第40話
不妊治療に産み分け指導、周りの分家連中からの批判的な眼差し、そんな重圧にとうとう参ってしまった春花さんを見るに見かねて助け舟を出したのが桃華さんだった。
彼女は春花さんを無理やり連れ出して、定期的にこのホテルで一泊休ませるようにしたのだ。結婚して以来ほとんど鍛治川本邸から外出していなかった彼女にとってこの外泊はかなり精神的な助けになった、とお手洗いから戻ってきて桃華さんの隣に座った春花さんが呟いた。
シャンパンを好み始めたのもこの頃からだそうだ。「不妊治療中にアルコールなんて……」と最初は飲もうとしなかった春花さんだったが、桃華さんに進められて口にするうちに好きになったのだという。
「はじめて春花さんが酔っ払ったときとか凄かったわよね、ザ・泣き上戸って感じで」
「うう……あの時はほんとうに限界だったんですよ……」
シャンパンを飲んで泣きまくるというストレス発散方法を修得した春花さんに吉報が訪れたのはその数ヶ月後、最初はお酒にハマったせいで生理が遅れているのだと勘違いしていた春花さんだったが、その遅れが3週間に達したところでさすがにおかしいと思って検査をしてみると見事に妊娠していたという。
そこからは一気に人権が回復した。
春花さんがやっていた雑務などはすべて取り払われて、体調を第一に考えて生活するように言われ、周りの人達が一気に優しくなったのだ。「……あれはあれで人間不信になりそうでしたけど」と春花さんは呟いた。
妊娠から4ヶ月後のエコー検査で赤ちゃんの性別が男の子だと判明すると鍛治川家は大いに沸いたらしい。ちょうどその頃、第一次の鬼神が日本国内で暴れ回っていたため鍛治川家にとっては久方ぶりの良いニュースだったのだ。
滞りなく出産を終え母子ともに健康、産後の肥立ちにも問題なく赤ん坊の鉄雄くんの退魔師としての素養は十分、もはや春花さんの鍛治川家での立場は盤石となった、そのはずだった。……半年後に鍛治川鉄斎の鶴の一声で蛇谷水琴を鉄仁の妾にするように言われるまでは。
話の時系列がようやく私の知る時期に追いついたところで、あのときの私って本当にタイミングが悪かったのだなと思った。
鍛治川家当主の言葉には誰も逆らえない。
もしもあの時、巨乳JK退魔師の蛇谷水琴ちゃんが『妾になりまぁす♡ でも本妻と同じ家に住むのは嫌なのでそっちのオバサンは追い出してくださぁい♡』と無茶を言ったとしてもその望みはたぶん叶えられたらしい。……自分で想像して気持ち悪くなってきた。
■■■
「お久しぶりです、み……蛇谷さん。先程はお見苦しい姿をお見せして申し訳ありませんでした」
「いえいえ、春花さんのことを知れて良かったです。あと私のことは水琴でいいですよ」
「では水琴さんと」
先程まで呑んだくれていた女とは思えないほど、背すじを伸ばし凛とした姿勢で話す春花さんに感心しつつ、心の中では彼女に親近感を覚えていた。
きっとそれは春花さんのほうも同じなのだろう、少し彼女の表情が柔らかい。なんとなくだけれど私と春花さんの間にあった薄皮一枚分の他人行儀が無くなっているような気がする。きっと桃華さんの狙いはこれだったのだろう。
たぶん普通の状態の春花さんと会って話をしたとしても、お互いにどこかぎこちなさを抱えたまま終始会話をしてしまったはずだ。そうならないように敢えて春花さんをベロベロに酔った状態で会わせたのだろうけど、未成年のわたし相手にそれはどうなんだと思いつつ、今も堂々とシャンパングラスを傾けている桃華さんを見ると悪い気はしないから不思議だ。
「それで、水琴さんはどうしてここに?」
「春花さんにお願いがあって来ました」
話が本題に入りそうになったので単刀直入に要件を伝えようとすると、何故かまた春花さんの表情が一気に青ざめた。
「ま、まさか、私を追い出してやっぱり鉄仁さんの妾になる気ですか……?」
「いや違いますって」
先程まで自分の昔話をしていたせいだろうか、自己肯定感の低かった頃の春花さんの表情はたぶん今の感じに近いのだろうと感じた。
「えっと……『絹蜜』の巫女服を買いたいので、本家の誰かを紹介してください」
「……え、そんなことですか?」
不安そうな表情がすぐに困惑したものに変わり、春花さんは「もちろんご紹介します、というか絹蜜の当主の父からも水琴さんに顔繋ぎしてほしいと言われていたところだったんです」と言った。絹蜜家の当主としてはリヴァイアサン討伐の際に特注の巫女服を提供させてほしい、くらいのスタンスだったらしい。まあリヴァイアサンって現れてから3日で討伐してしまったから、そんな準備をする時間も無かったのだろう。
