第十一章 一朝の夢

           第十一章  一朝の悪夢


 同じ宝永二(一七〇五)年夏のその日、大坂の町はすっぽりと厚い雨雲に覆われてひどく蒸し暑かった。

 ここ数年来、暑くなると必ずどこかで凶事が起きている。だから何かにつけてしたたかな浪速の人々でさえ、どことなく心細く感じてしまうほどの嫌な天候だった。そしていっそこんな日には、昨今の洛人たちのように「ええじゃないか」と空騒ぎをしつつ、お伊勢さんへのお蔭参りにうつつを抜かしてみたいと思うのだった。

 やがてそんな大坂の町に濃い夜の帳がおりると、華やかな新町にも何となく重苦しい夜が訪れた。

 いましもその掘割りに架かっている新町橋を、二丁の町駕籠が渡ろうとしていた。先を走る駕籠には淀屋手代の勘七が乗っている。もう一丁は主人の広当を店へ連れ帰るために用意した空駕籠だ。勘七は橋を渡り切るとき、掘割りの水面に散っている小さな波紋を見た。ぱらぱらと雨粒が落ちてきた痕である。そして同時に、

 「おい、このぶんではひと雨きそうやで」

 「そやな。悪所へしけこんだのがばれたうえに、濡れ鼠で帰ったら女房に笑われるだけや。早よ帰ろ」

 という廓帰りの男たちのいささか興ざめ気味の声を耳にした。

 あのとき店の大戸を叩いたのはやはり三度飛脚だった。

 飛脚から仁右衛門の書簡を受け取った勘七は、文面も確かめないうちに今日は二度目になる町駕籠を急いで呼ぶと、ここ新町の東の大門まで駈けつけてきたのである。だがすでに新町は「三番太鼓」が鳴る刻限も近く、大門の辺りは帰り客でごった返している。三番太鼓が鳴り終わると、東西にある大門はしっかりと閉じられて、遊里への出入りは出来なくなってしまうのである。

 町駕籠に乗ったまま遊里へ入ることはできない。廓遊びなどしたことがなかった勘七にもそれくらいの知識はあった。勘七は大門の前で駕籠から降りると、抜かり無く番人に心づけを手渡したあとで、腰を低くして桔梗屋のありかを訊ねた。そして駕籠かきの男たちへその場でしばらく待つようにと告げると、生まれて初めて足を踏み入れる遊里のただ中へあたふたと駆け込んで行った。

 新町にあるその桔梗屋である。

 「広当さま、ほらご覧じなさいませ。早や庭に蛍が…」

 吾妻太夫ははしゃぎ声でそう言うと、白い指の先で窓の下を指さした。久しぶりに登楼してくれた広当を迎えて、求め、求められるまま、今日はすでに二度の交合を終えていた。そのあとで広い庭園を見おろせる腰高障子を空け放って、火照った頬とからだを涼風にさらしていたのである。

 いくぶん湿り気を含んだ茅渟の海からの風が、尻無川を伝って絶え間なく吹き上げてくる。まさしくそれは大坂の町に雨を呼ぶ西風だったが、桔梗屋自慢の庭園に植生された木々の緑にも冷やされて、何とも心地よい涼しさを孕んでいた。

 「おう、これは見事な眺めやな。これだけの数の蛍は見たことがない」

 そう言って広当が吾妻太夫の肩を引き寄せると、

 「若狭にはもっと沢山の蛍がおりました」

 と答えて、吾妻大夫はゆっくり北の方角に目をやった。

 「そうか。それなら来年のお盆にはご両親の墓参りをかねて若狭まで蛍狩りに行こうやないか。その頃にはたぶん婚儀も済んでおろう」

 「はい。死に目には会えませんでしたが、父と母がきっと喜ぶことでしょう。でも果たしてお墓が今もありますかどうか」

 「無ければそのとき二人して造ってあげればよい」

 「ありがとうございます。本来ならこの新町という制外からは二度と生きて出ることなど叶わなかった身です。それが惚れ合ったお方に身請けをしていただき、そのうえ父母の墓参りまでができましょうとは。ほんに夢のようでございます。また一つ心に張りができました」

 吾妻大夫はそう言うと、比翼仕立ての長襦袢の裾を割って、広当の腕の中へそっと身を横たえた。広当はまたもやその脚を押し開きたいという衝動にかられたが、必死になってこらえた。

 「心に張りがないと人は輝かんし、女も綺麗にならへん。たとえばお前がそうや。お前は確かに新町で売れっ妓であったが、儂とめぐり会うてから夕霧太夫を凌ぐまでになった。古来張り無くば名妓と呼ばずと言うのは、たんなる器量良しとか床上手というだけでは、遊女として一人前ではないということなんや」

