第九章 広当と吾妻の恋

            第九章 広当と吾妻の恋


 さらに一年余りが経った。この年、元禄十七年は三ヶ月余りで終って、年号は宝永(元年)と改まった。

 大坂新町は九軒町にある茶屋、桔梗屋の二階である。

 すっかり馴染みの仲になった広当と吾妻太夫はいつもの部屋で睦み合っていた。ほんらい太夫位にある遊女は茶屋まで出張ることはない。だが桔梗屋は能の師匠だった富川の顔で二人が「初会」を済ませ、「裏を返した」思い出の場所だった。それで広当が気に入ったために特別扱いを続けてもらっていたのである。

 ちなみに「初会」とは遊客が目あての遊女と初めて対面することを言い、「裏を返す」とは二度目を、「馴染み」とは三回目以降に名指しで登楼する親密な関係を指した。新町など公認の遊郭では初会を経て裏を返さなければ気に入った遊女を抱けないしきたりになっている。

 袖口から取り出した匂い袋の紐を指の先でもてあそびながら、吾妻太夫は明るい声で広当へ言った。

 「広当さまがこの新町へお越しになってから早や一年が過ぎ去りました。それいらいずっと変わらず可愛がっていただいている妾はほんとうに幸せ者でございます」

 「うむ。おかげで儂もひとたび新町の大門をくぐれば世間とはまるで違う廓独特のしきたりがあるのだということが、身に沁みて分かってきたよ。こんな別世界があろうとはまったく知らなかった」

 広当は色白の顔を赤く輝かせてそう答えた。

 広当は父の重当に似てすこぶる酒に強かった。ただ父はいくら飲んでも顔色に出なかったが、広当のほうはたちまち朱に染まってしまうのだ。血行がよくて健やかな証だと世間では言われている。

 「ほんに。淀屋広当さまといえばこの世では思いの叶わぬことなど一つとして無いお大尽ですのにね。そんなお方にも制外と呼ばれている廓のしきたりだけは曲げられません」

 「たとえばお前の身請けや。これまでにもことあるごとに頼み込んではいるが、お前を抱えている茨木屋はんはなかなか首を縦に振ってくれん。お金やったらなんぼでも積んで見せるというのにな」

 広当はそう言って嘆くと、しなだれかかってきた吾妻大夫の頬に熱い吐息を吹きかけた。吾妻大夫はうっとりして目を閉じた。

 この頃の新町には、茨木屋のような揚屋が二十八軒と、桔梗屋のような茶屋が四十九軒あり、遊女の数は八百二十三人の多きを数えたと言われる。幕府は引き続いて質素倹約令を発しており、最近では酒の醸造量まで制限するようになっていたのだが、「制外」として一種の自治権を認められていた遊里のみは、浮世の制約や不景気とは無縁の活況を呈していたのである。

 つまり「制外」では、廓の主たちが独自に取り決めたしきたりがすべてで、遊客が持っている官位や職階はもちろんのこと、ときには金銀さえも役に立たない、といういわば誰にとっても機会均等の別世界だった。またそういう憂き世離れした特殊な世界だったからこそ、とりわけ身分制度の下位に置かれて日々の鬱屈を感じている男たちにとっては、こたえられない場所だったとも言える。

 「無理をして身請けなどしていただかなくとも妾はこのままでじゅうぶんに幸せでござります」

 匂い袋を広当の鼻先に押しあてて吾妻太夫は応えた。

 「お前が良うても儂のほうがあかんのや。考えてもみてくれ。儂が登楼できない日があれば、お前は他の男どもに抱かれていることになる。そういうのはもう儂には我慢がならんのや」

 広当はそう言うと、駄々っ子のように身を捩じらせた。

 広当の手を取ってみると驚くほど熱かった。これではまるで眠くなってむずかっている子どものようではないか、と吾妻大夫は思った。そのためについ意地悪な気持になって辛辣なことを言ってしまった。

