4-7

「片瀬杏泉あずみさん?」


「……いや、これは彼女の名前で」


「そうなんですか。夢中なんですね」


 看護師の女性がクスクスと笑った。


 ここのところ胃腸の調子が悪いから総合病院に行って問診票を記入したら、間違えて杏泉の名前を書いてしまった。看護師の言うように彼女を強く意識しているのは間違いないが、そういうのを超越して、身体を重ねる度に一心同体であるかのように意識が混ざって、自分が長谷川聖一なのか、片瀬杏泉なのか、分からなくなる。


 まあ、私はどっちでもいいの。


 一緒になってるって感覚がするから。


 こう彼女がささやいて、聖一である自分が納得する。


 原子、分子、細胞、核。


 思考の混濁こんだくで、どうにも考えがまとまらないが、意識の結合は単細胞から多細胞へ転換したように、アニマでもなくアニムスでもなくて、胃腸が悪いのは聖一であって、杏泉は花粉症をこじらせて、せき喘息ぜんそくに転換していると自己診断したから、それで、名前を戻しても症状は直さなかった。


「それで、間違えちゃったの?」


 処方された薬が咳止めだったので、杏泉は困った顔をした。


「それだけ愛しているってことの証明かな? 私はもっと上手く、活用してる。聖ちゃんの意識がね、今日、コロッケ食べたいって」


 こう言いながら、スーパーの袋にはモモ肉が入っている。


「それで、地鶏」


「食べたいのは知ってる。でも、胃が悪いから親子丼」


 彼女は悪戯っぽく笑った。


 駐車場に停めている白い車には、少し泥が跳ねていた。彼女は運転席に座り、私は助手席へ。


「胃が悪いのって、やっぱり?」


 杏泉が運転しながら、ごめんなさい、申し訳ないと伝えている。


「父親が、父親をしてくれないって、思い出しちゃった」


 決して康介が悪いわけではない。むしろ康介は杏泉に誠実だったし、歪んだ愛情を抱いてはいなかった。ただ、父親の理想像を考えさせたから、忌まわしい過去を思い出させてしまった。


 血の繋がり、同調的な感応。


 謝った方向に進むと、私は世界史を取ってはいなかったが。


「ハプスブルク家? 響きからして好きじゃない。聖ちゃんの、お父さんってやっぱり」


「覚えていないだけかもしれないけど、ずっと母さんと妹だけだった」


「私には兄弟はいない……妹さんとは、なかった?」


「まさか。妹とは仲は良かったと思うし、よく一緒に遊んだりしたけど、さすがに兄妹だから。だけど、たまに……いや、どうだろ」


「キスくらい、したんじゃない? そういうの、ちょっと聞こえたよ」


 なかったと、信じたい。


「そういう経験って、大人びた雰囲気にさせるのかな。ねぇ、聖ちゃん、私のこと、初対面で色っぽいって思った?」


「……そりゃあね」


「女としては喜んでいいのかな。だけど、得することばかりじゃ、なかった。トラウマを聖ちゃんに植え付けたせいかもしれない。胃が悪くなったのって」


「慣れるのに少し時間がいるだけ。まだ、一ヶ月くらいだし」


 車の窓に流れる道路の三月の雪は、もう溶け始めていた。冬は雪国に変わる香守町にあって、今年はこれでも暖冬だったらしい。来年は、本来の寒さに戻るのだろう。その時、私は独りではない。だから来年は、きっと暖かい。


「アダムとイブも、こうなったと思う?」


「それだと人類の全員がこうなる。この町だけの……高貴なる都の女とやらの血統かな」


「聖ちゃんは男なのに」


「母さんからの遺伝。織戸家の。だから、おそらく妹も」


「……やっぱり会った方が、いいと思うよ。妹さんに」


「そうだな。だけど、どっちを先に済ませようか」


「挨拶かな。ちなみに結婚指輪って、どっちのを付ければいい?」


 もう、私の中の奈々の声は随分と小さくなっていた。今でも微かに聞こえているが、指を切り離したら、何も聞こえなくなるのだろうか。


「変な町だけど……不思議と、ここで暮らしてもいいって思った。私ね……この町のこと、受け入れたい。大丈夫、私、右利きだから運転にも影響しない」


 左手の薬指で、ハンドルをトントンと叩いている。


 さようなら、奈々。


 きっと、愛していた。

 

