アンリアル

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第一章 エリカ編


【エピローグ】

 エリカは、ホテルに泊まることが好きだ。高級ホテルの必要はない。ビジネスホテルで良い。ホテルの無機質さが現実を忘れさせてくれる。そのため、嫌なことがあると、ホテルに泊まる。


シャワーの音が聞こえる。

エリカは改めて、まわりを見渡す。スイートルーム。いや、それは正確ではない。

ここは、今シャワーを浴びている彼、榊隆弘が設計し、経営しているホテルの最上階。ここは、一般の人には宿泊することは出来ない。

隆弘は会社の会議やパーティー、また忙しいときに休めるように使用するという言い訳をして、好きに設計した自分の部屋であった。豪華ではあるが、華美な装飾はなく、居心地の良さが、エリカは気に入っている。

シャワーの音が止まった。エリカはベッドに潜り、頭まで布団を被る。エリカは別れの挨拶が苦手だ。

「愛してる。」

そんなこと思っていない。

「楽しかった。」

なんか違う。

「じゃあね。」

素っ気なさすぎる。

私達の関係の適切な別れの言葉が見つからないのだ。

隆弘はシャワーから出て来て、いつものようにベッド脇にあるメモに書き、部屋を出て行った。

エリカはメモを見る。

「また来週」

いつも通り。

2年か。そろそろ終わりにしなきゃ。でも居心地が良いんだよなぁ。エリカはため息をつく。


 エリカと隆弘が出会ったのは、いや、えりかが隆弘を知ったのは、5年前。休日のショッピングの一休みに、1人カフェのテラスでお茶をしていると、声をかけられた。エリカは自分で言うのもなんだが、容姿もスタイルも整っている。ナンパは日常茶飯事だ。

せっかく休んでいるのに、邪魔しないで欲しい。声をかけてきた男性を睨む。

「いつも麒麟でランチ食べてますよね?僕もそこの常連なんです。すみません、つい見かけたら、声をかけたくなって。それじゃぁ、お邪魔しました。」

隆弘は一気に話し、去っていった。エリカは呆気にとられた。麒麟はエリカがいつもランチを食べに行くレストランだ。何を頼んでも美味しいため、同僚の舞といつもそこでランチをしていた。マスターとは話すが、他のお客さんと話したことはない。そもそも、そこの常連は、邪魔されず、ゆっくり過ごしたい人の集まりである。そのため、隆弘のことは全く記憶になかった。

去っていった隆弘を見ると、女性と話していた。いや、怒られている様子だ。たくさんの荷物を抱えた女性。その荷物は全て女性物。彼女はヒートアップしており、声が聞こえてきた。

「あなた、なにしているの?妻と買い物中にナンパ?信じられない。ほら、荷物持ってよ。重くてしょうがない。今回のことは、パパに言いつけるから。」

「ただ知人にあったから、挨拶しただけだよ。お義父さんに言うのは、構わないけど、少し声を落としなさい。周りに迷惑だよ。」

「嘘吐き。さっきの女性がタイプなのは、知っているんだから。全く男はすぐに外見で判断するんだから。」

「知らない人を悪く言うのは、やめなさい。続きは、帰ってから聞くから。」

そう言って、隆弘は妻の荷物を持ち、歩き出す。

ふーん、尻にひかれてそうで、きちんと主張出来るタイプか。余計に怒らせているけど。それにしても女の趣味が悪いな。美人ではあるけど、あれは疲れるだろう。「パパ」の関係かな?

おっと、せっかくの休日だ。余計なことを考えたくない。記憶から消去する。


 その後、麒麟で隆弘に会い、お互い会釈はしたが、話すこともなく、会釈も一度だけで、それ以降は全く関わらなかった。


  ***

 出会いから2年が経ったころであろうか。いつも通り麒麟でランチを食べ、外に出ると、隆弘が立っていた。

「榊隆弘、35歳、K会社社長。バツイチ。夕ご飯を一緒にどうですか?」

エリカは呆気にとられた。この人おかしいかもしれない。舞はニヤニヤしながら、先に行くねー、と去っていく。

「バツイチって、奥さんと別れたんですか?」

「はい、半年前に離婚が成立しました。」

聞きたいことはそこじゃない。いや、そこも大事だけど。

「私、恋愛をするつもりはありません。一生結婚とかもしないつもりです。」

エリカは、恋愛に興味がない。面倒なだけだ。付き合いの真似事はしたことはあるが、今まで誰かを好きになったことはない。自分に踏み込んでこない、都合が良い相手としか、関係をもつことはなかった。

「付き合ってほしい、とは言いません。もう休憩時間も終わると思いますし、明日の19時にTホテルのロビーで待っています。そのときに話します。これ、俺の連絡先です。それでは。」

隆弘はそう言って、連絡先が書かれたメモを渡し、去っていった。3年前と変わらず、嵐のような人だな。エリカは、笑う。


「どうなったの?」と笑いながら、舞が尋ねる。

「他人事だと思って。どうもこうも嵐のように言いたいこと言って、去っていったよ。」

「面白そうな人。エリカ、今ちょうどフリーだし、良いんじゃないの?K会社の社長って、若手でやり手と有名だよね。うちの社長と良く比較されてる。」

「そうなんだ。知らなかった。うちの社長みたいに腹黒かもしれないってことね。」

「そんな風に見えなかったけどな。」

舞は人を見抜く力がある。舞がそういうなら、そうなのかもしれない。

「大体舞に言われたくない。全ての人間を拒否してるくせに。」

「私は私。エリカはエリカ。人を拒否しているところは同じでも、人との関わり方は違うからね。」

幼少期からのトラウマが原因で、舞は、人との関わりを持たない。

同期で、受付に配属され、お互いはじめは必要最低限の会話しかしなかったが、お互い人と関わることを避けていることが分かり、良い距離感を保つことが出来るため、気が付いたら、エリカにとって、気が許せる相手になっていた。舞も同じようだ。エリカの前以外でこんなに話す舞を見たことがない。正確にはもう1人いるが、それは厄介なので、置いてこう。

「明日19時に誘われた。こっちの都合も聞かずに去っていったよ。」

「エリカを誘いたいなら、それくらい強引じゃないと無理。偶然だとしても良く分かっている。作戦なら、お見事だね。」

休憩時間が終わり、勤務開始となったため、正面を見つめ、微笑みを浮かべているが、舞は、心の中で笑っているな、とエリカは思う。

さて、どうしよう。エリカは肩書きなんてどうでも良い。ただ、あの妻と別れることが出来た隆弘に少し興味をもった。


  ***

 結局エリカはTホテルのロビーにいた。美味しいものを食べさせてくれるだろう、そう割り切ることにした。なにかあったら、うちの腹黒社長に言えば良い。弱みを握った、と嬉々とするだろう。しかし、隆弘は見当たらない。電話をすると受付に俺の名前を言って、鍵をもらってくれ、と言われた。

いきなりホテルの部屋?付き合ってほしい、とは言わないって、愛人になってほしいってことか?

エリカは腹が立ち、そうきたら、なんて言ってやろうかと考えながら、受付で鍵をもらう。

エレベーターホールに向かうと、鍵にルームナンバーがないことに気付く。

これどこ?

近くにいたボーイに尋ねる。

「お客様、こちらはホテルの最上階でして、一般のエレベーターでは、行けません。こちらへどうぞ。」

と、案内される。ボーイはスタッフオンリーと書かれた扉を開けた。

Tホテルは一流ホテルだ。しかし、そこに広がる空間は一流という言葉が霞んで見えるほどの別空間だった。

「このエレベーターは、最上階にしか止まりません。ですので、他の階に行きたい場合は、お手数ですが、一度こちらに戻ってきていただいて、他のエレベーターご利用ください。それから、こちらに鍵をかざしていただければ、そのまま最上階に着きます。」

そう言って、ボーイは頭を下げた。

エリカは、どこかの国のお姫様になったような感覚になった。こんなファンタジーのような世界が実際にあるんだ。

エレベーターから降りると、まるでダンスフロアのような空間が広がっていた。

ここは、城か?

えっと、どこに向かえば良いんだ?

すると美味しそうな匂いが漂ってきた。その匂いの元を辿る。

「ごめん、出迎え出来なくて。手が離せなくて。もうすぐ出来るから、座って待っていて。」

隆弘はオープンキッチンで、料理をしていた。

エリカの頭の中はハテナで一杯だ。

まずここはどこだ?

さっきまでお城のようなところにいたはず。

だが、ここだけ見ると、裕福な家のキッチン、リビングルームだ。

高級料理を食べる予定が、社長の手料理?

確かにご飯を一緒にと言われただけだから、嘘ではない。

でも、高級料理を食べられると思っていたのに、なんのために、エリカはここに来たんだ?

「出来た。飲み物は何が良い?魚介系にしたから、白ワインで良いかな?」

エリカは頷く。

テーブルに料理が運ばれる。前菜から、メインまで、フルコースのように揃っている。

「これ、全て作ったんですか?」

「そう。俺、五つ星のイタリアンレストランでバイトしてたから、味には自信があるよ。食べよう。」

疑いの眼差しを向けながら、エリカは席に着く。

「うわ、美味しい。」

エリカはあまりの美味しさに声に出してしまう。今までの人生で食べてきた中で1番美味しいかもしれない。

「だろ。下手なレストラン行くより、こっちの方が良いと思って。」

若手でやり手、カリスマ社長で、料理も天才的とか、反対に嫌われそう。エリカは思う。

「それで、なんで私を誘ったんですか?」

エリカはまどろっこしいことは嫌いだ。駆け引きなんて面倒なとこはしない。

「ん?一緒にご飯が食べたかったから、だけど。」

「は?」

「一緒にこうやって、週一回くらいご飯を食べてくれたら、それで良いかな。俺のご飯が嫌なら、外で食べても良い。ちなみにご飯を食べたら、俺は帰るけど、エリカさんは好きなだけ泊まっていって良いよ。ここは、俺しか使わないから。ベッドはフカフカ。アフターヌーンティーを友人と過ごしてもOK。何をしても自由。それから恋愛しないって言ってたけど、好きな人ができたら、ここには、もう来なくて良い。どう、良い条件じゃない?」

エリカは、全く隆弘の考えていることが分からない。

「なんか、おじさんが高校生と話をしたいってカンジ?しかも、もので釣ろうとか、卑怯。」

「おじさんと言われるのは、悔しいし、エリカさんは高校生じゃないけどね。でも確かにそう言われると、援助交際みたいだよなぁ。純粋にエリカさんとご飯が食べたいだけなんだけどなぁ。」

「それで本当にご飯を食べるだけ?体の関係は求めてないわけ?」

「うーん、それはどちらでも。エリカさんが求めるなら、喜んで。」

はぁ?ダメだ、この人。

エリカは笑ってしまった。ダメだ、面白い。

隆弘の言う通り、破格の条件で、相手はおかしい。少し付き合ってみても良いかもしれない。すぐ終わりに出来そうだし。エリカは決める。

「いいわ。週一でご飯だけね。美味しくなかったら、もう来ないから、頑張って作ってね。」

「任せてよ。俺が嫌われることがあっても、俺が作るご飯が不味いことはない、自信がある。」

エリカはまた笑ってしまった。

カリスマ社長の言葉とは思えない。

そうして、毎週金曜日に隆弘とこの部屋でご飯を食べることが決まった。


  ***

 隆弘は本当にご飯だけで、食事の時の会話も他愛のないもので、エリカに立ち入ろうとしなかった。本当に裏表がないようだ。そして、一切エリカに手を出すこともなかった。そんな関係が3ヶ月経ち、煮えきれずエリカから、誘った。上手い、下手ではなく、優しいSEXだった。こんな風に抱かれたら、愛されていると勘違いしちゃうだろうな、エリカは思う。

ご飯を食べて、ときにSEXして、隆弘は必ず家に帰る。

そんな関係が2年続いた。


  ***

 舞をアフターヌーンティーに呼んだ。

舞も驚いている。

「これは、すごいね。いや、この部屋は百歩譲って普通と言うけど、他がすごい。これ、ベッドルームが何部屋あるの?お城?」

「私も最初そう思った。」

エリカは笑う。

「もう2年経ったんだよね。そろそろ終わりにするべきだと思うんだ。私の中で最高記録。」

舞は不思議そうに尋ねる。

「なんで終わりにする必要があるの?エリカは隆弘さんに不満はないんでしょ?」

「隆弘さんは舞と同じで、ほど良い距離で接してくれていて、一緒にいて楽。この部屋も居心地が良いし、ご飯は美味しいし、不満はない。だけど、隆弘さんは社長だよ。普通の結婚をするべきでしょ。私がいるから、なぁなぁになっているけど、終わりにすれば、他の人との結婚も考えるはず。」

「うーん、隆弘さんが望むなら、そうするべきかもしれないけど、現状で満足しているから、関係が続いているんでしょ?社長だから、とか関係あるのかなぁ。そんなこと気にしなそうな相手に見えるけど。」

「相手が舞なら良いけど、私は周りからきっと愛人って見られているよ。そういうのって、会社に影響がでるんじゃないの?こうやって、最上階好きに使わせてもらってるわけだし。」

「ふふ、エリカ、変わったね。前のエリカなら相手のことなんて考えずに、自分の好きな風にしてたのに。結婚しちゃえば?それなら周りも文句ないでしょ。」

「バカ言わないでよ。結婚願望がないのは、舞も知っているでしょ!それに、隆弘さんも踏み込んでこない、必ず家に帰るというのは、私との結婚を考えていないんじゃないかな。それに最近あいつがいるじゃん。あいつにバレると面倒なことになる。」

「あぁ、あいつね。確かにあいつは厄介だよね。でもあんな奴のせいで、エリカが我慢するのもおかしいと思うけどね。」

あいつとは、うちの会社の取引先の社長の息子、五十嵐であり、うちの会社に研修にきているのだが、しつこくエリカに付き纏っている。拒絶しているのだが、全く効果はない。

「あのしつこさ、仕事に活かせば良いのにね。この前なんて、俺は社長の息子だから、お客様なんだよ。だから、命令するなって、営業部長に言っていたよ。うちの社長もなんで受け入れたんだろうね?人を見る目は確かな人なのに。」

「どうせ腹黒いこと考えているんでしょ。」

エリカは答える。

「まぁ、焦って答えを出す必要ないし、ましてや、あいつのことで決めるなんて、やめといた方が良いよ。エリカは別れることに後悔はしないだろうけど、あいつに行動を変えさせられるのは、嫌でしょう?本来なら隆弘さんと相談した方が良いと思うけど、きっとエリカはしないだろうね。」

「うん、隆弘さんは自分から離れることはしないと思う。きっと上手く言いくるめられる。でもそうだね。あいつのせいでどうこう考えるのは、腹立たしい。ただあいつのことが落ち着いても、また同じことが起こるかもしれない。私は隆弘さんの邪魔にしかならないと思う。まぁ、グダグダ言っててもしょうがないか。とりあえずもう少し考えてみる。」

「うん。そうした方が良いと思う。これ、ホント美味しいね。さすがTホテル。」

舞はアフターヌーンティーのケーキを食べながら、微笑んで答える。


  ***

 「ねぇ、いい加減ご飯、食べに行こうよ。いつなら暇なわけ?俺、社長の息子だから、良いお店にいくらでも連れて行ってあげるよ。」

どんな高級なお店で食べるより、隆弘さんの料理の方が美味しいわ!と言いたいのを堪え、エリカは嫌悪感を顔に出さないよう、いつも通り微笑みながら、答える。

「申し訳ございませんが、私は社内の人間とは、プライベートでは会わないと、決めております。そして、今は勤務中で、いつお客様がいらっしゃるか、分かりませんので、お仕事以外のお話はお控え下さい。」

「だからさぁ、そのプライベートで話す時間をくれって言っているの。」

舞が珍しく怒る。

「仕事の邪魔です。いい加減にしてくれませんか。社長に報告しますよ。」

「うるさいなぁ、ブスは黙ってろよ。それに社長に報告しても無駄。取引先の社長の息子の俺に何も言えるわけないだろ。」

下卑な笑いを浮かべている。あー、もういい加減キレた。

「すみません、少し席を外します。ここで話すと業務に支障が出ますので。」

エリカは同僚たちに断り、五十嵐を奥に連れて行く。

「いい加減にしてください。私はあなたのことが、嫌いです。話もしたくないくらい大嫌い。もう二度と話しかけてこないでください。それから、舞をブスと思うなら、人を見る目が全くないので、社長になれると良いですね。」

言うだけ言って、エリカは受付に戻る。

「ご迷惑をおかけして、申し訳ございません。」

エリカは同僚たちに謝る。

「エリカ、大丈夫?早く研修終わってくれると良いんだけどね。諦めてくれそう?」

舞が心配してくれる。

「これで引いてくれれば、助かるんだけどね。反対に報復されるかもなぁ。あいつならやりかねないよねー。」

エリカはため息をつく。


  ***

 いつもの麒麟でのランチ。舞と食べていると、五十嵐が入ってきた。

「仕事中が駄目でも、休憩中なら良いだろ?」

麒麟のマスターは、なにかを感じ取ったのか、エリカが答える前に、「注文は?」と言った。

「は?俺がこんなしょぼいところのメシなんて食うわけないし。黙っていろよ。」

マスターは、顔が真っ赤になる。マスターはかなり気性が荒いタイプだ。しかし、周りのお客さんの前で怒鳴るに怒鳴れず、耐えている。

「私、二度と話してこないで、と言いましたよね?」

「なに、焦らし作戦?そういうのいらないから。全くさぁ、俺がここまでわざわざ来てやっているんだよ?俺と寝れば、いろいろ融通聞くし、あとから自慢できるよ。」

「あんたなんかと寝たら、自慢どころか、汚点にしかならないわよ。場所を弁えて発言することもできないなんて、猿以下ね。」

「全くヤリマンのくせに、なにお高くとまってるわけ?みなさーん、聞いてください、この女は会社で有名なヤリマンです。誰とでも寝るので、男性達、チャンスですよー!」

五十嵐は、店内中に伝わるように声を張り上げた。

エリカは、社内でヤリマンと言われているのは知っていたが、無視していた。どう思われようが、どうでも良い。その噂のお陰で、周りがエリカを避けてくれるため、その噂に感謝しても良いくらいだと考えていた。しかし、この癒しの空間で、卑猥な言葉を言う五十嵐を殴りたくなった。

