5-4

 怪しく微笑む。


 急に異様な存在に思えてくる。さっきまでの彼女はなめらかな肌をしていたのに、ほほが歪んで、自分こそがマダツネであると言った途端に人ならぬ化け物なのではないかと、私の心臓が冷えた。


「化け物ちゃうわ」


 心を読んだ……のか?


「態度で分かる。体が引いてるやん」


 無意識に、畳に後ろ手をついていた。背中が後ろに伸びて、私の体が斜めになっている。


「どうして逃げるん?」


「変なことを言うから……そもそも、マダツネは土地神のことであって、人では――」


 唐突に。


 柔らかい感触が唇を覆った。


 言葉を発していたから、話している最中だったから、私の口が開いていて、彼女の唇が触れたのと同時に冷たい舌が入ってきた。


 互いの指が絡むように、舌が絡む。


「何を!」


 妹を両手で押しのけた。


「口で言うより早いやん。ウチが嘘を付いてないって、これで分かる」


 頭の中で。


 聞こえるでしょ。


 もっと、感じてよ。


 声が聞こえる。頭の中から聞こえている。これは奈々と指を結んだ時と同じで、杏泉と身体を重ねた時も。


「まさか、キスをしただけで」


「ずっと意識は共有されてた。聞こうとせえへんから、聞こえへんふりしてただけ。記憶を閉じ込めて分からんようにしてただけ。そんなん無駄やわ。繋がってる血が意識を運んで、身体に流れてるんやから。それをね、こうして接触したら……血縁者は、濃い血で……より……強く結ばれるんよ」


 妹が、私の顔を抑えて――


 もう、ウチのもんになるんよ?


 だって、


 一心同体やから。


 意識が歪む。視界がにじんで、隙を突かれて、またキスをされて、少し待って欲しい。理解が追いつかない、隙を作ってるって言うけど、本音で言ってるん? いい加減に認めたら、ねぇ、聖ちゃん、いい加減に、そろそろ、私を、奪って。


 じゃないと、他へ行っちゃうからね。


 これは、杏泉の声か?


 私が探していた温もりが、今、いったい何処にいる。私の身体の何処にいる?


「出てって!」


 金切声で、我に返った。

 

「そんなん、まだ中におんの! 分かってはいたけど、やっぱ嫌や!」


 妹の身体が離れた。畳に倒れている私の上に被さっていたらしい。妹は口に付いた唾液を手で拭って、キッと私をにらみつけた。


「こんなに入り込んで、もっと早くに殺しておくべきだった」


「何だって?」


 耳を疑う。


「あんな女、絶対認めへん。お人好しに漬け込んで、放っておいたら、どうせまた別の宿木やどりぎを探すだけ。本音と建前を都合良く使い分ける女なんて信用できへん」


「もしかして……杏泉のことを言っているのか?」


 私の声が低くなる。


「誘惑して、虜にして、最後は自分から理由を探して捨てるんよ。どういう将来が待ってるか、しれたもんやわ」


「それだけの、たったそれだけの理由で、殺した?」


「目の前から去って、都合の悪い記憶を消すから、いずれは、あの女に殺されてた。ウチが守った。あの女から、守ってあげたんやから」


「何を言っている!」


 怒りが限界に達した。妹の胸ぐらを強くつかんだ。


「二面性を持っているだと? そんなの、誰でも、表と裏の顔なんて誰でも持っている! 裏の顔を受け入れて欲しいから、杏泉は私と心を一つにして、指まで結んで、それを汚らわしいなどど、他人のお前が!」


「止めて……よ」


 気持ち悪い、頭が。


 あんまり揺らさんといて。


「杏泉は! お前に! 町の連中に殺されたってのか! 言え! お前は誰に指示をした! 誰が杏泉を殺した! そいつを殺してやる! 言え、言え!」


 お願い。


 優しくして。


 優しくして。


 お願い、やから。


 ウチにも優しくしてよ。


 私は手を離した。妹はのどを抑えてうずくまっている。


「誰が……やったか……言えって」


 息を荒げながら、更に問い詰めた。


「ツネ……やんか……ツネは、この町の人に消されるんよ」


「杏泉がツネだって? 私と一緒に歴史を、風習を、文化を受け入れようとしていた。哀れな魂のとむらいまで」


 何の、弔い?


