4-6

 名前で呼んで欲しいと言った彼女の言葉で、十年前の、大学時代の想い出が呼び起こされた。


 初めて彼女と知り合ったのは、金に困って仕方なく始めたバイト先だった。私は本を読むのが好きだから本屋の店員を選んだが、片瀬は、ほとんど本を読まないと言っていた。


「あれ、長谷川君って、同じ学校なんだ。学部も一緒だし」


 それまでは気が付かなかったが、選択した講義に彼女と同じのがあった。教室で話し掛けようと思ったことはあるが、いつも片瀬の隣には知らない男が座っていた。数ヶ月経つと、別の男に変わっていた。それでも、バイト先では彼女を独占できた。大学で擦れ違う彼女と、バイト先で一緒になる彼女は、別の人だった。いつしかバイトは金のためではなく、彼女と会うことが目的になった。


「本は読まないんだけど、映画は好きなの」


 康介に誘われた映像研で、大学でも一緒になった。最初は十人くらいでキャンプや海水浴に出掛けたが、徐々に人数がバラけて、卒業する頃には片瀬と康介と私の、三人だけで旅行するようになった。


「聖ちゃん、どうかな、この水着」


「足湯だったら、一緒に入れるね」


「前の人? もう別れたって。そうじゃなきゃ、さすがに参加できないから」


「ねえ、聖ちゃん……ううん、何でもない」


 私にとって片瀬は、近くにいるのに、手の届かない存在だった。二人の間の物理的な距離は、私が思っているほどには遠くなかったかもしれない。彼女から一歩、距離を詰めることもあった。それに対して私は、引き下がりはしなかったが、自分から前に、最後の一歩を踏み出せずにいた。そのうちに卒業して、彼女は康介と付き合って、私から連絡するのは悪い気がしたから、彼女に会うことはなかった。


 そんな片瀬が、今は同じ屋根の下で、二人だけで暮らしている。遠い海の向こうに去った渡り鳥が、一周回って、戻ってきたような心境だった。


「奈々って、その人の名前なんだよね」


 片瀬の手が私の左手に、そっと触れた。


 彼女の爪が私の第二間接を突いて、指と指が絡み合った。ストーブの前に座っていたせいか、彼女の指は暖かい。人差し指、中指、小指と、私の指の神経の一つ一つが刺激されて、その中で、たった一つだけ、何も感じない指がある。


 左手の、薬指。


 私は改めて、指結びをしているのだと自覚した。


 薬指を切ったのは、奈々が死んですぐのこと。葬式が終わり、私は伯父と叔母に指結びをする意思を伝えた。伯父は無言で首を横に振り、叔母は喜ぶとも、残念がるとも、どちらか分からない複雑な表情を浮かべた。総合病院の受付に奈々の指を入れた瓶を持って、その日のうちに手術が終わった。


 痛みは、感じなかった。


 たとえ感じていたとしても、どうでも良かった。奈々は死んで、焼かれて灰になったが、彼女の指は私の所へ来てくれた。心と体が一つになった喜びに、自分の指ではないとの理性は消え失せた。今でもこの風習を異常だと思いはするものの、奈々との指結びだけは受け入れている。婚約指輪をめているくらいの感覚で、まるで、最初からそこにあったかのように、静かに、奈々の指は私の左手にあった。


「たまに、変なことを言ったりして」


 片瀬の両手が、私の左手を包む。


「たまに、変なことを書いたりもして」


 片瀬の顔が近付く。ゆったりとした口調に、甘い吐息を感じた。チョコレートの匂いがした。


「聖ちゃんは、まだ、その人に囚われているの?」


 ここまで接近してから、片瀬はふっと、距離を置いた。両手を後ろに組んで、寂しそうに目を伏せた。


「私のこと、好きなくせに」


 ぼそっとつぶやいた。


「どうして康ちゃんと付き合ったのか、分かる?」


 私は、答えなかった。


「聖ちゃんが、何もしてこなかった。その、当てつけ」


 片瀬は顔を上げて、無邪気に笑った。


「奈々さんと、どれくらい、一緒にいた? 私とは、どれくらい、一緒に話をした? バイトのシフトね、私、最初は火曜と木曜だった。それを聖ちゃんに合わせて、水曜と木曜に変えた。気付いてなかった、わけないよね……ずるいよね……私、名前で呼ばれたこと、一度もないのに」


 彼女は目尻を右手の人差し指で拭って、指先に付いたしずくで私のほほをなぞった。


「聖ちゃん、私の名前を、知ってるの?」


 ――私の名前は、加室奈々です。


「誰の声を聞いたの? 違うよね。目の前の、私の声だけを聞いて」


 ――キスをしたことは、ありますか?


