第十章 四面楚歌

           第十章 四面楚歌


 宝永二年(一七○五年)、閏四月のことである。

 大坂東町奉行の太田和泉守好寛は、かねがね思うところがあって、たまには二人でゆっくり酒でも酌み交わそうではないかというありふれた理由をつけて、西町奉行の大久保大隅守忠形を自宅へ呼んだ。

 大坂の町奉行は江戸と同じく東西二人制である。禄高千石から三千石程度の旗本が起用されるのが通例だった。ただ元禄年間のみは一時期だけ三人制となり、堺奉行を兼ねた時期がある。松平忠固の後任となったとき太田好寛もそうだった。しかし相役だった中山時春が勘定奉行へ転出すると、大坂町奉行はふたたびもとの二人制へ戻って、それいらい兼務は廃止されていたのである。

 いっぽう加藤泰貞のあと何度も交替していた西町奉行には、昨年の十一月に大久保忠形が赴任してきたばかりだった。彼は江戸にあっては幕府の目付を勤めていた。 

 奉行の役宅は京橋門口の奉行所に付属している。

 非番にあたっていた太田好寛からの突然の招待をうけて、大久保忠形は少なからず戸惑った。赴任してようやく半年になるが、気難しい先輩が何となく苦手だったのである。しかしこの際そんなことは言っていられない。大久保忠形は午前中の執務をそこそこに切り上げると、足どりも重く太田好寛の屋敷を訪ねた。お互い職住近接の役宅住まいだからひと跨ぎの距離である。

 妻女に導かれて奥座敷へ通ると、太田好寛はすでに待ち構えていた。先輩を待たせてしまった恰好になった大久保忠形は、しきりに恐縮しながらもしつらえられた席に着いた。ほどなく妻女によるものと思われる心づくしの膳部が運ばれてきて、たちまち酒盃の応酬になった。

 大坂在住が長くなっている太田好寛はしきりに最近の江戸の様子を聞きたがった。それで大久保忠形は、江戸の町が近年多発している地震や火事で大きな被害を受けていることや、歌舞伎役者の初代市川団十郎が舞台出演中に生島半六によって刺し殺された事件などを披露して、ひとしきり話の花が咲いた。とはいえほんらいが無粋で寡黙な武士同士である。世間話などそう長くは続かない。間もなく同役たちの噂話になり、上役に対しての愚痴になった。そしてお終いには、近ごろ二人の下女を手討ちにした廉で切腹を命じられた旗本仲間の事件にまで話が及ぶと、自分たち譜代の臣をとかく蔑ろにしがちな幕閣への憾みつらみを述べ合う結果となった。そうなってくると飲みほす酒は不味くなり、酒席もだんだん白けてくるわけで、こういう場の行きつく先は今も昔も変わらない。

 そこでここいらを潮時とみた大久保忠形は、酒盃を膳部に戻して威儀を正した。なにしろ自分はまだ新米の奉行だが、太田好寛は四年も先輩なのだ。教えを乞うには辞を低くしなければならない。

 「ところで和泉守どの。近ごろ上方では浪人どもが諸処に蝟集いたして、かなり不穏な動きを見せていると聞き及んでおりますが、それはまことでござるか」

 すると太田好寛は徳利の鶴首を摘んでぶらぶらと振りながら、苦々しそうな顔になって答えた。

 「いかにも然様じゃ。拙者がこれまで頭を痛めてきたのは実はそのことでな。大坂の町はいま殷賑を極めておるが、またそれゆえに食い詰めた浪人どもが続々と流れ込んできておる」

 「それはまあ江戸とても同じでござったが」

 大久保忠形はやや遠慮がちにそう応じた。

 「いやいや江戸と違って大坂は京の都に近い。実はそれが一番の困りものなのだ」

 太田好寛は吐き捨てるようにそう言い返すと、自分の酒盃を水盤でさっと洗ってから大久保忠形へ手渡した。

 「ははあ。浪人どもが朝廷を担ごうとしておるわけですな」

 大久保忠形は注いでもらった盃を飲みほすと型通りの返杯をしながらそう言った。   

 だがこれ以上の盃の応酬はご免こうむりたい。彼は二度目に差し出された盃を慇懃に辞退すると、膳部の小鉢を手もとに引き寄せて筍の木の芽和えを旨そうに食べた。 

 太田好寛はあきらめて手酌に戻ると腹立たしそうに言った。

 「まあそうではあるが、上方はそういう単純な図式では片付かんのよ。たとえば朝廷の公家どもだ。やつらは歯が黒いだけでなく腹の中までが北摂池田の菊炭のように黒くできておる。だから扇動されるだけされて、最後に痛い目を見るのは浪人のほうになる。つまりまことの貉は浪人ではなく朝廷のほうなのじゃよ」