 売られた娘達の怨念おんねんを、わらべ唄に嘆きを込めた、彼女達の恨みをしずめようとした!


 わらべ唄は恨みやない。あれは女が、男を逃がさないように実をつばんで、かつての音を空に聞いた。


 子供は眠れ。


 鳴き声は邪魔や。


 子供は眠れ。


 集中できんもんねぇ。あの人、また上手いことかへんで、子供が部屋に来たらそうなるわ。あんまり責めたりぃな、これは誰の声だ? 流れる血の記憶やわ、邪魔やけどね、そういう系譜やから受け入れるしかない。どうして、こんなに声が混ざっている? あまりにも多い。これでは――


 頭が痛い。


 だから、それがマダツネやって、言うてるやんか。


「あなたの鳥、亡くなっても」


 妹が、歌っているのか? それは誰の声だ?


「たくさんいるから、はねがなくても、人が笑うの、形がないの、煮ても焼いても、なるようになる、る、る、子供を作れ、野山に放せ、血を繋いで、出囃子でばやし鳴らせ、おす孔雀くじゃくは羽をもがれて 輪になって踊、る、る」


 逃がさへん。


 ウチらのとりこ


 永遠に、この地で、死ぬまで。


「マダツネは根、信仰は土」


 妹がしゃべって、別の声で、母でもなくて、叔母でもない。もっと、しわがれた。


「木を伸ばして、繁栄させる。木を枯らすツネは、肥料になる。土に養分を、信仰に活力を、やがては繁栄のいしずえになる」


 脳裏に、参道が浮かんだ。


 あの、石牌は?


「魔除け。関係ないもんが、ここに入らんように」


 あの、丸い灯籠とうろうは?


「頭蓋骨。ツネになったもんは石になって、参道を見守るのがおきて


 あれは、過去に消された犠牲者の群れ。


 なんて、残酷な!


 勝手な価値観で決めつけんといて! そもそも、祈らんもんをウチが救う必要なんてない! あれは、ウチが守ってるんやんか!


 もしかして、康介は。


 友達は、ツネになったやろね。どれかの灯篭とうろうに頭蓋骨が埋まってるわ。でも安心してぇな。杏泉とかも、奈々とかも、別にツネにはなってへん。死体は焼いたやろ。


「それで許されるとでも思っているのか!」


 そうして欲しいと、言ったのか? 神に祈らない奴が、自分の力だけで生きている奴が、信じてない神に守って欲しいと、誰が頼んだ? ウチが決めたんとちゃうわ。ウチかて、なりとうてマダツネになったんやない! 黙れ、悪魔! よくも、杏泉を! 康介を、奈々を!


 殺してやる、殺してやる!


 せやったら、殺しぃ! 殺したいんやったら、殺したらええわ!


 額から汗が噴き出す。胃液を嘔吐おうとして、両目が飛び出しそうになって、肺が縮む。ここまで強烈に誰かを憎んだことはない。それも、妹だけが憎いのではない。彼女の、自分の、この血に流れる外道の意思が憎い。


 汚れているのは、私も同じか。


 ならば、この苦しみから解放される手段は、一つしかない。


「これで、刺したらええ」


 もがいている私を、妹が上から見下ろして、手に包丁を持っていた。台所から持ってきたのだろう。包丁には緑の細いくきが付いたままだった。


「いっそのこと、殺したらええ」


 私に包丁を手渡した。


「ここで死なれたら、また逃げられたら、もう帰って来ぇへんのなら、殺されたんも一緒や。もう生きていかれへん。ウチを刺したらええ。この町の人にはできへんやろうけど、すじやったらできる」


 妹は私を押し倒して、自分の胸に包丁を突き立てながら、私の鼻の真上から甘い吐息を吹きかけた。


「気に入らんかったら……このまま刺したらええよ……そうしたら、そっちの身体で生き続ける……から」


 真っ白な肌が、私に触れる。


 はだけた浴衣から乳房があらわになり、包丁の先端が刺さって赤い血が垂れた。そのまま力を込めて彼女の臓物ぞうもつに押し込んでも良かったが、どれだけ憎んでいても、どれだけの殺意を抱いても、躊躇ちゅうちょなく人を殺めることは叶わない。な私に、できるはずがない。妹は壊れている。簡単に人を殺めて、普通じゃない。


 なぜだ。


 どうして、お前は――


 こんなにも冷たいのに、黒く歪んだ絶望を抱いて、それでどうして、美しいのか。この肌は、その顔は、とても私と同じ年齢だとは思えない。


 まだ、分からへんの?


