毎秒186の幽霊

松樹凛

第1話

 一羽の鴉が頭上を飛んだ。

 あたしはベランダの手摺にもたれかかって空を見た。せっかちな冬の夕暮れが、淡いオレンジの太陽を山並みの向こうに連れていく。澄んでいるはずの空気はどこか虚ろで、薄いフィルムを何枚も重ねたみたいにぼやけていた。

 幽霊のせいだ。

 物干し竿に手を伸ばし、ママのカーディガンを重ねて取り込む。遠くの方から、下校中の男の子たちの声が聞こえていた。下品な、だけど何かに焦っているような笑い声。本当は、自分もあの場所にいなければならないのだと思うと、胸の奥がチクリと痛んだ。

「三か月前に突如出現した幽霊たちは──」

 リビングのテレビから、淡々としたナレーションが流れてくる。明日の天気を読み上げるみたいな退屈さで、町に出現した幽霊たちの数を読み上げる。それは最早、あたしたちの世界の一部になった、お決まりの日常風景だった。

 最初の幽霊が現れたのは、九月に入ったばかりの頃だ。ぼんやりとした人型の影で、陽炎のように揺らめいている。自分の意思で動くことも、言葉を発することもない、ただその場所に「いる」だけの存在。それが幽霊だった。

「頑張って触ろうとしても突き抜けちゃうのよ」

 幽霊が出始めたばかりの頃、ママはあたしにそう言った。どうしてそんなことをしたのかはわからない。もしかしたら、あたしが学校に行かなくなったことと関係があるのかもしれなかった。

「でも、だからといって、幽霊なんて存在しないってわけじゃないのよね。ほら、空気だって触れないけど、でもちゃんとここにあるでしょう? そうじゃなかったら今頃……」

 そう言って、ママは自分の首を絞め、窒息したカエルのような顔をした。きっと、あたしを笑わせようとしたのだ。それがわかったから、あたしは口の端を上げて笑顔を作ろうと頑張った。上手くできたのか、あまり自信はなかったけれど。

 ともかく、幽霊っていうのは空気だ。その点において、ママは正しかった。捕獲した一人の幽霊(可哀相に!)を大学の先生たちが分析した結果、幽霊を構成する成分の九九パーセントが、空気と同じであることが判明したらしい。クラゲの身体は九五パーセントが水分で出来ているらしいけど、つまりはそれよりすごいってこと。

 そんなわけで、街のあちこちに幽霊が出没するようになっても、大した騒ぎにはならなかった。何か害があるわけでも、役に立つわけでもない。あたしと同じだな、と時々思う。

 洗濯物を取り込んで窓を閉めるのと同時に、玄関のチャイムが鳴った。時計は三時十五分を指している。加藤さんだ。あたしはため息を吐きながら、玄関のチェーンを外してドアを開けた。

「こんにちは」

 ドアの向こうに立っていたのは、やっぱり加藤さんだった。ぽっちゃりとした体つきで、短い髪を何故だか二つに縛っている。はっきり言って、ちょっと変。

「毎日来なくてもいいのに」

 あたしはぶっきらぼうにそう言って、プリントの束を受け取った。保護者会のお知らせと、学級便りが一枚、算数の宿題は食塩水の問題だった。

「頼まれてるから」

 加藤さんはいつものようにそう言ったけれど、どこまで本当なのかはわからない。彼女の家はここから少し離れているし、別に仲が良かったわけでもない。ただ単に、学校のクラスが二年間同じだっただけ。きっと、お節介な子なんだろうと思う。

「今日は何してたの?」

「別に」あたしは肩をすくめた。「一日、ぼーっとしてただけ。洗濯物を干して、あと取り込んで。それくらい」

「ふうん。一日ぼーっとしてるのって、どんな感じ? つまり、学校に行かないのって」

「ママは助かるって」

 あたしは肩のあたりを漂う幽霊の足を払いのけながら言った。

「あたしが家事をしてくれるから」

「偉いんだ」

「本当のわけないじゃん。気を遣ってるんだよ、あたしに」

「そっか」

 彼女は言って、それから黙った。ドアの隙間から、冷たい風が家の中に流れ込む。さっさと帰ってくれないかなぁとあたしは思った。

「どんどん増えてるんだって」

「え?」

「幽霊」

 加藤さんは空を見上げた。夕暮れの空は、ちょっとだけいつもと違う匂いがする。

「クラゲみたいだよね。うわーっと増えてさ、ある日突然消えちゃうの」

「消えるのかな」

「わかんない」

「わかんないって何よ」

「だって、そんなのわかんないじゃん」

 怒ったみたいにそう言うと、彼女は踵を返して帰っていった。


 うんと小さかった頃、あたしはお化けが怖かった。風に舞うビニール袋とか、ベランダに干してある真っ白なシーツとか、お化けを連想させるものは全部ダメ。だけど、それは今思えば、お化けそのものを本当に怖がっていたわけじゃ、たぶんなかった。単に、お化け以外に怖いものがなかっただけなのだ。小学校に入ってからの数年間であたしは色んなことを知った。世界には、お化けなんかよりもずっと怖いものがあるし、嫌なことだってある。不安とか、悩みとか、たくさんたくさん。そのせいだろうか。あたしはだんだん、お化けを怖がらなくなっていった。もしかすると、それが大人になるってことなのかも。