 「殿御はどなたもみなそのように仰いますわ。でも約束の通りに身請けをされた例はきわめて稀だとも聞いておりますわ」

 「そんな不実なことはせえへん。儂を信じるのや」

 「あい。それでは主さまだけは信じましょう。ただ身請けしていただいたあとで囲い者にされるのでは嫌でございますよ」

 「もちろんや。儂はそこいらの旦那はんがたと違うて独りもんや。かつて父がこの新町から母のもとを迎えたように、端から儂はお前を岡本家の正式な妻として迎えるつもりでいる。これは嘘やないで」

 「茨木屋がどのような無理難題を言ってきても?」

 「無理難題というても商いなんやから結まるところは金銀の高やろ。金銀なら言われるままになんぼでも出したる。それにお前との祝言にもぎょうさんな金をかけて、世間があっと驚くような披露をするつもりや」

 思いもよらずどこか思いつめた表情をして広当はそう答えた。

 すると、吾妻大夫はいきなり「お許しくださりませ、広当さま…」と叫ぶなり、広当の膝の上に泣き崩れてしまったのである。つい意地悪な気持ちになって辛辣な言葉を吐いてしまった自分に、激しい呵責の念が湧き起こったのだった。 

 「いったいどないしたんや、吾妻」

 広当はただただ困惑して吾妻太夫の細い肩を抱き上げた。

 「いま妾が申し上げたことはどれもこれも本意ではございません。身のほどもわきまえずつい主さまのご本心をお試し申し上げてしまいました。なにとぞこの吾妻の無礼をお許しくださりませ」

 「そういうことなら許すも許さんもない。お前がいま言うたことはみんな正しいんやから、気にかけてくれるな」

 「いいえ。こうしてたびたび主さまに呼ばれてご一緒にいられるだけでも、妾などには望外の幸せなのです。それなのに身請けしていただいたそのあとにまで註文をつけるなど、まことに罰当たりなことを申し上げました」

 それは遊女がよく口にする嘘言ではなく、一人の女としての本心だった。広当はむずかる子供のようだからこそ自分を愛してくれる真情もそれだけ純で尊いのだ、ということにやっと気がついて、吾妻大夫はいま自らを心から愧じていた。

 「お前のそういう切ない心情も分からんと、金に糸目はつけぬなどと不遜なことを言うたりした儂のほうこそ、ほんまに済まんかった。堪忍してや。広当のこの恋は、遊女とはいえ吾妻の心は、金なんかでは買えんもんなあ」

 「とはいえ遊女はやはりお金で購われる身です。まことに哀しいことではありますが、たとえ死ぬほど愛しいお方でも、もしお金をお持ちでなければこうしてお会いすることすらかなわず、しょせんその恋は叶えられないのですから」

 「しかし儂は金でお前を買うとは思いとうないのや」

 「ありがとうございます。それに何より…」吾妻大夫はそう言いかけてから少しためらいを見せたが「…何よりも、広当さまほんらいの純で素直な心を取り戻されたことが、妾には嬉しゅうございます」とすぐにあとを続けてまた大粒の涙を流した。

 「何やて、儂が純で素直な心を取り戻したと…」

 そう言うと、広当は怪訝そうに眉根を寄せた。

 すると広当の膝の上から身を起こした吾妻太夫は、緋毛氈の上にきちんと膝頭を揃えたあと、乱れた夜着の裾を整えながら言った。

 「はい。いま広当さまはご自分の思い上がりを戒められました。そしてたかが遊女の妾などに、済まなかった、と素直に謝ってくださりました。またもや生意気なことを申し上げることになりますが、これまでの広当さまは世間やお店の皆さまに対して拗ねておいででした。また妙恵さまがお亡くなりになってからの我がままぶりはとりわけ酷うござりました。たびたび肌を重ねております妾にはそんな広当さまの心の移ろいがはっきりと伝わってまいります。どうか仁右衛門さまを蔑ろにするのはお止めください。そしてお店のお仕事にもっとご精をお出しくださりませ。この新町は自ら立派なお仕事をなさっておられる方々が遊びにこられるところです。ご先祖さまが遺された金銀で遊ぶところではござりません」