 「素月さまはどうだったのでございましょう。先代さまとはきっと激しい恋をなされたのでございましょうね」

 吾妻大夫は広当の母の名を引き合いに出してそう訊ねた。

 母のもと(素月)は揚巻太夫と名乗っていたが、いまも新町の廓史に残るほどの名妓と言われているのである。

 「そう聞いている。思えば父子二代にわたる不思議な縁やな」

 「ほんに」

 「ただ、廓の古い人たちに言わせると、お前は当時の母と瓜二つらしいが、儂はまるで父親に似ていないそうや」

 広当はそう言うと寂し気に笑った。

 「でも妾はそんな広当さまが好きになったのです。あつかましいことではございますが、同じ遊女の縁で冥府から素月さまにお導きいただき、力のかぎり貴方さまにお仕えいたすつもりです。どうぞ末永く可愛がってくださいますよう」

 「言うまでもないことや」

 広当は吾妻大夫を抱いた腕に力を込めてそう応じた。

 体温が高くて柔らかな吾妻大夫のからだは川端の柳の枝のようによくしなる。半びらきになって待ち受ける口唇を吸って、乳房をまさぐると、吾妻太夫はたちまち爪先まで反り返らせて身を捩った。

 だがそのとき、閉めきった襖の向こうから声がした。

 「広当はん。もし広当はん。まだ起きたはりますか・・」

 押し殺した声はまるで蛇のように畳の上を這ってきた。二人は驚いてからだを引き離すと、急いでかんたんな身づくろいをした。

 「その声は安左右衛門さんですね。起きていますが、あなたはまだこの桔梗屋にいらしたのですか」

 動揺を隠せなかった広当は擦れた声でその声に応えた。吾妻大夫の甘い唾液がまだ喉の奥にからんでいる。

 「つい帰りそびれてしまいまして…」

 非難したように受け取ったのか安左右衛門は遠慮がちに言った。

 この日、広当が久しぶりに登楼すると、すぐさま安左右衛門が姿を現わした。おそらく前もって言いつけられていた桔梗屋の誰かが知らせに走ったのだろう。何と言っても安左右衛門に対しては、茨木屋とのあいだで吾妻太夫の身請け話をまとめてくれた、という大きな恩義がある。だから広当はしかたなく、しばらく一緒に酒を酌み交わした。だが吾妻大夫が咄嗟の機転をきかしてくれたお蔭でうまくその酒席を脱け出してからは、てっきり彼は斎藤町へ帰ったものと思い込んでいたのだ。

 「こんな時間にいったいどうしたのです」

 不機嫌をかくすように広当は柔らかな声で訊ねた。

 「実はたったいま勘七はんが、お店に重大事が起きましたので、と言わはって、この桔梗屋へ飛び込んできはったんですわ。そろそろ限り太鼓が鳴りだす刻限です。東の大門のほうに駕籠を待たせているので、ともかく広当はんにはすぐにお店へお帰り願いたいとのことですが」

 「何やて、勘七が新町のこの桔梗屋まで…」

 あまりの驚きで広当は絶句してしまった。

 「そうです。顔色からしてもただ事やおまへんようで」

 「分かりました。すぐに店へ戻る身支度をしますよって、勘七へはしばらくそのまま待つようにと伝えてください」

 「手前はお送りできまへんが、どうかお気をつけて」

 「ご苦労でした」

 しかし広当がそう言い終わらないうちに、安左右衛門の気配は襖の向こうから消えていた。紀州沖を泳いでいる鯨のような巨体なのに、彼は現れたときと同じように音もなく消えてしまったのである。

 だが広当にはそれを不審に思う心の余裕すら無かった。

 「お湯をお持ちしますか」

 下半身の汚れを気にしている吾妻大夫が控えめな声で訊ねた。

 「いや、このままでいい」

 「お店の重大事とはほんに気がかりな」

 「うむ。仁右衛門どのはいま伯耆倉吉へ出張ってはるが、そんなときには店の仕置の大概を勘七が差配してくれることになってるんや。それが明日の朝まで儂の帰りを待てないで、こんな刻限に新町まで迎えにくるなんて、確かにただ事やないな…」

 広当は天井の闇を見あげてそう呟いた。

 行灯の灯りが届かない天井はまるで黄泉への入り口のようだった。七年前に父の重当を呑み込んでしまったあの闇である。広当は父を偉大な商人だと思っている。自分もそうありたいと願っている。だがその父ですらこの闇には抗えなかった。

 桔梗屋を出ると、ぬるま湯のような雨が降っていた。

 店に何らかの重大事が起きたとは思えないほどの静かな雨足である。しかし足摺りをする思いで待っていた勘七がさしかけてきた傘の下へ入って、何事かを小声で短く耳打ちされると、広当の顔はみるみる青ざめていった。だから東の大門へ向かう足取りもつい急ぎ足になってしまう。それでも広当は九軒町の片辻を曲がるとき、ちらと後ろを振り返った。すると桔梗屋の前で禿に傘を持たせた吾妻太夫が白い手を振っているのが見えた。

 本来ならこの雨は吾妻太夫が降らせた「遣らずの雨」になるはずだった。だが店の重大事を知らされたいま、そんな甘い感傷に浸っている暇などない。ましてそのときの広当には、これが吾妻太夫との永遠の別れになる、などとは思いもつかなかった。

