4-8

 暇があれば、神社にお参りに行った。


 春になって、雪が溶けて、季節の花を、菜の花や桜の枝を飾った。


 あれから、まだ妹には会っていない。


 奥にある屋敷にまで、立ち寄ったことはない。


 きっと、あの屋敷に妹がいる。私の血が告げている。今はまだ会ってはくれないのだろうが、もしも妹の気持ちが整理できれば、私の頭の中だけではなくて、私の夢だけではなくて、私の目の前に姿を現してくれるのではないか。


 その時に、改めて杏泉を紹介したい。


 喜んでくれれば、いいけれど。


 私はこの町で暮らすことを決めた。前から決めてはいたが、いつまでも町からの手当てに頼らないで自分達で稼ごうと決めた。杏泉はスーパーのパートから始めて、私は不動産屋で働くことにした。


 忌まわしき風習の始まりは、町の繁栄を願ってのこと。


 無理矢理に人を引き留めようと、歪んだ方法が数々の不幸を産んだ。私の身の回りでも不幸の連鎖が起きて、伯父や、奈々や、康介を失った。それでも、ここで逃げていては前に進めない。私は私のやり方で、けじめを付けたい。この町に貢献できる、私なりのやり方を。


「今日も入居希望者が来ないなぁ」


「ネットに広告でも打ちますか? 学費は無料ですよって」


「そんなこと言って長谷川さん、市長でもないのに勝手に決めちゃっていいんですか?」


 あれだけ着るのが嫌だったスーツが、今は誇らしい。昼休憩になったので愛妻弁当を食べて、散歩がてらに外に出た。もうすっかり春の平穏が暖かい。青い空には優雅に雲が流れている。


 こういう日は、煙草も美味い。


「人はいずれ、故郷に帰るものなのかな」


 独り言を、空に放った。


「おお~い!」


 正面の道で、自転車の男が私に手を振っている。いつも釣りばかりをしている爺さんだ。私も一緒に釣りをしたことがある。彼と釣りをしていると伯父を思い出す。もっとも、伯父ほど無口ではない。仕事が暇なのがバレているから、今から釣り行こうと誘う気らしい。


「電話を掛けても……繋がらねぇから、何処にいるの……かって」


 えらく息を切らしている。よほど急いでいたらしい。


「あれ、電話、掛けました? 上着を脱いでるから気が付かなかった。今日も釣りですか? 誘ってくれるのは嬉しいですけど、仕事ですから定時までは」


「違う、違う。いや、違わねぇけど、そうじゃなくって――あんたのとこの、嫁さんが」


「ん? 杏泉が?」


「さきはなの……とこで……たお」


 空に流れる雲が、止まって見えた。


 私の吐く息も、止まった。


「溺れて……死んどるんや。それで、電話を」


「死んでるって……何をそんな、冗談。まさか、あるわけない」


「こんなタチの悪い冗談、言うかいな。救急車も呼んどるけど、とにかく行ってこい!」


 あまりの気迫に、嘘とは思えない。


 まさか、本当に?


 煙草を放り投げて、仕事用の車を借りて、咲花湖の手前で停めた。雑木林の中をがむしゃらに走って、その間、杏泉に電話を掛け続けた。


 ――お掛けになった番号は、現在。

 

 心臓の鼓動で、ますます、苦しくなる。


 草原の向こう。湖畔の前に数人の群れ。警官と救急隊員。子連れの母子と、それから――


 青いビニールシートの下の、白い腕。見慣れた、私が毎日、抱いている、今朝も、抱き合ったばかりの。


 左手。


 曲がった薬指に、私が渡した婚約指輪が光っている。


「長谷川さんですか! 奥さんが――」


「杏泉!」


 駆け寄って、ビニールシートをがした。杏泉の顔は青冷めて、むくんで、すっかり冷えて、別人のようで、よく知っている顔だった。両目を閉じて口を結んで、唇は白く染まっている。


「残念ながら……もう、息を引き取られています」


 他人事のように言う。


「お前らがやったのか!」


 警官の男に掴みかかった。救急隊員に引きがされる。


「そこの女と、子供か! まさか、あの時の女じゃないだろうな! 康介を殺したのも、お前らじゃないだろうな!」


「ちょっと長谷川さん、落ち着いてください。この人たちは散歩をしていただけです。見つけたのは釣りをしていた――」


「また、あの爺さん! そういえば、奈々の時もそうだった。じゃあ、あのジジィが!」


「もしそうだったら、通報するのは変でしょう。いったん、落ち着きましょう……それで、状況からすると殺人の可能性は低いと思うのですが、何か、心当たり」


「杏泉が自殺したって言うのか?」


 そんなはずがない。


 これからの新婚生活で、二人で働いて、子供も作ろうとして、それでどうして死ぬ必要がある?


「だったら、お前達の後ろにいるのは何だ!」


 瞳が真っ黒の、体が猿のように白く伸びた、不気味な白い影。


 つまりの町の、意思。


 同調された、歪んだ信仰。


 お前らは、それで。


「……また……奪った……また……与えて、奪いやがった」


 魂が抜けて、背中がゆっくりと曲がった。膝が折れて、両腕を垂らして、杏泉の身体に覆いかぶさった。


 ――私、やっぱりこうなっちゃうみたい。


 声が聞こえる。


 杏泉の声が、身体を通して伝わってくる。


 ――でもね、聖ちゃん。ちょっとだけ、幸せだったよ。


 杏泉が、私の頭の中で無邪気に笑った。その後に申し訳ないと、謝っている。謝るのは……私の方だ。


「杏泉……愛している。今日はまだ、言って……なかった。約束……破って……悪かった」


 唇にキスをした。


 今まで杏泉と重ねたどんなキスよりも、冷たくて、孤独で、寂しかった。


 春の風が吹いた。


 桜の花弁が、散った。

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