 「さすがは和泉守どの。何もかもお見通しですな」

 「まことに畏れ多い言いかたになるが、その貉の親玉は上皇(霊元院)さまだ」

 「聞けば上皇さまは関東を《根本魔所》だと公言しておられるばかりか、遠き平安の御世の治世の素晴らしさを讃えられて、密かにご親政の復活を夢見ておられるとか」

 「そうなのだ。恐らく英邁かつ気丈な上皇さまは、かつての後醍醐天皇を気取っておられるのだろう。そういう御心のうちは《名ある者はやがて雲井に聞こえあげよ 聞きて我が代の楽にせむ》と詠まれた御製の一首が、あけすけに語っておるわ」

 「確かに。その御製はいわば諸国へ向けた檄文ですからな」

 「うむ。そういう上皇さまのあけすけな意向を笠に着た公家どもの、じめじめとした蛞蝓のような動きがもっと気に障るのだ」

 「中でも幕府からかつて蟄居や免官を命じられた側近の公家たちが抱く憾みには、とりわけ深いものがありましょう」

 「とはいえ先年に起きた赤穂の事件が彼奴らのよい薬になった」

 さかんに一人で徳利を傾けながら太田好寛はそううそぶいた。膳部にはほとんど手をつけない。もともと酒の肴は必要としない質のようである。

 「これはしたり。あれは浪人どもを大いに勇気づけ、公家どもを欣喜雀躍させた事件ではござらんのか」

 「いや、大概の者はそう思っているが実はそうではないのだ。むろんそのとき浪人どもが勇気づいたのは言うまでもない。だがそのおかげで彼奴らは腹中の悪気をいくぶんかでも吐き出した。そしてその後に出された幕府による予想外の厳しい処断が、浪人や公家どもの心胆を震え上がらせることになったのだ」

 「なるほど。すると赤穂浪士の討ち入り事件は、彼らには逆に公儀の威光を示す役割を果たしたと仰るので…」

 「そうだ。いまどきの腰抜け浪人どもには元々戦さをする気概などない。公家などは京を追われて都落ちすることにすら耐えられぬという柔弱さだ。だからもう浪人どもの決起は起こらぬ。お蔭でこちらの仕掛けも手仕舞いできるというものだ」

 「ほう、こちらの仕掛けとは…」

 「たとえば拙者は浪人どもの中に何匹かの犬を放っている。たとえば前任の松平忠

固どのから引き継いだ近藤軍太夫という男でな。やつは表向き公儀のやりかたに異を唱える浪人どもの首魁を装っているが、裏では拙者という飼い主がしっかりその手綱を握っているという仕組みだ。だからこれまでも浪人や公家どもの動きのすべてが筒抜けだったのよ。しかしこの男もそろそろ用済みになる」

 「つまりは斉藤町家の安左右衛門と同じ仕掛けですな」

 「まあ彼の場合はまったくの拾い物だったようだがな」

 「ならず者だったときに犯した抜け荷や舶来ものの密売の罪を見逃してやる見返りに、公儀の犬として手なずけたとか」

 「うむ。松平忠固どのからはそのように伺っておる。はじめは近藤軍太夫とともに浪人の動きを探らせていたのだが、そのような悪漢がまさか淀屋の縁戚に連なろうとは、さすがに松平どのもお考えになっていなかったと思うのだ。だからやつは思いもかけなかった拾い物だと……ははあ、やはり貴殿は浪人問題などより、淀屋の始末のほうに格段の興味がおありのようだな。しかしご心配めさるな。そちらのほうもあとは仕上げを待つばかりになっておる」

 「えっ、それはまことでござるか。してどのように」

 大久保忠形は吃驚して身を乗り出した。すると膝頭が膳部の角に触れて、ぶつかった小鉢がうるさく音を立てた。

 「その詳細についてはまたおいおいに教えてまいろう。それまではゆっくりと高みの見物をしておられるがよい」

 「いや、ご同役としての立場からすればそういうわけにもまいらぬ。拙者にも何か手伝わせてくださらぬか」

 「まあここはしばし待たれよ。実は今日、貴殿を招いたのはそのこととも大いに関係がござってな。この太田和泉守、立てた手柄を一人占めする気などは毛頭ござらん。いやむしろその逆でしてな」

 「逆と申されますと…」

 「拙者は歳のせいもあるが近ごろとみに体力気力が萎えてきておってな。もはや出世の欲もない。だから拙者の手柄は淀屋の始末を含めて何もかもそっくり貴殿へ差し上げるつもりでおるのじゃ」

 「まことでござるか。それはかたじけない。諸国の大名や我ら譜代の臣の苦しい台所を救うためにも、また貨幣の改鋳というお国の大事をつつがなく成し遂げて幕府の財政を建て直すためにも、淀屋は絶対に取り除かねばなりません。それが美濃守(柳沢吉保、出羽守保明改め)さまの内意でもあるわけですし」

 嬉しさを隠し切れずに大久保忠形はそうまくし立てた。

 そしてしばらく手をつけていなかった自分の徳利を取り上げると、明らかな媚態と取られるのも頓着しないで太田好寛へしきりに酒を勧めた。相手の呆れ返るくらいの豹変に、自分の好意までが汚されたような気分になって、太田好寛はさすがに嫌な顔をした。それでつい嫌味な言葉が口を突いて出ることになった。