 たとえ指は離れても、私が覚えていればいい。


 私は杏泉と結婚する。


 そうして、奈々の指を落として、杏泉と指を結ぶ。康介がいたら――こんな真似は、とてもできないが、もう行方不明になって三ヶ月になる。康介は、この世にはいない。町の意思によって、同調的で異常な風俗によって、信仰を軽んじたのだと誤解されたせいで、彼は消されてしまった。


 そんな非常識な町を、私は捨てられない。


 奈々を与えて、奈々を奪って、友人の康介を奪って、代わりに杏泉を渡してくれた。差し引きゼロ、とは言わないが、憎み切れない私がいる。あれだけ帰郷するのを拒んでいたのに、今は、不思議と。


 叔母には、結婚の告知をしておいた。


 伯父にも報告したかったが、伯父は、もういない。


 母も、いない。


 あとは、妹に伝えるだけ。


 駅に向かう途中で花屋があった。とても綺麗な白い花が店頭に飾られていたから、花束を買った。胡蝶蘭こちょうらんというらしい。それから車を駅前に停めた。いくら妹とはいえ、中学に入ってから一度も会っていない。今日、妹に挨拶をしようと事前に決めていたわけでもない。まだ心の準備が整っていないのでコーヒーを飲みたいと思って、無人の喫茶店に入って、セルフサービスのコーヒーをカップに入れて、コーヒーフレッシュを二つ取った。


 一つは杏泉の、もう一つは、未だ残っている左手の奈々へ。


「胃が悪いのに」


「明日から控える。改めて会うとなると、緊張もする」


「神社にいると思う?」


「妹は巫女だから。あそこくらいしか、思いつかない」


 車が咲花区に入り、橋を渡って、郷土資料館を過ぎた。商店街の、閉まったままの土産屋の駐車場に車を停めて、ひっそりと静まり返った鳥居の階段を二人で上った。


 ここへ来るのは、あの日以来。


 奈々が死んで、頭痛に悩まされて、神頼みをするために訪れた。それが今は新しい伴侶の報告を自分の妹の巫女に伝えるために訪問している。


 杉の群れが、さわさわと風に揺れている。


 半分ほどが緑に覆われた石段の脇に、あの丸い灯篭に棒が刺さっている。


 信仰を否定する気も、茶化す気持ちもないとはいえ、あの康介の部屋から見た防犯カメラが、不気味な女が夜中に歩いていた場所だったから、さすがに肌が冷えた。


 階段を上りきった先の開けた場所に着いた。


 例のわらべ唄の看板が立っていた。


「ちょっと怖いね」


 寂れた社の前で、一度、手を合わせてから奥の参道を歩いた。参道は竹林の中に続いて、道の周りには相変わらずゴロゴロと石牌が倒れていた。その間、誰とも擦れ違わなかった。ここは町の住人にとっての聖地のはずなのに、どうして誰も来ないのか。しかも、こんな有様で放置しておくとは、あまりに管理が杜撰ずさんだ。信仰心があるのなら掃除しても良さそうなのに。もしかすると、この転がっている石は触れてはいけない存在なのかもしれない。


 竹林の先は、屋敷に通じていた。


 三角の瓦屋根に、武家屋敷のような見た目の木造家屋は、田舎にある祖母の実家という印象だった。木造の門の奥に日本庭園があって、緑の芝生に固まった氷が載っている。少し乱雑だが丸く切られた灌木かんぼくに、小さな池が見える。門が開いていたから勝手に庭に入った。石畳が伸びて、玄関に繋がっていた。


