でどう書くのかな?」宮本先輩は適当な紙とペンをあたしに差し出した。

 いじめの原因にもなっている自分の名前の漢字を教えるのには抵抗があったが、断るのも不自然なので、黙って紙に書いた。

「へぇ、素敵な名前だね。『ひのくち』って運河の水門の『閘』って書くんだね。初めてお目にかかったけど、実にカッコいい。そして名前も美しい。まさに詞と音とが織り成す演劇の才能が、水門から溢れ出すようだ! 素晴らしい!」

 演劇部という仕事柄か、よくもまあ、こんな恥ずかしいセリフを面前で言えたもんだなと、かえって感心する。せめて演劇の才能が本当にあることが分かってから言って欲しいものだ。だが、あたしの名前を褒めてくれたのは初めてのことだ。初見で『閘』の漢字が持つ意味を分かってくれた人物に出会ったのも、はじめてかもしれない。こんな漢字、見たこともないと言われることの方が多いのに。


 そして、昼休憩の終わりを告げる予鈴が鳴った。

「じゃ、放課後、東校舎4階北側の部室を訪ねてくれ。札がかかってるからすぐ分かるはず。よろしくね」

 宮本先輩はそう言って颯爽さっそうと去っていった。複雑な気持ちであたしも教室に戻ろうとする。

 さっきまでいたはずのいじめ女子たちはいなくなっていた。今度は嫉妬に起因する報復がないだろうか気になる。


 そう言えば、顔に怪我を負っているはずだ。唾液に混じってほのかに血の味がする。手鏡を持っていなかったので分からなかったが、こんな顔で部室に行っても良いものだろうか。行って笑い者になるのはごめんだ、と今さらながら思った。

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