 「ふん、お国の大事だと。美濃守どのもそんな白々しい戯れ言がよくも言えたものだ。おそらくは貨幣の改鋳による世間の混乱で、いまや窮地に陥っている荻原(重秀)か、淀屋の後釜を狙っている鴻池あたりが裏でせっついているのだろう」

 「さような雲の上のことは我らごときの与り知らぬこと。ですから貴殿とても今後は禁句になされませ」

 「いや、そうであったな。済まぬ。いまの話はご放念くだされ」

 先ほどまで盛んに阿っていた大久保忠形から、思いもかけずぴしゃりと戒められた太田好寛は、さすがに口が過ぎたと後悔したらしく、すぐさま前言を取り消して謝罪した。さっき自分から吐露した気力の衰えはそこら辺りにも現れていた。 

 「とはいえ貴殿の大坂でのお働きは美濃守さまもよくご存知のことです。決して太田家をおろそかになどなさりますまい」

 すると大久保忠形はすかさず太田好寛を持ち上げてみせた。そしてとどめの毒薬を飲ませるようにまた酒盃を勧めた。

 武道より算勘や処世のほうに通じていた大久保忠形はさすがに狡猾な男だった。大坂町奉行所は老中が支配するところである。つまり大久保は、老中上座にあるばかりか綱吉から松平の称号までもらって徳川の一族に列せられた柳沢吉保と近しい関係であることを匂わせて「貴殿にはもう出世の意欲が無いとしても、後嗣の将来を思えばあえて上司を誹謗するようなことを言うべきではない、だから今後も太田家が安泰を続けられるように拙者が尽力してやろう」と暗に言ってのけたのである。 

 こうして太田好寛はついに一線を越える決意をした。

 「しかしことを仕上げるには我が手を汚さねばならぬぞ。この身に泥も埃もかぶらねばならぬ。すでに腹を据えた拙者はともかくとしても、貴殿のほうにそういう覚悟はおありかな」

 「言うまでもありません。それにこのたび大坂へ赴任するにあたって、美濃守さまは拙者に固く約束してくだされた。淀屋がらみの一件は赤穂事件のように武士を相手にした処断ではない。豪商とはいえたかだか一人の町人を問答無用のもとに斬り捨てるだけのことだ。だからたとえ世間にどれほどの非難が巻き起ころうとも、公儀は必ず奉行たちの名誉を守るであろうと」

 「ふん。まあそうだろうな」

 太田好寛はまた吐き捨てるようにそう言うとしばらく黙り込んだ。

 不安にかられた大久保忠形はしばらく考え込んだすえに違う話へ水を向けた。太田がそっくりそのまま譲ってくれようというせっかくの手柄である。こんなことでふいになってしまっては堪らない。

 「洩れ聞くところによれば、例の安左右衛門が茨木屋の吾妻太夫の身請け金に関する話を広当のほうへ持ちかけたそうですな。それも何と大枚二千両とか。これなども貴殿からのお指図ですかな」

 「いや違う。あれは天王寺屋が勝手に企んだことだ。身請け話を餌にして広当を罠にかけたてやりたい、と言ってきたから、そのように下世話なことはお前の好きにせい、と答えてやっただけだ。おそらく鴻池あたりからの入れ知恵だろう。五兵衛は善右衛門と深く繋がっておるからな」

 しかし太田好寛はいかにも煩わしいという表情でそう答えた。

 両替商をしている天王寺屋の当主は五兵衛といい、鴻池のほうは代々善右衛門を名乗っていた。

 「ほほう、この一件は鴻池が仕掛け人だと・・。では美濃守さまもこの件についてはすでにご承知というわけですな」

 「そのはずだ。だから天王寺屋へは好きにせいと言ったのだ」

 「のう和泉守どの。ここはひとつ天王寺屋の指揮のほうは拙者に取らせてはもらえますまいか。まことに厚かましいがこの大隅守、伏してお願いつかまつる」

 大久保忠形はいよいよ太田好寛に阿ってそう言い継いだ。

 「それも貴殿の好きにされるがよかろう。別に異存はないから近々のうちに天王寺屋へはそのように伝えておこう。そんな些事よりも拙者にはもっと先に始末をつけておかねばならぬ大事があるからな」

 すると太田好寛はいよいよ厳しい顔つきになってそう応えた。

 「はて、それはどのような大事でござるか」

 「同役の貴殿のことだからあけすけに言うが、実は拙者の配下に鶴田錦吾という同心がおってな。この男がかなり以前に起きた川口屋という商家の一家心中事件にまつわる私的な怨みから、長年にわたって淀屋へ報復せんものとずっとつけ狙っておるのじゃよ。ために鶴田らにはこちらの手の内をちと知られ過ぎた」