 でも再び、あたしは幽霊が怖くなりつつある。

「来週、授業参観があるのね」

 学級便りを手に取りながら、ママが何気なくそう言った。食後のお茶はすっかり冷めていて、弱々しい湯気の名残がたなびきながら宙を舞う。

「うん。劇をやるんだって」

「そっか。美玖の役もあるのかな」

「あるわけないじゃん」

 ママのバカ。

「もう半年以上、欠席してるのに」

「わかんないわよ。ちゃんと、役を用意してくれてるかも。ママが先生だったらそうするけどな」

「そうしてほしいの?」あたしは苛々した。「劇に出てほしい? あたしに学校に行ってほしいの?」

「別に、そういうわけじゃないのよ」

 ママは慌てたように手を振った。リビングの蛍光灯がチカチカと瞬く。寿命が近いんだ。明日、電気屋さんにいかないと。

「学校に行ったって、行かなくたっていい。ママはね、美玖がちゃんと毎日元気でいてくれれば、それでいい」

 まただ。

 いつだって、ママはそう言う。別に学校なんて行かなくていい。何もしなくていい。ただ、そこにいてくれればいいって。

 だけど、そんなの幽霊と同じだ。何もしない、何もできない。ただそこにいるだけの存在。ぶよぶよしたクラゲと同じ。

「ゴミ、捨ててくる」

 あたしはママの顔を見ずにそう言うと、半透明のポリ袋を引っ掴んで外に出た。夜の風は冷たくて、全身にぞわっと鳥肌が立つ。でも、上着を取りに戻る気にはなれなかった。

 星の少ない夜だった。幽霊たちが現れてから、見える星の数がずいぶん減ったような気がする。幾重にも重なった幽霊たちのせいで、空気がゆらゆらと波打ち、まるで深い海の底にいるみたいな気分になった。手触りのないその身体を通り抜けることに最初は抵抗があったけど、最近ではみんな慣れっこになってしまった。

 ゴミ捨て場の前に、一際小さな幽霊がいた。最初はゴミ袋が溢れているのかと思ったけど、違うらしい。こんもりと丸まった陽炎の先から、三角の耳らしきシルエットが突き出している。ひょっとしたら、猫の幽霊なのかもしれない。

 鉄製の扉を開けて、ポリ袋を放り込む。あたしはアスファルトの上に膝をつき、黒猫の幽霊(何となくそんな気がした)に向かって手を伸ばした。

「おいで」

 あたしは喉を鳴らした。

「ほら、怖くないよ」

 小さな鳴き声が聞こえた気がした。幽霊はぶるりと身体を震わせ、小さく跳ねて暗闇の向こうに消えていった。

 がっかりして、肩を落とす。伸ばした指の先は、ほんの少しだけ湿っていた。


「体育が休みになったんだ」

 その日の夕方、いつものようにやって来た加藤さんは、あたしにそう教えてくれた。

「休み?」

 あたしはちらっと空を見た。よく晴れた冬の空だ。

「どうして?」

「幽霊のせい」彼女は言った。「校庭に凄い数が集まって、みんな具合が悪くなっちゃった。当分、外での運動は禁止だって」

「でも──、幽霊って空気と同じでしょ? いっぱい集まったからって別に……」

「ほとんどが空気ってだけ」

 加藤さんはため息を吐いた。

「九九パーセントは空気と同じだけど、つまり一パーセントは別のものってことでしょ。たくさん集まれば集まるほど、空気が薄くなるんだって。だから、運動は禁止」

「ふうん。あたしには関係ないな」

「まあね。一応、伝えておいたから」

 そう言うと、彼女は今日の分の宿題を渡して帰ろうとした。明らかに出席日数の足りていないあたしが辛うじて落第せずに済んでいるのは、このプリントのおかげだと思う。ということは、半分くらいは加藤さんのおかげでもあるのかもしれない。

「ねえ」気が付くと、あたしは彼女を呼び止めていた。「来週の、クラス演劇だけどさ」

「うん」

「あたしの役って、あるの?」

 馬鹿なことを聞いた、とすぐにわかった。だって、加藤さんが呆れた顔であたしを見たから。あたしは馬鹿だ。

「──出たいの?」

 その言葉には、どこか責めるような響きがあった。まるで、信じていたものに裏切られたみたいな。

「まさか」あたしは慌てて答えた。「違うよ。ママが気にしてるだけ」

「ふうん。出たいなら、先生に頼んでみれば? 今からだと、あんまりいい役はもらえないかもしれないけど……」

「だから、そんなつもりじゃないってば」

 忘れて、とあたしは言った。居たたまれなくなって、彼女の肩を強く押す。加藤さんは大きくよろけて、傷ついたみたいな顔であたしを見た。

「ごめん」

 あたしは言った。

「もう、来なくていいから」

 彼女が口を開きかける。幽霊たちが屈折させた太陽の光が、彼女の悲しそうな顔をくっきりと照らす。

 あたしは無理やりドアを閉めて、その全てを視界の中から追い出した。


 翌日、加藤さんは来なかった。

 その翌日も、週が明けても来なかった。

 あたしは洗濯物を取り込みながら、電信柱に引っかかってふらふらと揺れる、幽霊たちの切れ端をぼんやりと見つめた。寒い日で、少しだけ雨の匂いがした。

 幽霊たちはどんどん増えていく。一人、二人、五人、二十人、五三七人。それからどんどんスピードを増して、やがて毎秒一八六〇〇〇人の幽霊たちが生まれるようになるだろう。そうすれば、世界はあっという間に、無数の幽霊たちに飲み込まれてしまう。