 「……」

 耳には痛かったけれどその通りだった。広当としては一言もない。

 家つき女の気丈さで淀屋三代を店奥から支えてきた祖母の妙恵は、広当が新町通いをはじめた直後の元禄十五年の暮れに、九十余歳という長い長い生涯を終えていた。妙恵はなかば恍惚状態にあった畢りの一年すらも、だんだん靄に包まれていく頭脳の片隅でなおも淀屋の繁栄を願い続け、かつまた孫の広当が続けている放蕩の毎日に胸を痛め通した。そしてその激しい魂魄は、臨終に際してもそれら二つの行く末をこの目でずっと見守り続けたいものと、天井の梁にからみつくほどの激しい妄念を見せた。つまり妙恵は重当の臨終に際して洩らした、この世の長寿地獄、をあの世まで引き摺っていくことになってしまったのである。

 「身の程も弁えず重ね重ねの失礼を申しあげました。もしお腹立ちならばお気の済むまで妾めをご打擲くださりませ」

 吾妻大夫は紅梅のような唇を戦かせながら真摯に詫びた。広当のほうは沈痛な顔をしたまま黙りこくっている。しかし腹を立てているのではなかった。半びらきの瞼の裏で仁右衛門の渋面と対峙していたのである。

 「実はな、吾妻。いつか仁右衛門どのや手代の勘七が、お前と同じように儂を諫めてくれたことがあるのや。そやけどそのときの儂はまるで耳が貸せんかった。つまり蓑虫みたいにしっかり閉じた殻に閉じこもって、吹きつける冷たい北風を避けていたんや。いま思えばほんまに阿呆やった」

 広当はそう言うと吾妻大夫をまた傍に引き寄せた。そして真正面から吾妻大夫の目を見据えると、

 「しかし儂はあえてお前が苦言を呈してくれたことでたったいま目が醒めた。もう心配せんでもええ。儂は今日からほんまもんの男になるで。必ずや父親に負けんような立派な商人になるさかい」 

 ときっぱり言い切ったのである。吾妻太夫はぐっと引き寄せられた広当の腕の中で、その心がこもった言葉を信じよう、と決めた。

 「妾もそのお力になれましょうか」

 「もちろんやないか。淀屋の内儀として奥から儂を支えてくれ」

 広当が口の中へ舌をさし入れて互いに唾液を分け合うと、吾妻大夫は身をのけぞらせて悦びに震えた。すんなりと伸びている華奢な両脚が、夜着の合わせ目を大きく膝上まで割ったために、秘所の恥毛が見えるくらいに露わになった。その肢体の艶めかしさに加えて匂い袋から洩れ出る香りが、男の性慾をまたもやかきたてる。過ぐる紋日(五節句など衣服を着かえる祝日のこと)に自分が贈ってやった布団の上に押し倒すと、広当は荒々しく吾妻大夫の腰紐を解いて、白いからだに獣のようにむしゃぶりついた。それは彼の中にようやく甦った闘志のあらわれであり、自己愛におぼれて不甲斐なかったこれまでの自分に対する怒りの行動でもあった。 

 古来、遊女は神仙をも惑わす美と処女性の象徴だった。

 遊女はいわゆるJ・ホイジンガのいう「聖なる性」の体現者だった。だが近世も中期になって商品経済が大いに発達すると、女の性までもが商品化されてしまう。そして遊女という聖なる性は次第にその地位をおとしめられて、売女・夜鷹・淫売・惣嫁・辻君などという忌まわしい呼び名とともに、世間からの侮蔑の対象となってしまうのである。ただ元禄期には新町・吉原・島原のような公娼にかぎってではあるが、まだかろうじて古来からの偶像性を残していた。

 もちろん遊郭は単なる金銭で性を購う場所だ。現代の感覚から言えばとんでもない悪所ということになるだろう。だが当時の認識ははそれほどではなかった。封建制に胡座をかいて威張っているがさつな男たちへ、恋の擬似体験をさせながら優しく女性を扱う方法を教え、世間の人や親たちに代わって正しい性教育を施す場でもあったのである。つまり遊女にも遊客にも今ほどの後ろめたさは無かったといえる。

 だから恋と性の教師ともいうべき遊女は、みな情がこまやかで心優しく、男の身も心も蕩かすような性技や手練手管を身につけている。まして太夫位ともなればさながら天女と交わる心地がしたと言われたほどである。そればかりではない。遊郭はまた貴顕の紳士や富裕な商人が憩う場でもあったから、遊女たちは様々な技芸や学問知識