 「その同心のことは拙者も聞き及んでいます。すでに十年以上にわたって上司の命令にはまったく服さず、自分勝手な振る舞いにおよんでいる奉行所の嫌われ者とか」

 「そればかりではないぞ。鶴田錦吾は手下の作蔵という者を使ってこれまでに広当の弟にあたる春雪や姉の波瑠を毒殺しているのだ。奉行所には、そういう事実を掴んでいながらこちらの仕掛けにいらぬ齟齬をきたさぬようあえて目を瞑ってきた、という大きな弱みがある」

 「何ということだ。鶴田錦吾は奉行所の同心という職にありながら、罪もない人間を二人も手にかけていると仰るのですか」

 「そうよ。さらに困ったことにはな、作蔵の指示で伯耆倉吉の地で波瑠を殺った彦六というならず者が、近藤軍太夫と同じくこちらの犬でもあるということだ。彦六にはこれまで近藤や安左右衛門の動きを見張るという役目を与えてきた。つまり三人が互いに他の二人を監視して拙者へ報告をあげるという図式だ。いろいろ役には立ったが、こういう汚いやりかたが世間に洩れるとまずいことになる」

 「なるほど、それは厄介なことでござるな。それに近藤や彦六はともかく鶴田の始末にはひときわ慎重を期しませんと」

 そう応えると大久保忠形は難しい顔になって腕を組んだ。

 ともに頭を悩ませているわけではない。このさきおのれの頭上に降りかかってくるだろう災厄を警戒しているだけなのである。

 「たとえ密かに亡き者にしても鶴田錦吾が奉行所の同心だったことに変わりはないからな。どこまでも知らぬ存ぜぬでは通るまい。ただ幸運なことに鶴田錦吾は独り身であるうえ他に一人の係累とてない。そんな男がいきなり姿を消してしまったとしても、騒ぎ立てる者などおらぬはずじゃ。残る課題は同心鶴田錦吾の名を奉行所の記録からどのように消してしまうかだが」

 ところがそれまで難しい顔をしていたはずの当の太田好寛は、鶴田錦吾という自分の部下を亡き者にするという大胆な謀略をぬけぬけと言い放つと、今しがた侍女が置いていったばかりの新しい燗酒をぐいと呑みほした。どうやらこ件に関してもすでに腹を据えている様子である。

 「確かに奉行の権限をもってしてもそればかりは…」

 「しかし貴殿の話では我らがやったことの後始末は美濃守どのがやってくれるということだった。それなら鶴田錦吾を消したあと、永年にわたる不行跡を理由に記録の抹消を願い出ればことが済むのではないか、と拙者は思うのだが、如何かな」

 「なるほどもっとな指摘だ。ではその件は拙者のほうから折を見て美濃守さまへ密かにお願いしておきましょう。ただそれにしても鶴田を誰に殺らせるおつもりか」

 「彼奴はあれで神明夢想流の免許皆伝と聞く。誰にでも倒せる相手ではない」

 「神明夢想流といえば抜刀術の元祖。それは手強い」

 「だが我が手の内に一人だけ彼を倒せる者がいる。それは誰あろうかつて某藩で剣術指南を務めていた例の近藤軍太夫だ」

 またもや酒盃を呷りながら太田好寛はそう言った。

 意表を突かれて腰を浮かせた大久保忠形は当然の質問を発した。

 「ではその近藤はいったい誰が殺るので…」

 「それは大隈守どの、貴殿の仕事になる。いやいや近藤軍太夫ばかりではないぞ。淀屋本体の始末がすべてついたあと、彦六や安左右衛門たちの口を封じてしまうのも貴殿の役目になる」

 やっと酒盃を膳部に置いた太田好寛はこともなげに告げた。

 薄気味が悪いくらい美味しい話が続いていたので、やはりそうだったか、と大久保忠形はうな垂れた。ほとんどの手柄を譲ってもらえるのだ。少しくらい手を汚すのは致しかたがない。だが太田好寛は何と三人もの男をこの手で消せというのである。

 よろこびも半分になって大久保忠形は深い溜め息をついた。


 淀屋手代の勘七は、朝早くから店の帳場に座り込んで、一心に算盤を弾いたり、帳面をつけたり、手形の確認をしたりしていた。

 総支配の牧田仁右衛門は急な用向きが出来て倉吉へ出張っている。そんなときには勘七が代わって店の差配をするようにと命じられていた。勘七もすでに四十歳を過ぎてしまった。叩き上げ組ではないものの仕事の実績は申し分なかったし、内外から寄せられる人望は誰よりもあつい。だがそこまでの実力と信頼を備えながら、勘七はまだ手代のまま据え置かれていた。先代の重当が死んでから、仁右衛門は何度となく勘七の昇進を進言している。だが肝腎の当主の広当が首を縦に振らないのである。これは重当の遺言にも違背していた。

 今日も淀屋の店先は芋の子を洗うような混雑ぶりだ。

 あちこちで飛び交う商いの駆け引きの声が猥雑に入り混じっている。勘七はそういう喧騒の中にあってもわき目もふらず帳場に向かっていた。それでもなお全身の神経は抜かり無く店の隅々にまで行き渡らせているのだった。

