5-2

 五月のせみの声を聞いた。夏のように日差しの強い日だった。


 何処で鳴いているのかと探したら、公園にある大木の、揺れる新緑の葉で影になった幹の根元にアブラゼミがひっくり返っている。四肢を曲げて空を見上げている。遅過ぎた奴もいれば、早過ぎる奴もいるらしい。私は蝉の死に際の声を聞いた。どうしてコイツは、五月に目覚めたのか。どうしてコイツは、この町に産まれたのか。どうして私は――


 香守町は、昨晩の夢で見た景観と同じだった。


 シャッターの閉まった商店街のタバコ屋は赤い看板の半分が下に落ちたままで放置されて、自販機は右から三つ目までの商品が切れている。公園のブランコは片方だけ。雲梯うんていは使用禁止。川沿いの道には古びたトタン屋根の家屋が並んでいる。


 唯一、前と様子が違っていたのは、トタン屋根の下で咲いているのがパンジーではなくて、赤いチューリップだった。まさか風で種が流れてきたわけではあるまい。誰かがここに植えたのか。


 血のように濃い一輪のチューリップを眺めていると、母を思い出した。私が母と最後に会ったのは、私が町から出発する日だった。駅の待合室で、雪の降る日に、母は私の両手を、死人のように冷たい手で覆ってくれた。今なら母の顔をハッキリと思い出せる。あの写真の通りに、綺麗で美しい人だった。


 ――聖ちゃんは、幸せになるんやよ。


 漆黒の髪をなびかせて、母は泣いていた。私と離れるから泣いていたのではない。巫女である自分が不幸なのだと自覚して、それでも抗うほどに母は強くないから、無機質な人形みたいにして、寂しそうにしていた。


 ――幼馴染おさななじみの、一誓いちかちゃんのことなら大丈夫。


 幼馴染? 


 自分の記憶に自信はないが、こう言っていたように思う。一誓いちかは妹ではなくて、幼馴染だった? 叔母の家で見つけた四人の家族写真は、幼馴染が映っていた? まさか、それはない。いくら親しい間柄でも他人を混ぜて、如何にも家族が集合しているような写真を残さないだろう。それに、この間に見た夢の中の母は一誓いちかを妹だと言っていた。ならば、なぜ、嘘をついたのか。


 母は、この町から私を遠ざけた。


 そうして町を、妹の存在も忘れさせようとした。


 その母が亡くなるまで、私は故郷へ帰ろうとは考えなかった。それが、母が亡くなってから急に帰りたくなった。その理由は――


 私を、呼んでいる。


 一誓いちかが私を呼んでいる。


 母が死んで、寂しい? 一人で暮らすのが嫌なのか?


 きっと私を恨んでもいるだろうが、家族愛か、兄としてしたっているのか、それとも―― 


「マダツネサマ、探しとんの?」


 誰もいない歩道で、少女が話しかけてきた。七、八歳くらいの長い髪の女の子。薄ピンク色のワンピース。枯れた花かざり。


「いいや、違うよ」


「それじゃあ誰を、探しとんの? お母さん?」


「母さんは、もういない」


「じゃあ、奥さん?」


「杏泉も、もういない」


「恋人? お友達?」


「どれも微妙に違うかな」


「じゃあ、私を探しているんだね。兄ちゃん、私を探しているんだ」


 少女はスカートを軽く持ち上げた。


「私と、そういうの、するん?」


「まだ早いよ。少なくとも、十年は」


 朱色の橋を渡る。


 快晴の空の下に、緑の尾根が連なっている。橋の下の川には色鮮やかな紅白の鯉が泳いでいる。正面の郷土資料館は閉まっている。商店街は灰色で、鳥居をくぐれば、深い緑の苔が生えている石段が待っている。


 杉の群れに囲まれた。


 空が隠れた。


 薄暗い。ひんやりと冷たい。そのうちに丸い灯篭が両脇を挟んで、どれも棒が刺さっている。なんだが、人間の頭に見えてきた。一つ、一つ、石段を上るにつれて徐々に思考が閉ざされる感覚がした。同時に、記憶が呼び起こされるような感覚にも襲われた。


 兄ちゃんと考えてること、いっつも、一緒。


 もう一人の自分みたい。


 この世界で一番、ウチのこと理解してるんは、兄ちゃんやと思う。


 今日、他のクラスの子に告白された。でも、嫌やって断った。きっと兄ちゃんも、同じこと考えてる。だってウチら、


 一心同体やから。


 階段を上りきった先の手水舎ちょうずやは枯れて、やしろは相も変わらずさびれていた。冬に捨てれらた落ち葉が未だに枯れ葉となって残り、じめじめと、死体のように積もっている。転がった石牌に、油断しているとたまに靴が当たる。こうした陰欝いんうつさは竹林に入ると幾分か明るくなって、太陽が差し込んで、さわさわと竹の葉が風に揺れていた。


 屋敷の門の前に、女が立っていた。


 背筋を伸ばして、私をじっと見ている。真っ黒な髪の、真っ白い肌で、おそらく彼女が巫女だろう。腹に紅い帯を締めているものの、よくある紅白の衣装ではなく、黒い生地の浴衣に蜘蛛の糸のような模様が描かれていた。


一誓いちか……」


「やっと、思い出したん」


 女が言った。頭の中で聞いたことのある声だった。女は、写真で見た若い頃の母によく似ていた。


「母さんのことすら忘れてたみたいやから、思い出すまで待ってた。えらい、時間かかったんやね」


「教えてくれれば、もっと早くに思い出せた」


「薄情やから。自分だけが都合のいいように、きれいに忘れて。しかも女の人と一緒に来て、会うわけない」


 杏泉と一緒に来た時のことだろう。やはり姿を見せなかっただけで、あの時も居たらしい。


「ウチと、話しに来たんやろ?」


「まだ全部を思い出せたわけじゃないから。いろいろと、聞きたいことがある」


「ウチも、ようけあるわ。せやけど、せっかくこうして会ってるんやから怖い顔せんと、中でゆっくり話しよ? 時間はお互いにようけあるんやし」


 一誓いちかが、どうぞ、と手の平で私をうながしてニッコリと笑った。私は門の中に入って中庭を抜けて、開いたたままの玄関に入った。床は灰色の石で敷き詰められて、段差の向こうの廊下が左右に分かれている。正面の壁の手前に真っ黒な岩が飾られて、この岩にも、蜘蛛の糸の線が描かれていた。


「昔に住んでたんやから、見覚えあると思うけど」


 妹は素足で、黒下駄を脱いだ。


「居間で待ってて。お茶くらい、点ててあげる」

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