すると店内の奥から、隆弘がコップを持って歩いてきて、五十嵐の顔に水をぶちまけた。

エリカは呆気にとられた。

「あぁ、すみません、あまりに食事中に相応しくない言動を聞き、手が滑りました。あー、スーツも濡れてしまいましたね。請求書は、こちらにお願いします。さぁ、風邪引きますので、早く着替えた方が良いでしょう。お帰りください。」

隆弘は名刺を差し出し、店から五十嵐を追い出そうとする。

体格で負けている五十嵐は押されながらも

「お前、俺を誰だと思ってるんだよ。五十嵐建設の社長の息子だぞ。K会社か。うちと取引しているだろう。どうなるか分かっているんだろうな!」

「五十嵐さんの息子さんでしたか。残念です。五十嵐さんの会社は立派なのに、息子さんの教育は間違えたようだ。それから1つ聞きたいんだが、社長の息子になんの権利があるんだい?答えはいらないから。さようなら。」

そう言って、隆弘は五十嵐を完全に店から追い出し、扉を閉めた。

「マスター、すみません。床を濡らしてしまいました。雑巾はありますか?」

何もなかったように、隆弘は聞く。

隣で舞が笑いを堪えている。

エリカはまだ現実に追いつけない。

「いやぁ、気持ちよかった。ありがとな、兄ちゃん。床は気にしなくて良いよ。対して濡れていないし。今拭いて埃が舞うといけないから、後で拭くよ。お客さん達も滑らないよう気をつけてな。」

「マスター、ご迷惑をかけて、すみません。みなさんにも不快な思いをさせて、すみません。」

エリカはマスターと店内にいる人たちに謝る。

「エリカちゃんは、なんも悪くないだろうが。悪いのはあの男だろ。エリカちゃんは美人だから、大変だなぁ。ほら、これ試作品だけど、グレープフルーツのゼリー。まだなにかが足りないように感じて、まだ店には出していないんだ。試作品で悪いけど、これを食べて、元気を出しな。」

そう言って、マスターはエリカと舞にゼリーを出してくれた。そして、マスターは隆弘さんのところにも行き、兄ちゃんも食べるか?とゼリーを差し出す。

隆弘さんは嬉しそうに、

「ありがとうございます。是非いただきます。」

と言い、同僚に自慢している。

隆弘さんの同僚は

「社長、全然羨ましくないですから。それより、クリーニング代の請求きたら、会社に請求しないで下さいね。」

と言っていた。

舞はまた笑っている。

「社長、部下に怒られている。」

エリカも笑ってしまった。ゼリーは美味しい。でもマスターの言うように、なにかが足りない気がした。


  ***

その出来事があった金曜日。

顔を合わせるのが気まずく感じたが、きちんとお礼を言わなくては、とエリカはいつも通りに部屋を訪れた。隆弘もいつも通り、ご飯を作っていた。

エリカは食卓に座り、作り終えるのを待つ。料理を作り終えた隆弘が食卓に座る。

「ありがとう。それから、ごめんなさい。」

隆弘はポカンとしている。

「なにが?え?もしかして、好きな人が出来た?」

見当違いの反応にエリカは苦笑する。

「違う、五十嵐のこと。」

「五十嵐…あー、五十嵐建設のね。なんで謝るの?」

「だって、会社に影響するんじゃないの?取引先なんでしょう?」

「五十嵐社長は、そんな器の小さい人じゃないよ。何も言ってきてないし。それに、息子がどうこう言って、取引をやめる会社なら、信用できないから、こっちからお断り。西野、あ、あの時いた部下なんだけど、あいつも何も言わなかっただろ?西野はさ、冷静沈着で、会社の利益優先の人間なんだよな。その西野が何も言わなかったなら、会社として問題ないってこと。俺はランチタイムを邪魔されて、腹立ったから、行動しただけ。マスターから念願のゼリーも、もらったし、満足。」

隆弘は笑って言う。エリカは脱力する。

「ねぇ、やっぱり私達もう会わない方が良いんじゃないかな。聞いたでしょ。私が社内でヤリマンって、言われているって。そんな人間が、貴方のそばにいるのは、好ましくない。西野さんもそう言うんじゃない?」

「らしくないなぁ。そんな噂に負けるの?エリカのことだから、その噂を否定せず、利用して、周りと距離を置いていたんでしょ。この2年間、俺以外と寝た?俺のことが好きだったから、という理由だと嬉しいけど、二股とか面倒なことしないでしょ。」

見抜かれている。ぐうの音も出ない。

「俺は、あんなバカな男のせいでエリカと終わりにするのは嫌だなぁ。」

「でも五十嵐は何をするか、分からないよ。五十嵐じゃなくても、他にも同じことがこれから起こるかもしれない。貴方は普通の女性と幸せな結婚をした方が良いと思う。」

「普通の幸せな結婚ね。悪いけど、俺の幸せをエリカに決められたくないな。エリカが俺のこと嫌いって言うか、他に好きな人が出来た、という理由以外は受け付けない。」

舞、話したけど、やっぱり思った通り、駄目だったよ。心の中で呟く。

「はい、この話はこれで終わり。エリカはまだ迷っている。今決めることじゃない。それより、今日は新作なんだよ。自信があるから、食べて、食べて。」

そう言って隆弘は笑う。

突き放すべき、分かっているが、エリカは突き放すことが出来ない。


  ***

 また五十嵐が麒麟に現れた。

今度は、エリカに視線を向けることなく、隆弘のところに一直線に歩いていく。

エリカは嫌な予感しかない。舞も心配そうだ。

「榊社長さん、これ、スーツの請求書。悪いけど、汚れたスーツなんて、俺は着ないから、新しいスーツ買わせてもらったけど、良いよな?」

「あぁ、構わないよ。汚してしまったのは僕だからね。」

「それにしてもまさか、あんたがエリカの愛人とは、驚いたな。愛人の目の前で、守る姿、かっこいいねぇ。でも仮にもK会社の社長が愛人囲ってていいわけ?それから、エリカのために離婚するとか、すごいね。元妻の父親にたかってたくせに、会社が軌道に乗ったら、捨てるなんてひどい男だな。」

私のために離婚?そんな話は聞いていない。エリカは驚く。

五十嵐を追い出さなくては、と思うが、体が動かない。

「君は3流の週刊誌の記者?大分事実と食い違っているけど。興信所に頼んだとしたら、ずいぶん質の低いところを選んだんだねぇ。スーツ代の請求もするし、お金がないのかな?あれ、社長の息子でお金持っているはずだよね?」

五十嵐は顔を真っ赤にする。図星なのかもしれない。

「それはどうでも良いだろ。それよりも、自分の経営しているホテルに通わせているんだろ?社長が会社のものを私利私欲で使って、愛人囲ってるのは、事実だろうが!」

「西野、よろしく。」

隆弘は西野に振る。

「社長は、2年半前に離婚が成立しており、現在婚姻関係はありません。またその他の女性とのお付き合いもありません。そのため、愛人の定義には、当てはまりません。それから、元妻の父親にたかっていると言われましたが、金銭の授受などは一切なく、弊社設立の際も同じ経営者として同等の立場であり、現在も良好な関係を築いております。あと、ホテルの件ですね。Tホテルの最上階は、社長の所有物であり、会社の所有物ではありません。以上のことから、弊社を侮辱したと判断し、これ以上言うならば、名誉毀損で訴える覚悟もこちらはございますが、どうしますか?」

「愛人じゃなくても、遊びだろ?しかも相手はヤリマン。会社の社長として、それで良いのかよ!」

西野の冷徹な口調に、五十嵐はたじろぐが、しどろみどろになりながらもなんとか言い返す。

「お相手のことに関しては、私からお話するのもどうかと思うので、社長、自分で言ってください。」

西野は、隆弘に返す。

「西野、ありがとう。この前はある程度敬意を払って言葉を選んだけど、もういいかな。

えっと、まず彼女への暴言の撤回だね。こんな公の場所で言って、きちんと証拠はあるんだろうね?噂で聞いた、じゃ済まされないよ。ここにいるみんなが君が言ったことを聞いた。事実じゃなければ、名誉毀損、侮辱罪の適応。賠償金はいくらになるだろうね?俺はずっと彼女を見てきたから、そんな女性じゃないことを知っている。勝つ自信があるよ。

あと、遊びって、なんで君に分かるの?そもそも君が言ったんだよね?彼女と付き合うために妻と別れたって。俺は妻と別れる決意をするほど彼女を愛しているんだけど。まぁ、片想いだけどさ。」

「社長、最後の言葉は必要ありません。叩くなら、最後まできちんと叩いてください。弊社の信用に関わります。」

「西野は厳しいなぁ。そうだな、今回はちょっと腹が立ったから言わせてもらおうか。君さ、今の状況分かっている?うちの会社と、彼女の会社にケンカを売っているんだよ?彼女は、柴田社長が育てた優秀な社員だよ。そんな優秀な自分の社員を公の場で侮辱して、どうなるだろうね?柴田社長は甘くないよ。五十嵐社長に泣きついても無駄だろうね。完全に君に非があるからね。五十嵐社長が君を守ろうとしても負けるよ。そもそも五十嵐社長も会社を守る立場だ。いくら君が可愛くても、非がある君を助ける選択肢をとるほど、愚かなことはしないだろうね。さぁ、どうする?頼みのパパに切り捨てられる覚悟はあるかな?今なら彼女に謝罪すれば、うちは動かないよ。柴田社長に言うかは彼女次第。きちんと謝罪した方が、今後の人生のためだと思うなぁ。君は今崖っぷちだよ。」

五十嵐は、悔しそうな表情をしながら、回れ右をし、エリカのところに来る。

「すみませんでした。もう二度と近づきません。」

と言って、去っていった。

店内が静まる。


「兄ちゃん、見かけによらず怖いな。俺の敵にならないでくれよ。」

マスターが言った。

「嫌だなぁ、マスターの料理が好きで、こんなに通っているのに、敵になるわけないじゃないですか。でも時々で良いので、デザートを出してくれたら、嬉しいです。」

隆弘は笑って応える。

「試作品のデザートで敵にならないなら、安いんもんだ。」

マスターも笑う。店内にやっと安寧が訪れた。


  ***

 金曜日がきてしまった。

エリカはロッカーで着替えをしながら、戸惑っていた。

「愛している、だって。あんな公の場で。」

舞は笑っている。仕事中の微笑みではなく、本気で笑っている。こんな笑顔を見るのは初めてだ。

「いい加減、素直になりなよ。前のエリカなら、そんなこと言われたら、即、別れていた。ここで迷っている時点で、もう前のエリカじゃないよ。これ以上は言わなくても分かるよね。」

今度は優しい表情で舞は言う。表情が豊かになったな。舞もここ半年間で色々あったもんな。

いやいや、今はそれどころじゃない。

「あー、舞。助けて。逃げ出したいよ。」

「でも逃げ出せないんでしょ。ほら、答えは出ているじゃない。」

「うー…だって逃げるにしても、最低限謝らなきゃ。お礼も言わなきゃ。」

「はいはい、ゆっくり話しておいで。自分の気持ちに正直にね。嘘をつく人生は辛いよ。私が言うと説得力あるでしょ?」

舞はまた笑う。天使のようだ、と思わず見惚れてしまうと、コツンと頭を叩かれた。

「今、余計なこと考えていたでしょう。でも、考えすぎないで、本能に従って動いた方がエリカらしいね。そのままで行っておいで。」

うぅ、褒めてたのに、叩かれた。なんかいつもと逆だ。おどおどと自分の意見を主張しない舞はもういない。私も変わる時がきた。エリカは覚悟する。


【プロローグ】

 いつもの部屋に着くと、今日は隆弘さんは料理もせずに、座っていた。

「良かった。来てくれた。」

隆弘は嬉しそうに言う。

「今日は料理を作っていないんだね。」

エリカは、気まずくて話をそらす。

「あ、お腹空いている?なんかルームサービスでも頼む?来るか分からなかったし、それに今日はきちんと話をしないといけないからね。」

「お腹空いていないから、大丈夫。先に謝らせて。私のせいで嫌な思いをさせてごめんなさい。あれから五十嵐は全く私に関わらなくなった。なぜか柴田の耳に入ったらしく、五十嵐社長は謝罪にきて、腹黒社長は1つ貸しができた、と喜んでる。ありがとう。」

「前にも言ったけど、エリカのせいじゃないでしょ。でも五十嵐が関わらくなったのは、良かった。あんなのがいたら、大変だ。多分、柴田社長の計算通りだったんじゃないかな。五十嵐社長もバカ息子の教育のために柴田社長に研修って形で頼んだのだと思う。貸しがここまでは大きくなるのは、予想外だっただろうけどね。でもまさかあんな形になるとは、思わなかったな。いつかは話さなきゃいけなかったから、良い機会だったんだろうな。俺はさ、五十嵐が言ってたように、エリカのことが好きで、妻と別れる決意をしたんだ。元妻の父親と仲が良くて、娘をもらってくれ、と言われて、つい、なぁなぁで、結婚した。俺も若かったな。でもうまくいっていたとは言えない状況だったから、エリカに会わなくても遅かれ、早かれ、別れていたと思うけど。」

エリカは5年前の2人の姿を思い出す。確かに幸せそうな姿ではなかった。

「でも奥さんは、隆弘さんのこと手放さそうに見えたけど…」

「そうだね、離婚は難航したよ。でもあれは、愛情じゃなくて、執着とか、プライドだったんだよ。結局、元妻の父が、俺より良い条件の相手を提案したら、すぐに離婚が決まったよ。」

隆弘さんは苦笑する。

「でも私達が会ったのは、5年前のあの一瞬でしょ。どうして、私なの?」

「俺はずっと麒麟でエリカのことを知っていたよ。麒麟で舞さんやマスターと楽しそうに話しているのを見て、ずっと気になっていた。エリカは全く気付いていなかったのが、5年前のカフェで会った時に分かって、ショックだったな。思いっきり睨まれて、怖かったなー。」

隆弘は今度は笑う。

「ごめんなさい。私は周りを見ないから。いつも自分のことしか考えてない。だから、隆弘さんの相手に相応しくない。」

「そう言うと思って、ずっと気持ちを黙っていたんだ。でもなんとか関わりを持ちたくて、食事だけで良いから、と物で釣ってみた。そして、嫌われないようにエリカが求める関係を維持した。卑怯でしょ、俺。」

また隆弘は笑う。

「やっばり納得いかない。隆弘さんは相手をよく見ている。私を選んだのは、外見とかじゃないはず。かといって、私は隆弘さんに選ばれるような中身もない。人との関わりを避けて、人のことを考えず、自分勝手に生きてきた人間よ。」

「麒麟のマスターは、悪い人じゃないけど、かなり気難しい人だよね。女性で美人なお客さんは他にもいたけど、エリカと舞さんの前では、全くの別人だった。試作品のゼリーも2人にしか渡さなかった。マスターを攻略した2人が、中身がない人間なわけないだろう。マスターより攻略困難な舞さんだって、エリカには気を許している。そんな風に言うのは、エリカを大切にしている人間に失礼だ。」

隆弘は舞のことも見抜いているのか。

「なんかマスターから、ゼリーをもらっていたことがきっかけに聞こえるんだけど。」

「そうだよ。だって、俺もずっと通っていたのに、ゼリーをくれるどころか、話もしてくれなかった。悔しかったなぁ。」

「ちょっと待って。きっかけがゼリーで、マスターに好かれてただけで、私を好きになったの?」

そういえば、この前もゼリーをもらえて満足と話していたな、エリカは思い出す。

「まぁ、それだけじゃないけど、それが1番大きな理由かも。」

エリカは、脱力した。

「ゼリーを貰いたいのとマスターに認められたいなら、マスターにアプローチした方が良いんじゃない?」

「勘弁してよ。マスターのことは尊敬してるけど、性別は乗り越えたくないよ。マスターに認められていて、美味しそうにご飯をご飯を食べているエリカが好きなんだよ。だから、エリカと関わることを決意したとき、美味しい料理を作って、マスターに負けない笑顔を引きだそうって、決めていたんだ。今のところ惨敗。マスターは俺のライバル。」

「じゃぁ、どうして毎回、絶対家に帰っていたの?長い時間、私と一緒に過ごしたい、と思わなかったの?」

「あまり近付きすぎるとエリカは逃げるだろう。俺だって、長く一緒にいて気持ちを隠し通す自信はなかったしね。それと俺、犬を飼ってるんだよ。甘えん坊で1日1回は顔を出さないと不機嫌になるからさぁ。」

この人は、やっぱりおかしい。エリカの想像以上に、自由だ。自分の好きなように行動している。

エリカは、今まで隆弘の側に自分がいることは、良くないと思っていたが、隆弘にとってどうでも良いことのようだ。

この人と一緒にいるのは、予想外のことが起きて、楽しいかもしれない。

好きという感情は分からない。でも私はこの人をもっと知りたいと思っている。これが恋というものなのだろうか?