 「これは、これは。久蔵はんやおへんか。今日はまた何のご用で」

 そんな勘七の耳へちょっと気になる声が飛び込んできた。

 久蔵といえば天王寺屋の手代である。当主の五兵衛は大坂十人両替の筆頭を勤めていた。

 十人両替というのは、寛文十年(一六七〇年)に大坂町奉行の下命によってつくられた株仲間の一つで、小判の買い入れなどの公儀の御用を務めるかたわら、市中の両替商を取り締まる任にもあたった金融界の重職のことだ。とはいえ淀屋としては日ごろそれほど深い付き合いがあるわけではない。それなのにそこの手代が何の前触れもなしに現れたのである。店の者が頓狂な声を発したのも無理はなかった。

 その声で勘七は反射的に帳面から顔を上げた。

 店内を見渡してみると、確かに久蔵が人混みを掻き分けながら真っ直ぐこちらへ向かってくる。勘七は慌てて帳場から降り立つと、何となく胸騒ぎを覚えながら久蔵に向かって深々と腰を折った。

 「久蔵はん、ようおこしやす。えろうご無沙汰しとります」

 「いやいや勘七はん、そいつはお互いさんですわ。それにしてもいつもながらのお店の賑わい。ほんまに羨ましいかぎりでおます」

 会釈を終えた久蔵はさかんに揉み手をしながらそう答えた。

 「そやからというて儲かってるとは限りまへん。それより近ごろは天王寺屋はんのほうこそ飛ぶ鳥を落す勢いやおへんか。羨ましいというのはこっちの科白ですよ」

 勘七はとりあえず如才ない返事を返した。

 二人はしばらく帳場の前で立ったまま久闊を述べ合った。正直なところ勘七は久蔵の用件が気になってしかたがない。しかし妙に落ち着き払った久蔵はなかなか無駄話をやめようとしなかった。

 「ときに久蔵はん、いったい何のご用でわざわざ淀屋まで…」

 とうとう堪えきれなくなって勘七はそう訊ねた。

 「そうそう、そのことなんですがね。ときに総支配はんはおいでですやろか」

 すると久蔵はようやく真剣な顔に戻って、店の奥を覗き込むような素振りを見せながらそう言った。

 「あいにく総支配は急ぎの用件のため遠国まで出張っており、あと十日くらいは大坂へ戻りまへんが」

 「ほう、そんなに長くご不在ですか。それでは広当はんは」

 「旦那さまもお帰りはたぶん明日ころかと…」

 勘七は思わず目を伏せるとそう言って口ごもった。

 「ははあ、なるほど。それは困りましたな」

 久蔵は口ごもってしまった勘七の胸のうちを読んだのか、口の辺りに歪んだ笑みを湛えながらそう言って頭をかいた。大坂の人間なら広当の桁外れな遊蕩は誰もが知っている。だからその笑みには若干の揶揄と同じ使用人としての同情が含まれていた。 

 「いえ、二人がともに留守をしておりますときは、手前がお客人からの一切のご用件を承るようにと申し遣っております」

 「そうですか、いやそうでしょうね。ただお互いあんまり他人には聞かれとうない話ですさかいに…」

 久蔵はそう言うと意味ありげに店の中を見回してみせた。そういうわざとらしい仕草がいよいよ勘七の不安を募らせてしまう。

 「それなら奥のほうでお話を伺いましょう。奥の書院なら誰にも聞かれる気遣いはいりまへんさかい、安心してお話ができます」

 淀屋の店奥には、得意先と商談を交わすために日常的に使う部屋のほかにも、いま少し奥まったところに大小幾つかの書院があった。

 それは店に付属している施設ではなく、いわば岡本家の私邸の一部になるのだが、たまに賓客を迎えたときなどには応接の場として使われていた。だが重当が死んでからは、そういう配慮が必要な賓客の来訪も数が少なくなって、たまにしか使用されなくなっていた。 

 「へえ、これが世間に名高いびいどろづくりの障子でっか」

 書院の一つへ入ると、目を瞠った久蔵はまず感嘆の声を上げた。

 やはりきたな、と予想通りの反応に勘七は苦笑した。

 「障子を締め切っていても外の庭が見渡せるなど、なるほどこれは世間の評判通りになんとも風流なもんでおますな」

 「まあ世間へは大袈裟に伝わっているようですが、こうして実際にご覧になってみれば実に他愛もないものでございましょう」

 閉口している勘七はことさらぶっきらぼうに答えた。

 「いやいや噂の通りに大したもんですわ。ところで天井に取りつけた水槽に異国の魚が泳いでいるという部屋はまた別におますのか」

 だがいまや好奇心のかたまりになっている久蔵には通じない。

 「それとても世間の噂に尾鰭がついて伝わっていることです。夏ともなれば天井に取りつけた広い水槽に満々と水を張り、ゆうゆうと泳ぎ回る金魚を見あげながら涼をとっているなどとは、いったい誰が考え出したお話かは存じませんが、当方としては大変に迷惑をしております。まあ天井の水槽はともかく半畳ほどの大きさの金魚鉢なら奥の居間にございますがね」