「すいませ~ん!」


 返事がない。インターホンもない。戸を叩いたが、反応がない。こういう無反応には慣れた。ここで引き下がっては意味がないので戸を引いた。やはり鍵が掛かっている。郷土資料館のように裏口はないかと回ってみる。縁側に出て、庭は廊下と接していて、障子が開け放たれたままの和室が見えた。誰か住んではいそうだが。


 掛け軸の下に、花が生けてある。花は茶色く枯れていた。


「兄ちゃんと、離れるん?」


 誰の声かと思った。喋っているのは隣に立っている、杏泉だった。


「いややわ、ウチ、兄ちゃんと一緒になるんやもん」


 そんなん言うて、困らせんといて。


「よ~言うわ。知ってるんよ。本当のお父さん、誰か知ってるんやから」


 あんた……何の話やの。


「見てたら分かるわ。せやから兄ちゃんと一緒になっても構わへんやんか」


 嫌や。


 嫌やわ。


 兄ちゃんは構へん言うたんに、それでどうして、残すんよ。違う、違う、違うやんか。ずるいやんか。みんな私から、逃げる気なん?


 分かって、分かって、分かってぇな。母さん、もうそれ、断ち切りたいんよ。


 せやったら、ここから、出たらええやん。


 血ぃ濃いんよ、出られへんのよ。せめて聖ちゃんだけは、出したりぃな。


「ごめん……頭、痛い。妹さん、ここにいるかも……だけど」


 杏泉が目頭を抑えている。今度は私の記憶が、彼女に流れた私の過去が乗り移っている。私の頭にも、妹の、母の声が流れて、胸を裂く悲痛な想いに苦しくなった。


 ――帰って!


 ――私の前に、来んといてよ!


 叫び声が聞こえて、私は杏泉の手を握って、その場から離れた。最後の声は妹だろうか? どういう理由かは知らないが、私を恨んでいるのか、とにかく今はまだ受け入れてくれそうにいない。


 竹林の、竹の長さが全部、揃って見えた。


 風で曲がって、こちらを向いて、お辞儀をしているように。


「ねぇ……聖ちゃん……歌が聞こえる。女の人が、たくさん、歌ってる」

 

 あかん、あかんで。


 逃げられへんの、芸者やないの、魂も渡さな、楽なんかできん、死ぬよ死ぬわ死んだらええわ。


 あなたの鳥、亡くなっても、たくさんいるから、はねがなくても、人が笑うの、形がないの、煮ても焼いても、なるようになる、る、る。


「私、背負えるかな?」


 杏泉は、泣いていた。


 気が付けば、私も泣いていた。


「みんなの意思が、嘆きが、とても辛い。苦しかった人、多かった。悲しんだ人、多かった。マダツネなんて、なければ良かった。受け入れるって本気で言ったけど、私……自信がない」


「もう、終わったことだから」


 歌は、社の中から聞こえていた。暗闇に着物を着た女の人形が幾つもあって、どれも涙の筋があった。


「身売りは、もうこの町にはなくなった。栄えようとして、廃れたのは報いなんだよ」


 母はどうして、巫女を継いだのか。


 妹はどうして、巫女を継いでいるのか。


 もしかすると二人は、ここでとむらいを、私を逃がそうとしたのではないか。妹は――本心では納得していなかったのかもしれないが、それでも。


「マダツネ信仰が悪いわけじゃない。マダツネは鎮魂と、豊作を叶えてくれる健全な神だった。悪用したのは……昔の人間だ。今もまだ不浄な意思が継がれているかもしれないが、本来あるべき、弔いの精神だけを残せばいい」


 妹に渡すつもりだった、胡蝶蘭こちょうらんの花を社に捧げた。膝を折って、両手を合わせて、未だ彷徨さまよっている娘達の魂の浄化を祈願した。


「指結びの風習も、夫婦の契約としての愛の誓いだけを繋げばいい。少しずつ、形を変えればいいと思う。少しずつ」


 声が止む。


 風も、止んだ。


 私と杏泉は目をつぶって、もう一度、祈りを捧げた。


 ――どうか彼女達が、この忌まわしい系譜が、鎮まりますように。

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