4-4

 ――ねんころ、ねんころ。


 懐かしい声がする。


 目を開けると、白い光の中に女が座っている。女のひざの上に、少女の頭が載っている。


 ねんころ、ねんころ お祈り申せ

 早くおいでや 急かせや急かせ


 どうやら子守唄らしい。女は少女の頭を優しくでて、少女は幸せそうな顔でスヤスヤと寝入っている。私はそれを遠くで見ていたが、やがて、


「……変な歌」


「そお?」


 女が私を見た。和やかに、微笑んだ。


「聖ちゃんは寝てくれへんけどね、いちかは、好きなんよ。ほら、もう夢の中やわ」


 稚児ちごまつりて お祈り申せ

 耐えぬ 優しさ

 ずっと眠れ

 ねんころ、ねんころ お祈り申せ

 早くおいでや 急かせや急かせ


「ねえ、その子は、誰だっけ?」


「何言うてんの。自分の妹やないの。まさか、忘れてしもうたん? まあ、でも――」


 女は私から、顔をらした。


「無理に思い出さんでも、ええよ」

 

 はあっと息を吸い込んだ。


 それから、大きく息を吐いた。


 再び目が開くと、辺りは真っ暗だった。身体が冷えている。汗でシャツがべっとりと湿っている。私は仰向けになっているらしく、後頭部が少しだけ浮いていた。


「気が付いた?」


 私の頭上から女の声がした。顔に光を照らされて、まぶしくて、咄嗟とっさに手で目を覆った。


「ごめん、大丈夫?」


 心配そうに上から覗き込んでいるのは片瀬だった。私を照らした光は、彼女のスマホだった。私はゆっくりと起き上がって、さっきまで私の頭があった位置の、片瀬のスカートに目がいった。白い両ひざが綺麗に並んでいる。どうやら膝枕をしてくれたらしい。


 周りは、暗い。


 まだ館内にいるようだ。


 頭痛が少し残っている。首を回したら、鈍い音がして脳にまで響いた。私はベンチに座り直して、すぐ隣には自販機があった。そうなると、ここは休憩室だろうか。


「はい、お茶」


 片瀬が鞄からペットボトルを渡してくれた。汗をかいたせいでのどが渇いている。自販機は動いていないから、ここに来る途中に買ったお茶だろう。私はお茶を勢いよく飲み干した。


 頭痛が引いていく。呼吸も落ち着いた。


「本当、ビックリした。だって聖ちゃん、急に倒れるんだもん。外に出ようか迷ったけど、とりあえず寝かせてくれって言うから」


「そんなの言ったっけ?」


 記憶にない。


「言ってた。寝言もつぶいてた。ねんころ、ねんころ、とか」


「ああ……さっき、母さんの夢を見たせいかも」


「本当!? それで……お母さんのこと、何か思い出した?」


「最後の方しか覚えていないけど……母さんが子守唄を歌っていて、膝の上に女の子がいた。その子のことを、いちか、と呼んでいた。そうだ、あの子を、昔から――」


 知っている。


 ずっと忘れていたけど、あの子を、知っている。


 私は額を抑えた。


 頭痛がしたからではない。


 どうして忘れていたのかと、自分が情けなくて、申し訳なかった。


「さっきの部屋、倒れた場所に写真があったろ? 母さんの、隣の」


「えっと……今の、巫女さんの写真?」


「あれは、妹だと思う」


 十八年も、前のことだ。


 その頃には既に父はいなかった。母がいて、私がいて、妹の三人で、たまに伯父と叔母に会って、きっと、それなりに楽しく暮らしていた。


 母はマダツネ神社の巫女だった。


 妹も、いずれそうなると言っていた。これは運命なのだと、母も、妹も言っていた。そういう時は決まって、死人のように瞳の色が閉じていた。私は母のことも、妹のことも好きだったと思うが、訳の分からない信仰の犠牲になろうとする無神経さだけは、どうにも納得できなかった。


 やがて、私は小学校を卒業した。


 中学に入学すると同時に、この町を出た。


 両親の都合なのか、自分の都合なのか、理由は分からない。いずれにせよ、この町を捨てたという罪悪感だけが今も胸の奥にこびりついている。母から遠く離れて、妹を見守ることを放棄した自責の念が、私の記憶を封印したのだろうか。


 それを、あの写真と夢が思い出させてくれた。


 とはいえ、断面としての記憶しか蘇っていないが。


 休憩室を出て、片瀬と二人で暗い廊下をスマホで照らしながら歩いた。片瀬のスマホのバッテリーが十を下回ったから、ここからは私のスマホだけが頼りだ。充電が切れる前に一通りを見て回りたい。この資料館には、私が失った記憶を辿るキッカケが隠されているように思う。