 二人は東の大門の外に待っていた駕籠に乗り込んだ。

 勢いよく担ぎあげられた二丁の駕籠は力強い掛け声とともに走り出した。ほぼ同時に、哀しげな音色をした限り太鼓がツテンツテンと鳴りはじめた。その太鼓の音につられるように、広当はまた駕籠の覗き窓から後ろのほうを窺った。新町の灯りはすでに遠くなってしまっている。勘七の乗っている駕籠だけが四足の化け物みたいに後を追ってくるのが目に入るのみだった。

 二丁の駕籠は横堀川に添って北へ向かって進んだあと、いったん東に折れて、ふたたび北上を続けた。新町を出てから四半刻もたった頃である。駕籠かきたちの前方にひときわ大きく、暗い海に浮かぶ船団のような淀屋の屋敷群が迫ってきた。

 間もなく広当は淀屋の裏門で駕籠を降りた。勘七が裏戸をとんとんと叩くなり走り出てきた門番が、潜り戸に取り付けた鎖錠を外してくれるまでの短い時間、広当は後世の錦文流という作家の手になる浮世草紙などでは、「棠(からなし)大門屋敷」と呼ばれている小雨に煙る淀屋の屋敷群を凝っと見あげていた。そして我が家へ足を踏み入れることすら懼れているいまの自分に気づいて愕然とするのだった。

 いっぽうの勘七は、広当とともに母屋へ入るとき、上がり框で待っていた下女から一通の書き付けを手渡された。新町へ向けて飛び出していったあと、入れ違いに訪ねてきた女が置いていったという。

 裏を返してみると控えめな文字で「ゆう」とあった。

 奥の書院に入ると広当は、飛脚が届けた仁右衛門からの書簡を貪り読んだ。向かい合うかたちに座った勘七のほうはゆうからの書き付けを開いた。そこには美しい女文字で、まず千次ともとの父娘が八日も前から行方不明であることを告げたあとで、今日の夕刻から奉行所の中にただならない動きが見られること、またそれは夜盗などを追い詰める捕り物の布陣ではないこと、などが簡潔に認められていた。千次たちが姿を消した八日前といえば、仁右衛門が、倉吉へ出張る、と言って出かけた頃ではないか。それなら何もかもが符合してくる。勘七はいよいよ観念せざるをえなかった。

 ゆうからの書き付けを読み終えて勘七が顔を上げると、広当のほうは女のような赤い唇をぶるぶると震わせているところだった。そして広当は江戸から届いた仁右衛門の書簡を忌まわしいものでも遠ざけるように投げて寄越した。お前も読め、というのだろう。だがもうそんな必要はないと勘七は思った。書簡が倉吉からではなく江戸から届けられたものだったことが、そしてゆうからのこの書き付けの内容が、すべてを物語っていたからである。

 二人のあいだに長い長い沈黙が続いた。

 やがて遠くで一番鶏の鳴く声がした。たまらなくなって勘七のほうが先に口をひらくことになった。もうこうして差し向かいになって話すことは無いかも知れない。だからいまのうちに広当にはどうしても聞いておきたいことがあったからである。

 「旦那さま。どうして斉藤町家の安左右衛門さんなどに、大枚のお金の工面を頼まれたのですか」

 長い沈黙を破ったその問いかけに、広当は夢から醒めたようにびくっと肩を震わせた。そして言葉も切れ切れに答えた。

 「そんなもん、別に理由はあれへん。金策はわてに任しときなはれ、と安左右衛門が請け負うてくれたから、軽い気持で頼んだだけや。それに儂はこの淀屋の主やで。二千両くらいの金ならどこから借りても、いつ何どきでもすぐに返せると思うた」

 「なぜ安左右衛門さんではなく総支配へ相談されなかったのです」

 それは問う側も答える側もお互いにとって辛い質問だった。案の定、広当は黙り込んだまま答えようとしなかった。

 「では、もう一つだけお訊ねします。旦那さまは、自らがしたためられた借用証文を確かに安左右衛門へ預けられたのですね」

 勘七はついに主人広当の親戚筋にあたる安左右衛門の名を呼び捨てにした。彼だけは絶対に許すことができなかった。

 「いやそんなもん預けてへんで。借用証なんて書き方も知らんわ」

 すると広当は言下にそれを否定した。

 むしろ自慢げにそう言った主人を見て、勘七は観念した。せめて借用証が本物ならまだ申し開きもできる。だが贋物なら明らかな詐欺行為になるのだ。しかもそれを行使して天王寺屋から二千両を詐取したのは赤の他人ではなく、広当の意を受けたと称する縁戚の安左右衛門なのである。二人が示し合わせてやったと言われても仕方がな

い。これは間違いなく敵が仕掛けた罠だった。もしこれが先代の重当ならこんな稚拙な罠には絶対にはまらなかったろう。だがその重当を失ってしまったいま、淀屋は遅かれ早かれこうなる運命にあったのかもしれない、と勘七は思う。

 ついに夜を徹してしまったために充血した目を瞑ると、居間に据えられた巨大な金魚鉢がいきなり割れ散って、どっと水が溢れ出す光景が浮かんだ。色とりどりの珍しい金魚たちが、真っ赤なペルシャ絨毯の上で苦しそうに跳ね回っている。それはいま置かれている淀屋の姿そのものだった。