を身につけていて、ほとんど客を飽きさせることがなかった。

 遊女はまたそれが職業であるかぎり、一人の男に入れ揚げる、ということはまずなかった。むしろ熱くなりがちで抑えがきかなくなった男に意見して、その身や財産を持ち崩す前に手を切れるよう自分から仕向けるのが普通だった。とはいえ遊女も人の子である。また女の性を購って身も心も擦り減らしている毎日だ。ともすれば本物の愛に対する憧れや飢餓感は世間の女たちより何倍も強かった。だからときに、ある者は客の一人と駆け落ちをはかって廓からの足抜きを試みたし、またある者は惚れ抜いた客と示し合わせて何度かの心中を図ったりもした。そういう事件が持っている悲劇性や同情性は聞く者の胸を強く打つだけに、いまも物語や芝居として数多く残されている。だが実際には稀だったと言ってよい。

 広当はこの日の吾妻太夫からの忠告にほだされて、それから家業に精を出した。もちろん仁右衛門と勘七は喜んだ。

 しかし一度狂い出した歯車はそう易々と元へは戻らない。間もなしに現銀の拐帯逃亡事件がまたまた起きた。さらに手代の一人が米の締売りに加担しているという悪い噂までが市中に流れた。その手代の潔白はすぐに証明されたけれど、雇い人たちの間に広がった動揺はなかなか収まらなかった。

 そんなことがたび重なったこともあって、固かったはずの心が折れてしまった広当の新町通いはふたたび頻繁になっていった。

 廓の朝は早い。

 卯の刻(午前六時)が近づくと、遊女たちは一斉に泊まり客を送り出しはじめる。これを「後朝(きぬぎぬ)の別れ」と言い、馴染み客に惚れてしまった遊女にとってはまことに切ないひとときであったが、そうでない者にはまた客に足を運んでもらうための大切な儀式の時だった。客に膝枕をしてやりながら伸びた髭を剃刀であたってやったり、着替えを手伝ってうしろから羽織をかけてやったり、男心をそそるような甘い言葉を耳もとで囁いたりと、まさに腕まくりの奉仕や甘言を尽くして客の再来を期すわけである。

 広当はここしばらくまた桔梗屋に居続けだった。だから心を痛めている吾妻大夫にしてみれば《今日こそは広当さまにお店へ帰ってもらわねば》と思っている。それは昨夜の説得で広当のほうも納得ずみだった。

 だから二人にとってもこの朝は後朝の別れということになるのである。

 吾妻大夫は先に床から出て手早く自分の身支度を整えると、夜具や部屋の乱れを直したり、ちり紙を屑籠へ押し込んだり、広当が着て帰る着物の皺を伸ばしたり、とかいがいしく立ち働いている。しかしまだ床の上に腹ばいになって、ぼんやり頬杖を突きながら自分を見あげている広当とたまに目が合ったりすると、自分から言い出したことなのに《ああ、この人は間もなくお店へ帰ってしまうのだ》という感慨に囚われて、つい寂しくなってしまうのだった。

 その広当が欠伸をかみ殺しながら吾妻大夫に声をかけた。

 「なあ、吾妻。お前は安左右衛門さんのことをどう思う?」

 「どうって?」

 吾妻太夫は短く応えた。彼女はいま部屋の隅に据えられた鏡台に向かって髪を櫛削っている。乱れ髪が柘植の櫛歯へからんで、むりやりに梳くと頭皮に鈍い痛みが走る。吾妻大夫はその痛みを感じるたびに、つい先ほどまで続けられていた広当との交合の激しさを思い出して、恥ずかしさに顔が赤らんでしまうのだった。

 「いい人かどうかと聞いているんや」

 「それならとても陽気で面白いかただと思いますわ。機転だってお利きになりますしね。でも妾はあまり好きにはなれません」

 「ほう、どうして?」

 「さあ、どうしてでしょう。もしかしたら、ときどきふっと暗い顔をなさるからかしら。そういうところが妾にはなんとなく不安で、気味が悪くさえ感じてしまうのです。あら、広当さまのご親戚なのに悪く言ったりしてごめんなさい」