「いちかさん、っていうの? どういう字?」


「聖一のイチに、誓うで、一誓いちか。ちょっと変わった当て字だった」


「聖ちゃんが町を出てから、一回も会ってないの?」


「薄情だとは思うけど……中学に入ったばかりの頃は、慣れない都会生活に必死だったし、周りは既に友達で固まっていたけど、こっちは地元じゃないから、輪の中に入るのに苦労してた。そもそも人見知りだから」


「まあ、そうだね」


 片瀬が茶化した。私は自分で言っておきながら、ちょっとムッとした。


「だって聖ちゃん、大学でも私が話しかけるまで、全然、話してくれないんだもん」


高嶺たかねの……いや、何でもない。女に免疫めんえきがないから」


「顔、お母さん譲りで美形なんだから、もっとグイグイいけばいいのに」


「だから人見知りなんだって。こんな町に住んでて、陽気な性格になりようがない。高校はとにかく勉強ばかりで、たまに家に電話もしたが、「こっちは気にしなくてええよ」と母さんが言うから、興味ないんだろうって……あの年頃は母親とかに構わなくなるし、何より、この町のことを考えるだけで気持ち悪くなった。独特の雰囲気が肌に合っていなかったんだろう。そうこうしているうちに彼女が出来て、妹の存在すらも忘れた」


「なんだ、いたんじゃん、彼女。免疫ないとか言っちゃって」


「彼女といっても、すぐに振られたから。付き合ってるか分からないって、積極的に来ないから、つまらないと」


「あ~分かるわ、それ。聖ちゃん、奥手なんだもん」


 片瀬が私の左腕を取って、彼女の両腕を巻きつけた。体がくっついて、私の肘に彼女の胸が当たった。ほほが熱くなる感覚がしたから頭をきたくなったが、右手にスマホを持っているので無理だった。


「でもさ、どうして久しぶりに帰ったのに、妹さんは会いに来ようとしないのかな?」


「十年以上も会ってなかったら他人みたいなもんさ。こっちが忘れているように、妹だって忘れているかもしれない。母が亡くなって接点すらもなくなって、叔母は妹のことなんか一言も教えてくれなかった」


「ん~、叔母さんも冷たいというか、遠ざけているというか。理由があるのかな」


「マダツネ信仰が関係しているのかもしれない。巫女は神聖な存在だからって、都会の汚れた空気を触れさせたくないとか」


「純血ってことか。そんなん言ったらさ、私なんて……」


 資料室の前で足を止めた。


 第三展示室が向こうにあるが、ここにも手掛かりがありそうだ。資料室に入ると、白いスチールの本棚が並んでいて、幾つかは斜めにドミノ倒しになっている。本が床に散らばっている。倒れた棚が交差して奥までは入れそうにない。スマホのバッテリーも限られているから、ここは片瀬と手分けして、マダツネ信仰に関係がありそうな本を題目から判断してテーブルに積んでいった。


 ――香守温泉の泉質と効能。

 ――香守芸者、生きつばみ第六選。

 ――反熟語と言霊ことだまの利用活法。


「関係ないのばっかり」


 片瀬に文句を言われた。とはいえ、奇妙なタイトルに興味をかれる。


「これ、そうじゃない?」


 片瀬が汚れた本をテーブルに置いた。


 ――心絆みな ~初代マダツネ。


「これも、絶対そう」


 ――香守町・年表。一九五五、一九八五。


 こういうのは女の直感の方が頼りになるらしい。私は回り道してばかりだが、片瀬は見つけるのが早い。


「これは何かな……汚れて読みにくいけど、指って書いてある気がする」


 片瀬が私に手渡したのは和装本だった。ざらついて、黒い染みのついた紙をひもで括っている。表紙の真ん中に、指、と書いてある。


 ――ちょうとなり、土に還る。


 変な一文から始まっていた。


 パラパラとめくると、詩が書いてある。


「荷を包んで~実をつばみ~ぃ、土手の坂道、ほろ~りほろり」


 声に出して、読んでみた。ぼんやりと、頭の中にメロディが浮かんでくる。


「しずむ夕日は~沼地の底へ、ぇぇぇ、でんぐりがえり~、でんぐ~りがえりぃぃ~」


「ちょっと、止めてってば!」


 片瀬が本気で怒っている。


「悪い。何か、思い出せそうだったから」


「その歌、知ってるの?」


「小さい頃に聞いた気がする」


「そっか。ごめんね、邪魔して。でも、続きは家に帰ってからにしようよ」


 私は持ってきたリュックに、五、六冊程度の本を詰めた。リュックには『SECURITY』と書いてある。これは、康介のリュックだ。


 資料室を出て、トイレの前を素通りして、続いて第三展示室に入った。展示品の観覧から間を置いたせいか、改めて、暗闇に物が並んでいるのが不気味に思えた。しかも、ここには一切の説明文がない。部屋を四角く囲むガラスケースに等間隔に展示物を並べているだけ。