 

 それより五日前のことになる。

 牧田仁右衛門は、これから出張る、と店の者へ告げた倉吉ではなく江戸にいた。

 千次ともとの父娘も一緒である。

 「だめだ。どこの大名家にも柳沢吉保と鴻池善右衛門の手が回っておる。もはや幕府の処断を阻止する手立てはなくなった」

 何ごとにも動じない仁右衛門が肩を落としてそう言った。

 「こちらもです。残る恃みの隆光さまはいま将軍家のためにご祈祷をなさっており、あと二、三日ほどはお城をお下がりになれないとか。もう間に合いません」

 よく知る神田橋外の護持院からいま立ち戻ったばかりのもとは、乱れた息を整える間もなく短い報告を終えた。

 「何てこった。こうなると俺らの地獄耳が恨めしいや」

 千次は両手で自分の顔をバチバチと叩きながら悔しがった。

 太田和泉守好寛と大久保大隅守忠形の会談が行なわれたとき、千次は太田家の床下に潜んでその一部始終を盗み聞いていた。そして翌る日の早暁になって、両名が最後の確認を取り合った通りに江戸へ向けての早飛脚が送られたのを見届けてから、その詳しい仔細を仁右衛門のもとへ急報したのである。

 千次の報告を聞くと、仁右衛門は、一瞬、瞑目した。

 しかしすぐさま両眼をかっと見ひらくと、その場で江戸行きを決めたのである。ただ広当や勘七たち店の者には偽って、倉吉の多田屋で大事が出来したので出張ってくる、とだけ言い置いて大坂を出た。

 柳沢美濃守吉保はいまや町奉行を支配する老中上座である。彼が下す裁断をたった一声で止められる者といえば将軍綱吉をおいて他に無い。またその綱吉を動かせる者は大僧正の地位にあった将軍家護持僧の隆光栄春か、ほんの一握りの有力大名以外には無かった。仁右衛門はそこに一縷の望みをかけたのである。しかし結局その望みも叶わなかった。公儀の早飛脚は東海道を三日で走り抜ける。だとすれば柳沢吉保は二人の大坂奉行からの上申書をとっくに手にしている。いや、早くもその上申を裁可した文書を携えて、返りの早飛脚が江戸を発っている可能性すらあった。

 「無念だがもはや手の下しようがない。この上は一刻も早く広当さまへこの事態をお報せせねばならぬ。おい、金太。いきなり騒がせて済まないがすぐに筆と硯の用意をしてくれぬか」

 「へい。畏まりました」

 金太はそう答えると、奥の部屋へすっ飛んで行った。

 神田橋にある八幡屋である。ゆうと千次の一家が大坂へ呼び戻されたあと、入れ代わりに八幡屋を守ってきたのは金太とその情婦だった。仁右衛門たちは昨日の昼から夕刻にかけて次々に江戸入りしてきた。突然のことなので前後の事情が分からない金太夫婦は、ただおろおろしながら三人を見守っていたのである。

 「お頭。父が太田家の床下で盗み聞いたのは、淀屋の処断を決行するという取り決めだけではありません。広当さまに対して仕組まれた卑劣な罠もあります。わたしたちはそれすらも放ってこの江戸へ来てしまいましたが」 

 もとはひどく沈んだ目をしてそう言った。

 考えてみれば母のゆうにも知らせずに慌しく大坂を発って、仁右衛門や千次に遅れまいと早籠を乗り継ぎながら東海道を下っているあいだは、緊張のし通しだった。だから〈あのこと〉も何とか思い出さずに済んでいたのである。 

 「うむ。だからといってあのときそれを広当さまや勘七に報せてやったところでどうなるものでもなかった」

 それは自分の場合も同じだったろう、ともとは思う。

 千次はあのとき、淀屋にかかわる奉行たちの密談の巨細を報告したあとで、いきなり小鼻をうごめかせながら、さらに二人が鶴田錦吾を抹殺する計画まで話し合っていたと言った。それは明らかに「いい気味だ、ざまをみろ」と言わんばかりの口ぶりだった。確かにそうだろう。鶴田錦吾は淀屋にとって憎んでも余りある敵の一人なのだから。だがそれでもなおもとは、奉行たちが話し合っていたというその計画を、できることなら錦吾に報せてやりたい、と心から思ったのである。

 「そうだよ、お頭が仰る通りだよ、もと。そんなことをしたら大坂に残された勘七さんはたった一人で悩まなきゃならなくなる」

 千次はもちろん鶴田錦吾に対するもとの熱い想いなど知らなかった。だから無神経にもきつい言葉でもとをたしなめた。

 「そうかしら。自分だけが知らないより、知ったうえで悩むほうがまだましだとわたしは思うわ。それは母さんだって同じよ」

 もとは千次の言葉にことさら強く反発した。

 「いきなり亭主と娘が消えちまったんだからな。そりゃあ、ゆうだってそれなりに心配はしているだろうが、そこは間者に求められる哀しい性というもので、こんな危急の事態を知ったならあいつだって絶対にじっとしていられない性格だ」