本気でこの人と接してみるのも良いかもしれない。


でも、1つ懸念がある。

「西野さんは、私を認めないんじゃないかな?」

「あー、先に謝る。西野はエリカの身辺調査をしている。五十嵐と違って信用ある会社でね。西野は、会社の利益優先だからさ。あ、俺は、調査結果は見ていないよ!」

慌てて、隆弘は弁解する。

さすが西野さん。抜け目がない。


「舞を招待して、一緒に食事をしたら、マスターに勝てるかもよ?」

エリカが言うと、隆弘は驚いた顔をした。

一矢報いた気がして、エリカは満足する。


エリカ編完



第二章 舞編


【エピローグ】

「美人は得」

舞の人生は、徳よりも損の方が多かった。ため息をつきながら、舞は今日も早起きをして、2時間かけて、メイクをする。


  ***

 土曜日は、ご褒美を兼ねて、お気に入りのカフェでランチをするのが、舞の習慣だ。

今日もいつも通り、カフェに行く。舞がいつも座る席は空いている。もしかすると、店員さんが舞のために空けてくれているのかもしれない。そうなら、お礼を言いたいが、違かったら恥ずかしい。舞はいつも通りの席に着き、日替わりランチをオーダーする。

ランチがくるまで、舞はポルトガル語のテキストを開く。舞は、海外のさまざまな場所でツアーガイドになりたい、と考えていた。以前ツアーに参加したときに、とても素敵なガイドさんと出会い、その場所の魅力をユニークに分かりやすく、それでいて詳しく教えてくれた。もともと歴史が好きで、建築物や文化遺産に興味があったため、それがきっかけで、その魅力を少しでも伝える仕事に就きたいと考えるようになった。そのため、海外で働くために、必要な資金としての貯金とガイドになるための外国語の取得に毎日励んでいた。

ランチが届いたので、テキストを閉める。時間が惜しくても、勉強しながら食べるのは、美味しいランチと、作っていてくれる人たちに失礼だ。舞はゆっくりランチを堪能する。あぁ、美味しい。本当幸せ。舞にとって、土曜日は心身共のリラックスできる日だ。

そんな幸せに浸っていると、あっと言う声が聞こえ、舞は右腕が冷たくなるのを感じた。舞は右腕を確認すると、コーヒーがかかっていた。どうやら、舞の後ろのお客さんが急に立ち上がり、コーヒーを運んでいた店員にぶつかった際、そのコーヒーが倒れ、舞にかかったようだ。

「申し訳ございません。」

店員さんがたちがタオルや、お手拭きを持って現れる。

「すみません、僕が急に立ち上がったせいで。少し、待っていてもらえますか?」

後ろに座っていたと思われるお客さんが舞に声をかけ、店を出て行く。

「大丈夫ですよ。今日は暖かいから、すぐ乾きますよ。洋服も安物ですから、気にしないで下さい。」

舞は店員に笑顔で言う。舞はランチが終わったら、そのまま家に帰るだけだ。

「でも…」

店員が気にしている。せっかくのお気に入りのカフェの店員を困らせたくないな。せっかくの舞のオアシスなのに、これが原因で今後店員の対応が変わるのは、舞にとって、居心地が悪くなるだけだ。なにか良い方法はないか、と考えていると、先程の男性が戻ってきた。

「これ、着替えです。クリーニング代は別にお支払いしますが、そのままでは帰るのも大変でしょう。クリーニングにもすぐ出せた方が良いでしょう。気に入らないかもしれませんが、コーヒーで汚れた服よりはマシだと思います。」

「え?そんなことまでしてもらうわけにはいきません。まだ返品できますよね?返してきて下さい。私は家が近いので、大丈夫です。」

「もう、値札を切ってもらってしまったので、返品は出来ません。せっかくの休日の邪魔をしてしまったのですから、せめてのお詫びの気持ちです。受け取ってもらえませんか?」

そう男性は言うと、店員にどこか着替えるところはないか?と聞いている。店員は舞をスタッフ専用の更衣室に連れて行こうとするため、舞は慌てて、

「ちょっと待って。あのこれは損害に対する対価が違いすぎると思います。全額とは言いませんが、せめて半額お支払いさせてください。」

あとあと面倒になる可能性がある。もしかすると男性は、下心がある可能性も否定できない。なによりも舞は人に借りを作りたくない。

「僕は損害に対する対価として、充分、いや足りないくらいだと思っています。今の洋服も早くクリーニングに出さないとシミが残り、弁償しなくてはいけない。そうならないためにも、それから僕の面子を立てると思って、受け取って下さい。」

結局、舞はそれ以上何も言えず、店員に更衣室に連れて行かれた。


 紙袋を見た時から気付いていた。この店は一流のブランドだ。舞はブランド品に興味がなく疎いが、この洋服は今着ている洋服の値段に1つ0を加えても勝てないだろう。それが頑なに拒否した理由の1つだ。

紙袋だけで中身は違うブランドとかそんなことないよね?舞は思いつつ、紙袋を開ける。白いワンピースとミュールが入っていた。白いワンピースは、シンプルだが、生地が高級さを物語る。念のため、洋服のタグを見る。紙袋と同じブランドだ。だよね、舞はため息をつく。だが、なぜ、ミュールまであるんだ?今履いている靴を見ると、うっすらコーヒーがかかっていた。舞すら気付かなかったシミに気が付いたのか。舞は観念して、着替える。


 ワンピースは、肌触りが気持ち良く、変な皺がよることもなく、シルエットが綺麗だ。高級な洋服を持っていない舞は、やはり値段の差はきちんと出るんだな、と思う。そして、ミュールもワンピースと良く似合っており、履き心地が良い。このままマネキンに着せてもおかしくないセットアップだ。しかもミュールのサイズはピッタリだ。舞は恐ろしくなる。靴の小さなシミを見逃さず、サイズまで当て、高価なものを送る男性。何を要求されてもおかしくない。相手が勝手にやったことだ、何を言われても突っぱねよう、舞は覚悟を決めて、更衣室から出る。

すると店員がうっとりと見ている。

「お似合いです。」

舞はここはカフェだよね?と周りを見渡す。周りの人達も舞を見ている。恥ずかしい。そそくさと席に戻る。席は綺麗に掃除されていた。男性の姿はない。

先程お似合いです、と言った店員の頭をコツンと叩き、店長が舞のところにやってきた。

「この度は誠に申し訳ございません。」

舞は慌てて言う。

「そんな大袈裟なことじゃありませんから、気にしないで下さい。いつもランチ美味しいです。あの…先程の男性は?」

「ありがとうございます。男性のお客様は仕事があるので、先に失礼すると出て行かれました。お客様には、なにかありましたら、こちらに連絡するようにと。クリーニング代も払うとおっしゃっていましたが、せめてクリーニング代はこちらで出させて欲しい、とお断り致しました。」

そう言って、店長はメモと封筒を差し出す。

「洋服までいただいて、クリーニング代までもらうのは、気が引けます…」

「洋服に関しては、当カフェの対応ではございません。そして、クリーニング代を支払うのは、当然の対応です。受け取って頂きまして、今後とも当カフェのご利用して頂けますと、幸いです。それから、こちらはケーキセットのクーポンです。いつでもご利用可能ですので、次のご来店をお待ちしております。」

店長はかしこまった口調で話し、最後はニヤッと笑った。抜け目がない。これでは、また来るしかないじゃないか。舞は、笑って答える。

「ありがとうございます。では、ありがたく頂戴致します。」

「では、素敵な休日を。」

店長は頭を下げて、去っていった。

舞がこのカフェを気に入っている1番の理由は、舞に関わってこないことだ。店長が先程、店員の頭を叩いたのは、舞に干渉したからだ。店長は店員達にお客様の邪魔をしないように、お客様が寛げるような環境を作るように、店員に指導をしている。ランチが美味しくて、邪魔されない空間を提供してくれるお店はなかなかない。来週もきっと来るだろうな、と舞は思う。


 問題は、このメモか。急いでいたのだろう。手帳を勢いよく破ったのが想像できる。恐る恐るメモを開く。


陣内 090-〇〇〇〇-××××


それだけしか書いていなかった。少し安心する。しかし、お礼の電話をするべきか…舞は悩む。


  ***

 月曜日、同僚のエリカに相談する。エリカは同期であり、お互い新卒で受付に配属され、お互い人と関わることを避けていたため、最初は必要最低限の会話しかしなかった。しかし、エリカは舞が必死に隠していたことを簡単に見抜いた。今では、良い距離感をとってくれるエリカは、舞にとって、唯一の気が許せる相手だ。そして、とても美人。きっと贈り物を差し出される経験がたくさんあるはずだ。エリカの性格上、全て断っているだろうが、その対応を含め、聞いてみたい。土曜日に起こったことを話し、お礼の連絡をするべきか相談した。

「お礼の連絡なんて必要ないでしょ。舞は断ったのに、相手が押しつけたんだから。謝罪しても良いくらいよ。連絡すると次ができちゃう。舞はプライベート用のメイクだったんだよね?そうなると自分の連絡先を知らせるような行動は取るべきじゃない。相手が期待しちゃう。お礼を言いたいなら、非通知や公衆電話からが良いだろうけど、それでお礼されても不愉快よ。それなら、連絡しない方が、お互いの今後にとって良いと思う。」

エリカがはっきりと言う。さすが、エリカ。謝罪は言い過ぎだが、その通りだ。相手に「自分から連絡して、期待させておいて」なんて言われるのは、ごめんだ。

「でも高級ブランドの洋服を渡して、去っていくとか気持ち悪い。靴のサイズまで見抜くとか、怖すぎる。なにものかしら?年配の人じゃないのよね?そう思うと余計に連絡しない方が良いわね。」

エリカが言い、舞は頷く。


 1人の男性が社内に入ってきた。舞は驚く。カフェで出会った男性だ。舞は慌てて、エリカにそのことを話す。エリカは小声で

「私が対応する。舞は、声を出さずいつも通りにしていて。まぁ、気付かれることはないでしょ。」

内心はドキドキしながら、舞も声を出さなきゃ、大丈夫だろうと考える。

「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」

エリカが言う。舞は陣内の方には顔を向けず、正面を見つめる。

「はじめまして、本日10時に柴田社長と約束している陣内と申します。」

「陣内様ですね。ただ今、柴田に確認を取りますので、お待ち下さい。」

そういえば、今日のスケジュールに社長の面会、陣内と書いてあった。まさか同一人物とは。舞は内心で思うが、表情は崩さない。しかし、陣内はチラチラ、自分を見ていることが気になった。

「お待たせ致しました。すぐに面会可能ですので、今秘書がこちらにお迎えにきます。ロビーでお待ち下さい。」

エリカが陣内に言う。早く去ってくれと思うが、陣内は今度はしっかりと舞を見ている。

「やっぱり、土曜日にカフェで会った人ですよね?あの時は申し訳ない。しかも急用の為、ご挨拶もきちんとせず。洋服は大丈夫でしたか?」

舞は驚く。横を見るとエリカも驚いている。

「はい、お陰ですぐにクリーニングに出せたので、シミは残らないだろうとのことです。こちらこそ、高級なお洋服を頂いたのに、お礼もせず、申し訳ございません。」

「いえいえ、逆に気を遣わせてしまったようで、申し訳ない。あ、お迎えがきたようですね。では、失礼致します。」

陣内はそう言って、受付から去っていった。

「アイツ、なにもの?舞のメイクを見破った。何人目?」

「社長とエリカの2人だったから、これで3人目。私、今日メイク崩れている?」

エリカに聞く。

「全く。いつも通りきちんと素顔を隠せている。さすが靴のサイズも見抜く男ね。洋服の対価を求めてこなそうだけど、なんか気になるなぁ。」

エリカは人を見る目は確かだ。舞は少し不安になる。


 舞の素顔は自分で言うのもおこがましいが、かなり美人だ。歩いていると誰もが振り向く。しかし、その容貌のせいで、嫌なことがたくさんあった。そのため、集団の中で目立たないようにすること、それが舞にとって生きやすい方法だと気付き、地味に見えるようにメイクをするようになった。ちょっとやそっとではなかなか変化は見られず、最終的に2時間かけて、メイクをすることで、誰にも気付かれない別人になることが出来た。エリカに言わせれば、特殊メイクの領域とのことだ。さすがにプライベートは、面倒なので、素顔でいる。会社の近くのカフェであったが、2年間誰も舞に気付くことはなかった。今までこのメイクを見破ったのは、2人。

まずは、社長。入社時面接の時のことを思い出す。社長の第一声は、

「なぜそのメイクをしているの?」

だった。舞は一瞬狼狽えたが、素顔がばれたわけではない。ただメイク法が気に食わないだけだろうと思い、

「申し訳ございません。メイクが苦手でして。」

と答えた。すると社長は笑って

「いやいや、誤魔化しても駄目だから。そのメイク技術はプロ並みでしょ。すごいなぁ、素顔は相当な美人だろ。全く別人に仕上げているんだろうな。それで、最初の質問に答えて。なぜそのメイクをしているの?」

社長は鋭い視線を向けて言った。舞はため息をつく。これは、本気で話さないと通じない相手だ。噂には聞いていたが、さすが一流と呼ばれるほどの会社を立ち上げた男だ。

「外見で判断されることが嫌だからです。みな、外見で、勝手に私を判断し、失望して去っていったり、なにもしていないのに悪口を言われたりする生活にうんざりです。それなら、目立たないように生きた方が、楽です。」

舞は、内定はないと判断し、本音で話す。

「みんなそういうのと戦って生きているんだけどね。君は逃げたわけか。そうだな、うちで働くなら君は受付だね。受付で良ければ、是非うちに来てよ。」

「私は目立ちたくないんです。受付なんて、目立つ仕事は無理です。」

「君、語学堪能でしょ。それを活かすなら、受付か営業。でも営業は無理でしょ。逃げていることはまだ許すけど、能力を活かさない人間は、うちには必要ない。メイクを変えろとは言わない。一生そのメイクをするつもりなら、まず社員みんなを騙してみなよ。良い経験になると思うけど。」

社長は笑って言った。

もう1人はエリカ。エリカはシンプルに聞いてきた。

「そのメイクはどのくらい時間かかるの?私の見立てだと2時間かな。」

舞は、この人も社長と同様に嘘は通じないと観念した。

「2時間で正解。」

「やっぱり。毎朝早起きでしょ。大変だね。」

エリカはそれ以上なにも聞かなかった。それが嬉しかった。そのため、エリカの前では、素顔を晒している。

そして、3人目が現れてしまった。社長とエリカは2人とも誰にも言わないでいてくれている。だけど、陣内は信用は出来ない。舞は面倒なことにならないと、良いけど、とため息をつく。


  ***

 土曜日、いつものカフェでランチを食べていると陣内が現れた。陣内は勝手に席に座る。本来なら、店員がそういった行為はやんわりと止めてくれる。しかし、陣内は先週、舞に洋服を購入した経緯があり、どうするべきか、戸惑っていた。

舞は、カフェに来たことを後悔した。そうだった、陣内にここの場所は知られているのだ。軽率な行動だった、と反省する。

本来オーダーを取りに来ない店長がオーダーを取りに来た。陣内は日替わりランチを頼む。店長は、舞の方を向き、目で合図する。なにかあれば、呼べという合図だ。心強い。

「宮下さん、愛されてるね。なんか俺、悪者?」

店長の目配せに気付いたらしい。めざとい。

「どうして私の名前を知っているんですか?あとこのお店は、お客様に寛いでもらうために、邪魔をしないというモットーなので、ナンパとか禁止なんですよ。」

「柴田社長がうちと取引したいなら、1ヶ月うちで働けって無茶苦茶なこと言ってきてね。お陰で俺も仮だけど、宮下さんの同僚。同僚の名前を覚えるのは、基本でしょ。」

陣内は当たり前のように言う。1ヶ月のために社員の名前を覚える必要があるのか謎だが取引成立のためには、そのくらいは必要か。

「ランチを邪魔してごめん。ナンパじゃなくて、新人教育してもらいたくて。」

陣内は笑って言う。

「どこの部署か知りませんけど、きちんと教育係がいるんじゃないのですか?私は受付ですから、陣内さんに教えられることはありません。」

「それがどこの部署でもないんだよね。開発部以外は自由に出入りして良いって。好きに仕事しろって無茶苦茶だよ、あの人。それに受付が1番社内のことを知っているでしょ?社内のことを教えてもらいたいんだ。噂話とかでも良いし。」

柴田は何を考えているのだろうか。なにか企んでいるのだろうなぁ。

「残念ですが、私は社内の人間とは関わることを避けているので、噂話などは知りません。」

「でも社内の人間の仕事は把握しているってことだよね?それを教えてほしい。」

この人油断出来ないな。観察力が鋭すぎる。言動の裏を読みとってくる。

「それがご自分の仕事では?」

「そう言われたら、何も言い返せないなぁ。完敗。宮下さんは優秀だね。柴田社長が受付に選ぶわけだ。他の受付の人も同じレベルだろうなぁ。楽して情報収集は出来ないか。」

「柴田は厳しい人間ですから、楽するのは無理だと思いますよ。私はこの時間を有意義に過ごしたいので、話が以上でしたら、お引取り下さい。」

「うわ、冷たいなぁ。仮にも同僚だよ?」

「先程お話したように、社内の人間とは関わらないようにしていますので、同僚なら余計に関わりたくありません。」

「それでそのメイクか。本当の宮下さんの素顔を知っているのは、社内にどれくらいいるの?」

「答える義務がありません。」

「ほとんどいないってことか。うん、決めた。社内の人間に宮下さんの素顔を黙っている代わりに、毎週一緒にランチを食べる。時間は30分限定。もちろん企業秘密や社内の仕事とか、宮下さんが話したくないことは、話さないで良いよ。雑談だけで良い。ランチ代も払う。どう、良い取引じゃない?」

舞は呆気に取られる。洋服代を言ってきたら、お金を払おうと思っていたが、まさかメイクを脅迫材料にしてくるとは…しかし、舞の1番痛いところを突いてきた。

「それ、取引じゃなくて、脅迫じゃないですか?柴田に話しますよ。それにその取引に陣内さんのメリットがありません。」

「柴田社長は知っているんだ。でも会社の不利益なことは、話さなくて良いって言っているから、柴田社長は動くかな?社員のプライベートまで、口出さないでしょ。俺のメリットは美人とランチが出来ること。」

陣内は笑う。やりにくい、舞は思う。確かに柴田はこの条件では、動かないだろう。苦しいが、反論する。

「貴方が脅迫するような人間と伝えることは、出来ます。」

「柴田社長が人間性重視のタイプなら効果はあるけど、残念ながらそういうタイプじゃないでしょ。俺と同じ。結果を出すために目的は選ばない。多少の脅しはあり。ただし、貸し借りないように、こちらもそのために犠牲を払う。今回は、ランチ代が俺の犠牲。」

舞はぐうの音も出ない。その通りだ。柴田に話したところで、良いね、次はどんな行動を取るか楽しみだ、と笑うだろう。その報告をあげろ、と言われたら藪蛇だ。舞はため息をつく。

「分かった。私の負け。でも約束通り、社内の仕事内容のことは、一切話さない。雑談も私は得意じゃない。あなたに話したいこともない。だから会話はないと思う。それでも良いの?」

「やっと敬語がなくなった。いいよ、宮下さんが言うように、それは俺の仕事だからね。あとは宮下さんが話さなくても俺が勝手に話すから大丈夫。じゃぁ、取引成立。今日は、これで帰るよ。」

そう言って、陣内は笑って去っていった。そして、しっかり今日の舞の分のお勘定も払っていった。


  ***

 エリカに話した。エリカは笑っている。他人事だと思って。舞は不機嫌になる。

「やられたねー。見事な作戦だわ。恐ろしいやつ。でも本当になにが狙いなんだろう。普通なら美人とご飯を食べたい、でもおかしくないけど、陣内はそういうタイプじゃないよねー。柴田と同じで絶対腹黒。なにか考えがあるはず。でもそんな悪いやつじゃない気もするんだよね。だから、ランチ代の対価と割り切って、我慢したら?」

