エピローグ

エピローグ

 十年振りに訪れた、香守町。


 相変わらずの、殺風景。


 変わったことといえば交通の利便性が更に悪化したくらいで、電車が廃線になったせいで車でしか辿り着けなくなった。これでは新しく移住する人が増えるはずもない。どのみち電車が通っていたところで、昔から誰も歩いてはいなかったが。


 駅前の小さなロータリーには、古めかしい喫茶店と和菓子屋がある。どちらもまだ潰れてはいない。喫茶店は今もセルフサービスで、今日もコーヒーが置いてあった。シックでレトロな喫茶店の内装は最初から老け顔の人間と同じように、これ以上に色せようがない。


 和菓子屋には人がいる。


 愛想の良い人妻が接客をしていて、前は三十と少しだった。十年の歳月を経れば、さすがにレンガと同じようにはいかず、多少は小皺こじわが目立つようになっていた。


「あれ、もしかして……先生じゃありません?」


「いやぁ、御無沙汰で。十年振りですか。奥さんはいつまで経っても若いですね。以前にお会いした時から、変わってない」


「嫌だわぁ、冗談言って。もう四十超えよ……って、あら、言っちゃった。もう、先生が乗せるから」


「私なんか、五十の手前ですよ。あの饅頭まんじゅう、まだ、置いてますか?」


「指餅のこと? もちろん、ありますよ。先生、好きやったもんねぇ」


「変わり種が好きなんですよ、変わり者なんで。もちろん、味が良いのが条件ですが」


 バラ売りで三つほど買った。お茶を入れてくれたので店内のイスに座って、一つ、頬ばった。


「また、ここの病院に勤めるんですか?」


「今は別の病院です。ここには……人を探していまして、友人なんですけどね、十年前の。長谷川聖一さんって、ご存知ですか? もしかすると織戸聖一になっているかもしれません。前は北区に一人暮らしをしていたんですけど」


「長谷川さんとこの息子さん? あそこ、咲江ちゃんが亡くなってねぇ、結構、広い家やったのに勿体もったいないわ。たまに息子さんが店に来るよ。何処に住んでるのかは聞いたことないけど、水ようかん、買っていくわ。指餅は買ってくれないけどね。一週間くらいここで待ってたら、そのうちに来るんちゃうかな。それまで泊まっていく?」


「いえいえ、さすがに。元気そうにしていると分かって、安心しました。散歩ついでに探してみます」


 彼は、あれから手紙を送ってくれなくなったが、無事に生存しているらしい。十年間、音沙汰のない友人の安否だけを気にし続けるほど義理堅くはないが、付き合いが短かったとはいえ、一人の患者として、稀有けうな事象に巻き込まれた同類として、彼のことは頭の片隅にあった。何よりも、あの奇妙な風習がもたらす結末を、どうしても知りたいとの好奇心を抑えられなかった。この町は私にとって危険な場所で、刑務所行きにされた酷い仕打ちを重々に認識してはいるが、私の本能が、頭蓋骨の中の脳ミソが、宿題を放置したままにしてはならないと告げている。


「マダツネサマ、探しとんの?」


 少女に話し掛けられた。そういえば、こんな子、いたなと、記憶の引き出しを開ければ、顔が少し違った。さすがに同じ少女ではない。人が変わってもマダツネ信仰へといざなう精神は引き継がれているらしい。


「長谷川聖一君を探していてね。織戸の苗字になっているかもしれない。もしかして、君が知っているのかな?」


「せやったら、付いてきて」


 少女に導かれて、道の真ん中を歩く。都会では到底できない堂々たる行為だ。川沿いに出て、橋を渡って、資料館があって、ここで町の歴史や風習を調べたと彼は言っていた。では、後で立ち寄ろうか。


 鳥居の下に、森の中へと続く石段が伸びている。


 なるほど、不気味だ。それでいて、懐かしい。私の心が囚われたのは、この神社を訪れたせいだったか。いや、あれは指を結んだせいか。ならば、別にこの場所に害はないのだろう。仮に安全でなかったとしても、どのみち私は入るのだ。


 うっそうと茂る杉の中を抜けていく。


 妙な石ころが階段の脇を固めている。


 森の冷気が肺の中まで冷やして、少々、寒くなってきた。かなり長い階段で、景観も変わり映えしないから同じ階段を上っている錯覚が芽生えるが、私は精神的な迷いとは無縁の男だ。そのうちに鳥居が見えて、社の前まで辿り着いた。