 「それでは夫として、父親として困るわけだ。母さんはお頭からの指示の一つさえ貰えない大坂にたった一人で残されて、どうすればいいのか途方に暮れてしまうだろうし、まだ幼くて手が離せないいとの世話なんかも考えたら、できるだけこんな大渦の中へは巻き込みたくないものね」

 「そういう言い方は無いぜ、もと。俺らもそうだけど、ゆうがいつだって心にかけているのは、いとよりもお前のほうなんだからな」

 肩を落としてそう言った千次は急に涙ぐんだ。

 歳を取ったせいで涙もろくなっているのだろう。いきなり流した千次の涙を見て、もとはうろたえてしまった。そのために返した言葉はさらにきついものになった。 

 「そりゃ、そうよ。わたしたちは実の母娘なんだから」

 そう口走ってしまってからもとは激しく後悔した。

 「ふん、そうだろうよ。どうせ俺らは赤の他人だ」

 もとが後悔した上に懸念した通り、果たして千次は不貞腐れたようにそう応えた。そして汚れた手拭で乱暴に顔を拭った。

 「赤の他人だなんてなにを言ってるの。千次はわたしにとってはたった一人の大切な父親よ。他に誰がいるというのよ」

 「本当かよ。お前、本心からそう思っているのか」

 「あたり前じゃない…」

 叱りつけるようにそう答えたもとの目からも、千次に対しての謝罪の涙がこぼれ落ちた。もとはこれまでずっと心の中で本当の父親を求めてきた。それは否定できない事実だ。義父の千次にはそういうもとを肌で感じることが何よりも哀しかったはずである。いとが生まれてからはなおさらだったと思う。だがそういう恩知らずな自分とは、いまここではっきりと訣別した。もとはそのことを千次にこの涙で伝えたかったのである。

 仁右衛門は千次ともとのやりとりを背中で聞きながら、金太が筆や硯とともに用意してくれた文机に向かって、広当へ届ける手紙の筆をさらさらと走らせていた。しかし誰からも窺い知れないその顔には二重の苦渋が満ちていた。

 父娘のやりとりを見かねた金太夫婦が千次たちへ声をかけた。

 「兄貴、そんなところにいつまでも突っ立ってねえで、とりあえず飯でも腹にかっ込んでくださいよ」

 「そうですよ、もとさんだってお腹が空いているでしょ」

 それで金太夫婦から勧められるまま二人は黙って茶漬けをかき込んだ。飯粒と熱い白湯が胃の腑まで届くと胃壁がきりきりと痛んだ。そういえばもう丸一日くらいは何も食べていないのである。それは三人とも同じはずなのに、仁右衛門だけは長い手紙を書き終えてからも、用意された膳部には箸すらつけようとしなかった。

 「千次。金太。ここへ来て儂の話をよく聞いてくれ」

 やがてあらたまった声になって仁右衛門が言った。

 「へい」「はあ」

 と各々に応えながら二人はあわてて仁右衛門の前に正座した。

 「二人とも長いあいだほんとうにご苦労だった。もと、お前もだ。そしてこの場にいないゆうや熊吉たちに対しても心から礼を言いたい。牧田仁右衛門の戦いは、いや重当さまと儂の長い戦いは、いま終わってしまった。だからお前たちとの関係もこれで終わりにしたいと思う。これからは自分の思いのままに生きてくれ」

 「そんな…」と千次は絶句し、「やはり」と金太は肩を落した。

 「まず金太のほうだ。よく聞くのだぞ。お前は隆光さまの御用に供するためにと、淀屋が常に用意していた八幡屋の資金を、すぐさまどこかへ持ち出すのだ。どこでも構わぬぞ。それがお前たち夫婦の取り分になる。八幡屋の店舗などその他のものはいずれ公儀に没収されてしまうだろうからな」

 「お頭。そりゃ、あっしたち夫婦には過分です」

 金太は驚いてそう申し出た。だが仁右衛門は認めなかった。

 「次は千次のほうだ。お前はいますぐもとを連れて大坂へ帰ってくれ。お前とゆうがこの仁右衛門の間者だったことを知っているのは、おそらくいまも同心の鶴田錦吾と手下の作蔵だけだ。その二人が奉行たちの手ですでに消されているとすれば、淀屋への処断が下された後もまず役人から追われることはないだろう。だから大坂へ立ち帰ったのちは一家四人が力を合わせて、これまで隠れ蓑にしてきた唐物屋を繁盛させるのだ。分かったな」

 「へい、分かりやした。しかしお頭はこれからどうなさるんで」

 千次が発した疑問は至極当然だった。

 もとや金太も実はそれが聞きたかったのである。三人は申し合わせたように仁右衛門の口もとを注視した。

 すると仁右衛門の目がふたたび輝きを増しはじめた。そして前よりもずっと若々しい声と口調になって言った。

 「儂か。儂にはまだやらねばならないことが山ほどある。そもそも公儀の目論見は、ご政道を進める上で何かと目障りだった淀屋の力を削ぐことにあるのであって、何も広当さまのお命まで奪おうとしているわけではない。だから儂はこのまま江戸に残り、せめて下される処罰の中味を軽くしてもらえる道がないか、じっくりと隆光さまへご相談するつもりでいる。その後のことは儂にも分からないが、淀屋処断のすべてが終わったあともなお、もし公儀の手が倉吉の多田屋にまで伸びていなければ、儂は孫三郎の力を借りて彼の地で淀屋を再興してみせるつもりでいる」