 さすがに腹が立ってきた勘七はそこでぴしゃりと釘を刺した。

 すると相手もほんらいは礼儀を弁えている大店の手代である。久蔵はたちまち恐縮して謝りの言葉を述べた。

 「これは不躾なことで。調子に乗ってまことに下世話なお訊ねを申しあげてしまいました。手前としたことが世間の噂話のお先棒を担ぐなど、まことにお恥ずかしいかぎりでおます」

 「ところで急ぎのご用件というのは…」

 先に紫檀の机を前にして座っていた勘七は、まだ立ったままでいる久蔵へ椅子を勧めながらあらためて質問した。すると久蔵は着席した椅子の座り心地を尻で確かめながらおもむろに口をひらいた。

 「実はそのことですがね、勘七はん。いまお互いの店にとってえろう困ったことが持ちあがっておりますのや。お見受けしたところこちらさんは何にもご存知ないご様子や。もっともご存知なら皆さんがお留守ということはありまへんわな」

 「いったい何事ですやろ」

 はやる胸を抑えて勘七は用件の先を促した。

 「そうどすな、あれはちょうど一ヶ月くらい前のことになりますやろか。手前どもの店へいきなり斎藤町の安左右衛門はんがお見えになりましてな。実は広当はんから頼まれて来たんやけど、余人には明かせんある事情が生まれて内々に金子が入り用になった、ついては小判で二千両を急ぎ用立ててもらえんやろか、といきなり言わはって、広当はんが自分の手で書きはった本物の借用証をお出しになったんですわ」 

 「何ですって。あの安左右衛門さんが旦那さまの名代として天王寺屋さんへ金子を借り受けに伺ったと仰いますのですか…」

 考え及びもしなかった話を前にして勘七は声を震わせた。

 「そうでおます。二千両というたらうちにとっても大金ですさかいにな、手前の判断だけでそう易々とはお貸しすることなどでけしまへん。ただ代理人とはいえ安左右衛門はんは広当はんのご親戚筋ですし、確かな借用証を持参されてのたってのご依頼です。これは何か人には言えない深い仔細があるに違いないと思い、さっそく主人の五兵衛に相談いたしましたところ、その場ですぐさま決済してくれましたので、手前としましてはすっかり安堵して即日ご用立てさしてもろうたような次第です」

 久蔵はそこで一息つくと、懐から取り出した手拭いで口の辺りを拭った。ただ茫然としているだけの勘七には声も出ない。

 「ところが一昨日の返済期限がまいりましても何の音沙汰もありまへんのや。小商いや棒手(ぼて)振り程度の商人ならいざ知らず、立派な店を構えた商人同士のお金の貸借ではとても考えられんことですわな。それでも手前のほうとしては、他聞を憚ってまでうちからお金を借り受けはった広当はんへ、いきなり直に掛け合うのも如何なものかと考えまして、とりあえず当の安左右衛門はんを捕まえて、いったいどうなっとりますのや、と問い質してみましたんや。すると何とまあ驚いたことに、わては広当はんから頼まれて天王寺屋へ使いに行ったこともなければ二千両という金を借りた覚えなど全くない、とこう答えはったんです」

 「……」

 びいどろの障子越しに岡本家の広い庭園が望めた。

 泉水が、新緑が、初夏を思わせる日ざしに照り映えている。だがそれらのものが

いっせいに暗く翳ったように勘七には感じられた。実際この日、淀屋の、大坂の上空を西の方角から黒い雨雲が覆いはじめていた。

 「手前は狐につままれたようでおました。そのうえ安左右衛門はんは、そんな借用証は偽物とちゃうか、とまで無茶を言わはるんです。余りの腹立たしさですぐにも奉行所へ駈け込もうかとも思いました。そやけどやっぱりここはいっぺん広当はんご自身にお会いして、まずはことの真偽を確かめることのほうがものの順序と考え、こうして店まで押しかけさしてもろうたような次第です」

 久蔵の話を聞くうち勘七は脇の下に冷や汗を流していた。

 ことは雇い人の誰かが商品投機に失敗して巨額の損失を出したとか、公儀の取り潰しに遭って大名貸しの一部が焦げ付いたとか、そんな生やさしい問題ではないのだ。もしこれが久蔵の言う通りなら、一族の者が結託して何よりも大切な商道徳を踏みにじった淀屋の信用は、まさしく一朝にして潰えてしまうだろう。

 勘七は椅子から立ちあがると深々と腰を折って言った。

 「久蔵はん、ほんまによう先に報せてくれはりました。旦那さまになり代わりましてこの勘七から厚くお礼を申し上げます」

 そう言いながらもここを先途と頭脳は目まぐるしく回転している。

 一つ呼吸をして心を鎮めると勘七は続けて久蔵へ頼み込んだ。

 「これはきっと何かの手違いから生まれたものと存じます。ただちにお話の逐一を旦那さまへお報せしましてから、なぜそのような事態に立ち至ったのかその理由を詳しく究明し、改めてお詫びに参上させていただきたいと存じます。ですから奉行所への届けはいましばらくのご猶予を願います」