「もう、エリカは分かっていない。私の大切なランチタイムを奪おうとしているのよ。しかも脅迫で。それで悪いやつじゃないとは、思えない。」

「うーん、舞の人を見る目は確かだけど、今回は感情で少し曇っているかな?陣内はもっと上手く、ううん、あくどく出来たはずだよ。でもそれをしない上に、舞に嫌われるような言い方を、あえてしているように見える。話を聞いている限り、わざとそうしたとしか思えない。舞を怒らせたかったのかもね。」

「どうして?」

「人は怒ると、本音が出ちゃうから。つまり舞の本音を聞き出そうとしたのかもね。でも舞を怒らせた時点で、今後、舞が心を開くことが難しくなる。1回限りの勝負。結果は陣内の惨敗。つまり舞は本命の獲物じゃない。惨敗しても取引した理由は気になるけどね。でもカフェで30分の約束は守るだろうし、1ヶ月だから、4回だけでしょ。ランチ代を貯金に回せるし、行きつけのカフェで店長も味方だし、舞にとって悪くない取引だと思うけどな。陣内に限って、恋愛感情はなさそうだし、単純に舞に興味持った可能性の方が高いんじゃないかな?」

「珍獣の観察日記でもつけたいのかな?」

「あ、それに近い気がする。」

「エリカ。そこは否定するところじゃない?」

「アハハ。だって、舞は珍獣でしょ。それに、経緯はどうであろうと、舞が人と関わらなくちゃ、いけなくなった。どうなるか楽しみじゃない?でも少しでも危機感、ううん、違和感があったら、すぐに報告して。大丈夫、ちゃんとついているから。」

なんだかんだ言って、エリカは優しい。安心する。

 大学時代から始めたこのメイク。簡単には、落とせないし、落とすつもりもない。陣内に負けるわけにはいかない。


  ***

 約束の土曜日。陣内はまだ来ていなかったため、先にいつも通り日替わりランチを頼む。そして、テキストを読んでいると、陣内が現れた。

「良かった。来ないかと思った。」

「脅迫しといて、来ないわけにいかないでしょう。」

「宮下さんは、人が良いよね。素顔をバラしても、俺にはなんのメリットはない。本当にすると思ったの?」

「やりかねない人間だとは、思っている。」

陣内は笑って、コーヒーをオーダーする。

「食べないの?」

「時間は30分だからね、ご飯食べつつ、話すのは大変。それにしても今日は良い天気だなー。洗濯してたら、遅れたよ。次からは、12:30と決めておこうか。宮下さんも曖昧な時間の約束だと困るよね。」

「私は大体12時から13:30くらいまでいるけど、時間指定はありがたい。心構え出来るしね。陣内さんも洗濯とかするのね。」

陣内は笑う。

「心構えって。洗濯はするよ。俺は独身だし、家事をしないで、生きていけないでしょ。」

「家政婦とか彼女にやってもらっていそう。」

「俺はフリーの仕事。収入も不安定で、家政婦雇うほど裕福じゃないよ。彼女も安定した人間を選ぶでしょ。俺としても仕事が軌道に乗るまでは、彼女はいらないかな。」

「それなのに、高価な服を買ったのね。でもフリーでやっていくなんて、相当大変なのに、良く選んだね。」

「近くに他にお店がなかったのもあるけど、あの服を見たときに、これだって思ったんだよな。まぁ、少し痛い出費だったのは、認めるけど。まぁ、男としてのプライドかな?」

陣内はそこで一度笑い、話を続ける。

「フリーの仕事は大変だけど、前の職場で納得がいかないことが多かったから、我慢するなら、自分で納得いく仕事しようと思ってね。まぁ、生活出来ているし、今の方が楽しいかな。」

「具体的にどういう仕事をしているの?」

「宮下さんが質問してくれるなんて、嬉しいな。あぁ、そのポルトガル語のテキストは、今の仕事のためだけじゃないってことか。俺の仕事を簡単に言うと、会社の橋渡し。小さな会社にすごい技術や才能がたくさんある。でも大きな会社はそれを気付かない。だから、そういった埋もれている優秀な会社とその技術を求めている会社の仲介をしているんだ。そういうと聞こえは良いけど、きれいな仕事じゃないけどね。今回は、柴田社長に他会社を紹介したいというより、柴田社長は顔が広いから、今後のために、顔を売るつもりだけだったはずが、まさか働け、と言われるとはなぁ。試されているんだろうなぁ。」

陣内は簡単に言っているが、常に多くの会社の情報収集をし、万が一大規模な会社に紹介して、トラブルが起きれば、陣内にも影響が出るだろう。舞の中で少し陣内の見方が変わる。

「それで、宮下さんの夢は?」

「ノーコメント。」

「夢は声に出した方が実現するのになぁ。まぁ、話したくないこともあるよね。仕事用のメイクのこととか。」

舞はなにも答えず、コーヒーを飲む。

「残念。簡単には踏み込ませてもらえないか。それにしても柴田社長にどうすれば、気に入ってもらえるかなぁ。お互い腹黒だから、基本は合わないんだよなぁ。」

「腹黒さなら、柴田には敵わない。化かしあいで攻めるより、仕事をしている姿をしっかり見せた方がまだマシ。」

これくらいのアドバイスはしても良いだろう。

「俺の腹黒さは否定してくれないかぁ。でもアドバイスありがとう。そうだね、正攻法に責めるとしよう。」

陣内は笑う。


 その後も毎週土曜日に会い、約束通り仕事のことを聞いてくることもなく、舞に踏み込んでもくることもなく、雑談とは、こういうものなのか、と舞は知った。


  ***

同期のののかが舞に話しかけてくる。

「ねぇ、今来ている陣内さんって人、良くない?ご飯に誘っちゃった。フリーはちょっと私としては、マイナスだけど、柴田が選んだなら、将来性があるわよね?」

ののかは、入社して3ヶ月頃だろうか、舞とエリカが社内で孤立していることを案じ、同期として私が2人の友達になってあげる!と言い放った。舞とエリカは、現状に満足していたため、やんわり拒絶したが、聞く耳を持たない。舞にとって、ののかは苦手なタイプであるが、あまりのしつこさに根負けした。だが、まわりの人間を品定めするようなところは未だに好きになれない。舞は、ののかは舞の素顔を知らないし、面倒なことになりそうなため、陣内との関係は伝えず、

「そうなんだ。良い人だと良いね。」

それだけ伝えた。付き合っているわけではないし、問題ないだろう。カフェでもし会ったとしても、ののかは舞に気付かない自信がある。

しかし、ののかの話を聞き、舞の中で、喉に小骨が刺さったような違和感を覚えた。


  ***

 陣内がうちの会社で働いて1ヶ月が経った。今日で、会うのは、最後になるだろう。舞は陣内が買ってくれたワンピースを着てきた。

「お、その服来着くれているんだ。良かった。気に入ってくれていないのかと思った。あー、やっと1ヶ月終わった。通業の業務に戻れる。まだ柴田社長の信頼は勝ち取れてないけど、顔は覚えてもらったし、今回はこれで我慢するよ。しかも柴田社長、お給料くれたし。」

陣内は笑って言う。

「そう、おめでとう。柴田は頑張っている人間は裏切らない。今後の貴方の仕事ぶりを見て、本当に信頼するか、考えると思うよ。そして、信頼を勝ち取れば、あなたにとってプラスになるように動いてくれる。」

「えー、まだ監視されるのか。まぁ、それが俺の仕事か。しょうがない、柴田社長の後ろ盾は心強いから、頑張るか。」

「そういえば、私の同期の松井とご飯に行ったと聞いたけど、どうだった?」

「うわ、珍しい。宮下さんが俺のことを聞いてくるなんて。うーん、松井さんね、宮下さんの同期のことを悪く言いたくないけど、信用出来ないかな。確かに俺は宮下さんに噂話でも良いとは言ったけど、せめて、その人の好きなものとかなら良いけど、個人的な悪口や偏見の話はいらないんだよね。仕事の邪魔。宮下さんは、そこらへんの区別がつくと思ったから、聞いたけど。松井さんは聞かなくても、そういういらない情報ばかりで、ちょっと困ったな。ごめん、同期のことを悪く言って。」

陣内は再度謝る。やはり根は良い人なのだろうな。舞は喉の骨を引っかかりが取れるのを感じた。

「最後だし、といっても仕事で会うかもしれないけど、少し言わせてもらって良いかな?宮下さんは優秀。でもすごく勿体ない。今まで、俺には、想像つかない、いろいろ嫌なことがあったんだと思う。でもみんな多かれ少なかれ、コンプレックスと世間と戦っている。宮下さんは人と関わらない現状で、どうして自分を隠すの?見た目も仕事において、最大の武器。フリーの俺は顔を覚えてもらわないとはじまらないから特にね。笑顔で人は寄ってくる。美人かどうかは関係なくね。宮下さんの笑顔は最強の武器。それを活かさないのは宝の持ち腐れだよ。現状で満足して、向上心がないなら良いだろうけどね。」

「でも、目立つと仕事に支障が出るかもしれないじゃない?実際に受付の同期のエリカは容姿でとやかく言われている。実害も起きている。」

「その実害は会社にとっての実害じゃなくて、本人にとっての実害だよね。そして、本人はそれを気にしていないんじゃない?それから、君の会社はそんなレベルの低い会社?1ヶ月働いて、良く見させてもらった。ほとんどの人が真面目に取り組んでいる。宮下さんが素顔を出して、変わるような人はごく僅かだと思うけどな。そろそろ逃げるのをやめて、本気で勝負してまなよ。宮下さんの夢は、ここで逃げている人間に叶えられるような夢なのかな?語学の勉強も大事だけど、自分も変えていかないと、夢の実現は可能なのかな?まぁ、最後まで宮下さんの夢を教えてもらえなかったから、分からないけど、宮下さんのことだから、簡単なものじゃないことくらい、想像出来る。」

舞は口籠る。日本より海外の方が、容姿で判断されることはないだろう、というのは甘い考えかもしれないとは思っていた。そしてガイドをするには、自分に自信を持たないといけない。オドオドしているガイドなんて必要とされないだろう。

「今から夢に向けて、リハビリだと思って、現実と向き合う覚悟をするべきじゃないかな。大きなお世話だと思うけどさ。」

陣内は最後に笑い、去っていった。


  ***

 ののかが悔しがっている。

「陣内さんの携帯番号が現在使用されていないって言われるの。もう、最悪!でもスパイだったっていう噂もあるの。だから、いっか。次、次。」

ふと、舞はののかの携帯電話を眺める。あれ?ののかが立ち去った後、初めて陣内に会ったときにもらったメモを取り出す。個人情報だから簡単に捨てるのはどうかと思い、いつかシュレッダーにかけようと、財布にしまったままであった。そのメモに書かれた番号は、ののかの携帯電話に表示されていた番号とは明らかに違かった。


  ***

 「なに浮かない顔しているの?あ、陣内のことでしょ。1ヶ月経ったから取引終了だもんね。」

エリカが笑って言う。

「うん、最後に説教されたよ。いつまで逃げている気かって。それと少し気になることがあるんだよね。」

舞は、ののかの話をする。

「ふーん、携帯電話は最低でも2個あったってことだね。この会社用だったんだろうけど、柴田にはどちらを伝えたんだろう。それによって、スパイの可能性は出てくるかもね。ねぇ、舞は自分で気付いている?たった4回、いや5回?会った人間のことを、今考えているってこと。最初に会ったときは、早く関係を断ち切りたいと思っていたはずなのに、今は陣内のことを考えている。今までの舞にはありえないよね。それと、陣内と会うようになってから、舞の雰囲気は変わった。柔らかくなった。スパイかどうかは知らないけど、舞を変えた人間と、これきりで良いのかな?陣内風に言うなら、今変わるべきなんじゃないかな?」

エリカは微笑んで言う。エリカこそ、以前はこういう表情しなかったのに、変わったな、と舞は思う。

「つまり電話してみろってこと?」

「そう。スパイかどうかを聞くだけでもスッキリするだろうし、まずは陣内と向き合ってみれば?これも陣内風に言うならリハビリだと思って。」

今度はエリカは、いたずらっ子のように、ニヤッと笑った。舞はメモを眺める。


【プロローグ】

土曜日のいつものカフェ。もう陣内はいない。舞はまたメモを眺める。このメモの番号は使われているのだろうか。陣内はいつも他愛のない話ばかりであったが、時々鋭く、舞は気付いたら、一緒にいることが嫌ではなくなっていた。いや、毎週土曜日が楽しみになっていた。陣内といると変われる気がする。モヤモヤしていてもしょうがない。エリカの言うように、向き合ってみよう。夢への予行練習だ、と心に言い聞かせる。舞はカフェを出て、携帯電話にメモの番号を打ち込む。呼び出し音が聞こえる。どうやら、この電話はまだ使用されているようだ。

「はい、陣内です。」

舞は、半分は諦めていたので、自分でかけておきながら、驚いて、慌てる。

「あの、えっと…宮下です。」

「え?宮下さん?知らない番号だから、誰かと思った。あれ、俺の番号良く知っていたね。この携帯番号は、君の会社の人間は、柴田社長以外は知らないはずなのに。」

「最初に会ったときのメモに書いてあった。」

「あ、そっか。きみの会社で働く前に会っていたもんね。それで、どうしたの?コーヒーのシミが残った?」

「聞きたいことがあるの。会えないかな?」

「いいよ。今いつものカフェ?近くに○×公園があるの分かる?そこにいるから、来てもらえる?」

そう言って、陣内は電話を切った。舞は手に汗をかいている自分に気が付いた。聞きたいことはたくさんある。でも伝えたいことは1つ。


 陣内は公園のベンチでのんびりしていた。いつもスーツを着ていたが、今日はラフな格好だ。舞に気付き、手を振る。

「宮下さんから連絡くるなんて、驚いたよ。でも、宮下さんで良かった。1ヶ月、自分の仕事をしていなかったから、今日は仕事関係で連絡はないだろうと思って、楽にしていたから、知らない番号から、かかってきて、少し慌てた。こんな格好で仕事をするわけにいかないからね。」

舞は駆け引きなんて出来ない。やったことがない。そのため、単刀直入に聞くことにする。

「なぜうちの社内では違う携帯使っていたの?スパイ疑惑が出てるけど。」

「うーん、スパイか。否定は出来ないかな。最初は確かに企業秘密を知ることが出来たら、利用できると思ってアポを取ったしなぁ。違う携帯電話を使った理由もトラブル防止だし。でも柴田社長に1ヶ月働けって言われた時点で諦めたよ。この人の弱みは握れないし、取引相手にすら、無理だなって。だから、最後の日に柴田社長に、こっちの番号を教えたら、やっと本気で取引相手として認めてくれたようで、嬉しいよ、と皮肉を言われた。あの人には勝てる気がしないなぁ。偉そうなこと言ったけど、俺は目的のためなら、グレーに立ち入る人間なんだよ。」

陣内は少し自嘲気味に笑う。

「でも、会社の仲介をしたいっていうのは、本当なんだよね?」

「うん、ただ大規模の会社がフリーの俺の話なんて聞かないからね。多少グレーゾーンに入って、仕事していた。でも今回で、反省した。良い会社だよね。きちんと柴田会長は俺を見て、話を聞いてくれたし、社員も外物の俺に親切に教えてくれた。それ言って良いの?っていう内容もあったよ。そしたら、今までの自分が恥ずかしくなってきて、自分を信じてもらって、きちんと取引してもらえるような仕事のやり方をしていこうって思ったよ。柴田社長みたいに聞いてくれる人はいる。俺次第だよなって。最後に宮下さんに言った、本気で勝負しなよっていう言葉は、半分は自分に向けた言葉だったなー。」

「どうして私を誘ったの?」

「うーん、難しいな。そこは自分でも良く分からない。最初は情報収集のためだったし、柴田社長のお気に入りだと思って、役立つかな、という気持ちもあったかな。でも口を割らないと分かって、諦めようと思ったけど、ちょっと面白いし、勿体無いなって思ったから、取引持ちかけたのかも。」

「面白い?」

「面白いでしょ。あそこまで自分を隠している人間なんて、なかなかいない。本音を聞いてみたいと思うよね。ゲームは難関な方が燃える。」

「私はゲームだったわけね。確かに同期にも珍獣観察日記と言われたけど、少し、ううん、すごく嫌だな。」

舞は、少し腹が立った。他人に対してそういう感情を持つことは舞にとって珍しいことだ。心の奥で、驚いている自分がいた。

「アハハ、例えとか比喩表現だよ。でも珍獣は良い表現だなぁ。良い同期だね。良く分かっている。」

陣内は笑う。

「まぁ、最後まで変えることは出来なかったけど、ちょいちょい本音が出てきてたから、少し仮面は剥がれたかな。」

舞は恋や愛という感情を知らない。でも陣内ともう少し話をしてみたい、陣内のことを知りたいと思う。そういう風に思える人と今まで出会ったことがない。そして、陣内といることで舞は変わった。

「ねぇ、私と取引しない?本当の携帯番号を黙っている代わりに、毎週カフェで一緒にランチを食べる。時間制限なし。仕事の話は企業秘密以外ならOK。お金も割り勘。陣内さんのメリットは珍獣の観察と美人とご飯が食べられること。私のメリットはリハビリ。悪い条件じゃないと思うけど?」

舞は、笑って陣内に言う。

陣内は、驚いた顔をしている。こんな表情をみるのは、初めてだ。


舞編完



第三章 ののか編


【エピローグ】

 雨が降っている。ののかは、傘をさす気になれない。この傘は、戒めであり、希望だ。ののかは、傘を抱きしめる。


  ***

 聞いていない。これはどういうこと?

