Chapter 1 序

Side P 01(Agui Moriyasu) それぞれの夢1

「お前のような天才と仲良くなれたのが俺の大学4年間でいちばんの誇りだよ」

 同級生の邨瀬むらせ弥隆よしたかが、彼によく似合う黒縁眼鏡のブリッジ部分を持ち上げながら、そう言ってくれた。大学の食堂は最近リニューアルされ、元町もとまちのカフェテリアよろしくおしゃれになった。でも悲しいかな、理科大学ゆえ異様に男子率が高い。俺らもそのうちの一組で、男子2人で昼飯を食っている。

「何を言ってる? また買い被りを」

 俺は邨瀬に言った。

 親友の邨瀬はこうやってちょくちょく俺を過大評価する。良い奴なんだが、こうも言われると本当に喜んで良いのか分からなくなる。

「おみゃあさんこそ何をおっしゃいます? 俺が生まれてこの方20数年、いままで出会った中でイチバンの天才だよ。ポアンカレくん」

「そのあだ名で呼ぶのはやめてくれよなー」


 『ポアンカレくん』とは、俺、安居院あぐい守泰もりやすにかつてつけられたあだ名である。いや、一部未だにこのあだ名で呼ぼうとする人もいるにはいるのだが、俺はそこまで気に入っていないので普通に呼んで欲しい。

 ポアンカレとは位相幾何学、物理学など幅広い分野で名声を残したフランスのジュール=アンリ・ポアンカレ(Jules-Henri Poincaré)である。『ポアンカレ予想』と呼ばれる、7つあるミレニアム懸賞問題の一つで知られ、ロシアの数学者グリゴリー・ペレルマンによって解決されている唯一の問題である。

 その難解な問題を、不完全ながらも中学生の解釈で説明し『卒業論文』で説明したことで、俺は教諭たちを驚かせた。俺にとっては過去の良い思い出に過ぎないのだが。


 ちなみに、中学生で卒業論文というのは一般的にはないだろうが、俺の通っていた東京の叡成えいせい中学ではあった。中・高一貫の進学校である叡成では、中学三年生の時に高校受験がない代わりにそのような独自の研究テーマを生徒に与えている。自由研究の延長みたいなものである。


「そういうお前だって、作家デビューじゃないか」

「研究でやっていく自信をなくして、どこかの誰かさんのアドバイスで、現実逃避で適当に書き物してたら、たまたま上手うまくいったんだよ」

「いや、研究者になるよりも作家になる方がずっと難しいぞ。研究者なんて何千、何万人といるだろうけど、作家は何千、何万もいるか?」

 俺は、純粋に作家としての邨瀬の才能をたたえている。確かに彼は、在学中に勉強についていけなくなりかけた。一方で、彼のボキャブラリーの豊富さと読書好きであることから、軽い気持ちで、というか冗談半分で、小説でも書いてみたらと言ったところ、本当に書いてきたのだ。そして、物の弾みでいくつか公募に出してみたところ、高評価を得て、見事、最近作家デビューが決まったのだ。


 科学とミステリーを融合させた処女作『シュレーディンガーの密室』で門河かどかわ文庫ミステリー新人賞を獲得した。おそれ多くも俺は投稿前の作品を読ませてもらい、想像以上の完成度の高さに舌を巻いたものである。

「それでも、あのときお前に読んでもらってお墨付きをもらったから、出してみようと思ったんだよ。ミステリーとしても科学小説としてもおもしろいって言ってくれて、どれだけ心強かったか」

「あれは本当におもしろかった。素人が書いた作品とは思えない」

「でもそうやって言ってくれたのは本当に嬉しかった。俺に第二の選択肢を与えてくれて感謝している」

「どういたしまして」

 邨瀬とは大学二年生で仲良くなって以来、軽口を叩き合いながらも、お互いに尊重し合っている。いまでは唯一無二の親友だが、卒業してもこの関係は続けていきたいと思っているし、続けられそうな気がしている。


「ところでさ、守泰」邨瀬は俺に問うた。「何で、お前のようなブレインが東大じゃなくて、ここ横浜理科大に来たんだ?」

 俺たちは、横浜理科大学理工学部に通っている。邨瀬は電気電子情報工学科、俺は宇宙物理学科だ。横浜理科大学も名門で、特に宇宙の研究には力を入れている。宇宙航空研究開発機構JAXAに就職する者も多いと聞く。俺は東京大学にも負けずとも劣らずとは思っているが、ネームバリューとしてはやはり東京大学の方が上なのだから、そっちに進もうとは思わなかったのか、と邨瀬は言いたいのだろう。

「別にブレインでも何でもないと思うけど、横浜理科大ここには俺の夢があるんだよ」

「そうか。お前は大学院だもんな。高校の先生よりも宇宙の最先端で研究をごりごり進めていく方が、絶対にしょうに合ってると思う」


 邨瀬が、俺の将来について話してくるのは珍しいと思った。というのも、邨瀬はハイレベルな大学の講義についていけず落ちこぼれかけていたので、敢えてそのような話題を知らず知らずのうちに避けていた。でも、何とか単位もクリアし、何と言っても作家デビューを果たして荷が下りたのだろう。ようやく卒業間際で進路や夢について話し合える気になったのだと推察する。

 そう思いながら、邨瀬の発言を一部訂正した。

「研究も好きだっていうのもあるけど、理論宇宙物理学の時任ときとう先生。あの人は、俺の追いかけてる夢を本気で考えてるんだよ」

「時任先生か。俺は講義受けたことないけど、男前だから顔は知っとる。でも、あの若さで教授になるくらいだから相当切れ者なんだろうな」

 相当切れ者であると同時に相当変わり者である、というのを補足しようと思ってやめておいた。俺は講義だけでなくゼミでもお世話になっていて、俺の夢を語ったところ、「一緒に研究しよう」とか「大学院に入らないか」とか、熱烈な勧誘を受けたのだ。

 最初は躊躇ちゅうちょしたが、結果的に根負けした形にはなるだろうか。しかしながら、時任先生の追いかけている夢は、俺が子どもから抱いていた空想を現実にするかもしれないとして、俺の心を揺さぶったのは事実だ。


「あの先生は、タイムトラベルを実現しようとしてる人なんだよ」

 俺は、秋風そよぐ空を食堂のガラス越しに眺めながら言った。


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