 ウチが誰か、まだ分からへんの?


一誓いちか……いや、そうか」


 体液から、私を感じる。


「やっと気付いた。悔しいから答えに辿り着くまで、ウチからは絶対言わへんでおこうって思った。そうや、だから、おばあは忘れさせようとして、母さんは逃がしたんや。それで、すぐに死んだわ。ウチを残して、みんな、勝手に死んだわ」


 刺せるんなら、刺したらええ。


 お父さんに殺されるんなら、それでもええ。


 でも。


 ちょっとは、お母さんにしたみたいに、ウチにも、優しくしてよ。


 そうして、抱いて欲しかっただけやのに。


 ねぇ、お父さんは――


 何処に行ったん?


 もう忘れ、お父さんは、最初からいなかったと思っとき、お母さんもな、寂しい、これは家系、おばあちゃんも、抗えんかった、あんたのお父さんは、兄ちゃんはいつも、一緒やった。考えてることも一緒で、身体も血も遺伝子も何もかも一緒で、でも兄ちゃんは忘れてしもうた。せやから、もう、この町におったらあかん。心が壊れてしもうた。私のせいで、妊娠したせいで。


 だから、あんたのせいかも、しれんわな。


 でも、愛しとうよ。母さん、りののこと、大事に想っとる。それはホンマ。今は、愛が、勝ってる。


 そんなん言うて、怖い顔して、みんな、お父さんがおるやんか。どうしてウチだけ片親なん? お父さんは何処に行ったん? ウチのこと、嫌いになったん?


 顔も知らんのに、嫌いになんか、なれるかいな。


 おばあ、おばあ、母さんが、あんなん言うて、冷たい、ひどいわ。


 何や、泣いて、どうしたん。ああ、聖ちゃんはな、りのちゃんのこと嫌いになったんちゃうよ。ただ、知らへんだけなんよ。記憶をなくしてしもうたんやから、もう、ここにおったらアカンのや。分かってぇな。良い子やから。


 子供は眠れ。


 子供は眠れ。


「誰も、優しく、してくれへん。マダツネになんか、なりたいって、言ってない」


 知らへん男の人。


 なんか、いややわ。


 母さん死んで、おばあも死んで、ウチがマダツネやからって、どうしてなんやろか。そういう、もんなんかな。ウチも気楽に、祈ってる方がええわ。


 あんたは、ウチの何?


 恋人?

 

 ちゃうよね。


 ただの……対象物や。ウチ、神様とか言われて、消耗品なんやわ。この身体は、大事にされているようで、これじゃあ、慰みものやんか。何がマダツネよ。そんなん言うんやったら、ウチが根になって、支配したる。


 なあ、恋は?


 誰との、恋?


 身体は?


 綺麗にしてる、つもりやけど、嫌やの? 汚れてて、嫌やの?


 ねえ、お父さん、お兄ちゃん、あなた。どう呼んだらええんやろ。分からへん。聖一さん、聖ちゃん、なあ、イッチ。お前、厄払いでも、不幸を背負っとる顔して釣りはな、待っとたらええ、運命を待っとったらええ、無理に変えようとするな、歪んだ結び方をするな、ええか、聖一。


 妹は、忘れろ。そうしてあの子のことも、忘れろ。新しい道を行け。マダツネの血なんか、背負わんでええ。


「逃げたやんか、お父さん、逃げたやんか。ウチがここで何をして、どう生きてきたんか、ちょっとは分かってよ。向き合ってよ。ほら、周りを見てや。今も、見られとる。見ている側のはずやのに、ウチら、見られとる。影が囲んでる。こんなん、一人じゃ、どうしようもない」


 りのの涙が私の頬に流れた。私の上で、鼻をすすって、泣きじゃくっていた。


「嫌やったら、刺して……こんな汚れた身体、消してくれたらええの」


 でもね。


 それでも、


 愛している。


 愛しているから。


 ウチの指をあげるから。


 命を捧げても、構わへんから。


「ちょっとだけでいい。最後に、優しくしてよ。お願い……頭をでてくれたら、それでええんよ」

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