 「倉吉で淀屋を再興する…」

 千次ともとはごくりと生唾を呑み込んだ。

 二人の脳裏に、倉吉に近い橋津の港と、その岸壁や倉庫に堆く積まれた千歯扱きの山がくっきりと浮かんだ。あのような僻遠の地にありながら、確かに港の賑わいようは尋常ではなかった。それに加えて商人としての孫三郎の手腕にも人並み以上の勝れたものがあった。

 《もしかしたらお頭は本当に淀屋の再興をやり遂げるかもしれない》

 千次ともとの父娘は胸を躍らせながらそう思った。


 広当と勘七はついに一睡もしないままにその朝を迎えた。

 音も無く大坂の町を濡らしていた雨は、お城の方角から美しい朝日が顔を覗かせる頃には、すっかり上がっていた。

 淀屋の店舗と屋敷を数十人の捕り方が取り囲むと、すべての出入り口は竹矢来で固く閉ざされた。混乱に乗じて起こるかも知れない群集による打ち毀しや、雇い人による金銀財宝の勝手な持ち出しを防ぐためである。当主の広当は縄目こそかけられなかったものの、二人の捕り方に左右から羽交い締めにされながら中庭へ引き出された。まるで人を殺めた重罪人のような扱いである。

 そして筆頭与力が重々しい声で罪状を読み上げた。

 《淀屋三郎右衛門広当。そのほう儀、日ごろよりの驕奢僭上なるおこない、公儀のたびたびに及ぶ倹約の威令にもかかわらず、重々不届き至極である。よってただちに闕所追放とするものなり。畏まってうけたまわれ》

 奉行所が挙げた広当の罪科は「驕奢僭上」の四文字だけである。

 公儀はたったそれだけの理由で、百年も続いた淀屋を取り潰そうというのだ。たとえば天王寺屋をめぐっての二千両詐取事件については一言も触れていない。また事の真偽はともかくとして、拐帯逃亡事件を装って金銀を隠匿したことや、米相場を不当に操作したという嫌疑もない。つまりそこには、日の本一の豪商淀屋といえどもたかだか町人であり、その処断ごときに幾つもの罪科を論う必要などないという、武家側の矜持と意地があらわれていた。

 そのあと広当は役人の手で検束されて奉行所の一時預かりの身となり、住み込みの者や出勤してきた雇い人たちは一ヶ所に集められてかたちばかりの事情聴取が行われた。また勘七たち数名の幹部が立ち会うというかたちで、屋敷内の捜索と目ぼしい財産の差し押えが始まった。

 「闕所」という罪科については先述した。

 このとき淀屋が没収された財産は莫大なものだった。

 宮本又次氏(故人・元大阪大学名誉教授)の手になる「大阪経済史料集成」によれば、珍奇なものだけでも、

 「書画骨董、金銀の細工物、琥珀・瑠璃・珊瑚の細工物、茶道具、刀・脇差、水銀(薬品)、羅紗、辰砂(風邪薬)、伽羅(香木)、金銀の碁石と碁盤、硯石(おそらく端渓か)、硝子障子、厚さ三寸の大毛氈(ペルシャ絨毯か)、金襴類錦(金糸を使った織物)」

 などがあり(括弧内は作者註)、その多様さは驚くばかりだ。

 この中から主なものを取り上げてみても、百両以上の値がつく掛け軸は二百三十幅(二万三千両以上)、刀や脇差はおよそ七百腰となり、豊臣秀吉が造ったと伝えられる千枚分銅は四十八貫目、辰砂などの薬種類は五万両分を超えたという。

 これらの品は安価なものだけ大坂で売却されたが、他はすべて江戸へ持ち去られて、幕府の御金蔵を潤すことになった。

 またこのときに没収された現金は岡本家の私財を含めて十二万両、現銀は十二万五千貫目(二百十五万五千両)あった。

 さらに巨額だったのは貸し金である。諸大名への貸し付けは何と銀一億貫目(十七億二千四百万両)を数え、将軍家への貸し出しも八十万両に達していた。それが幕府による淀屋闕所の主たる目的だったのだから、当然といえば当然ではある。

 加えて没収された土地が広大だった。屋敷地は大坂だけでなく伏見・淀・京に及び、数にして百八十三ヶ所になった。田畑などは山城八幡だけで百八十町歩(ha)もあり、淀・大和・丹波・阿波・和泉・淡路にまで及んだ物件の数は二百四十ヶ所と二十三町歩にもなった。