求めていた霊具がむしろ向こうの方から来てくれている感じに自尊心がくすぐられる。プロのサッカー選手が靴のメーカーに営業をかけられるとこんな心境になるのだろうか。
「そうだ、年末に鍛治川家と絹蜜家の派閥で集まる会合があるから、その時に採寸とかしてもらったら良いんじゃないかしら?」
その場で思いついたように言う桃華さんだったが、多分これは彼女の中では既定路線だったんだろう。ただ派閥でも分家でも、蛇谷家の独立性を保持したい私としてはあまり参加するのに気乗りしない。「その派閥に入ると何か特別な義務とか発生したりしませんか?」と一応聞いてみる。自宅に龍神という特大の爆弾を抱えている以上、あまり他家にずかずかと踏み込まれたくはないのが本音だが……。
「水琴ちゃんの術式は秘匿性が重要だものね。大丈夫よ、派閥に入ったからって特に何をお願いすることもないし、水琴ちゃんの仕事の邪魔になるようなことはしないわ」
桃華さんは私の短い質問に対して的確な答えを返してくる。鍛治川家の内務を取り仕切っている彼女の言質があるのなら行ってみてもいいかもしれない。二大派閥の会合とやらでどんな催しが行われるのか少しだけ興味がある。
「今年の会合は鍛治川本邸でやるから、会合中に疲れたら京華と部屋で遊んでてもいいわよ」
ベッドの上で寝転びながらスマホを弄っていた京華は、桃華さんの台詞を聞くと私に期待を込めた視線を向けてきた。もはや「はい」と答える以外にないくらい周りを固められてしまった。
この部屋に入ってから終始、桃華さんのシナリオ通りに進められているような気がしなくもないが、まあ絹蜜に巫女服を作ってもらうという目的は達成できそうなので良しとしよう。「じゃあ参加します」と桃華さんに言うと、彼女は綺麗な笑顔で頷いた。
仕事の話が終わったあとも京華も含めた女四人で他愛もない会話を続ける。
会話の流れでいまの退魔師業界はかなり女余りの状態になってしまっているという話になった。
「女余りって……ああ、第一次の鬼神討伐のせいですか」
「そう、あの大規模作戦で約500人の退魔師が亡くなったわ。知っての通り退魔師はほとんどが男だし、若い人もあの作戦にたくさん参加していたからね……」
現場で仕事をする戦闘系退魔師の私は妖魔の間引き管理が行き届かない土地が増えることばかり懸念していたが、たしかに、政略結婚が多いこの業界だと結婚相手の男が不足するという問題が発生するのは当たり前のことだ。
あの作戦に参加していたうちの大半は20代が占めている。その退魔師の許嫁だった女性が宙に浮いた状態になっている家が多いらしい。その余波もあってか、妾を取るという選択肢は最近かなり真面目にどこの家でも検討されているそうで、退魔省も裏でそれを支援しようとしている節があるとかないとか。
「鉄仁くんなんて超優良物件だしね、うちの娘を妾にしてくださいってお願いしてくるところが結構あるのよ、まあ本人は断りつづけてるけどね」
桃華さんがそう言うと横に座っている春花さんの表情にまた影が差した。鉄仁がその気になれば退魔師の家系の女を何人も妾として囲うことができるという状況を聞くと少し羨ましく感じる。私も前世と同じく男として生まれていれば……と思ったが、その場合は龍神に会った時点ですぐに殺されていたからやっぱり女に生まれて良かったと結論が出る。
「そういえば、今日は鉄雄くんはどこに置いてるんですか、たしか生後半年ちょっとでしたよね」
以前は春花さんの胸に抱かれていた赤ん坊、鉄雄くんの姿はこの部屋のどこにも居ない。話題を変えようと思って軽く口にしてしまった疑問だがこれもまた春花さんの表情に影を加えてしまった。
「うう、今日は絹蜜の実家に預けてます。だめな母親で御免なさい……」
誰も責めていないのにそう呟いた春花さんは、いつの間にか並々と注がれていたシャンパングラスを煽るとまた先程と同じようにふにゃふにゃとソファーに寝転がってしまう。
横になったまま取り出したスマホの画面を見ながら、「ごめんね鉄くん、お母さん明日にはちゃんと迎えにいくからね……」と一人で懺悔を始めてしまった。たぶんスマホの画面には赤ん坊の写真が表示されているのだろう。
やっぱりかなり酔っ払っていたらしい。
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