5-3

 和室の障子は開け放たれて、縁側から中庭がよく見えた。前に訪れた時は、中庭から居間を覗いたのだろう。湖のように細かい砂利に岩肌が顔を出して、なるほど、枯山水かれさんすいになっていた。以前に踏み入った際、気付かずに砂利の波を踏んでいたのかもしれない。乱れた砂は、庭師が手入れをしているのか。それとも妹が独りで砂に線を引いているのか。


 こげ茶色の長机の前には、黒い座布団が敷かれている。あまり見慣れない配色だ。私は座布団の上に座って、掛け軸を眺めた。力強い筆で合縁あいえん奇縁きえんと書いてある。


 ――あれ、どういう意味?


 ――人同士の縁はね、運命で決まってるってこと。


 ――へええ、運命は人を引き寄せるんだね。


 ――出会いがそうなら、離れるんもまた、運命なんよ。離れるのは寂しいから、誓いを立てて、結ばれようとするんよ。


 この居間で、母に教えてもらった。少年だった私は、枯山水かれさんすいの中庭で砂遊びをしていた気がする。母はとがめることもなく、優しく、見守ってくれた。


 掛け軸の下に白磁の花瓶がある。赤いチューリップが生けてある。これは妹が用意したのだろう。そういえば、今日は母の日だった。


「懐かしそうにして」


 妹が盆を持って、抹茶を入れた黒塗りの椀と、皿に乗った水まんじゅうを長机に置いた。


「指もち、味はともかく見た目が嫌いなんやろ。だから、お饅頭まんじゅう


「一つしかないけど、食べないのか?」


「ウチはええんよ、さっき歯を磨いたとこやから。遠慮せんと食べて。せっかくお茶を点てたんやし」


 私は妹のことを――どのような気持ちで、どう向き合うべきか、定まってはいなかった。昔は仲が良かったのかもしれないが、随分と会っていなかったし、何よりも、この町の、マダツネ信仰が私から杏泉を奪ったせいで、巫女になっている妹に憎しみに近い感情を抱いていた。直接的には妹のせいではないのだろうが、誰かを憎まずにはいられない。それなのに、私の目の前にいる彼女は、私が想像していたよりもずっと、愛らしかった。


 妹と過ごした、昔のことをほとんど覚えていないせいで。


 血の繋がった妹なのに、女と接しているような感覚になる。妹の唇に紅が塗ってあって、水々しくうるんでいる。私の視線に気付いたのか、妹はなまめかしく微笑んだ。


 私はぐっと抹茶を飲み干した。惑わされてはならないと、気を引き締めた。


「お茶は、おばあに習ったんよ。代々、受け継がれる味やね。せやから、もうちょっと味わって飲んでくれへんとね」


 妹は不満気だ。頬を膨らまして、わざとらしくねている。


「前に来た時は、どうして会ってくれなかった?」


 私から本題を切り出した。そうしなければ、妹の色気に流されると思った。


「せっかくここまで、嫁を連れてきたのに」


「さっき言うたやん。女の人、連れて来て、会うわけない」


 プイっと横を向く。それからチラッと視線だけをこちらに移した。


「兄妹揃って、人見知りか」


「それもあるけど、そうとちゃう。こんだけ近くになったんに、肝心なとこが伝わらんのやね。性格が邪魔してるんやわ、消極的過ぎるんよ。せやから、つまらん言われるねん。まあウチとしては、モテられても困るけど」


 返す言葉がない。私と妹はおそらく双子で、感応症で、記憶の中で彼女に一心同体とまで言わせたのに、恋愛のこととなると意識の共有が鈍くなるらしい。そういう面では男と女で思考の差が出た。


 恋愛のこととなると?