 きっと、それは世界の終わりだ。幽霊たちの九九パーセントに害はなくても、残りの一パーセントがあたしの呼吸を苦しくする。どんどん、どんどんと息をするのが辛くなって、やがてみんな死んでしまう。

 だけど、それも悪くはない。そんな世界の終わり方があったっていい。湿っぽいママのカーディガンに顔をうずめながら、あたしは思った。

「そう言えば、いつもプリントを持ってきてくれた子がいるでしょ?」

 夕食を食べながら、ママがあたしにそう言った。

「何て名前だっけ」

「──加藤さん」

「そう。その子。もう、ここには来られそうもないから、週に一度まとめてプリントを送りますって、先生に言われたわよ」

 やっぱり、とあたしは思った。

 そうだよね。だって、来ないでって頼んだのはあたしだもん。

「うん」あたしは言った。「知ってる」

「そうなの?」

 ママは驚いたようだった。

「でも、先生もよくわかってなかったみたいよ。突然、学校に来なくなっちゃって」

「え?」

 あたしは思わず聞き返した。

 ママは今、何て言ったの?

「何でも、劇の練習中に泣き出しちゃったとかで。嫌よね。いじめとか、そういうのじゃなければいいんだけど」

「──ごちそうさま」

 あたしは勢いよく立ち上がり、片付けもそこそこに自分のベッドに飛び込んだ。ママの言葉が、頭の中でぐるぐると回っている。

 机の上には、解きかけのプリントが無造作に放られていた。加藤さんが持ってきてくれたプリントだ。毎日のように、彼女はあたしの家にやって来ては、学校のものを届けてくれた。そういう、お節介な子なんだと思ってた。

 でも、違ったのかもしれない。

 ──学校に行かないのって、どんな感じ?

 彼女の言葉を思い出す。

 ひょっとしたら、加藤さんも学校が嫌だったのかもしれない。毎日、毎日嫌なことがあって、行きたくなかったんだろうか。あたしの家に来ていたのは、単なるお節介なんかじゃなくて、学校に来なくなったあたしの姿に、自分自身を重ねていたからなんだろうか。

「わかんない」

 わかるわけがなかった。だって、あたしは学校に行っていないから。加藤さんのことなんて、何一つ考えたことがなかったから。

 半開きになった窓の外を、幽霊たちが流れていく。風が吹き、薄いベージュのカーテンがふわりと揺れた。夜空を漂う、クラゲみたいな幽霊たち。

 クラゲは嫌いだ。

 あたしはそれを思い出す。昔、海水浴に行ったとき、海にたくさんのクラゲがいたせいで、結局泳げなかったから。あれは、パパがいた最後の夏だったのに。

「仕方ないな」と父さんは言った。「クラゲは増え続けてるんだ。誰にもそれは止められない。この地球上で、一秒間に何人がクラゲに刺されていると思う?」

 わからない、とあたしが言うとパパはとっておきの秘密を教えるみたいに、こっそりと耳打ちした。

「二三人だ。毎秒二三人が、クラゲに刺されているんだよ、美玖」

 あたしは加藤さんが海で泳いでいる姿をそうぞうする。少しだけ太った彼女の足に、ゆっくりとクラゲが近づいて、そして刺す。加藤さんは驚き、顔をしかめ、それから泣き出しそうな顔をする。

 でも、これは嘘だ。加藤さんを泣かせたのは、クラゲじゃなくてあたしだから。

 気が付くとあたしは立ち上がり、自分の部屋を出て玄関に向かっていた。鍵を開け、チェーンを外してノブをひねる。幽霊でいっぱいの夜の街が、坂の下に広がっている。

 息が苦しい。

 きっと、幽霊のせいだ。毎秒一八六、〇〇〇の勢いで増えていく幽霊たちのせい。近いうちにきっと、世界は幽霊でいっぱいになって、誰もが死んでしまうに違いない。

 でも、今はまだ違う。

 顔を上げ、あたしは大きく息を吸う。坂の下には街の灯りが広がり、流れる車のライトの列が天の川みたいに煌めいている。空の星は見えないけれど、それでも輝くものは残っている。

 靴紐を結び直し、あたしは初めの一歩を踏み出す。陽炎みたいな幽霊たちを掻き分け、突き抜けながら一歩一歩、あの子の家へ向かっていく。

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毎秒186の幽霊 松樹凛 @Rin_Matsuki

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