終章 心呼び

5-1

 私は、二度、故郷を捨てた。


 父親代わりだった叔父。婚約者の奈々。親しい友人の康介。それから――


 最愛の妻を失って、私の心は完全に閉じた。


 杏泉あずみは、自殺で処理された。


 香守町での火葬を拒否して、彼女を部屋に連れ帰って、身体を重ねて声を聞いた。彼女の内側に声が残っているうちに、私の血の中に記憶しようと考えた。数日経つと、腐臭を放ち、ガスで膨らみ、さすがに死を、これ以上、無残な姿に朽ち果てる姿を見るのが辛くなったので、穴を掘ってアパートの敷地に埋めた。どこに埋葬してあげるべきか、本当にこの町に埋めていいのか、随分と迷ったが、他に埋める場所がなかった。私が杏泉にプレゼントした指輪は、自分の左手の薬指に嵌めた。彼女の指に、彼女の結婚指輪。あるべき場所に収まった。


 そうして、あの町から逃亡した。私の身体を引き留めようとする磁場を振り払い……いや、誰かの意思に引きずられるほどには、もう思考がまともに機能していなかった。


 ――ねぇ、聖ちゃん。親子丼の作り方、覚えてって言ったのに。


 ――コロッケばっかり。胃は治ったの?


 声だけが救いだった。


 私の身体に流れるおぞましい血が数々の不幸を呼び寄せたが、その代わりに声が、薬指を通じて杏泉の吐息を感じられる。それも、町から離れるにつれて彼女の声が遠くなり、また、夢の中に寂れた香守町の風景が浮かんできた。


 もっと杏泉の声を聞きたい。


 私は声を求めて、彷徨さまよった。


 その日暮らしでホテルに泊まり、ネットカフェで一夜を過ごし、証明写真の中で眠ったりもした。


「なんかしつこく送って来るんだよね。元気か? とか。うざいっての」

「分かる~、ウチのオトンもそんなん。止めて欲しいよね、こっちは興味ないのに」


「アイツとやった? すげー、羨ましー! で、どうだった?」

「別に。終わったら、そんなもんかって感じ。エロい女だから関係は続けるけど」 


 都会は雑音ばかりが聞こえる。人の多い場所はやかましいから、橋の下に逃げ込んだりもしたが、そういう場所では決まって、静かな闇に影が浮かんで、私に手招きをする。


 あの、幻覚が付きまとう。


「もう、終電はありませんよ」


 橋の下にいたはずなのに、地下鉄のホームのベンチに座って、うなだれていた。駅員に肩を叩かれ、シャッターの外側に追い出され、精神安定剤をみ砕いて、いや、これはただのあめだったか。それとも、解熱剤、市販の。


 頭痛が酷くなる。


 幻聴、幻覚、頭痛を抑えたいのは、肝心の、杏泉の声が聞きたいからだ。外野の声はいらない。私の安寧あんねいむしばんでいる。


 ――長谷川さんは統合失調症ではないと思いますよ。


 西條の言葉を思い出した。


 そうだ、西條は私をだと言っていた。では、私がオカシイのではない。私に流れる血が、過去の因果が、それで杏泉の声が聞こえる利点もあるが、一長一短の、迷惑な側面だけが突出している。西條は民俗学のようなものに詳しいと言っていた。今、彼はどうしているのだろう。わらにもすがる思いで、行方を探ることにした。


「そうですか。はい、ありがとうございます」


 不本意ながら、香守町の警察を頼るハメになった。


 電話で聞いたところ、西條は刑務所に服役中らしい。執行猶予の可能性もあったそうだが、自らの意思で服役を希望したらしい。刑務所に連絡して面会を申し込んだが、親族ではないからと許可されなかった。


「手紙なら、許可します」


 西條本人が承諾したのもあって、文通が認められた。早速、彼に手紙を送った。


 すぐに返事がきた。



 ――お久しぶりです、長谷川さん。お互いに具合は良くはないようですが、私は以前より回復しました。思考にノイズが混ざる程度で、身体まで不自由になることはありません。刑期を終える頃には完治しているでしょう。だから今は刑務所にいるのが都合が良いのです。これ以上、罪を重ねるわけにはいきません。そういうわけで、私の心配はいりませんが、今は長谷川さんの方が深刻なようです。診察を再開することになりますが、手紙での会話になるのが歯がゆいですね。とりあえず、あれから長谷川さんの身の回りで何が起きたのかを詳しく教えてください。それから、代わりと言ってはなんですが、本を数冊、送ってくれませんか? 時間を持て余していまして、正直なところ、退屈しています。精神医学の本や哲学書、私小説や恋愛小説、骨格標本にナマズの生態系など、要するに何でも結構です。本屋で目に付いた物を送ってくだされば助かります。