 吾妻大夫はそう言うと鏡の中で頭を下げた。

 「いやかまわんさ。なるほどそういえば安左右衛門さんにはどことなく得体の知れないところがあるな」

 頬杖のまま独り言のように低い声でそうつぶやくと、広当は横の襖に映った吾妻大夫の黒い影を見やった。

 卯の刻までにはまだ小半刻(小一時間)くらいはある。桔梗屋の外はまだ暗くて、部屋には行灯が点されていた。その灯りが吾妻大夫の影を襖の真ん中に数倍も大きく映し出しているのだ。それはちょうど巨体を揺すっている安左右衛門のようだった。

 「それよりも妾は他のお仲間のほうがもっと好きになれませんわ。ほら、骨董屋の与兵衛さまとか、噺家の彦六さまとか、ご浪人の近藤軍太夫さまとかですよ」

 「そうやな。彼奴らはどいつもこいつも下心があるからな。これからは心して付き合うようにするよ」

 「中でも近藤軍太夫さまです。ご浪人とのお付き合いはくれぐれも慎重になさいませんといけません。赤穂のご浪士によるあの事件いらい、お上はひどくご浪人たちへ神経を尖らせておりますから」

 「そう言えば仁右衛門どのも同じことを言っていたな…」

 広当はそう言うと襖に映った吾妻の影から目を逸らせた。

 安左右衛門から仕入れた話によれば、近藤軍太夫は九州のある藩で剣術指南をしていたのだが、その藩が取り潰しにあったために浪々の身になったそうである。彼はその経歴が示す通り、身のこなしに一分の隙もない。またひどく無口でほとんど笑ったことがなく、お座敷に同道してきてもただ酒と肴を食らうだけで、すべての掛りが広当持ちだというのに、遊女も抱かないでふらりと帰ってしまうのだった。そのとき、安左右衛門は特徴のある大きな鼻をうごめかせながら、こうも言い添えた。

 「近藤軍太夫はんはまあ広当はんが見ての通りのお人ですが、何しろ剣の腕が立ちはります。それだけにお武家としての自尊心も人一倍おありでしてな。まだ仕官の道に望みを託してはりますのや。そやけどこんな泰平の世の中ですやろ。誰が考えても剣術の腕だけで容易う仕官が叶うとは思えまへん。そやからわてとしては近藤はんの諦めがつかはった頃合を見はかろうて、ゆくゆくは広当はんの護衛役をお願いしようと考えとりますねん」

 安左右衛門が言ったように、確かに大店を構えている商人の中には、家族と財産を護るために私的に浪人を抱えている者がいた。物騒な世の中であるとはいうものの、火つけや押し込みなどの類いはそうそうあるものではない。だがひとたび襲われれば一家皆殺しは当たり前の時代でもあったから、持てる者は自らの手で財産や家族を護らねばならなかったのである。またこの時代には近藤軍太夫のような浪人が諸国に溢れていた。

 綱吉が将軍になってから、大名の改易や取り潰しはとりわけ頻繁になった。その治世の中心となった元禄期の十六年余の間にも、有名な赤穂浅野家の改易を含んで何と二十六家もに処断が下されている。そのあおりを食って禄を失った武士となると数え切れない。もちろん明日は我が身かもしれず、しかも財政が極端に窮迫している他の諸藩に、新規に浪士を抱える余裕などあるはずもない。