 「いましばらくとか、そんなあやふやなことを言われましてもな」

 すると久蔵はいかにも不満そうに呟いた。

 それも道理である。そこで勘七はまず淀屋の金蔵の中を思い浮かべた。岡本家の私財までは詳らかではないが、金蔵にはいま一万両を越える小判と十数万貫の現銀があるはずだった。だがそのどちらも日々の商いには欠かせない大切な資金であり、特に明日の決済を控えている一万両は他の用に流用することなどできない性質のものだった。そこまで思いをめぐらしてから勘七は意を決した。

 「確かに久蔵はんのお立場もおありでしょう。ですからまずはお借りしたという金子をお返しするのが先決と心得ます。ただ淀屋といえども、ただちに小判で二千両のご返金を、と申されましても、天王寺屋さんのような両替商ではありませんから、それは叶いまへん。とりあえず現銀でのご返済ということでご容赦いただけませんでしょうか。現銀ならばこれより一刻ののちに手前自身が天王寺屋さんまでお届けにあがらしてもらいますさかい」

 これらはすべて勘七の独断によるものだった。万が一にもこの話が久蔵の作り話だったなら間違い無く自分は店を馘首になるだろう、いや後ろに手が回って獄門にかけられるということだってありうる。だがそれならそれで自分としては本望だし、広当や淀屋のためにはむしろそうあって欲しい、とさえ勘七は思ったのである。

 「留守を預かる身とはいえ何もあんたはんがそこまでしはらんでも…。ここはとりあえず奉行所へ届けるという手もありまっせ」

 同じ手代として我が身に引き換えてみたらしく、久蔵はそう言ってとたんに怖気づいた。

 「いえ、手前のことでしたらご心配はご無用です。まことに勝手なお願いではありますがどうかそのようにさせて下さいまし」

 「旦那はんと総支配からお店を任されてはる勘七はんからのたってのお頼みとあらばまあそこは仕方おへんやろな。とはいえこのままお言葉通りを伝えに店へ帰ったら、主人の五兵衛にどやされるかも知れまへんけどな」

 すると久蔵は渋面のまま自分に言い訳をするようにそう応えた。

 「久蔵はんには重ね重ねのご迷惑を・・。御主人さまのほうへはなにとぞよろしゅうお取りなしのほどを願いあげます」

 「難問ではありますがそれは手前にお任せください。しかしどうも手前には事の経緯が腑に落ちまへんのやなぁ…」

 貸し金が無傷で戻ることになったのだから、とりあえず久蔵の窮地は救われたわけである。ぶつぶつと独り言をこぼしながらも安堵の色を浮かべて久蔵は席を立った。

 久蔵が帰ると勘七は一人で事を運んだ。

 店にはこのような大問題を相談できる者など他にいない。これから急いでやるべきことの一部を誰かに手伝わせることさえ躊躇われた。勘七はすぐさま金蔵へ入ると、二千に二百両分の利子を加えた現銀を運び出したあと、急ぎ町駕籠を呼んで、久蔵へ約束した通り一刻を待たないうちに天王寺屋まで走った。そして借用証と引き換えにとんぼ返りに店へ戻ってからほっと一息をついたとき、ようやく事件の詳細を冷静に振り返ってみる余裕が生まれた。

 広当がなぜ二千両もの金を必要としたのか、その理由はすぐに察しがついた。まず吾妻太夫の身請け金に違いない。だがそれならいくらでも自由になる私財から持ち出せば済むことではないか。それなのになぜわざわざ安左右衛門などにその金を他所から調達させたのか。また安左右衛門はなぜ天王寺屋に対してたちどころに露見してしまうような嘘をついたのか。そういった点になるとさすがの勘七にも推測がつかなかった。そればかりではない。二千両の大金は一ヶ月も前に借り出されているというのに、吾妻太夫が身請けされたという話など一向に耳にしないのだ。現に広当はいまも新町へあがっているのである。これは一体どういうことなのか、と勘七は帳場に座り込んで頭を抱えた。仁右衛門の不在をこれほど恨めしく思ったことはない。

 やがて戌の刻(午後八時)が近くなると、丁稚に続いて手代たちも帰り支度を始める。だが勘七はずっと帳場へ座り込んだままだった。この事態をいますぐにでも新町まで走って広当に知らせるべきだとは思うのだが、なかなかその決断を下せずに悩んでいたのだ。いまなお一手代の身分に過ぎず、主人から煙たがられている勘七には、

まだ広当に対する遠慮と引け目があったのである。

 そのとき、閉めた店の大戸を激しく叩く者があった。

 引きつったような声は紛れも無く三度飛脚である。

 勘七は新たな不安に駆られながら弾かれるように帳場から立ちあがった。


 「何者だ。あっ、何をする。ぐえっ…」

 先を行っていた作蔵の叫び声とともにふっと提灯の火が消えた。

 異変に気づいた鶴田錦吾は、素早く大刀に手をかけて鯉口を切ると、草むらの中に腰を落として身構えた。

 雨もよいの空には星一つ見えない。作蔵が持っていた提灯の火が消えてしまったあとは、大川の岸辺に舫っている三十石船の舳先に掲げている龕灯のわずかな明かりだけが頼りだった。たったいままで鶴田錦吾と手下の作蔵は、その三十石船を目指して夏草が長く生い茂る河原を突き進んでいたのである。