 いや、それよりも。


「どういう意味だ?」


「……」


 妹は答える代わりに溜息を吐いて、「やっぱり、もっとハッキリさせんとね」と言いながら立ち上がり、机を回って、私の隣に座った。身体を前に突き出して、上目遣いで、じっと見てくる。


「どうした?」


 動揺した。


 まるで、人形のように美しい。


 今までは人形を批判的に捉えてきたが、この場合は誉め言葉だ。市松人形を現代的な美少女にアレンジしたとして、実際に動いているとしたら、眼前に座っている妹が、まさにそうだった。


「ホンマは分かってるんやろ? 必死で理性で否定しているだけで、ウチを見る目、分かってるよ。ウチがここに呼んどったんも、感じてたんやろ? せやから、帰ってきてくれた。何回離れても、いつかは帰ってくるんよ。ホンマはもっと早く来て欲しかったけど、おばあも、母さんまでもが妨害しとったから……それで母さんが死んで、おばあも病気で亡くなって、誰も周りにおらへんくなった。寂しなったけど、やっと想いが通じるわって期待して、前向きに喜んでたんに……ひどいわ。あんまりやわ」


 妹の両目が、うるんだ。


「全部勝手に忘れて、しかも……母さんと私に似てる女と婚約なんか」


 今度は、表情が強張った。


「杏泉の……いや、奈々のことか。そんなに似ているかな」


 顔が似ているわけではないと思うが、奈々も、妹も、黒髪だから同じタイプかもしれない。


「あのまま放っておいたら結婚しよるから、辞退してもらわんと。ウチから奪って、指結びまでやろうとして……そんなん……絶対に、認めへんし、許されへんし、嫌やわ、嫌や、ほんまに、嫌や……あんなにウチを苦しめて、我慢できへんかった……せやから相応の報いを、与えんと」


 さっきまでの可憐さは消え失せて、明らかに表情が醜く歪んでいる。胸騒ぎがする。相応の報いとは、どういうことだ。


「……奈々に、何をした?」


「死んでもらった」


 平然と告白した。


「殺すしかないわ。あんなん、ウチからしたら裏切りやし」


 手に汗がにじむ。妹の気迫に、一瞬、ひるみそうになったが、奈々を殺したとの発言を聞いて怒りが湧いてきた。


「殺した、だって?」


 私は声を荒げて立ち上がった。それでも妹は動揺している様子はなく、自分の家に侵入した他人を追い払った、くらいの当然の行いだと言わんばかりに端然たんぜんと座っている。


「卑劣なことを!」


「卑劣はどっちや。全部忘れて、他の女と一緒になって……ウチかて言いたいことあるけど、そないに声を荒げた? 全然、帰ってけぇへんから、ちょっとは嫌味を言ったかもしれんけど、こうして仲良うしようと頑張ってるんに、何でそんなに責めるんよ」


「当たり前だろ。忘れていたのは……悪かったとは思うが、人を殺すのとでは罪の重さが違う!」


「何が違うんよ。忘れて、頭の中でなかったことにしたら、殺したんと一緒やん」


「……どういう価値観で言っている?」


「そういう価値観で言うてんの。分かりやすく、言うてるつもりやけどね」


 妹はこんなところで独りで暮らしていたから、社会と隔絶されて、しかも異常な町にいるから、常識など身に付かなかったのだろう。学校には行ったのだろうか。まともな教育は受けたのだろうか、話の通じない相手と、まるで子供と喧嘩をしている気分になる。


 私は座り直した。


 妹と向き合った。


 納得したわけではないが、殺した、と一方的に言っているだけで、本当かどうかは分からない。本当だとしても、どうやって殺したのか想像もつかない。まだ冷静になりきれてはいないが、ここは私が感情を抑えて話をするべきだと考え直した。


「殺したって、どうやって?」


「……ウチを誰やと思うてるん?」


「巫女だろ。前は母さんで、今の巫女としてマダツネをまつってる」


まつってる? 巫女って呼ぶ人がおるから紛らわしいんやね。ウチは巫女とちゃう」


「巫女でないなら……何だ? 神主か?」


「それもまつる側。祈る側やのうて、ウチが、マダツネ。母さんが死んだから、ウチが今のマダツネやんか」

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