 四十年前、牧田仁右衛門もその辛酸を舐めていた。

 すでにその頃から諸藩は窮迫していたのだ。そういうわけだから元禄期には、商

人や学者や絵師などへ鞍替えする武士が数多く出た。だがあくまで仕官の道を望んで武士を続けている者たちは、日々、幕府への不満を鬱積させていたのである。

 そんなときに起きたのが赤穂浪士の義挙(あるいは暴挙)である。

 浪人たちは当然ながら色めき立った。庶民もまた多分に無責任な立場から赤穂浪士たちに拍手喝采を贈った。困ったのは幕府である。ちょうど廃れつつある武士道の恢復を強く訴えていた時期でもあったから、本来なら浪士たちの行動は褒賞に値するのである。いっぽう幕府としては法治国家を標榜しているかぎり、主君の仇討ちだったとはいえ幕府の裁断に異を唱え私怨をもとに他人の家屋敷へ押し込んで多くの人間を斬り殺した徒党を、まったくの無罪放免というわけにもいかなかった。結果として、幕府は赤穂浪士たちを切腹という厳罰に処する。するとたちまち庶民の間から怒涛のような怨嗟の声が巻き起こったのだ。これもまた当然だろう。浪人たちはそういう世論の高まりを背景に諸国で勢いづいており、さっきも吾妻太夫が心配したように、いまや戦乱にすらつながりかねないような一触即発の状況にあったのである。

 雨戸の外にかすかな明かりが差してきた。

 ようやく帰り支度を始めた広当の投げ出した足に、足袋を履かせ、こはぜを閉じてやりながら、吾妻太夫は言った。

 「聞けば仁右衛門さまもかつてはご浪人だったとか。ですから近藤さまのお心のうちが手に取るようにお分かりになるのですわ」

 「実を言うとな。近藤軍太夫は浪人仲間たちと語ろうて、密かに京のお公家はんたちとも接触しているらしいのだ」

 「まあ…。妾などの心配があたってしまいました」

 「主上(東山帝)はともかく、上皇さま(霊元院)はまことにご気性の激しいかたであらせられる。そのうえこれまでの幕府の仕打ちの数々にもずっと不満をお持ちや。もしかすると上皇さまは、お公家はんや浪人どもの後押しをえて、世直しを目論んでおられるのかもしれんな」

 「そんなことに広当さまが関与されては一大事ですわ」

 「淀屋岡本家に伝わる家訓もあることやから、勝ち目があるのなら加担せんでもないが、いまでは戦さのやり方すら忘れている浪人どもに何ほどのことが出来ようか。しょせんは蟷螂の斧に過ぎまい」

 勝ち目があるのなら加担せんでもない、と広当は不審なことを口走った。吾妻大夫はその点にちょっと首を傾げたが、愛しい男の着物の合わせ目を整えてやり、糸屑や綿ぼこりを丹念に摘まんでいるうちに、そんなことは忘れてしまった。

 吾妻大夫は早くも次の心配に心を奪われて訊ねた。

 「安左右衛門さまのほうはそのことをご存知なのでしょうか」

 「さあ、それは儂にも分からんのや。だがもし知っていたとすれば、そういう危険な人物をあえて儂に近づけたことになるな」

 広当は吾妻太夫の介添えできりきりと上帯を締めながら言った。

 「つまり広当さまをご浪人の一味に引き入れて、淀屋から決起資金を引き出すためでございますか」

 「ほほう。よう分かるな。儂が見込んだ通り、お前はほんまに頭も勘もええ女や。それなら淀屋の奥向きかて充分に仕切れるわ」

 「あら、あら。そんなにお褒めいただいてはこの身が縮みますわ。ときに強がりや賢そうなことを申しあげても、しょせん女は女。ひたすらこのお袖にお縋りするだけでござりまする」

 「さすがは新町いちばんと言われる太夫。後朝の別れともなるとしおらしいことを言うやないか」

 「まあひどい。からかわないでくださいまし」

 吾妻大夫はたちまち涙声になってそう訴えると、ようやく帯を締め終わった広当の大きな胸に顔を埋めた。

 「いや、悪かった。またお前を泣かせてしもうたな」

 広当はそう言って謝るなり、吾妻大夫を引き寄せて名残の唇を吸った。しっとりと濡れた唇は京名物の生麩のような味がした。

 「ところで安左右衛門さんからの耳打ちによると、茨木屋さんからようやく色よい返事が返ってきたということや」

 「えっ。それはまことでございますか」

 「うむ。ただお前の身請けには二千両がいるということやった」

 煙草入れを帯に差し入れながら広当はわざとさりげなく言った。

 「まあ、なんと法外な…」

 吾妻大夫は金額を聞くと喜びよりも驚愕が先にたった。

 「そうかもしれんが、そればかりの金でお前の身が自由になるのなら安いもんやないか。儂は喜んで差し出すつもりでいる」

 「茨木屋は妾の親代わりです。ですから悪しざまに言いたくはありませんが、それにしても相手の足もとを見た金額と申さねばなりません。そんなこと許せませんわ。妾が直接かけあってみます」