「ねえ、私を、どうしたいの?」


 ――私は恥ずかしながら、ないのですけど。


「いい加減に、奪ってみてよ」


 ――最後まで、キスは、できませんでしたね。


 私は目を閉じた。暗闇に、奈々の姿が浮かんだ。奈々は手を振って、私はうなづいて、また、目を開けた。


 片瀬が目をつぶっている。


 私は一歩、踏み出した。


「この歳になって……ちょっと、震えちゃった」


 どれだけキスを重ねても、その人との最初のキスは感覚がリセットされる。この感触が、私はとても好きだ。それも明日になれば、よくある日常だと慣れているのだろうか。喜ぶべきか、寂しいと感じるべきか。


「……杏泉あずみ


 私はソファの上に寝そべった彼女に覆いかぶさった。少し動きづらいが、今はこのぎこちなさが、むしろ丁度良かった。


「聖ちゃん……早い」


 胸の上に載せた私の顔を、杏泉あずみが止めた。


「もうちょっと上に、来て欲しいな。時間はまだまだ……ね?」


 彼女の髪をでて、耳を指でなぞって、首筋に指先を縦に流した。彼女は小さな声を出して、顔を少し持ち上げて、私の唇にキスをした。


 五感が、うずを巻く。


 うねりが、私と彼女を一つにする。


 彼女の両腕が私の首に絡んで、私が聞くことのなかった、彼女の愛らしい声を聞いた。


「態勢……変えてもいい?」


 二度目の交わりが始まって。


「もっと動いていいよ」


 身体を通して声が響くようになって。


「本当に――」


 ずるいのは。


「私の方なのかなって」


 どちらが、どう、話をしているのか分からなくなってきた。彼女の声が直接、脳に伝ってくる。私が意識の中で答えれば、彼女もまた、答えてくれる。身体を重ねると、心を重ねると、こうなるものだったか。それとも、これは私に流れる――


「ちょっと、期待してた」


 久しぶりに、会えるから。


 それじゃあ康介を、愛してなかった?


「ううん、愛して、た」


 だけどね。


 何か違うって、思ってはいた。


 でも、それでもいいかって、割り切ってもいた。


 今を変えてくれるキッカケを、探したり、したのかな。でも、見つからないから、一緒になろうかなって。そういう時に、ここに来た。


「こうなって、本当に良かったのか?」


「まだ、迷ってるね」


「……ごめん」


「じゃあ私が、消してあげる」


「……何を?」


「上書きしてあげる。聖ちゃんの、記憶を」


 それから――


 私の汚れた心を。


「もっと強く……抱いて」


 打算だった。


 安心が欲しかった。


 先生を、信じてた。


 それで、どうして。


 私を捨てたかな?


 もう誰も、信じられない。


「私、汚れているから」


 再び私が上になった時、杏泉は両腕で自分の目を隠した。泣いているようだった。


「誰かが私を求めてくれないと……生きている気がしなくて」


「ずっと、寂しかった?」


「そんなのより、もっと、都合が良くって……本当に、ずるいから」


 だって、聖ちゃん、私を好きだから。


 それを前から知っているから。


 もしも、私と一緒になったら。


 ずっと捨てないでいて、くれるでしょう?


「嫌いにならないで」


 こんな、私を。


「一日で、一回だけでいいから」


 朝でも、昼でも、夜中でも構わない。


「どうか私を」


 愛していると、言って欲しい。


「分かってる。愛している……杏泉あずみ、愛しているよ」


 もう、彼女とは一回目のキスではなかったが、これが本当のキスだった。


 彼女の身体が、私を求める。


 私の身体が、覆いかぶさる。


 意識の湖に波紋が広がって、静かに、ゆっくりと、深い水の底へと沈んでゆく。

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