4-5

 また、しばらく雪の日が続いた。


 最近、エアコンの調子が悪くなった。ガタガタと音がして、暖かい風をしばらく送った後に、すぐに休憩きゅうけいする。これで設定温度に達することがあるのか。不動産屋に連絡をしたが、冬の、特に雪が降る時期は順番待ちになるらしい。このままでは部屋が寒いから、駅前の電気店で灯油ストーブを買った。赤い灯油ポンプをグニグニと押す感覚が懐かしい。


 そういえば昔、庭先に置いてあったポリタンクから誰が灯油を補充するのかで、妹とジャンケンをしていたように思う。


 私はジャンケンが弱かった。いつも私が灯油を入れていた。ストーブは三つあって、二つ目の補充に差し掛かったあたりで、結局、妹も手伝いに庭に出てきた。それも今はベランダにポリタンクを置いてあるから、ジャンケンをする必要もなくなった。


 灯油の補充くらいは構わないが、こうも雪が続くと散歩が億劫おっくうになる。家に引き籠りがちになる。だからこそ、マダツネ信仰に関する調査がはかどった。


 ――香守町の年表。

 ――ある芸者の一生。

 ――マダツネ信仰の、初代巫女の役割について。

 ――指結びと、わらべ唄。


 汚れているとはいえ借り物だから、受験勉強のように本に蛍光色のマーカーを引くわけにはいかない。気になった箇所を抜粋して、パソコンに打ち込むことにした。そうしているうちに、段々と歴史が分かってきた。


 年表によると、香守かがみ町は、かつて、火ノ守ひのもり町という名称だったらしい。


 江戸時代に黒色火薬の生産地としての役割を担い、時代と共に火薬の需要がなくなると、今度は温泉地として様変わりした。当時は電車が通っていなかったから、知る人ぞ知る秘湯だったとされている。駅から向かって北側の、私が住んでいる山の手前よりも南に位置する場所が、この町の主要な温泉街だった。


 私が西條と散歩した場所だ。


 あそこには置屋があったから、芸者が舞を披露して、地方じがたが三味線を弾いて、酒に酔った客が踊りながら騒いでいる様子が目に浮かぶ。最初は健全な観光地を目指していた――のかは知らないが、そのうちに色街としての側面が強くなった。若い娘が旅人の労をいやすうちに色恋沙汰に発展して、金になるからと、売春を斡旋あっせんするようになった。これは邪推じゃすいではなく、郷土資料館に展示物が残されていたし、私が持ち帰った資料にも明記されていた。男女が交わる際に香をいたことから、火を守る町ではなく、香の町として、香守かがみ町になったと。


 私の故郷で売春が行われていたことについては、特に何も感じない。


 前から薄々感づいてはいたし、昔の田舎であれば、よくある話だったのではないか。これは当時の彼らの生きるすべであって、国家が生活の面倒を見てくれるわけではない。それも今では廃れている。そもそも現代でも形を変えて性風俗は継承されているし、今は田舎ではなくて、都会で堂々と栄えている。


 ここまでが、香守町の歴史。


 これで話が終われば、故郷について知れて良かった、だけで済んだ。


 問題は、この後だった。


 指結びの由来について。


 それこそがマダツネ信仰と密接に関わり、私の身の回りに降りかかった不幸を引き起こしているのに違いなかった。ここから先の調査は、一冊の資料に書かれている内容ではない。情報は断片的で、時系列もバラバラで、私は一つ一つをテキストファイルを並べて、歴史の整合性が合うように番号を付けた。


 一、売春は香守町の出身者ではなく、外部から身売りされた娘が多かった。


 これはまあ、そうかなと思う。愉快な話ではないが、こんな小さな町で需要を満たせるだけの若い娘がいるはずがない。娘を売る親にも問題がある。特定の人物だけをとがめることはできないだろう。


 二、香守町の繁栄のために、旅人を囲うようになった。身売りの娘を引き渡す代わりに、旅人に永住を約束させた。


 そのための儀式として、指切りの誓いを、互いに薬指を交換する『指結び』の風習が生まれた。これは旅人が身売りした娘を妻として愛する誓いであって、同時に、町の住民になることの契約だった。さらに、誓いを立てさせられたのは旅人だけではない。むしろ娘達を束縛する側面が強く、彼女達が親元へ帰ることを許さない、決してこの町からは逃がさないとの自由からの決別を意味していた。指結びの誓いは絶対であり、これを破った者は――


 年齢、性別に関わらず、姿を消したとされている。


 つまり、町ぐるみで殺害された。


 《荷を包んで実をつばみ 土手の坂道ほろりほろり

  とうの昔に色落ちた かつての音を空に聞く

  笑みをこぼせぬ花かざり

  れんげの牡丹の狐色

  泣いても泣いても いたみは消えぬ

  しずむ夕日は 沼地の底へ

  でんぐりがえり、でんぐりがえり》


 わらべ唄は、娘達が歌っていたらしい。これは彼女達の嘆きであり、恨みをつづった詩ではないか。身を売られた先で人形になることを強要されて、愛してもいない男と結婚をさせられて、逆らえば、待っているのは無残な死。受け入れれば、生きるしかばねとなって生涯を終える。そういう環境でも、愛が芽生えた夫婦もあったかもしれない。全体の、どのくらいの割合だったか疑問ではあるが、町を出ようとした夫婦もいただろう。この町の無人の廃墟は、夜逃げしようとした夫婦の家であって、道中で捕まって殺された彼らの怨念は、今も逃げることが叶わずに彷徨さまよっているのではないか。