 「まあええ。儂かて豪商でなる淀屋の五代目や。ここは言われるままにすっぱり払おうやないか。というのもな、二千両は単なる遊女一人の請け出し金やないで。淀屋広当が茨木屋というお前の親許へ、金銀の水引を添えて差し出すつもりやった、めでたいめでたい結納金なんやから」

 「もったいない。こんな遊女の妾に結納金などと」

 「そのためには以前にもお前から諭されたように、もう一度お店の仕事に精を出しておのれの力で金を稼ぎ、お前との祝言にしっかり備えねばならん。またしばらく登楼を控えることになるが、決して寂しがったりはするなよ」

 「はい。広当さまのほうこそ決してご無理をなさいませぬよう」

 羽織の紐を結びながらそう言うと、吾妻大夫は切れ長な目できっと広当を見あげた。茨木屋の吾妻太夫といえば扇屋の夕霧太夫と並び称された新町の名妓である。そこいらの小天神などとは違って後朝の別れに涙など見せられるはずはなかった。


 最近のもとは、東町同心の鶴田錦吾や手下の作蔵だけでなく、広当を取り巻くならず者たちまで監視している。

 だからもとは自然の成り行きで、千次やゆうが抜けた場で頭の牧田仁右衛門に一人で会う機会が増えた。しかし報告や連絡の場として指定されるのは、母のゆうのときのように小料理屋の一室などではなく、いつも街中や市場など人目の多いところばかりである。それがもう二十歳を過ぎたもとには大いに不満だった。

 その日も、もとは淀屋橋の上で仁右衛門への報告を続けていた。

 「ところで安左右衛門のほうの動きですが、お頭が目をつけられた通り、近頃は不審な行動ばかりが目立ちます」

 「やはり奉行所へ繋がったか」

 「はい。それはほぼ間違いありません。しかも与力や同心などではなく奉行の太田和泉守とじかに繋がっています。恐らく二人の関係は昨日や今日に出来あがったものではないはずです」

 もとは土佐堀川の水面を見つめながら乾いた声でそう言った。

 「そうか。とうとう敵の顔がはっきりと見えてきたな」

 仁右衛門はもととは真逆のお城の方角を見やりながら大きく頷いた。

 もとは短い期間だったにもかかわらず安左右衛門のことをよく調べ上げていた。あやふやなことは報告してこない。きっとどれを取ってみても確かな裏付けを持っているのだろう。仁右衛門は、やはり蛙の子は蛙だな、と内心で苦笑しながらも、一度や二度はきっと危ない目にも遭ったに違いない、とその身を気遣った。

 「ほんらい安左右衛門という男はならず者で、浪人たちの動静を探るために飼っていた公儀の犬だったようです。ところがその後に、思いもかけない成り行きで斎藤町家へ婿入りしたものですから、奉行はこれ幸いと持ち場を変えて淀屋橋家へ近づかせたものと思われます」

 「どうやら淀屋は最悪の事態に引き摺り込まれたようだな」

 「と申しますと…」

 「安左衛門が身内だけに余計厄介だと言っておるのだ。そこがまた敵の狙い目でもあるのだから仕方はないが」

 市街の中心部でしかも真っ昼間のことである。橋の上はいつものように人の往来が激しい。だがそれだけに互いに背を向けて話す二人は目立たなかった。 

 「せっかく斎藤町分家の婿に入りながら、どうして安左右衛門は裏切りになど加担する気になったのでしょう」

 「お前が言うように彼奴はかつてならず者だったからな。奉行所に何か当時の罪科とか弱みを握られているのだろう。それに、淀屋を潰すのに力を貸せばあとはそっくりお前にくれてやろう、とでも耳打ちされてついその気になったのだ」