 手紙の文体からして、彼は正気を取り戻している。私は本屋へ行って読み応えのありそうな参考書や図鑑などを手紙と一緒に送った。



 ――ナマズの頭蓋骨は面白い。ナマズのような顔をした人との類似点を骨に見出したので論文を書いているところです。あれから長谷川さんの身の回りに何が起こったのか、よく理解できました。奥さんのご冥福をお祈りします。以前に村意識について語ったことがありますが、閉鎖的な環境における集団生活というのは独自のルールがあって、長らく続いた価値観を余所者に荒らされるのを嫌うわけです。私達が他人に土足で家に入られるのを拒むのと似たようなものです。香守町の場合は『マダツネ信仰』と『それに関連する習慣』がルールになりまして、彼らの信仰を否定したり、暴こうとする行為は敵意を持たれます。私も、それで嫌われたかもしれません。だから康介さんの不幸を他人事とは思えません。マダツネ信仰について、さらに教えていただきたく。

 


 ナマズ顔の人間の頭蓋骨は、普通の人よりも平たいのか。こんなことが気になるあたりに、彼の手紙は私の思考バランスを安定させる効果がある。私は以前にまとめたマダツネ信仰に関するレポートを彼に送った。



 ――とても興奮しました。と、言ったら長谷川さんの悩みの種なので表現が良くないかもしれませんが、こういう土地神の信仰は香守町だけに限りません。今も日本各地であらゆる地域信仰が続いています。祭りの開催も、土地神への信仰が発祥であるケースが多く、こういう信仰には神事や経文などが存在しており、神をまつる代わりに厄災から守ってくれたり、農業の繁栄を促してくれたりする性質がありますが……その一方で、破ってはならない禁忌きんきや不文律が存在するのが一般的です。これは信仰を阻害する者を排除しようとする心理が関連しており、前の手紙で書いた村社会の排他的精神と共通している部分が大いに考えられます。要するに、たたりに反転する性質があるのが土地神信仰の特徴なのです。



 たたり、呪い、ツネき。伯父と康介が信仰を軽んじていたのは事実だろう。だから消されてしまった。では、奈々と杏泉はどういう理由か。杏泉は信仰を理解しようとしていたし、奈々は香守町の出身だ。



 ――長谷川さんの生家が、にあたる織戸家であることが関係していると思います。それから、長谷川さんの記憶障害も関係しているのではないかと。トラウマが引き起こす精神障害には解離性同一障害、いわゆる多重人格と、解離性健忘、つまりは記憶障害の症状があって、長谷川さんの症状はおそらく後者で、織戸家の内々でトラブルがあったため、過去のトラウマが長谷川さん自身の記憶を封印している可能性があります。それは強烈に、思い出したくない、強いトラウマです。もちろん、お母さんが巫女であることが関係していそうです。今の巫女は妹さんだとされていますが、



 まだ余白があるのに、わざわざ二枚目の手紙に移って、



 ――お兄ちゃんが、構わへんって。



 たったの一文だけ。しかも筆跡が違う。西條の文体は整っているが、この一文だけは子供が書いたように下手だ。



 ――失礼。あえて、二枚目を捨てずに送ったのは、まだ私が完全に回復していない証拠でして、たまに声が聞こえるからです。何のことが分からなかったのですが、長谷川さんからの手紙で理解できました。長谷川さんには幼少期の記憶がないので尋ねても仕方ないかもしれませんが、妹さんとは、どういう、ご関係でしたか?



 心音が止まる。急に苦しくなった。妹とは、ただの兄妹だが、仲は良かったはずだ。それなのに、まだ和解していない。再会すらもしていない。杏泉が死んだことに悲観して、もはや妹のことはどうでもよくなっていた。考えもしなかった。それどころではなかった。



 ――感応症を覚えていますか? 非常に珍しい症例ですが、双子にみられる精神症状で、記憶や妄想が共有されます。仮に妹さんが長谷川さんと双子だったとして、今もずっと意思を共有し続けているとしたら、マダツネ信仰の巫女である妹さんと長谷川さんは、複雑な状況に置かれていることになります。遠くに離れて、二つに分かれている思考が、互いに呼び合っているとは考えられませんか? これはただの突飛な仮説でしかありませんが、結局のところ、症状の原因を掘り下げるためには巫女である妹さんと再会する必要があるでしょう。もっとも、辛い場所に無理して戻る必然性はありませんが、血の繋がった家族と再会するのは、悪い結果にはならないかと。 



 彼の言う通りかもしれない。


 私はずっと故郷を、母を、妹の存在から逃げ続けてきた。あそこへは帰りたくないと、できるだけ関わらないように生きてきた。当然だ、あんな信仰、受け入れられるはずがない。もしかすると、巫女を継いだ母も同じ気持ちだったのかもしれない。


 では妹は、今の状況を、どう考えている?


 巫女になりたかったのか、なりたくなかったのか。あの町を捨てて、妹を捨てた私を、どう思っている?


 私は泥で汚れた服を捨てて、ホテルに宿泊をして、康介のリュックに荷物を詰めた。これで三度目になるが、私は帰らなければならない。あのまわしい、それでいて、いつも夢に出てくる、あの町へ。


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