 私の耳に、ささやく幻聴と。


 私の瞳に浮かぶ幻覚は、あの白い影は、死んでもなお、囚われている彼らの魂ではないか。


 最後に、マダツネ信仰について。


 三、マダツネ信仰は室町時代から続く古い信仰である。マダツネサマと呼ばれる土地神に豊作と魂の浄化を祈願し、初代の巫女には都から遣わされた高貴なる血を引く者が選ばれた。代わりに、都の荘園地としての役割を担った。江戸の頃には火薬の生産地となったため信仰は徐々に廃れ、明治に入ると、近代化によりマダツネ信仰は忘れ去られた。それがまた、再び表面化した理由は定かではない。


 私には理由が分かる。


 古来のマダツネ信仰が魂の浄化を目的としているのならば、彼らの怨念のしずめるためであって、もう一つは、


 ――長谷川さん。


 西條の言葉を思い出した。


 ――風俗や風習、町の文化や価値観が共有されて、やがて私達も、同調させようとしている、と。


 マダツネ信仰が復活したのは、彼らの思考を麻痺まひさせるためではないか。仮に夫が、妻が、自分を虐げていたとしても、信仰に従事させることで直面している不幸から意識を逸らして、恨みや嘆きを抱かせず、ただ、平穏に暮らすための信仰。


 これはあまりに歪んだ系譜けいふで、残酷な風習だと思う。


 だが、


 信仰を寄りどころにして、精神的に救われていた可能性も否定できない。生きる意味を持たなければ、生けるしかばねにもなれない。もしも、彼らにとって不幸しか呼ばない信仰と風習であったのなら、今の町の人も、伯父も、叔母も、この現代においても従い続けるはずがない。

 

 それに、私が指結びを否定すれば。


 奈々の覚悟も、否定することになる。


 彼女はマダツネ信仰に準じたわけではないが、彼女は私と、この町で一緒に暮らすことを決めた。彼女が指結びに従ったのは、風習を大事にしたいのではなくて、どれだけ愛していて、どれだけ愛してくれるのか不安だったから、互いの愛の深さを知りたかったのではないか。


 ――聖一さんが良かったら、私は構いません。


 彼女の言葉の真意が、初めて理解できた。奈々は指結びで、愛を証明したかった。


 ここまで考えたところで、さらに下のファイルが視界に入った。私は特に深く考えず、次のテキストファイルを開いた。


 七、自信がありません。トルストイを読んで、私はアンナも、ヴロンスキーも、リョーヴィンも理解できるようで、どれも私と違うように感じます。与えることと、与えられることが等しくあるべきか分かりませんが、それが続くのなら、きっと上手くやっていけるとは思います。だから聖一さんが、私が、心変わりをしないかと不安になるのです。


 七、マニキュアを贈るのを忘れました。私、普段、マニキュアを塗らないんです。中学の頃に興味本位で塗ってから、あんまり向いてないと、それっきりに……ですが、せめて聖一さんの前では綺麗でありたいのです。そう言いながらも自分のは手入れしないのですけど、聖一さんに渡した指には塗って欲しくて。もしも一緒に住んでいたら私が塗ってもよかったのですが、やっぱり、それでも、聖一さんに塗って欲しいかな。


 七、心変わり、やっぱり、していますか? ステキな人、だと思います。私には到底、勝てっこないって。寂しいですけど、でも、短い間柄でしたし、正式に夫婦にはなれませんでしたから、聖一さんの将来まで縛るつもりはありません。でも、たまには思い出して欲しい。だから、こうして書きます。


「なんだ、これは!?」


「……うわっ! ビックリした!」


 私が大きな声を出したせいで、テーブルの正面に座ってスマホをいじっていた片瀬がイスから転びそうになった。パソコンのフォルダに、いつの間にか知らないファイルが混ざっている。調査結果は五番までなのに、七番のファイルが大量に置かれている。


「こんなファイルが」


 テーブルの上でノートパソコンを回して、片瀬に画面を見せた。


「勝手に作られている。片瀬が作った……わけないよな。まさか、ウイルスか?」


「……それって」


 片瀬が、じっと、私を見た。


 私の顔ではなくて、私の手を見ている。


「聖ちゃん、さっきから左手で、打ってたけど」


「ん? どういうこと?」


「左手だけで、カタカタ、キーボード叩いてた。器用に打つなって思って、その後に何だこれって言われても……自分で書いたとしか」


「そんなわけ――」


 無意識に自分でキーボードを打っている? 考えにふけっているうちに、勝手に奈々の気持ちを文字に起こしていた? それが本当だとすれば、私は相当に変人ではないか。


「いつかね、ちゃんと聞こうと思ってたんだけど……どうして聖ちゃん、そんなに指が曲がって、しかもマニキュアなんか塗るのかなって」


「これは……」


 片瀬は、私の左手の薬指のことを言っている。曲がっているのは指を切断して繋いだせいで、他人から見れば気持ち悪いかもしれないが、私にとっては大事な指だ。奈々の指は未だに白く、艶やかで、それに見合うように爪も手入れしてあげたい。


「奈々が願ったから。マニキュアを塗って欲しいと」


「だよね……聖ちゃん、婚約した人と指結び、しているんだよね。私、聖ちゃんが指結びをしたこと、嫌だって思ってない。だって、婚約者だったし、ここは聖ちゃんの故郷だし……私が気にしてるのは、指のことじゃなくって」


 今度は、私の顔を見た。


 少しだけ濡れた瞳で、口を結んでいる。


「片瀬って呼ぶの、そろそろ止めて欲しい。いつまでも苗字じゃなくて、杏泉あずみって呼んで欲しい。つまんないことかもしれないけど、いつ言おうか、ずっと、迷ってた。昔から、ずっと」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る