第3話 諦めが肝心
私の手から放たれたポケット六法は女をめがけて飛んではくれなかった。何しろ運動経験の無いのだ。ポケット六法などという投げにくいものを女に正確に当てることなど難しい。私の投げたポケット六法は乱れた軌道を描きながら最高高度に到達し、そのまま落ちていく。落下予想地点に店員の頭があることに気づいた頃にはすべてが手遅れであった。
大垣新聞記者が書店店員へ暴行行為という見出しが頭の中を巡る。ただでさえ態度のよろしくない私はすぐに辞めさせられることになるだろう。それは結果的にではあるが店員にポケット六法を投げつけたということと、仮定であるが誰にも見えていない女に売り物を投げつけるという傍から見れば意味不明な行動が故である。もし私が私の起こした今を記事にするのならば確実に私を貶すだろう。私を異常で暴力的な犯罪者だと書くだろう。ただでさえ霞んでいた未来は今完全に自らの行動によって潰されたのだ。
ふと暗く重い未来から現状に意識を戻すと、もう目と鼻の先に女が立っていた。こう近くで見ると、女は見上げるほどの高身長である。相変わらず影に隠れて見えない顔から案外細い首、肩、胸、腰と見下ろしていくと、女の手には刃物が握られていた。ああここで私は刺されるのだろう。もはや生きていても暴行犯の烙印を押されることが確定している事を思えば、生を諦め目を瞑ることは容易であった。
しかし、肝心の女が一向に私に刃物を刺してくれないのである。十秒、二十秒、三十秒といくら待っても女は刺してくれない。しびれを切らして目を開けると、女が刃物を私に向けている。目の前には鋭い刃先が光っている。しかし、女の手は震えていて、同じように刃先も震えていることはまるで想定外だった。
果たしてなぜこのような状態になってしまったのだろうか。私は最早動く事は出来ない。刃物を向けられている事もそうだが、何より生を諦めてしまっているからだ。そして女は、刃物を私に向けているものの全く刺す気配がない。
暫く、と言っても一分程度だと思うが、私にとっては暫くと表現するのが相応しい気がする。とにかく長い緊張の時間が過ぎた後、唐突に女が刃物を持つ手を下してしまった。こうなってくると私もも拍子抜けである。死を免れた幸運な状態であるはずなのに、心の中ではなぜ私を殺してくれなかったのだという怒りが湧いてくる、そういう不完全燃焼の排ガスが心にたまって苦しい状態である。
それは相手にとっても同じようであった。相手も排ガスに喘いでいるのであろう、下した手の震えは一向に収まりそうには無い。
そういう状態で、まず声を発したのは女の方であった。そしてその声は私にとって突拍子の無いものであった。
「一緒に逃げません?」
ストリート・エルフを追え! 井之中 蛙 @sakura_moti
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