 アルコール消毒の小さなびんがあって。


 先の鋭い細い刃物。白や茶色や赤の綿。ハンドクリームにピンクのマニキュア。針金や、黒い糸や、薬指だけを露出した手袋。


「もしかして……本物の指か、これは」


 大小、様々な指が透明なびんに入って並んでいる。女の細い指だったり、ごつい男の指だったり、子供なのか、短い指まで。


「ねえ……ここ、早く出ようよ」


 片瀬が口元を抑えて吐きそうにしている。私も、さすがに気持ち悪くなってきた。指結びと関連しているのは間違いないが、こんな物を凝視しても記憶を辿る手掛かりにはなりそうにない。それに、部屋に染みついたアルコールの匂いが鼻を突いて、血の鉄臭さが混ざって、不快極まりなかった。


 全部を回ることなく、部屋を出て、


 廊下で深呼吸したところで、


 ――ピンポーン。


 音が鳴った。


 誰もいない館内に、よく響いた。音は廊下の奥から聞こえて、壁や、天井を這うように突き進んで、私達の後ろに抜けていく。私は口を開けて、眉を寄せて、到底理解しがたい事態に直面したと、不信感を顔全体で表現している自覚があった。片瀬は何も言わずに両肩をすぼめて、小刻みに首を左右に振っていた。


 私は片瀬の手を引いて、さっきの資料室へ逃げ入った。


 斜めに倒れた本棚の奥へと、片瀬が潜り込む。私も続いて、本棚を抜けて、ぽっかりと開いた空間に二人で身を隠した。


 ――ピンポーン。 


 また、鳴った。


 聞き慣れた、どこにでもあるインターホンだった。


「……おかしいって」


 小声で片瀬が言う。私は彼女の口元に、人差し指を当てた。


 あれは、勝手口のインターホンに違いない。正面口にインターホンはなかった。つまり私達と同じように、誰かが資料館を訪れて、正面口が閉まっていたから裏に回ってインターホンを押した可能性はある。というより、それが一番、可能性が高い。だとすれば、別に隠れる必要はない。堂々と訪問客と意気投合すればよい。では、どうして私は隠れているのか。もしも従業員だったら、不法侵入しているのだと、とがめられることを恐れているのか。


 いや、そうではない。


 例え怒鳴られようとも、素直に謝罪すればいい。開いていたから興味本位で入ってしまったと正直に言えば、次からは正式に入れてくれるかもしれない。私が隠れているのは、こんな電気も通っていない資料館に、このタイミングで従業員が来るはずがないと、本能が疑っているせいだ。


 どのくらい、息を潜めていたか。


 木造の廊下がギシギシと鳴ったような、鳴っていないような、それすらも定かではなかった。


 光を落としたスマホの、片瀬のバッテリーが切れて、私のスマホの時計が夕方になろうとした頃、このままでは暗い館内が一層に暗くなるから、ついに私は資料室から出る決心をした。


「大丈夫、誰もいない」


 廊下を見渡して、小声で片瀬を呼んだ。多少の勇気は必要だったが、勝手口から出るしかない。二人で急いで裏から外へ出た。小走りで、できるだけ静かに。


「戸、開けっ放しだっけ?」


 資料館から離れたところの、橋を渡った先で片瀬が聞いた。彼女が言うように勝手口の戸がブラブラと揺れていたが、誰かが開けたのか、私が締め忘れたのか、どちらとも言えない。戸は開いていたが、誰とも出会わなかった。これ以上、気にしても仕方がない。


「きっと、鳴らしたけど返事がないから帰ったんだろ」


 夕日は既に沈んでいた。


 青く陰る空の色に、一つ、二つと蛍光灯が灯り始め、光の届かない範囲を白い雪が照らしてくれた。私の後方で小さくなった資料館は、館内に電気は通っていないはずだが、正面口だけ橙色の光が灯っていた。そのうちに、瓦屋根に積もっていた雪が溶けて、バタバタと落ちた。


 何も起きていない。何も、問題はない。


 けれど、私はなんとなく――


 もうあそこに行ってはいけない気がした。

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