ここは、会社の同期のエリカの結婚式会場。結婚式といっても、新郎新婦の誓いなどはなく、エリカがウェディグドレスを纏っているだけで、結婚パーティーといった方が正しい。

「ねぇ、これどういうこと?エリカがK社長と付き合っていたなんて聞いていない。」

同じく同期の舞に尋ねる。

「えっと、相手が相手だから、あまり人には言えなかったんじゃないかな。そもそもエリカは自分のこと話さないじゃない?」

「でも舞は知っていたんだよね?それなら、私にも話してくれても良いじゃない。」

「私は偶然、2人の出会いに居合わせていたから…」

舞は申し訳なさそうに言う。舞は話をそらす。

「エリカ綺麗だねぇ。やっぱりシンプルなドレスが似合う。私には無理だなぁ。」

「なにが無理なの?舞は普通の結婚式あげたいタイプでしょ。相手もいるし、嫌味にしか聞こえない。」

なぜか舞が驚いた顔をしている。

それにしても、全くどうなっているの。おかしいじゃない。いくら、美人だからといって、ヤリマンで有名なエリカが、玉の輿。真面目に生きている人間が馬鹿みたいじゃない。そして、舞はずっと隠していた。

舞をもう1度眺める。女性でも見惚れるほど美しい。会場にいる男性の視線が舞に集まっている。ののかはこんな舞を知らない。

「それで、舞は整形でもしたわけ?別人だけど。」

「ハハ、これが、普通のメイクをした私。ずっと目立たないようメイクしていたけど、もう、自分に嘘つくのは止めたの。今まで騙していたようなものだよね。ごめんなさい。」

口数が少なく、自分の意見を言わなかった地味な舞はもういない。舞にも大切な人が出来たのだ。その人が舞を変えた。

「陣内さんは、私が狙っていたのに、横取りするなんて、舞もひどいよね。エリカと舞が会社で孤立しているのを助けた私が1番損してるじゃない。」

「ごめんなさい。」

そう言って、舞は俯く。こういうところは変わっていない。

「とりあえず今はそれどころじゃない。K社長の友人達が集まっているのよね。うちの柴田社長も来ているし、良い物件が揃っている。ここでゲットしたら、私も玉の輿。頑張らなきゃ。あ、舞は近付かないでね。あんたが近くにいると、奪われるから。」

そう言って、ののかは会場を見渡す。エリカの結婚は腹が立つが、これはチャンスだ。逃してはいけない。

まずは、あそこからだな。男性4人が話しているところに向かう。

「初めまして、エリカの友人の松井ののかと申します。すごく素敵なパーティーですね。榊さんとエリカらしい。」

ののかは精一杯の微笑みと優しい声を出し、話しかける。

男性達も自己紹介をする。エリカの夫、榊隆弘の高校時代の友人のようだ。会社名は言ってくれない。だか、榊社長の友人だ。ハズレはないはず。

「榊さんには、感謝の気持ちでいっぱいです。エリカは少し社内で孤立していたので、支えになってくれる人が見つかって、本当に良かった。みなさんのような素敵な友人に囲まれて、幸せだから、榊さんはエリカを守ろうとしてくれたんですね。」

そう言うと、榊の友人達はお互い顔を見合わせ、

「あぁ、そろそろ隆弘に挨拶に行くので、それでは。」

と去ろうとする。ののかは、慌てて、

「私は、こちらで勤務しておりますので、なにかお力になれることがありましたら、連絡下さい。」

と、名刺を渡す。

ののかは今日のために、自分の名刺に携帯番号を手書きで記入した。それを4人に配る。

しかし、相手からは名刺はもらえなかった。

榊社長を褒めつつ、友人の幸せを願う友人、おかしいな、良い設定のはず。

まだまだ獲物はいる。引きずっていては時間の無駄だ。次に進まなくては。

そうして、声をかけまくったが、皆ののかの元を早々に去っていく。名刺を渡したが、相手の名刺は1枚も、もらえていない。

舞の方を見る。舞は声をかけてきた男性をやんわりと断り、コックの格好をしている男性と話している。陣内も来ているのだから、一緒にいれば良いのに。そうすれば、舞に声をかける男性はいなくなる。全く分かってない。しょうがないか、どんなに美しくなっても、所詮は引きこもりだもんね。

ほとんど声をかけたため、もう声をかける男性はいなかった。とりあえず餌は撒いた。あとは、電話が来るのを待つだけだ。だが、かかってくるのも、早くても明日以降だろう。そのため、料理を食べることにした。

進行役の男性がマイクで話す。

「今日の料理は新郎の隆弘さんが作り、デザートはお2人の出会いの場所である麒麟のシェフ、大沢さんが作ってくれました。是非堪能して下さい。」

はぁ?榊社長が作ったの?これ、一流レストランに出てても不思議じゃないレベルじゃない。ののかはエリカにさらに腹が立つ。

すると初老の男性が料理を取ろうとしているが、足元がふらついており、苦戦しているのが目に入った。

ののかは、その老人の元に歩み寄り、

「何を召し上がりますか?お取りしますよ。」

と、声をかけた。

「あぁ、すまんね。じゃぁ、頼もうかな。鴨のローストと、あとはお前さんのオススメを選んでくれないか?」

「そうですね、サーモンが美味しかったのでカルパッチョと、生ハムのピンチョス、ベビーリーフとチキンのマリネ、あとはパエリアでどうですか?」

「フッ。それで良いよ。よろしく。」

何故笑ったのだろうか?取ってもらう分際で。ののかは気分を害するが、顔に出さず、取り分けた料理を渡す。

「ありがとうな、お嬢さん。」

そう言って、老人は歩き出し、椅子に腰掛ける。すると老人のまわりに人が集まる。

あれ、偉い人だったのかな。ののかは、名刺を渡すべきだったか、と一瞬後悔するが、おじいちゃんだし、いいや、と思い直す。


 パーティーは終焉を迎えた。ののかは、舞のところに戻る。舞はまだコックの人と話していた。

「あ、ののか。こちら麒麟のマスターの大沢さん、1度連れて行ったけど、覚えている?今日のデザートは大沢さんが新作をすごく考えてくれて、作ってくれたんだよ。本当に美味しかった。」

「そう言ってくれて、良かった。新作だから、少し自信がなかったけど、榊の野郎が苦戦していると密かにアドバイスしてきやがって。どっちがシェフなんだか。本当に憎たらしい奴だよな。これでエリカちゃん、泣かせたら、ぶん殴ってやる。」

大沢は笑って言う。

麒麟には一度だけ、エリカと舞に連れて行ってもらったことがある。確かに美味しいが、気に食わなかった。すると、エリカと舞にだけ、デザートが渡された。ののかは抗議した。

「私の分は?」

「お前さん、残しているだろう。お腹いっぱいなんだろうから、出さなかったんだよ。」

「女はデザートは別腹なの。私にもちょうだいよ。」

「全部食べたら、出すよ。」

「そう。じゃぁ、もういいわ。」

思い出すだけで、ののかは腹が立つ。客商売なのに、何様よ。

「デザート美味しかったです。舞、帰ろうよ。」

「え、でも私、大沢さんの手伝いしてから帰ろうと思って。」

「舞ちゃん、大丈夫。あの野郎が片付けも手配しているから、俺も何もやることないんだよ。またお店に来てくれよな。」

「もちろんです。私とエリカのオアシスですから。」

舞は笑って答え、別れの挨拶をする。

大沢は1度も、ののかを見なかった。ののかのことを覚えているのだろう。

あんなお店のシェフなんて、どうでも良い。ののかも挨拶せずに舞を連れて、大沢の元を立ち去った。


 駅に向かう途中、パーティーで最初に話しかけた4人組が前を歩いていた。

「隆弘、良かったなぁ。最初の奥さんは、悪いけど好きになれなかったけど、エリカさんは申し分ないな。いや、隆弘には勿体ないくらいだ。俺の嫁になって欲しいよ。」

「ばーか、お前なんて相手にされないよ。まぁ、隆弘は面倒だから、エリカさんも大変だろうなぁ。それを考えると俺の嫁になるべきだな。」

「お前ら、なに馬鹿なこと言ってるんだよ。」

そう言って、4人組は、笑っている。

「そういえば、エリカさんの友人にすごい美人がいたなぁ。エリカさんとは別種類の美人。エリカさんと話している姿をみたとき、2人だけ別世界の人間に見えたよ。」

「確かに。愛想は良いのに、下界の人間が声かけてはいけないオーラを感じたよな。まるで女神。」

「もう1人友人と名乗る女がいたじゃん。渡された名刺は見たか?手書きで携帯番号を書いてあるよ。友人の結婚式で男漁り、魂胆バレバレで痛々しいよなぁ。本当にエリカさんの友人なのかな?友人でああいう言い方するって、人間性疑うよな。でもその人に連絡すれば、女神と繋がるんじゃん?」

「嫌だよ。ああいう人間と関わりたくない。それに女神は下界の人間と関われないんだよ。」

そう言って、4人はまた笑う。

ののかは舞を引っ張り、ちょうどあった、カフェに入る。

「なにあいつら。最悪。あんな友人をもつ隆弘さんの底が知れたね。」

ののかは激怒する。

「ののか、エリカを悪く言ったの?」

「ただエリカが社内で少し孤立しているって言っただけ。悪口じゃない、事実でしょ。」

舞はため息をつく。

「あー、もう最悪。でも名刺を渡したのは、あいつらだけじゃないし、まだ望みはあるから、忘れよう。」

「ねぇ、ののかの行動がエリカの評判を下げる可能性があることを分かっている?それに今日一度もエリカのところに行かなかったでしょう。おめでとうって、ちゃんと言った?」

「急に美人になったら、性格まで変わって、説教までするとは、さすが女神様。」

ののかは皮肉を言う。舞は唇を噛み締める。

「あの人達は、私を女神と言ったけど、別世界の人間って言ってるの。つまり、私と連絡取ろうとはしない。結果はののかと変わらないじゃない。いつもそうやって、周りが私のことを勝手に判断していく。それが嫌だったから、ずっと自分を隠してきた。だけど、もう他人の目を気にした生活なんてうんざり。私は何を言われようと、もう自分の好きな道を選ぶことに決めたの。」

舞がこんなに話すのを初めて見た。圧倒されながらも

「連絡が来なかろうが、舞には陣内さんがいるし、女神様は褒め言葉なんだから、良いじゃん。私は痛々しい女よ。一緒にしないでよ。本当にエリカも舞も外見が良いから、得してて良いよね。」

「ののかの行動に問題があるから、そう言われてるんだよ。私、帰る。」

初めて、舞が怒った。

「あ、帰るのは良いけど、お金。」

「え?私、何も頼んでないけど。」

「私は頼んだ。奢ってくれても良いでしょう。お金貯めているんだから。」

舞は、呆れた表情を浮かべて、千円札を置いて出て行った。

男が出来ると女は変わる。見事に変わったもんだな、とののかは思う。今の舞は自信に満ち溢れている。いつも人の顔色を伺い、おどおどしていたのに。でも結局は美人という切り札があるから、変われたんだ。平凡な私には、幸せになる権利はないわけ?

ののかは頼んだカフェオレを飲みながら、神様は不公平だと考える。


  ***

 最近、エリカや舞が他の同僚と話すのを見かけるようになった。今まで皆、2人を避けていたのに、2人の変わりように、食いついているようだ。そして、おこぼれに預かろうと考えているのだろう。気に食わない。

ののかは、舞の整形疑惑やエリカが色仕掛けで社長を口説いた、など2人の悪い噂を遠回しに周りに話した。「私はそんな話、嘘だと思うんだけどね。」そう言って、2人のフォローは、しっかり行う。

今さら、私以外の人間がおこぼれに預かろうなんて、許さない。

エリカも舞も、言っていたじゃない。周りにどう思われようが、気にしないって。


 舞からメールが届いた。

「エリカの結婚祝いなんだけど、あげたいものがあるの。一緒にあげない?」

「いや。」

ののかは、一言で返信する。エリカは社長夫人だ。なぜそんな裕福な人間にお金を出さなきゃ、いけないのか、ののかには理解できない。

「分かった。お金は出さなくても良いから、2人でってことにしてもらえないかな?ちょっと高いから、私1人であげたとなると、エリカが気を使ってしまうから。ののかが他にあげたいものがあるなら、諦める。」

「2人でってことで良いよ。でもお金は出さないからね。」

ののかは、念押しする。

「じゃぁ、今週の日曜日空いてる?その日は隆弘さんもいるらしいから、お祝いしたいんだ。」

「OK。」

そう返信しながら、お祝いならこの前したじゃない、面倒くさい。でも隆弘に気に入られたら、良いことがあるかもしれないから、いっか、とののかは考え直す。


  ***

 日曜日。エリカの自宅の前で舞と集合した。

「すごいマンションだね。さすが社長。そういえば、お祝いの品は持ってきていないの?」

ののかは、舞に尋ねる。

「うん、大きいから、今日直接ここに届けてもらうように、お店にお願いした。ねぇ、ののか。社長とかそういう風に相手を見るのはやめた方が良いよ。相手に失礼だよ。」

舞は不安気に言う。ののかが機嫌悪くすることを恐れているのだろう。

「はいはい、分かりました。」

ここで舞と言い争ってもしょうがない。やる気なく返事をする。舞はほっとした様子だ。


「いらっしゃい。」

榊とエリカが出迎えてくれる。舞は笑顔で

「お邪魔します。」

と答える。なんて茶番。そう思いながらも、ののかも笑顔で、

「お忙しい中、すみません。お祝いを伝えたくて。お邪魔します。」

と隆弘に向けて言う。

リビングに通される。広い。無駄なものはなく、家具など高そうであるが、お金持ち感が主張されていない。センスが良い部屋だ。

ののかはため息をつく。羨ましい。

するとゴールデンレトリーバーが、エリカにまとわりついている。

「可愛いですね。触っても良いですか?」

ののかは犬に興味はないが、愛犬家は犬を褒められて、悪い気はしないはずだ。

ののかが手を伸ばすと、犬は、エリカにまとわりついていたときとは別の犬のように、鼻に皺を寄せ、「ゔゔ」と唸る。

「リブは人見知りなんだ。エリカ、リブをフェンスの中に戻して。なかなか一緒にいてあげる時間を取れないから、自分が家にいる時は、フェンスから出して、好きにさせておいているんだけど、先にフェンスに戻すべきだった。ののかさん、ごめん。怖い思いさせたよね。だけど、噛んだりは絶対しないから、安心して。」

隆弘が言う。

「あ、大丈夫です。」

ののかは、微笑みながらもフェンスから出来るだけ離れた席に移動する。


 インターフォンが鳴る。

「あ、西野かな。今日2人が来るって言ったら、西野が珍しく来るって言ってきたんだよ。断る理由もないから、承諾したけど。あ、舞さんは知っているよね。ののかさんはこの前のパーティーに来てたけど、西野は、仕事関係で挨拶して回ってたから、多分知らないかな。俺の秘書なんだ。」

「西野さんがこういう席に来るなんて、珍しい。どうしたのかな。とりあえず出迎えてくる。」

エリカが立ち上がる。ののかはK会社の秘書か。悪くないな、と思う。


 エリカと共に、眼鏡をかけたやや冷たい印象がある男性が入ってきた。

舞が持参したケーキを食べていた私たちをみて、

「すみません、俺もケーキを持ってきてしまいました。気が利かず、申し訳ない。」

西野はエリカに謝った。

「大丈夫。甘い物大好きだから。目を離したら、榊が全て食べちゃうわ。」

エリカは笑って西野と話している。

年齢は30代前半か、冷たそうだが、ルックスも悪くないな。ののかは、西野を見定める。

「はじめまして、エリカの友人の松井ののかです。」

笑顔で、西野に自己紹介する。

西野はののかを一瞥すると

「榊の秘書の西野です。お噂は聞いています。よろしくお願いします。」

西野の目が一瞬鋭くなった気がした。

「えー、噂ってなんですか?エリカ、なんか変なこと言ってないでしょうね?」

ののかは笑って、エリカに尋ねると、エリカは不思議そうな顔をしている。

え?噂ってエリカが何か話したんじゃないの?舞も西野とは顔見知りのようだが、2人で話すような仲ではなさそうだ。しかし隆弘が私のことを話すとは思えない。どういうことだ?

考えていると、またインターフォンが鳴る。

「あれ、もう他には誰も呼んでないよね?」

エリカが隆弘に尋ねる。隆弘は頷く。

「なんだろう?」

エリカはインターフォンに出ると、宅急便だった。舞が選んだ結婚祝いだ。

「これ、私とののかからの結婚祝い。気に入ってもらえると良いんだけど。」

舞が照れ臭そうに言う。

「ありがとう。開けても良い?」

それは、1枚の絵だった。ののかは知らない絵だ。エリカは固まっている。

「なんで…」

エリカは呟くように言う。

「エリカは私の初めての友人。これでも隆弘さんより、エリカのことを知っているつもり。まぁ、すぐ抜かされちゃうだろうけど。気に入ってもらえたかな?」

女神の微笑みで舞は言う。

「うん、本当にありがとう。舞、ののか。」

エリカは泣きそうな表情をしている。いつも気丈なエリカのこんな表情を見たのは、初めてだ。そんなに大事な絵なのだろうか?ののかは絵には疎いが、有名画家の絵には、見えない。高いとは言っていたが、舞が1人で購入したということは、そこまで高価なものでもないだろう。

「さて、俺はそろそろ夕ご飯の準備をするよ。みんなは寛いでて。」

隆弘は場の雰囲気を変えるように言う。

「私、手伝います!」

ののかはアピールする。

「ののか、やめといた方が良いわよ。榊は料理のことになると人が変わるから。手を出すと、怒られるわよ。」

エリカは言う。ののかはあまり料理が得意ではない。やめといた方が無難か。

「じゃぁ、お言葉に甘えます。」

料理が出来るまで、雑談した。西野は相槌を打つ程度で、自分から話すことはなかった。

あー、つまんない。もう少し役に立つ話をしてくれないかな。パーティーで、私を気に入った人がいたとか、良い物件の話とか。陣内と舞の結婚についてエリカが言及したところで、ののかは限界を迎えた。

「ねぇ、トイレ貸してくれない?場所はどこ?」

「廊下を出て、右側の扉。」

ののかは、結婚祝いの絵を見る。よし、良い場所にある。トイレを済ませ、

「ありがとう。あっ」

と言って、ののかは壁に立てかけられてた絵につまづく。絵は倒れた。

「……。」

エリカは顔面が真っ青になり、言葉にならない悲鳴をあげ、絵に駆け寄る。

「ごめんなさい。つまづいてしまって。絵は大丈夫かしら?」

ののかは、白々しく言う。隆弘が出てくる。

「ののかさん、大丈夫?エリカ、絵は自分の部屋に閉まってきなさい。」

「あ、ごめん、ののか。大丈夫?私がこんなところに置いたから、ごめんなさい。舞もごめん。せっかくのプレゼントを私がこんなところに置いてしまって…」

エリカはまだ顔色は真っ青だが、ののかに謝り、隆弘に言われたように、絵を大事そうに抱え、部屋を出て行く。

舞は心配そうにエリカを見ている。


 それから30分してもエリカは戻らなかった。

「どうしよう、傷とかついちゃったのかな。」

舞はオロオロしている。隆弘が答える。

「大丈夫だよ。額縁がしっかりしていたから、あの程度で傷がついたりしないよ。多分絵を眺めているんじゃないかな。俺はきちんと聞いたことないけど、あの絵って、あれでしょ?」