「久しぶり」


 女が立っている。


 見知った風に言われたが、会ったことはない。


 色っぽい、ガラス細工のような、不思議な魅力を感じる人だ。


「あなたは?」


「長谷川です、西條さん。十年……くらいは経っていますか」


 長谷川だと名乗った。そうして、左手の薬指を見せる。細い指に、そこだけ大きさが合っていない。


「なるほど、彼と指を……では、あなたが新しい奥さんですか」


「ええ、そう」


 女の口調だったり、男の口調になったり、多重人格の傾向が見られる。ただし、この場合はマダツネ信仰の影響だろう。私は彼との最後の手紙に、巫女である妹と再会すべきと書いた。それで今は、この女と夫婦の契りを結んでいる。


「兄妹で結婚を?」


 やはり彼は妹と恋愛関係にあった。道徳的に、遺伝子的に許されることではないが、現象の解決としては納得できた。


「妹って……そんな歳に見えますか? 私、まだ二十代ですけど」


 女が微笑む。社の周りには桜が植えてあって、桃色の花弁が風に散った。とても美しい人だと思った。危険な人だとも思った。男を虜にして、養分を吸う、花から生まれた悪魔のような。


「ご安心を。もう、夫以外とはしません。この指が誓いです」


「彼だけを愛する誓いですか」


「そうです。それだけではなくて、私がまつられる側から降りた証でもあります」


まつられる側から? よく、分かりませんが」


「知りたいのでしたら、どうぞ、ご自由にお調べなさると宜しいかと。ただ、一つだけ忠告しておきます。あの人を、あの時みたいに私から奪うのなら、絶対に許さない。たとえ同性でも、邪魔をするのは許さない。それだけを守れば、私はあなたに関与しません。だから、あなたも関与しないでください。もうここには来ないでください」


 女は背を向けた。


 社を過ぎたあたりで振り返って、


「西條さん。感謝しています。救ってくれて、ありがとうございました。過去を断ち切れはしませんでしたが、受け入れることができました」


 こう言い残して、消えてしまった。


 階段を降りて商店街まで戻ると、店が一軒だけ、開いていた。ここだけ外観が新しい。定食屋、と書いてある。ちょうど腹が減っている。店内に入ると、若い女が厨房ちゅうぼうから出てきて、テーブルに水を置いた。蔵造りを現代風にアレンジしたような内装で、リノベーションしているのだろう。


「カツ丼を」


 注文を告げると、女の店員が厨房ちゅうぼうへと引っ込んで、しばらくして、カツ丼を運んできた。


「もしかして、お一人でやっているんですか?」


「はい。父も母も、いなくなってしまったので、好きにやってます」


「たった一人で……こんなにお金を掛けていたら大変でしょう、お客さんだって、そんなに通らないし」


「こっちには帰ってきたんです。働いていた時の貯金があって、いろいろメニューに書いてますけど、カツ丼しか、提供してなくって」


「なるほど、そういう」


 私が笑うと、彼女も笑った。茶色い髪の、可愛らしい人だ。私がカツ丼を食べようと割り箸を割ったら、彼女は私の正面のイスを引いて、テーブルに両肘をついて頬を乗せて、微笑んだ。


「……どうかしましたか?」


「どうぞ、お気になさらず」


 気にするなと言われても、こんなに見られていては落ち着かない。滅多に客が来ないせいで嬉しいのか、もしくは、話し相手が欲しいのか。こういう町で、こんな若い女性がどういう経緯いきさつだったのか、私としても気になってきた。


 食べる手を止めて、話題を振った。


「ここに来る前は、何をされていたのですか?」


「看護師をしていました。だから、分かります。あなた、お医者さんですよね」


「よく分かりましたね」


「そういう目、しているから」


 私の目尻は随分としわが増えているはずなのに、瞳の活力は未だに若さを保っているらしい。お世辞かもしれないが、客観的な評価は自信になる。


「精神科医なのですが、そんなオーラがあるのは知りませんでした。むしろ、私よりも観察に優れていらっしゃる」


「お上手ですね。ねぇ、私、先生、と呼んでもいいですか?」


「いいですけど……くすぐったいですね、初対面の人にプライベートで先生と呼ばれるのは」


「だって、そういうの、好きでしょ? 私、知ってます。先生、そういうの、好き。それに、本当に初対面だと思いますか?」


 ――先生ぇ。


 女の声が聞こえた。


 聞いたことがあるような、ないような。


 愛してる。


 だから今度は私を、


 捨てないで。

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指結び 狭間夕 @John_Connor

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