 ただ公儀は淀屋が所有している財産の全てを把握していたわけではない。とくに重当と仁右衛門があらかじめ隠匿しておいた金銀や、孫三郎が管理を任されていた倉吉の多田屋などは摘発を免れたし、斎藤町家などの分家も無傷のまま残ったのである。このときの公儀による処断が、単に淀屋岡本本家という図抜けた豪商を取り潰すことのみに目が向けられて、いかに恣意的で杜撰な調べのもとで執行されたものだったかは、この一事を見てもよく分かるだろう。

 「淀屋闕所、広当追放」の情報は、瞬く間に大坂市中へ知れ渡った。

 噂を聞きつけた野次馬が続々と門先に集まり始める。野次馬たちは役人たちの耳や目もまったく気にしないで口々に言い募った。

 「何やこれは。奉行所もいきなりえげつないことをするやないか」

 「いや、そうでもないで。お武家は明日の飯にも窮してはるというやないか。そやのに淀屋はんは二代続いての豪気な遊び人で、質素倹約令なんぞ糞食らえの毎日やったからな。まあ、あないお上に逆ろうて贅沢三昧してたら、そら睨まれまっせ」

 「そやったらこれは世間への見せしめかいな」

 「まあ、そういうこっちゃ。下世話にもいうやろ。言うてもきかん女子は力ずくで、ちゅうとこかな」

 「いや、そら見かたがちょっと甘いわ。物事には何でも裏と表があるわけで、淀屋はんが潰れていちばん喜ぶのは、お上とお大名がたやという人もおりまっせ」

 「なるほど。お上やお大名は仰山の借金が棒引きになるんやからな。ええなあ。いっぺんでええさかい、わしら庶民もそんなありがたい恩恵にあやかりたいもんや」

 これらの声はまだまともなほうである。つまり野次馬というものの本質はこういうところには無い。事件というものはもっともっと醜聞的・憶測的でないと面白くないわけで、そのぶん無責任なものになっていく。

 「淀屋はんは手代の何人かに命じて米相場を不当に吊り上げてたという噂がもっぱらやで。そのうえ買置とか締め売りなんかもやってたということや」

 「それはほんまかいなそれは。そやったらこないに何もかもが値上がりしよって、わしらの日々の生活を苦しめてる張本人は、やっぱり淀屋やったということになるやないか。だんだん腹が立ってきたわ」

 「実はさっき聞いたばっかしの話なんやけどな、なんと淀屋の若旦那はんが偽証文を使うて、天王寺屋はんから二千両もの金を騙し取らはったということでっせ」

 「へえ。何でまたそんな阿呆らしいまねを。若旦那はんにしてみたら二千両くらいの金なんかはした金やろに」

 「そやけど新町の遊女を請け出すにしては法外な金やで」

 「なるほどそういう理由ありの金でっか。後見人の仁右衛門はんは堅物で通ってますさかいにな。我が家の金、我が店の金、とはいうものの、それでは若旦那はんもなかなか勝手がきかんかったんやろな」

 「それに広当はんが日ごろ付き合うてはった仲間が悪いわ。とくに彦六という男なんざ強請りたかりは常習で、誰一人として知らんものがない世間の鼻つまみ者やったもんなあ」

 「骨董屋の与兵衛なんかはもっと有名ないかさま師や。何が名人の手になる書画骨董品やねん。そんなん、ど田舎のお大尽くらいは騙せても、ちょっと目の肥えたやつなら絶対に騙されへんわ。それに能の師匠の富川ときたら、男色に落ちて宝生流を破門された男やし、裏では女衒稼業までしとるやないか。地方の好き者から能舞の出稽古を頼まれたついでに、まだ年端もいかん小娘を安い値で買い叩いてきて、さかんに新町の揚屋あたりへ送り込んでるという噂や」

 「いや、それより浪人の近藤軍太夫のほうが問題やで。あいつは浪人仲間をあつめてこの大坂でひと暴れする計画を立ててた。もし広当はんがあいつの口車に乗って大枚の決起資金でも出してはったら、いまごろは大坂だけやのうて世の中がひっくり返ってたとこや。そら奉行所も放っとかれへんわな」 

 野次馬の口角泡を飛ばすそんな声に凝っと耳を傾けている二人の武士があった。

 深編笠ですっぽりと顔をかくしていたが、それはまぎれもなく東西町奉行の太田和泉守好寛と大久保大隅守忠形である。

 両人は老中首座にある柳沢吉保の裁可をえた淀屋処断の現場検分のためにわざわざ店先まで足を運んできたわけではない。世間の人たちの反応を自分の耳と目で確かめるために出張ってきたのである。それはまた赤穂事件に懲りた柳沢吉保からの指示でもあった。だから二人は淀屋の店先を何度も行きつ戻りつして、口々に交わされている町の声を注意深く拾い集めたあと、やがて満足そうに頷き合うと、洪水のような人波に逆らいながら足早に京橋方面へ去っていった。

 前任者だった松平忠固たちから受け継がれた二人の奉行たちの作戦はものの見事に成功した。また柳沢吉保の判断も結果的には大成功を収める結果になった。というのは、「淀屋闕所事件」をめぐっての世論は賛否が相なかばして、赤穂浪士事件のときのように同情論だけが沸騰してしまうという困った事態にはならなかったからだ。