「そう…」

あれってなによ?ののかはイライラしながらも言う。

「本当にごめんなさい。私、エリカになんて謝罪すれば良いか…あ、弁償します。」

「ののか、あの絵は1枚しかないの。」

対した絵じゃないだろうに、深刻そうにして。私が悪者じゃない。さらにイライラするが、

「ごめんなさい。私の不注意で…」

と、俯いて謝る。すると西野が口を開く。

「あの絵って、2人からのお祝いって言ってましたよね?松井さんは弁償するって言ったということは、あの絵のこと知らないってことだ。」

やばい、痛いところを突かれた。

「はい、舞があげたいものがあるって言っていたので、それを尊重して、お願いしたので。」

おかしくないはず。しかし、西野は、じっとののかを見ている。不穏な空気になりそうになったところで、エリカは戻ってきた。

ふぅ、助かった。

「エリカ、本当にごめんなさい。私の不注意で大切なものを…」

ののかは、泣きそうに聞こえるように、謝る。

「エリカ、大丈夫?傷とかついてた?」

舞が尋ねる。

「エリカがなかなか出てこないから、2人とも心配して、お通夜状態だったんだぞ。全くお客様がいるのを忘れちゃ、だめだろう。」

隆弘は言葉は厳しいが、優しい口調でエリカに言う。

「ごめんなさい。つい絵を見てたら、いろいろ思い出して、感傷に浸ってしまったの。気付いたら時間が過ぎてて、私も驚いた。心配かけてごめんなさい。絵は問題なかったよ。良かった、2人のプレゼントが傷つかなくて。ののかもごめんね。私の不注意なのに、責任を感じさせてしまって。でも本当にありがとう。もうしっかり保管して、一生大切にするって約束するからね。」

エリカは優しく微笑む。こんな表情もするんだ、ののかは驚いた。


「さて、夕ご飯にしよう。」

隆弘がまた雰囲気を変えるように言う。

食卓には、豪勢な食事が準備されている。エリカはこんな豪華なご飯も作ってもらえる生活をしているわけか。

「相変わらず、すごいですね。それに今日はいつもにまして豪華ですね。」

舞は食事に招待してもらったことがあるのか。ののかは呼ばれていない。エリカの泣きそうな顔を見て、少し反省していたが、またイライラしてくる。

「今日は2人からの最高のプレゼントをもらったからね。出来る限りお返ししないと。」

隆弘さんは笑う。

パーティーの時より、料理は美味しかった。ワインも高級ワインのようで、どんどんすすむ。

ののかは少し酔いが回ってきた。

「ねぇ、隆弘さんにご飯を作ってもらって、家事は家政婦さんがしてくれるんでしょ。エリカは何してるの?」

「そう言われると辛いな。料理したくても榊は私の料理を食べてくれないし、リブの相手くらいしかしてないかも。」

エリカは恥ずかしそうに答える。

「リブはさ、前までは俺が帰ってくるとずっと、俺のそばを離れなかったのに、最近は帰ってくると、一応って感じで俺に挨拶して、すぐにエリカの寝室に自分で入って行くの。人見知りのリブがすぐに懐いたのは、エリカだけだなぁ。あ、西野には、懐いてないけど、唸らないよな。リブの本能がこいつに逆らっちゃ、ダメだと言ってるんだろうなぁ。」

「え?最近起きるとリブがいるのが不思議だったんだけど、あなたがリブを私の部屋に入れてたんじゃないの?」

「いや、リブは見事に自分で扉を開けて、しっかり閉めていたよ。賢いよなぁ。」

そう言って隆弘は笑う。惚気話なんて、聞きたくない。

「エリカ、料理下手そうだもんね。」

「ののか、何を言ってるの?今まで一緒に家で食べてたご飯、エリカが作ってくれていたんだよ?私も手伝っていたけど、手際が良すぎて、ほとんど役に立たなかった。」

舞が驚いたように言う。

「え?いつも舞の家だったから、舞が作っているんだと思ってた。」

西野がニヤニヤしながら、また口をはさむ。

「へぇ、エリカさんがご飯を作って、舞さんはそれを手伝う。それで松井さんは何してるの?」

完全に嫌味だ。ののかがエリカに言った言葉を使っている。さっきもそうだった。西野は何故だか分からないが、ののかを敵視している。

「私は飲み物を買って行く係です。あとは、味見係。」

笑いに持っていけるように、ののかはふざけた口調言う。

「ふーん、まぁ、いいか。エリカさんの味方するわけじゃないけど、エリカさんの料理は美味いよ。でも榊はわがままで、味に妥協しないから、Tホテルのシェフ達がこぞって、榊にレストランに来させるなって泣くほどだからね。一流シェフを泣かせる奴に勝てるわけがないよ。それから、榊は家に着くのが遅いから、エリカさんは、自分の分の料理は自分で作っているよ。」

「あ、エリカに、西野の夕ご飯を作るようにお願いしていたな。西野は仕事人間すぎて、飲食忘れるから、社長命令で、西野にご飯を食べに行くように命令して、エリカにはご飯を作ってもらうようにお願いしていたんだ。お陰で西野が健康になった。うちの会社は西野で持っているようなものだから、エリカのお陰で助かってるよ。」

「は?それエリカと西野さんが2人で夕飯食べているってことですか?それ、良いんですか?男と女でしょ?」

「エリカと西野に限って、間違いは起きないよ。似たもの同士で仲良くはなれるだろうけどね。それに、もしそうなった場合は、間違いじゃなくて、2人が本気のときだろうから、そしたら、俺は何も言えないよなぁ。」

「榊、西野さんに失礼よ。西野さんと私じゃ釣り合わない。陣内さんがいなければ、舞と付き合ってほしかったんだけどなぁ。」

エリカは笑って話す。

「エリカさんこそ、舞さんに失礼ですよ。舞さんは俺には勿体ない。」

そう言って西野は笑う。

なんだこれ?この人達おかしいんじゃないの?信頼しあっている関係?ありえない。ののかは残りのワインを煽る。


  ***

 近々社長同士が集まって交流会をやると聞いた。ののかはチャンスだと思った。これは、参加しなくては。仕事終了後、舞をレストランに呼び出す。

「ねぇ、社長同士が集まって、交流会をするって聞いたけど、エリカは社長のお気に入りだから、行くよね。舞も呼ばれている?」

「通訳してもらいたいって言われて、呼ばれているけど…」

「よし、ねぇ、私も連れて行ってよ。」

「ののか、これは遊びじゃなくて、仕事なの。しかも会社の今後に左右する、そして信頼に関わる大きな仕事。交流会と言っているけど、集まる人達も本気で仕事をしていて、情報収集と相手を見極めにきている人達。その中にののかが参加しても何も出来ない。ののかの対応次第で、場合によっては、会社の信頼をなくして、ののかは良くて解雇、最悪会社が潰れるのは、大袈裟な話じゃないの。」

「でもエリカも参加するんでしょ?舞の通訳は分かるけど、エリカは飾りでしょ。それなら、飾り役にもう1人くらい参加しても大丈夫でしょ。」

「エリカは飾りじゃない。今秘書の研修中なの。本来なら、研修なしで、エリカは秘書に異動する能力を持っているけど、受付の代わりが見つからないから、代わりが育つまで、1日2、3時間秘書の研修という形で今、働いているの。今回も社長の秘書として参加するんだよ。」

なにを偉そうに。ただ社長のお気に入りなだけでしょ。しかし、作戦変更だ。

「分かった。でも私も本気で仕事に取り組みたいの。だから、こういう場に参加することで、自分を変えたいの。お願い。」

「ののかが変わりたいって気持ちは尊重したい。だけど、今回はやめた方が良いと思う。リスクが高すぎる。もう少し段階を踏んだ方が良いと思う…」

あー、もう焦ったいな。

「ハイリスクハイリターン。リスクが高いからこそ、挑戦するべきでしょ?ちゃんと大人しく見学しているって約束するから、社長に頼んでよ。舞のお願いなら社長も聞くでしょ。」

「本当に見学だけ?他の会社の人たちと話さないと約束出来る?」

ののかは、頷く。そんなわけないじゃない。でも言葉にしなければ、約束は成立しない。いくらでも言い訳が出来る。

「分かった。私は一社員だから、相当な理由がない限り、社長と話す機会がない。エリカに相談してみる。でも結局は社長の判断だから、確約はできないからね。」

舞は渋々承諾した。エリカが頼めば、より参加出来る確率は上がる。ののかは心の中でガッツポーズを取る。

「じゃぁ、私は帰るから、ここの会計よろしく!」

「え、ちょっと待って。」

舞が引き止めるが、無視して、店から出た。

さて、着ていく洋服を買わなくては。


  ***

 エリカは秘書研修に来ていた。今日いらっしゃる方は、和菓子好き。お土産持参の可能性もあるから、こちらで用意している和菓子も出せるようにしつつ、玉露系のお茶もすぐ出せるように、準備しておこう。しかし玉露だけで一体何種類あるんだ?エリカはため息をつく。柴田が戻ってきた。

「お疲れ様です。」

エリカは頭を下げる。気が重い。ののかのことを話さなくてはいけない。舞とも相談した。2人とも良い予感がしない。だが、本当に変わりたいと思っているなら、協力はしたい。ののかは勘違いをしているが、柴田は一社員の願いを聞くような人間ではない。いつも頭の中で損得勘定の計算をしている。そのため、柴田の判断に任せよう、と2人で結論を出した。柴田の判断なら、ののかも結果を受け入れるだろう。

「社長、今5分だけお話良いですか?」

エリカは切り出した。社長は着替えながら、手で話を促す。

「明後日の交流会なのですが、経理の松井が参加したいと言っています。仕事に真面目に取り組みたいため、勉強したい、と。見学だけで良い、と話していました。」

着替え終わった社長は、自席に座り、腕を組む。

「経理の松井ね。悪い評判しかないね。あー、君たちは同期だったか。勉強したい、ね。その時点で間違っているよな。どうするかな。普通なら却下。連れて行って、メリットはない。でも、なんかやらかしたら、解雇の理由にもなるし、うまく利用出来る方法があるかな。ハイリスクローリターン。かなりのギャンブルだなぁ。」

柴田は笑って言う。相変わらず腹黒だ。

「うーん、少しでも行動を取ろうとしたら、追い出す、解雇の対象とすることを承諾の上だったら、許可するよ。それから、同期2人で、しっかり見張ること。」

エリカはため息をつく。しっかりエリカと舞にも釘を刺している。お前達が言ったんだから、責任はお前達にある。人の判断に委ねるな、と。


  ***

 ののかは、舞から社長から許可が出たことを聞いて、喜ぶ。

「ありがとう!さすが舞、エリカ。社長のお気に入りコンビ。」

舞は不安そうに言う。

「本当に大丈夫?ちょっとした行動で、ののかは、解雇の対象だよ。社長は粗探しして、解雇しようとしている可能性もあるんだよ。そんなリスクを負ってまで参加するの?あと、あまり言いたくないけど、今回の、ののかの行動で私とエリカも影響が出る。エリカはやっと希望の秘書の道に近づけた。エリカの夢を壊すようなことはしないで。」

舞は、先程の表情とは変わり、厳しい表情になる。

「分かっているよ。大人しくしている。でも舞とエリカはお気に入りなんだから、どうにかなることはないでしょ。私の解雇だって、そんなに簡単に出来ないはず。ちゃんと法律が守ってくれる。そもそもエリカは、働く必要ないじゃん。社長夫人なんだから。働きたいなら隆弘さんに頼めば、就職先なんていくらでも見つかるでしょ。」

舞はため息をつく。

「ののかは社長を知らなさすぎる。あの人は怖い人だよ。お気に入りなんて存在しない。努力をしない人間は簡単に切り捨てられる。結果が出せなくても努力している人間は切り捨てないから、まだマシかもしれないけど。簡単に私達のことを法律に従って、解雇する力を持っているよ。あの若さで、一流と呼ばれる会社を作った人なんだから。それに、エリカに失礼だよ。エリカは努力して、自分の力で仕事をすることに誇りを持っているんだよ。隆弘さんに紹介してもらった会社で働いても、K社長の妻として見られて、自分の正しい評価をしてもらえない。」

「分かったって。もうしつこいなぁ。じゃぁ、明後日Tホテルのロビーで待ち合わせね。」

ののかは、舞の沈んだ表情に気付かず、スキップしそうな衝動を抑えながら、歩き出す。


  ***

 ののかはTホテルのお手洗いで化粧を直す。あまり派手すぎるのは、良くないだろう。イメージは出来る女だ。服装は紺のシンプルなドレスにした。午後に半休をとり、美容室で髪の毛もアップにしてもらった。うん、これで良し。

トイレから出ると舞とエリカと社長がいた。3人はエリカを見て、呆気に取られている。

ん?綺麗すぎたかな。

「君、何を考えているんだ?仕事だと聞いているはずだよな?あぁ、君に何言っても時間の無駄か。約束通り今すぐ帰りなさい。」

柴田は、ののかに呆れたように言う。

「私、替えのスーツを持っています。着替え直させるので、もう少し様子をみませんか?」

エリカが柴田の顔色を伺いながら、恐る恐る言う。

「君たちも馬鹿だな。友人を大切にするのは、良いことだが、相手を選びなさい。本気で仕事をしたいと思っている人間が、こんな格好で来るわけがないだろう。今帰しておいた方が、君達にとっても松井くんにとっても良い結果になると思うが。」

エリカと舞が俯く。

「君達に免じて、きちんと着替えさせたら、今回は目を瞑るが、本当に次はない。松井くんは、参加するなら、解雇の覚悟をしておいてね。」

柴田はそう言って、去って行った。

「ののか、どうする?解雇の覚悟を持って、参加するの?」

舞が不安げに尋ねる。

「参加するに決まっているでしょ。エリカ、早く着替えをちょうだい。」

「ついてきて。」

エリカはフロントと話し、鍵を受け取り、スタッフオンリーと書かれた扉を開ける。そこには煌びやかな世界が広がっていた。何よ、これ。なんて世界なの。私もこういう世界で暮らしたい。

「こんな世界でエリカは暮らしているわけか。はぁ、一般人を馬鹿にしているわね。」

「そんなことは今はどうでも良い。現状をわかっているの?ののかは今崖っぷちよ。解雇は免れても、今後相当な成果を出さない限り、ののかはあの会社で生きてはいけない。今日ののかが、交流会で取るべき行動を着替えながら、教えるから、しっかり聞いて。」

エリカはスーツを取り出し、舞はののかの髪をほどいていく。

「あぁ、せっかくわざわざ美容院に行って、やってもらったのに。」

「今回私達は、社長の補佐で来ているの。脇役よ。主役達より脇役は目立ってはいけないの。それを絶対忘れないで。ののかは、社長達に有益な情報がある?ないでしょ?だから、口を開いては駄目。約束通り、部屋の端で見学していること。それが出来ないのなら、終わるまで、ここから出さない。」

黒のスーツに着替えさせられ、髪の毛はお団子にまとめられた。

「髪の毛の色と艶出し、お化粧も直したいけど、時間がないから無理だね…」

舞が呟く。スーツはシンプルなデザインだが、黒の色味とデザインが高級さを物語る。

「このスーツ高いでしょ。」

「目立たないことは大事だけど、品は持たなきゃいけないの。安いスーツで参加したら、会社の信用に関わるのよ。ここに参加する人たちは、みんな目利き。そういうところをきちんと見て、判断するの。それよりも、本当に約束出来るの?」

エリカが問いただす。

「もう、分かったって。見学していれば、良いのね。」

ののかは、収入の高い男性と結婚して、専業主婦になるつもりだ。今後なんてどうでも良い。だが、良い男性を見つけるために、この会社の肩書きは必要だ。しょうがない、相手から声をかけてもらえるのを待つとしよう、とののかは思う。


  ***

「本日はお集まりいただきまして、ありがとうございます。今回K会社の榊社長と話し合い、日本経済のためにも、お互い手を取り、会社の発展を目指していくことを目標とし、交流会を開くことにしました。企業秘密も大歓迎です。あちらにいる宮下(舞)は、英語、仏語、独語、中国語、韓国語はもちろん、その他の言語に精通しております。日本語では伝わりにくいこともあるかと思いますので、お困りの際は、宮下に声をかけて下さい。」

舞が一歩前に出て、会釈する。

「では、皆様にとって有意義な時間を過ごせることを願っております。」

会場に集まった人達が柴田に拍手を送る。そして、皆が名刺交換をしながら、話し始めた。

ののかは自分の名刺を差し出したくなるが、さすがに自重する。すぐ追い出されてしまっては、意味がない。せめて話しかけてきてくれる人を待つべきだ。近くにいる人達の会話を聞く。

「A会社のシステムはよく出来てますね。お陰で業務の短縮になりました。」

「うちはB会社を使用してますが、どういったところが、具体的に良いですか?」

ののかには、ここから先の内容が全く理解出来なかった。

その会話に知っている男性が参加した。舞の恋人の陣内だ。

「そのシステムでしたら、さらにバージョンアップしたシステムを開発した会社があります。まだ設立したばかりで、若い優秀な人間を集めた会社なのですが、将来有望だと自信を持っております。」

陣内は名刺を取り出し、

「私は良いものを正しい評価をしてもらえるよう、または良い関係を築けるよう会社同士の橋渡しをしております。さまざまな会社の情報を集めておりますので、お互いの利益につながる会社をご紹介致します。ぜひ、困りごとなどありましたら、ご連絡下さい。ご相談は無料ですので、ご安心を」

そう言って陣内は笑って、その場から、離れた。

陣内も呼ばれていたのか。フリーの彼にとって、この場はチャンスだろう。柴田の配慮かな。ののかは思う。

その後も他の人達の会話を聞くが、エリカ達に言われなくても、口を開くことは出来なかった。仕事の話しかしていない。その内容もののかには、外国語を聞いているかのように、全く理解が出来ない。接待のお店などなら参加できるかと思ったが、彼らが話すお店はネットに載っていないお店であった。ののかに声をかけてくる人はいない。エリカは、ここにいる人達は、目利きだ、と言っていた。皆が、ののかを見て、ののかの話を聞く必要を感じていないのだろう。

舞を見ると、女神の微笑みで通訳をしている。エリカは、柴田の隣で、会社の商品などの説明を行っている。時々柴田が「それは企業秘密だよ。うちの会社を潰す気か?全く、榊はまだ秘書歴が浅いので、皆さん、うちの企業秘密を聞くチャンスですよ。」と言って、周りを笑わせている。