 今朝がたのことだった。与力町にある鶴田錦吾の屋敷へ飛び込んできた自称噺家の彦六から、淀屋の手代の一人が今夜あたり店に内密で大川に舫った三十石船の上で抜け荷をするようだ、という情報がもたらされていたのだ。相手が彦六であるだけに眉唾ものではあったが、

 「これは波瑠殺しで大枚の礼金をもらったことへのほんのお礼でさ」

 と言い置いた彼をつい信じてみようという気になったのは、奉行所が動きはじめたために何かと行動が制約され、淀屋を追い詰める手段にも手詰まり感が生まれていたからである。 

 鶴田錦吾は中腰のまま凝っと耳を澄ました。

 作蔵は、ぐえっ、という気味の悪い呻き声をあげたきり、わずかな音も立てない。何者かに不意に襲われたのは確実で、一瞬にして絶命してしまったようであるのも明白だった。見えない敵は伸び切った夏草と雨もよいの深い闇に紛れて、二人を待ち伏せしていたのだ。しかも相当な剣の使い手と見なければならない。

 鶴田錦吾はようやく彦六の詭計に落ちたことを知った。

 「何者だ。拙者を東町奉行所の同心と知ってのことか」

 闇の中で相手より先に声をあげることは危険極まりない、と知りつつも錦吾は大音声で呼ばわった。果たしてそれがいけなかった。ざざっ、と夏草を掻き分ける音がしたと思うと、いきなり真っ黒な獣の影が錦吾をめがけて跳躍してきたのである。黒い獣は四肢を大きく広げて、白い牙を剥いている。狂っているのか、血走った両眼と涎を飛び散らせている歯茎までが、夜目にもはっきりと見えた。

 「犬だ。お犬さまではないか…」

 黒い獣の正体を知って鶴田錦吾は、一瞬、躊躇した。

 「生類憐み令」が脳裏を走ったのである。役人の性というものかもしれない。それでもただちに気を取り直した錦吾は神明夢想流の抜刀術で、反射的にその犬の腹を下から切り上げていた。「クウ…」という意外に弱々しい鳴き声を発すると、狼ほどの大きさの犬は錦吾の眼の高さからどさりと夏草の上に落ちた。

 しかし見えない敵はその隙を狙ってきた。鶴田錦吾が犬の腹を切り裂く刀身の確かな手応えを感じたのと、思いもかけなかったほど至近の場所で闇の中にすっくと立ち上がった人影を認めたのは、ほとんど同時だった。 

 「卑怯な…」

 鶴田錦吾はそう叫ぶのがようやくだった。

 体勢を立て直す暇すら無かった。上段から返す刀で人影の肩の辺りを切り下げた。刀身が骨に撥ね返される鈍い音がしたが、今度は犬に感じたような手応えは無かった。それよりも早く懐へ飛び込んできた敵の切っ先が、錦吾の脇腹を大きく切り裂いていたのである。錦吾はたちまちにして呼吸ができなくなった。そして一瞬にして全身の力が萎えていくのが分かった。

 敵の剣筋をとらえるどころか顔すらも見極められなかった。

 鶴田錦吾は臓物が飛び出るほど深く腹を抉られて、夏草の上にどうと倒れ伏した。額を接するくらいの距離に、まだ暖かさが残る犬の屍骸が転がっている。その屍骸のすぐそばへ、くたびれた袴姿の男が崩折れるように片膝をついた。首の付け根の辺りから噴出している男の血が犬の血へと合流して行った。

 そんな光景を見ながら鶴田錦吾はゆっくりと目を閉じた。

 「おい、近藤軍太夫も殺られたようだぞ」

 「それは手間がはぶけて有り難い。早く二人の止めを刺せ。あっちにある屍骸とともに簀巻きにしてあの船へ運び込むのだ」

 「あの三十石船の中へ放り込んだらわしらの仕事はお終いやな。間もなく外海へ出ていく予定の大船が茅渟の海で待っている。明日の昼過ぎにでもなれば三人とも紀伊沖のあたりで鱶の餌食よ」

 鶴田錦吾は誰かが交わすそんな話し声を聞いた。

 薄れてゆく意識の中でまず脳裏に浮かんだのは、妹の紀代や甥の清太郎の顔ではなく、もとの顔だった。憐れみの表情を湛えたもとは何かを告げたそうに凝っと錦吾を見つめている。そんなもとに向かって、言わなくても分かっているよ、というように錦吾は微笑みを返した。復讐にのみ費やしてきた自分の来し方は間違っていた。

 鶴田錦吾はすでにそのことに気づいていたのである。

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