 それでもこの事件はしばらく巷間で何かと取り沙汰された。

 また重当の生前に援助を受け交友もあった戯作者たちの手によって、淀屋や広当を擁護したり、同情を寄せる作品が幾つか発表されたりもした。もちろん近松門左衛門ものちに『淀鯉出世滝徳』を上梓して、遅まきながら盟友重当へ贈る鎮魂の書とした。ただ幕府との長期にわたる暗闘の結果として生まれたこの事件は、どちらかと言えば庶民感覚とは縁遠い性質のものだったらしく、たとえば同じ近松門左衛門の作品でも『曽根崎心中』への思い入れほどには、庶民の心を強く揺さぶらなかったようである。また世論が大きく同情論へ傾かないように神経を注いだ公儀が、それを許さなかったとも言える。そのためにこの事件は長らく人口に膾炙することなく、歴史上も小さな扱いを受けることになってしまう。

 だが「淀屋闕所事件」は少なくとも日本経済史においては重要である。わが国の経済が名実ともに近世へ移行するきっかけになった出来事だったからだ。 

 淀屋広当に対する罰条は「闕所」のほかに「追放」があった。

 当時の追放刑というのは大坂三郷に加えて京・淀・伏見・堺を加えた町からの所払いという意味である。つまりそれ以外の土地へ居住することはお構いなしだったのである。とはいえそれ以外の土地はどこもまだ人煙すら疎らな状態のところが多く、すべての面で爛熟期にあった大坂の中心部に生まれて何不自由なく暮らし、多くの雇い人たちにかしずかれて贅沢三昧に育ってきた広当にしてみれば、追放刑もまた闕所に劣らない辛い罰条であったはずだ。

 ちなみに淀屋広当は通称「淀屋辰五郎」と呼ばれることがある。

 読み物や芝居などではむしろその名のほうが有名である。しかし広当は淀屋を滅亡へと導いた当事者という点では注目すべき人物だが、一人の大坂商人としてはついに何事も為しえなかった無能に近い男であって、五代続いた淀屋の当主の中でも格別評価に値するような人物ではない。それにもかかわらず、まさに傑物とも言えた初代の常安や四代の重当よりその名が庶民の間でもてはやされたのは、幕府が日の本一の豪商にいきなり闕所追放という処断を下したという衝撃的な政治的事件の被害者だっただけでなく、相思相愛の関係にあった吾妻大夫との間に繰り広げられた男女の物語りが、当時の人々の記憶に深く刻みつけられたからだと言えるだろう。

 だから岡本広当にはさらに苛酷な運命が待っていた。

 それは吾妻太夫との別れである。安左右衛門が天王子屋から詐取した二千両の身請け金はいまも茨木屋へ支払われていないのだ。だから闕所に遭ってすべての財産を失った広当としては、たとえ大坂三郷からの追放刑を免れていたとしても、いまや身請けどころかたまに新町へ通うことすらできなくなったのである。 

 こうして広当は石もて追われるように大坂を出て、大和国へ向かった。付き従ってくれる供の者は元手代の勘七ただ一人である。

 このとき、広当がとりあえず大和国へ向かったのは、大和竜田という地が、初代常安が御幸された後水尾帝から个庵という名を賜った淀屋ゆかりの地であっただけでなく、重当らがかねてから隠匿しておいた金銀の大半がその地にあったからだ。どうやら淀屋は長年にわたってこの地を経由して、禁裏へ多額の献金をしていたふしさえ認められる。また竜田には勘七の兄である藤吉が住んでいた。

 いっぽう吾妻太夫のほうは、広当や事件に浅からず連座したという廉で新町を追われ、大和木辻の遊郭へと身を落すことになる。そして「これがあの淀屋事件で名高い新町の太夫よ」ともてはやされて、大和一国に実っている柿の実ほど多くの男たちから抱かれることになるのだ。

 吾妻大夫のそういう哀れな境遇を聞きつけた勘七の兄の藤吉は、のちに木辻の遊郭へ駈けつけて彼女の身柄を請け出してやったという。大和木辻は公許の遊郭だった大坂新町とは違って格式は高くない。だからむろん広当に対して示されたような二千両もの大金はいらなかっただろう。とはいえ片田舎の一小百姓に過ぎなかった竜田の藤吉に、遊女一人を請け出してやるほどの大金があったとは思えない。その背後には、広当と勘七主従の影が、また淀屋の隠し金の存在が、見え隠れしている。 

 しかし自由の身になった吾妻大夫は広当のもとへ走らなかった。

 広当のほうにもそうはできない事情があった。何と言ってもまだ役人の監視がついている罪人の身だったからである。

 広当と勘七はその後、大和の国を離れて、山城の国は八幡の地に移り住んだ。

 山城八幡はかつて神君家康からもらった岡本家の知行地だった。むろん闕所の際に財貨とともに召し上げられていたのだが、どうやらここにも没収を免れた資産や支持者があったようである。

 重当と仁右衛門が打っておいた布石がまたもや広当を助けることになる。


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