場違いだ。ののかは思う。ののかはここにいる人達の妻になりたい。しかし、彼らの頭には、仕事以外に興味がないようだ。エリカや舞ですら、仕事以外の会話をしていない。

あーぁ、時間とお金の無駄遣いしたな。ののかは、諦めて、シャンパンを飲み続ける。

柴田が壇上に立つ。

「さて、まだまだ続けたいところですが、明日も皆様も仕事があるでしょう。仕事の支障になっては、この会の意味がありません。私としては、是非今後もこういった時間を設けて、情報交換をしていきたいと考えております。最後に次回開催に向けて、今回気付いたことなど、ご意見を頂けると幸いです。挙手でお願い致します。」

参加者の規定はどうするのか、など意見が飛び交う。

ののかはうんざりしていた。何故この人達はこんなに頑張っているのか。仕事以外の楽しみはないのであろうか?仕事なんて、所詮お金を貰うためのものじゃないか。ののかは我慢の限界だった。フラフラしながら、壇上に上がる。

「私からも1つ皆様に情報を提供したいと思いまーす。榊社長も柴田もそこにいる社長秘書であり、榊社長の妻であるエリカに色気で騙された人間と社内では、評判です。そんな人間達をみなさんは信用して良いんですかー?」

舌が回らないような口調で話す。会場は一瞬どよめくが、一気に静かになり、ののかを軽蔑の眼差しで見ている。西野が壇上に上がってきた。

「弊社の信用も落とす発言でもあるため、僭越ながら、発言を致します。私はK社の秘書の西野と申します。ただ今の松井さんの発言は、事実無根でございます。榊が色仕掛けで騙されたという内容においては、反論はありますが、立証は困難であるため、今回は置いておきます。しかし、社内で評判との発言においては、社内で噂を流している人間は松井さん、ご本人と調査の結果で分かっており、証拠の提示が可能です。彼女の口調、態度をみれば、良識のある皆様にどちらが正しいか、お分かりだと思いますが、皆様に正確な情報をお伝えしたく、出過ぎた行動をとったことをお詫び申し上げます。」

西野は頭を下げ、壇上から降りる。ののかは、血の気が引いていく。

「おい、柴田。お前さん、少し調子に乗っているようだな。自分の社員の教育もまともに出来ていないのに、偉そうになったもんだ。榊も部下の教育がなっていないな。この場はお互いの会社の利益につながるための会だろう?それが、なんだこれは。冗談にしても悪趣味だ。全く、こんな茶番を見るために、大事な時間を奪われるのは、我慢ならん。」

皆が一瞬で道を開けた。そこには、エリカの結婚パーティーで会った老人がいた。

「大関会長…誠に申し訳ございません。」

大関会長ってあの大関財閥の?ののかは驚く。

「宮下さんだったかな?その松井さんとやらは奥に連れて行きなさい。お前さんはここには必要はない。邪魔だ。」

舞は慌てて、ののかを引っ張り、エリカに目配せし、会場を飛び出し、ベッドルームと思われる部屋に、押し込んだ。


  ***

「さて、有意義な時間を取り戻せるように、きちんと話をしようじゃないか。お前さんの会社が本当に信頼出来るか、ここからのお前さんの言動で皆が判断するだろう。柴田、何故松井さんとやらを参加させた?この場に相応しくない人間だと思わなかった、などほざいたら、社員を見ていない社長だと信頼を失うぞ。」

大関は鋭い目で、柴田を見る。

「松井本人が仕事に真面目に取り組むために、参加を希望致しました。トラブルが起きる可能性は予想しておりましたが、松井の成長を願うために見学のみという約束で、参加を許可致しました。」

「ほう、言い訳は上手くなったな。だが、腹黒のお前さんじゃ、腹に一物持っていただろうな。もう充分お前さんの株は落ちたからな。これ以上は言わんといてやる。それで、榊さん、あぁ、ややこしいな。妻の方じゃ。エリカさんと言ったかな。お前さんは、こんな腹黒の社長の秘書で納得いっておるのかな?」

大関会長は、今度はエリカに振る。試されている。だが、ここで物怖じしてはいけない。

「お初にお目にかかります、大関会長。榊エリカと申します。」

エリカは頭を下げる。

「まずお伝えしたいのは、柴田は、会社の利益優先であり、色仕掛けに引っかかるような相手ではございません。しかし、社員を正しく評価致します。たとえ結果を出せなかった社員でも、努力している人間には、チャンスを与えます。そして、全社員の働きを自分の目で確認しております。そのため、柴田のおかげで、私は今、外見などではなく、努力や仕事の能力の評価を得て、ここに立っていると、自信を持って言うことが出来ます。柴田が腹黒であることは否定致しませんが、柴田のおかげで、与えられた立場以上になろうと、努力することが出来ました。友人にはなりたくありませんが、仕事相手として、信用できる相手と認識しております。」

「おい、柴田。腹黒は否定してもらえなくて、残念だったな。だが、優秀な社員を持ったお前さんは、救われたな。上司を立てつつ、ユーモアも入れる。さらに会社の信用も取り戻す。見事としか言いようがない。柴田には勿体ない。うちの会社に欲しいな。お前さんなら、倍の給料払っても惜しくないわい。あぁ、さっきの宮下さんも欲しいな。あれもかなりのもんだ。エリカさんとやら、宮下さんにも伝えといてくれ。腹黒に愛想をつかしたら、いつでもくると良い。お前さん達の外見じゃない、わしはきちんと中身で評価して、その分の報酬を払うぞ。」

大関会長は笑う。

「ありがとうございます。私などでは、大関会長の役には立ちません。そして、柴田には恩があります。その恩を返し、大関会長の元で働く能力を身につけることが出来たら、その際はよろしくお願い申し上げます。」

エリカは言う。

「大関会長、2人は我が社の切り札です。2人が辞めたら、うちは潰れますので、勘弁して下さい。」

柴田は泣きそうに言う。

「それは、2人が決めることだ。愛想をつかされないように、精進することだな。さて、榊。部下がお前さんを大切に思っていることは伝わったが、とんな理由があろうと、公の場で他人を陥れるような発言をするようじゃ、まだまだだ。部下の発言はお前さんの責任。しっかり教育しなおせ。だが、良い妻のおかげで、お前さんは株を落とさないで済んだな。全く。お前さんに良く落とせたもんだ。」

大関会長は、今度は隆弘に向けて言う。

「まず皆様に不快を与えてしまったことをお詫び申し上げます。西野は会社を思う気持ちが強く、そこが長所でもありますが、短所ともなります。本人も今、大変反省していることでしょう。この度は私と西野の成長の場となりました。大関会長には、大変感謝しております。しかし、皆様の貴重な時間を私達の成長に割いてしまう結果となったことは事実。誠に申し訳ございません。食や建築においては、自信がありますので、お困りの際はご相談下さい。接待の際の料理などもお任せ下さい。もちろん無償でご満足頂ける対応を致します。」

隆弘は会場の皆に頭を下げ、そして、

「私の人生において、妻が自分を選んでくれたことが、1番の奇跡かもしれません。」

大関会長に向け、笑う。

「さて、皆、最後は慌ただしくなったが、わしは今日は有意義な時間だったと思う。我々はライバルでもあるが、良きライバルはお互いを向上させる。柴田には、きつく言ったが、優秀な社員を育てた実績もあり、その社員に信用もされているようだ。その点は評価するべきだとわしは考えておる。今回の不祥事の罰として、次回開催の幹事は、柴田にやらせるとして、今後も続けていくのは、どうだ?」

会場の皆が拍手をする。

エリカは、さすがだな、あの不穏な空気を綺麗に収め、次に繋げる方向に持っていった。柴田や榊を怒ったのも、試したのもあるだろうが、場を収めるための1つの演出だろう。大関会長の手腕に感服すると同時に首の皮一枚でつながった、と安堵する。


  ***

 舞に連れてこられてから、ののかはベッドに横たわり、不貞腐れていた。

「ねぇ、まず言うことないの?」

舞が悲しそうな顔で尋ねる。

「えー、あぁ、約束守らなくてすみませんでした。」

ののかはやる気なく答える。

「違う、謝って欲しいのは、そこじゃない。」

ののかは、無視する。それ以上、舞も何も言わず、無言のまま時間が経つ。

そこに柴田が現れた。鬼のような形相だ。

「何を考えているんだ!会社を潰したいのか?うちの会社に何人の社員がいると思っているんだ。その社員達の人生を危うく壊すところだったんだぞ。K会社からも、良くて取引中止、最悪訴えられていた。榊、あぁ、分かりにくいな。エリカくんがいなければ、本当にうちの会社は終わっていた。飛び込むなら、1人で飛び込んでくれよ。周りを巻き込むな。今すぐ解雇したいところだが、エリカくんがどうしても、というから本当に最後のチャンスだ。きちんと仕事をしろ。今まで通りの仕事の仕方をしていたら、1ヶ月で解雇する。」

そう言って、柴田は出ていった。

エリカがののかが出ていった後の会場のことを話す。

「ねぇ、大関会長は私のことは誘ってなかったの?」

2人は呆気に取られている。

「ねぇ、まず言うことないの?」

舞と同じことをエリカが聞いてくる。

「さっき、舞にも聞かれて、謝ったよ。約束破ってごめんって。あとクビにならないように説得してくれてありがとう。」

「そこじゃないよ。」

エリカは悲しげに言う。舞も俯いている。なに、2人して。

「それより、大関会長は?」

「それより、か…ののかのことは、誘ってなかったよ。」

エリカはそう言うと、舞の方を向き、

「私は秘書の研修始まったばかりだし、行けないけど、舞には良い話だと思う。大関会長は尊敬出来るし、正当な評価で給料も決めると言ってた。舞の夢を早く叶えるチャンスだと思うんだよね。」

「でも私の予定ではあと2年なんだよね。誘ってもらって2年で辞めるとは言えないよ。」

「そっか。大関会長は2年でも良いって言いそうだけど、舞の性格上そんなこと出来ないよね。まぁ、舞の夢を柴田も理解しているし、残った方がスムーズにいくか。」

なに、2人で話してんの?ののかは苛立つ。

「ねぇ、2人が誘われて、私だけ誘われないのは、やっぱりおかしいと思う。大関会長は、言い忘れただけじゃないかな?大関会長に直接聞いてみようかな。だって、私エリカの結婚パーティーで、料理取り分けてあげたんだよ?」

「ののか、本当にやめなさい。そんなことしたら、本当に会社が潰れるよ。解雇じゃ済まない。損害賠償請求の覚悟も必要だよ。そもそも大関会長に連絡を取る自体、無理な話。」

「エリカは名刺もらったんじゃないの?それ見せてよ。」

「もらってない。もらってても絶対に、ののかには見せない。ののかは、分かっていない。会社が潰れたら、私達も路頭に迷うの。私達だけじゃなくて、全社員がね。そんな危険なことを出来るわけがない。」

「エリカ達は大関会長に誘われているんだから、路頭に迷うことないでしょ。私はこのままじゃ、1ヶ月でクビなんだよ。可哀想だと思わないの?」

「悪いけど、思わない。約束を破った、ののかの自業自得だと思う。ののか1人となにも問題を起こしていない全社員のことを考えたら、真面目に働いている全社員の安全を守る。」

「2人が会社で孤立しているのを助けたのは誰だと思っているの?本当に薄情ね。」

「私、片付け手伝わなくちゃいけないから、もう行くわ。ここも片付けなきゃいけないから、遅くても23時前には、この部屋を出ていってね。」

そういって、エリカは出て行った。

「なに、あの態度。ひどい。社長のお気に入りだからって、人を見下して。」

「ののか、前にも言ったけど、社長はそんな甘い人じゃない。社長のお気に入りなんていないよ。エリカは最初から、秘書を希望していた。面接でなんて言われたか、知っている?

「君を秘書にしたら、愛人だと思われるから、駄目だね。君は優秀だけど、人とコミュニケーション取ることが出来ないし、なんでも卒なくこなすタイプ。優秀なだけの人材は、うちには必要ない。秘書に向いてないよ。そうだな、君を雇うなら受付だな。うちの受付は、社内で1番大変な部署だ。そこで業務をこなせるようになったら、秘書の道も開けるかもね。まぁ、うちの受付を3年勤めることが出来たら、ヘッドハンティングされるレベルになるから、秘書より違う道を選ぶかもしれないけど。あと、君はプライドが高いから、危ういんだよね。だから、3ヶ月は契約社員。3ヶ月後評価して、正社員か契約終了にするけど、それでも良ければ、うちに挑戦してよ。」

と言われて、エリカは契約社員で入社したの。エリカは頑張ったから、認められて正社員になれたけど。エリカの努力をお気に入りなんて簡単な言葉で言わないで。」

「受付なんて、ニコニコ笑ってれば良い仕事じゃない。社内で1番大変な部署?なに、舞も自慢がしたいわけ?」

「受付はそんなに簡単な仕事じゃない。ののかには、なにを言っても通じないね。今、エリカが異動出来るように、受付の研修をしているの。受付が簡単だと思っているなら、その研修を受けてみて。私から研修担当に話を通しておくから。ののかだって、クビになりたくないでしょ?受付の研修に合格するようなら、社長もクビにはしないよ。じゃぁ、私ももう帰る。」

舞は悲しそうな表情をしながら、部屋から出ていく。悲しいのは、こっちだ。


  ***

 次の日、諦めきれず、大関会長の会社に連絡をした。

「アポはございますか?」

「いえ、でも昨日お会いした松井ののか、と伝えてくれれば、出てくれると思います。」

「はぁ。分かりました。確認します。」

電話に出た女性は不審そうに言う。しばらく保留音が流れる。

「大関です。」

やった、大関会長が出た!

「突然のご連絡申し訳ございません。昨日お会いした松井です。榊と宮下が大関会長のお世話になったと伺いまして、お礼を伝えたくて、ご連絡致しました。お忙しい中、申し訳ございません。」

「あぁ、昨日の厄介な松井さんか。お前さん、度胸だけはすごいな。いや、ただの空っぽか。良く連絡できたもんだ。周りに止められなかったのか?」

「えぇ、榊には止められましたが、榊はお礼も言ってない様子だったので、代わりに、と思いまして。」

「お前さん、舐めているのか?そんな上っ面な言葉を見破れないと思っているのか?どうせ、自分がヘッドハンティングされないことを不満に思って、連絡してきたんだろ。」

ののかは口籠る。

「柴田には解雇されなかったのか?あぁ、あのエリカ嬢が庇ったのか。良かったなぁ、あれで解雇にならなかっただけでも強運だ。良い友人に助けられたな。だが、お前さん単品でヘッドハンティングされる要素がどこにあるのか、こっちが聞きたいわ。その自信はどこからくるんだ?お金をもらっても、お前さんはいらんわ。」

「私は料理を取り分けたじゃないですか。それと宮下は大関会長の誘いに悩んでいました。榊も説得出来ます。」

「ほぅ、助けてもらった友人を売るのか。お前さん、予想以上に最低な人間だな。悪いが、わしは人間性を優先して人を選ぶんだ。信頼できない人間とは一緒に仕事はできん。あとあの料理の取り分けで、お前さんが自分の好きなものしか取らない、相手のことを考えられない人間だと思ったよ。料理のバランスも考えられない、無能な人間だとな。今回はエリカ嬢のために黙っていてやるが、2度と連絡してくるなよ。わしはお前さんと違って、暇じゃないんだよ。もし連絡してくるようなら、次の就職先はないと思え。」

電話は強引に切られた。まぁ、いいや。ダメ元だったし。今回は音沙汰なしみたいだから、ラッキーだ。ののかは、気にしない。


 その頃、大関会長は、

「全く勿体ないなぁ。才能はあったのに、思いっきり逆走したもんだ。今からじゃ、戻ったところでスタート地点まで戻るだけでも何年かかるか。化ける可能性があっても、それを待つほどわしも若くない。全く柴田も才能を感じて採用したんだろうに、もっと早く対応していれば、切り札が3枚揃ったのに、バカなやつだ。わしの言葉が少しでも届くと良いんだがな。」

と呟いていた。


  ***

 さて、仕事に戻らないと。本当にクビになる。ののかは、経理部に戻り、

「私、今急ぎの案件ないので、仕事回してください。草薙さん、仕事溜まってそうですね。私、やりますよ。さえちゃん、新卒なのに、たくさん仕事を抱えているね。覚えなきゃいけないことがあるから、新しい仕事はさえちゃんがやった方が良いけど、もう覚えている仕事は、こっちに回して。」

と言った。しかし、誰も反応しない。

「え、草薙さん?さえちゃん?」

「松井さんに頼むと、間違いだらけで、結局修正で時間かかるから、自分でやった方が早い。だから良いよ。」

草薙が言い、さえも頷いている。私は新卒よりも使えないってこと?

いや、でもここで引き下がるわけにはいかない。部長に仕事を下さいと頼む。

「うーん、他の仕事を中途半端にやるより、今抱えている仕事を正確にやってもらいたいんだけど。それに、受付研修に参加するんだよね?無謀だなぁ。でも本気なら大変だから、他の仕事は良いよ。研修は毎週月曜日の13時から1時間だから、自分でスケジュール管理してね。」

「部長、それだけじゃ駄目なんです。私は新しい仕事がしたいんです。」

「今更そんなこと言われてもね。今までの実績があるからね。社長から話を聞いているよ。でもそれは、新しい仕事をしろ、ということではなく、今の仕事をきちんとやってくれれば、ちゃんとそう報告するから、大丈夫だよ。」

「私は今仕事に燃えているんです。なので、新しい仕事下さい。」

「本当に勝手だよね。そういうところをまず直してほしいんだけどなぁ。あぁ、来年度末から会計システムを変更する話は覚えているよね?その会計システムがすぐ使えるようにベースを作ってもらえる?きちんとマニュアルを見て、作ってね。今のシステムと似ているように見えるけど、項目とか大分違うから。ベースが間違えてたら、全部やり直しになる。時間かけても良いから、正確にやって。とりあえず、2週間後に途中経過の報告をするように。」

ののかは、会計システムの変更の話を覚えていなかったが、マニュアルがあるから、大丈夫だろうと、引き受けた。


  ***

 月曜日、研修の日だ。

研修先の部屋に入ると1人の女性しかいなかった。

「新しく受付の研修参加する方ですよね?1人で寂しかったから、良かった。人事部の後藤です。一緒に頑張りましょうね。」

「経理部の松井です。なんで1人しかいないの?」

「最初はたくさんいたんですが、みんな諦めちゃって。そういう私も諦めるべきか悩んでいます。でも私、舞さんに憧れてて。だから頑張ります。」

すると部屋に女性が入ってきた。

「受付研修担当の浅野です。今日は松井さんが初参加なので、まず受付業務の説明をします。後藤さんは自分の勉強していて良いわよ。受付に配属されるためには、これから言う4つは最低限クリアして頂きます。

1.英語ともう1ヶ国語をビジネスレベルで使用できること

2.対応力

3.お茶、コーヒーの正しい淹れ方を覚えること

4. 全社員の配属先とフルネーム、仕事内容、取引先の会社と相手の名前を全て覚えること

まずはここまでで、松井さん質問ありますか?」

「これ、本気ですか?全社員の名前をフルネームや仕事内容まで覚える必要があります?」

「同じ名字の人はたくさんいる。その区別をつくようにフルネームは必要よ。例えば営業には、2人佐藤がいる。あなたが受付に立って、佐藤さんを呼んでと言われたら、どうする?どちらか分からないじゃ困るの。だから、仕事内容の把握と取引先の相手まで覚えてもらうことが、必要なのよ。」

「これ、今受付やっている4人はクリアしているんですか?」

「もちろんよ。これは最低限。4人はこれ以上のことを把握している。そうね、イメージがわかないだろうから、実際にあった出来事を問題形式で出しましょう。後藤さんも聞いてくれる?

アポなしで、アメリカ人の男性が訪ねてきて、8年前にここの会社と共同で商品開発をしたが、その時、一緒に開発に関わった人の名前が思い出せない。だが、アメリカに戻ることになったから、挨拶をしたい。

と、言われたらどう対応する?まずは、研修を先に受けているから、不利だけど、後藤さんから。でも今は研修中。間違っても当たり前だから、気楽に答えて。」

後藤は考え込む。

「特定までに時間がかかるので、まずは、ロビーで、お茶かコーヒーを出して、商品の詳細を聞きます。8年前だと私の入社前なので、現時点で私には分かりませんので、その商品をネットで検索してみて、誰が関わったか書いていないか探します。あと営業部長に連絡して知らないか、聞きます。あ、開発部長にも聞きます。」

「松井さんは?」

「受付に私1人ってことは、ないですよね?その人に聞きます。だって、さっき言ってましたよね?受付は、全ての仕事内容を把握しているって。榊、宮下は入社前の話だから分からなくても、柴田さん、中山さんは8年前も働いていたはずだから、知ってるはずですよね?」

「まぁ、2人とも50点にしましょうか。まずは後藤さんのお茶を出すのは、良い判断ね。すぐに相手が分かっても、降りてくるのにも時間がかかるし、お話もするでしょうから、くつろいで待っていてもらうという対応は、基本ね。でもネットで調べるのは、難しいわ。8年前の商品で売れていない場合や、そもそも会社名は載っていても、製作者まで載っているのを探すのは、不可能に近いし、時間もかかりすぎる。それから現営業部長は8年前にはいなかった人。だから、連絡するなら、8年前の営業部長に連絡するべきね。開発部長も同じ。ただ、開発部にいる人間はほとんど異動していないから、開発部に連絡するのは、正解。

松井さんの受付の同僚に聞くのも、良い判断だわ。基本的に受付は最低2人は置いている。そして、知識の偏りがないように分けている。だから、もう1人しかいない場合でも、その人が知っているはず。ただ人任せすぎるのは、良くないわ。だから、50点。

ちなみに実際の対応、つまり答えを話すわね。これは、榊さんが対応した件なの。後藤さんと同じようにお茶を出しつつ、商品の詳細を聞いて、彼女は誰か分かった。榊さんは入社前の商品もきちんと調べていたのよ。でも開発者か、営業かどちらかは、分からないから、その商品に関わった人間の特徴を言って、どの人か尋ねたの。そして、開発部の人間だと分かり、開発部に連絡して、降りてきてもらうように頼み、その商品に深く関わった営業部の人間にも連絡して、降りてきてもらったの。3人で仲良く会話をして、彼がアメリカに戻っても、彼の会社とは現在も良好な関係を築けている。めでたし、めでたしね。まぁ、2人とも降りてこられるタイミングで運が良かった、というのもあるけど、榊さんのおかげで、会社の信頼が上がり、今後に繋げることが出来た。最初に話した英語力、対応力、お茶を出す、全社員の把握、そして、なによりも素晴らしいのは、現状で満足せず、きちんと勉強を続けたところね。研修をやっていて、私も無茶を言ってるな、と思うことがある。でも受付は、会社の顔。だから、社長は妥協しない。でもおかげで受付に配属出来る人間がいない。柴田さん達ももう記憶力が落ちてきているから、辛いと言っているけど、代わりがいないのよ。しかも社内で1番大変な仕事にも関わらず、彼女達を評価しているのは、営業部の人間くらい。あとは、受付は笑っていれば良い、楽な仕事と思っている社員がほとんど。報われないわよね。」

浅野は、残念そうに話す。

「舞さんもすごいと思ってましたが、榊さんもすごいんですね!」

後藤は目をキラキラさせている。ののかは気に入らないため、尋ねる。

「知識の偏りがないように、分けていると言ってましたが、ランチは榊と宮下が一緒に行ってますよね?」

「あの2人は新卒で研修を1週間でクリアして、半年経たずに、昔の商品まで把握した。前代未聞よ。柴田さん達と同等、いえ今は柴田さん達より上よ。でも柴田さん達はキャリアがあって、充分な対応が可能。それなら、ランチくらい好きにしても良いじゃない。榊さんが秘書に完全に異動になったら、新人さんは宮下さんとペアを組むことになるでしょうね。」

ののかは、馬鹿らしくなった。そんなしんどい仕事ごめんだ。

「松井さんは、最初から覚えるのは大変だから、まずは社員の配属とフルネームから覚えるのと、英語の勉強を同時にやってね。後藤さんは英語の基本は出来てきたから、今後の研修は英語で行いましょう。実戦の方が早く身に付きやすいからね。余裕があれば、もう1ヶ国語も、単語だけとかで良いから、手を伸ばしてみて。でも後藤さんは頑張りすぎるところがあるから、無理せずね。後藤さんまでいなくなったら、来年の新卒まで誰も変わりがいない。かといって、新卒に受付出来る人間がいるとは限らない。松井さんも受付に必要な対応力がある。これは努力で身につけるのは大変。だから、期待しているわ。じゃぁ、今日はここまで。」

浅野は部屋を出て行く。後藤も早く帰らないと仕事が溜まっていると、慌てて帰ろうとするため、英語の勉強の仕方を聞いた。ののかはやる気はないが、このまま仕事に戻る気がしなかったのだ。

「これは、舞さんに教わった方法で、あまりおすすめできないと言われているんですが、それでも良いですか?」

前書きはいらない。面倒な子だな。そう思いながら、ののかは頷く。

「通勤で英語の発音を聞く。まずは訳は考えなくて良いから、発音に集中すること。そして実際に自分が発音して、正しい発音になるように、舞さんからもらった本に書いてある発音時の口、舌の動きの図式を見て、繰り返し、練習し、ネイティブの発音に近づけるようにすると言われました。基礎は勉強すれば出来るけど、発音は難しいから、と。あとは早く身につけたいなら、スクールや、海外の友人を作るべきだって。舞さんは夢のために貯金しているから、スクールには通えなくて、独学で頑張ったけど、海外の友人は作って、教えてもらっていると話してました。私もいざやってみたら、正直独学は辛いので、スクールをおすすめします。じゃぁ、仕事が溜まっているので、また来週。」

舞に海外の友人がいるなんて想像つかない。あー、なんか面倒になってきたな。


 経理部に戻り、仕事を再開する。といっても、ののかの仕事はほとんどない。マニュアルを読む気にもなれず、経理部の前に同期が歩いている姿を発見した。ののかは立ち上がろうとするが、柴田の顔がちらつく。経理部長も話を聞いていると言っていた。その前で私語をするのは、まずいだろう。ののかは、座り直す。すると同期の話し声が聞こえた。

「噂は本当だったんだね。これで、今後は遠回りしなくてすむ。」

「本当。毎回通る度に話しかけられて、こっちは忙しいのに、迷惑だったんだよね。でも今後は遠回りせず、時間短縮出来て、助かるね。」

「全く仕事しないで、人の悪口ばかり言って、聞いていてモチベーション下がるよね。榊さんや宮下さんは優しいから突き離せなくて可哀想。」

そう話しながら去って行く。

なに今の?私のことを言ってたの?そう言われると、同期が経理部の前を歩いている姿を見るのは久しぶりだ。私は避けられていたの?

それに、私がエリカと舞の面倒を見ているのに、反対に突き放せないって、なに言っているのよ。勘違いも甚だしい。ののかは怒りで顔が真っ赤になるのを感じた。


  ***

 月曜日。研修の日だ。ののかは全く勉強していなかった。そのため研修に行く気がしなかったが、経理部にもいたくないため、結局研修に参加した。

浅野と後藤は英語で話している。ののかには全く何を話しているのか、理解出来なかった。ぼーっと2人を眺めていた。すると浅野が、英語でののかに話しかける。ののかは、

「アイキャントスピークイングリッシュ。」

と、カタカナ英語で答えた。

浅野が呆れる。

「松井さん、全く勉強していないの?私が尋ねた英文は中学レベルよ。」

日本語で浅野は言う。

「すみません、ちょっと忙しくて、勉強する時間が取れなくて。」

「じゃぁ、経理部の社員をフルネームで答えて。」

「分かりません。」

「経理部から、話は聞いている。貴方の仕事量は、他の人の半分だって。研修に力を入れられるように、経理部長が配慮してくれているんじゃないの?それなのに、あなたは何してたの?」

「社員のフルネーム、全部覚えろとか馬鹿みたい。無駄すぎる。」

「そうよ、100個覚えても、その中で使えるのは1個かもしれない。でもその1個が受付、いえ、会社にとって、重要なの。」

「それなら、私は無駄な時間が惜しいので、受付やりたくありません。失礼します。」

「ちょっと待って。松井さんは何のために仕事しているんですか?仕事に対しての責任感はないんですか?たった2回の研修で、止めるなんて、研修に参加するために同僚が仕事を調整してくれているのに、申し訳ないと思わないんですか?舞さんの友人と聞いて、期待していたのに。」

後藤が語気を荒げて言う。

「誇り?そんなのないわ。私は楽して、お金をもらって、お金持ちと結婚して、一生遊んで暮らすの。貴方みたいな仕事に夢中になる人の気持ちが分からない。勝手に期待して失望されても迷惑よ。」

そう言って、ののかは部屋を出た。

経理部に戻ると、

「あれ、今日は早いね。そうだ、松井さん、この前頼んだ仕事、2週間後に報告あげるように言ったよね。進捗を報告して。」

経理部長が言う。ののかは、研修をやめたことは報告せず、データを送信した。

「今、部長にデータを送信しました。確認お願いします。」

ののかはやる気なく答える。

データを確認していた部長の顔が徐々に曇っていく。

「松井さん、マニュアルはきちんと読んだ?間違いだらけというより、合っているところを探す方が大変なんだけど。これ、全部白紙にした方が良いな。一から作った方が、早い。あぁ、松井さんは、もうやらないで良いから。とにかく新しく作るデータと間違えが起こらないように、すぐデータを削除して。僕に送信したメールも念のため削除して。良かった、確認しといて。さえちゃん、悪いけど、よろしく。松井さんは、データ消去した?終わったら、マニュアルをさえちゃんに渡して。」

ののかは、言われた通り、データを削除し、さえにマニュアルを渡す。さえはマニュアルを受け取り、読み始めたが、顔をしかめる。

「部長、申し訳ありませんが、新しいマニュアルはありませんか?落書きが酷くて、これでは間違えが起こります。」

部長はため息をつく。

「松井さん、会社のマニュアルに落書きしたの?アンダーラインも禁止していることくらい知っているよね?それ、原本なんだけど。あぁ、さえちゃん、今日中にはマニュアルを準備するから、待っててもらえる?期限は来月末だし、マニュアル通りに入力するだけで、難しいことはない。時間はかからないから。とりあえず今抱えている仕事をやっていてもらってて良いかな。」

私が頼まれた仕事は、新卒の子にとっても簡単な仕事で、すぐ終わると言われた。私は2週間でまだ半分しか終わっていない。

「分かりました。」

ののかは、さえに声をかける。

「さえちゃん、ごめんなさい。代わりに月末処理かわるよ。」

「結構です。変わってもらって、間違えたのは松井さんなのに、私の責任にされるのは、もう懲り懲りです。」

さえはこちらを見ることもなく、答える。経理部を見渡す。誰もののかを見ることはなく、まるでののかは存在しないかのように楽しそうに話をしている。

ののかは、気付くと飛び出していた。


  ***

 翌日出勤すると、経理部長に社長室に行くように言われた。

社長室にはエリカもいた。全く悪趣味だ。エリカの前で、解雇宣告か。エリカは俯いている。

「松井ののか、会社に損害を与える行為を故意に行ない、指導しても仕事に対する態度の改善が見られないため、解雇とする。」

「不当解雇で訴えますよ。」

「どうぞ、お好きに。こちらは証拠をきちんとそろえているから。懲戒解雇じゃないだけ、マシじゃないかな。」

「エリカ、何も言ってくれないの?」

エリカは俯いたままだ。

「失礼します。」

ののかは部屋から出た。


  ***

 手当たり次第、いるんな人に連絡したが、出ない。メールも返ってこない。夜になって仕事が終われば、返ってくるはず、と思ったが、結局誰からも返事は返ってこなかった。

エリカと舞からの返信もない。

ののかは、友人の顔が浮かばなかった。

あぁ、私は1人だ。同期の子が言っていたように、エリカと舞以外みんな離れていった。


【プロローグ】

 雨が降っている。ずぶ濡れだ。ののかは行くところは1つしか思いつかなかった。

インターフォンを押す。

エリカと舞、隆弘、西野がいた。

エリカがタオルを渡してくれる。

「今まで本当にごめんなさい。2人に甘えて、ひどいことばかりしてきた。でもやっと気付いた。私には2人しかいないって。謝って許してもらえるとは思ってない。でも最後に謝りたかったの。」

「エリカさん、いい加減にしなよ。本当は全部知っていたでしょ?全て悪い噂を流していたのは、松井さんだって。自分が助けたって言っているけど、2人が孤立するように松井さんがしたんだよ。松井さんは自分のことだけを考えて、2人をずっと利用していたんだよ。舞さんが贈った絵を倒したのもわざとだし、わざわざ、ずぶ濡れになって、ここにくるのも演出。松井さん、泣きそうな表情は作れているけど、涙が出ていないよ。これ以上甘やかしても、お互いのためにならないよ。」

「違う。今回は本当に謝罪したいと思って来たの。」

「それなら、相手のこと考えなよ。ずぶ濡れで来られて、これ誰が掃除するの?本当に悪いと思っているなら、2人のことを考えて、きちんと連絡して、きちんとした格好で謝罪に来るのが、大人としての常識でしょ。」

隆弘が言い過ぎだ、と西野を戒める。西野は不満そうだが、黙った。

「ありがとう、西野さん。西野さんは心配してくれているのよね。榊のことが大事だから、周りにトラブルが起きないよう、悪者になろうとしてくれているのよね。でも、これは私達の問題。私達が話し合わなきゃね。」

エリカは西野に言い、ののかと向き合う。

「ねぇ、ののか。私は、私の悪い噂を流したことはあまりどうも思っていないの。でも悪い噂を流していることが、私達に知られてしまったとき、謝って欲しかった。でもののかは、そのことに気付かず、謝るどころか、反対に怒ってきたよね。ののかにとって私達の悪い噂を流すことは、どうでも良いことで、悪いことという認識はないのかな?私は友人の悪口も言いたくないし、友人のことを他人に話すこと自体、嫌だな。そして、あんな場で、色気で騙す女、と言わない。その発言は、私だけじゃなくて、榊や柴田のことも侮辱したのよ。そして、うちの全社員を危険にさらす行動だったのよ。私のことは良いけど、私の大切な人を傷つけることを平気でやるののかを許すことは、出来ない。それから大関会長から、聞いたよ。ののか、あれほど止めたのに、連絡したんだね。そして、自分が大関会長に取り入るために、私達2人を連れて行くって言った、とも聞いた。私が一生懸命頑張って、秘書になろうとしているのに、ののかが私の人生を勝手に決めるの?ののかには、友人を思いやる気持ちを感じることが出来ない。」

エリカが話し終わると、今度は舞が話始めた。

「ののか、エリカがどうしてあの絵を欲しがっていたか、知っている?あの絵はね、エリカの父親が亡くなる直前に書いた絵なの。詳しい話は私が言うことじゃないから、言えないけど、エリカにとって、とても大切な絵なの。それなのに、わざと倒したって本当?それから、私の夢がなにか知っている?私の趣味は貯金じゃないよ。夢のために一生懸命貯めているの。それなのに、ののかは、私がお金使うことない、と決めつけていて、いつもお金を払ってくれなかったね。エリカが料理が下手と言ったとき、驚いた。私達が、いつもののかが来る前に食材を買って、作って、準備していたことを知らなかったんだね。ののかはいつも自分で買ってきたお酒を飲むだけで、片付けも手伝ってくれなかったもんね。ののかにとって、私達は無料で食べれるレストランだったのかな?私達のことを何も知らない。何も知ろうとしない。そして、何も聞いてくれない。何もしてくれない。そんな友人関係あるのかな?でも、私が結婚式あげたいタイプでしょって言った時は驚いた。そんなタイプに見えるはずないのに。少しは私のこと見てくれていたのかな?」

舞は淋しそうに言う。

ののかは何を伝えれば良いのか分からない。2人はもう決意している。私との別れを。

「西野さんのいう通り、このままだとお互いのためにならない。だから、もう会わない。もう一度友人としてやり直したいと思うなら、変わって。今度こそ約束を守って。その約束が守られてからなら、今度こそ本当の友人になれるかもしれない。」

エリカは悲しそうな表情であるが、ハッキリと言った。

「分かった。」

ののかは諦める。

「これ、返さなくて良いから。風邪ひいちゃう。」

舞が傘を渡してくれる。ののかは首を振る。傘をもらう権利などない。

「変われたら、その傘を俺のところに返しにきなよ。2人の判定は甘いから、俺が2人に会わせて良いか、判断する。」

西野が言う。

「あなたの判断は、厳しすぎて一生会えない気がするわ。」

ののかは精一杯の皮肉を言って、傘を受け取り、出て行く。


今更変われるわけないじゃない。

涙が一滴頬に流れた。


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