 「ありえないことだわ。第一そんなこと、思惑通りにことが運んだとしても世間の人たちが許さない」

 もとはそう言うと、白い二の腕を見せて鬢のもつれを直した。

 するともとのそういう色っぽい仕草に見惚れた職人が、肩に載せた重そうな荷駄を担ぎ直すふりをして、流し目をくれていった。つられて仁右衛門までがもとのほうを振り返った。そして、もとは顔立ちや身体つきだけでなく、そういう細かな仕草までがゆうにそっくりだと思った。

 「ともかく彼奴とその仲間から目を離すなよ。鶴田錦吾のほうはもう追わなくてもよい。奉行の太田和泉守が動き出せば鶴田は逆に動きにくくなるからな」

 「はい…。それともう一つ、近藤軍太夫のことですが」

 「ふむ。近藤がどうした」

 「彼も奉行に繋がっているようなのです」

 こればかりはやや自信なさそうにもとは言った。

 「なに、それはまことか。近藤軍太夫はあわよくば幕府を倒さんものと禁裏の公家衆に渡りをつけて上皇さまのご意向をうかがい、さらには浪人どもの不平不満をさかんに煽っている男だぞ。いわば奉行所が腹をくくってつけ狙っている不逞浪人どもの首魁ともいえる存在だ」

 「それは分かっています。でも極端な不満分子なのにどこか冷めていて、まるで傍観者のような彼の挙動を見ていると、わたしには何となくそう思えるのです」

 「そうか。お前がそこまで言うからにはそうなのかも知れぬ。安左右衛門の例からしてもあり得ないことではないからな」

 「そうなんです。敵のふところへ飼い犬を放ってその動向を探らせ、また煽り立てることで壊滅に追い込む、というまことに卑劣きわまりないやりかたです」

 「なるほど、かつてのお前に間者としての資質を見出したゆうの目利きは間違っていなかったようだな。もとよ。間者にはそういう勘や嗅覚がなによりも大切だ。これからも大事にするのだぞ」

 そう言って仁右衛門が褒めてくれるのを聞きながら、もとは何かを決意したようにいきなりからだの向きを変えた。

 正面から相対して見ると、仁右衛門はいつものように腕組みをして、お城の上に広がる青空を睨んでいる。その姿はいかにも間諜たちを束ねるお頭らしく頼もしさに満ちていた。だがもとは知らない。母のゆうを抱き締めた頃には逞しさで満ちていたその腕からは、すでにすっかり筋肉が削げ落ちてしまっていることを。

 土佐堀川の川風がゆっくり頬を撫でていく。その風がもとの口を軽くした。そしてもとは不意打ちをかけるように言った。

 「母がお頭のことを言っていました」

 「ほう、ゆうがな、何と…」

 しかし予想に反して仁右衛門は僅かな動揺すら見せなかった。もとは悔しそうな表情で話の先を続けた。

 「最近のお頭は大事なお役目となると、もとばかりに言いつけられる。歳を取ったわたしにはもうこれといった働き場をくださらないおつもりなのかと」

 「そうか」

 「母には何と伝えましょう」

 強く迫る声でもとは言った。答えをもらわないうちは梃子でも動かないぞ、という相手に挑みかかるような構えである。そこでようやく仁右衛門も正面からもとに向き合って応えた。

 「ゆうはいまのお前より若い頃からこれまでずっと働き詰めだった。お大名がたの台所事情や領内の動静を探るために諸国を飛び回らせてきただけでなく、間者の素性がばれかけて辛い目や危ない目にも何度か遭わせてきた。ゆっくりひとところに腰を落ち着ける暇など一度として無く、それはお前が生まれてからも何も変わらなかった。そして千次やお前と江戸へ下って、ようやくその地で根を下ろせると安堵した矢先に、またもやすぐに大坂へ舞い戻れとの命令だ。儂をきっと血も涙もない男だと思っていることだろう」

 「いいえ、お頭。それは違います。これまで江戸での母はずっと大坂へ帰る日を夢見ていました。お頭に会える日を…」

 もとはそう言うと川風の勢いに押されたように一歩前へ進み出た。

 とたんに甘い杏の香りが仁右衛門の鼻先に漂った。それは紛れも無く若かった頃のゆうの香りでもあった。

 「ゆうに会ったら伝えてくれ。いまはお前に代わって娘が儂を助けてくれている。頭である儂にとってこれほど嬉しいことはない。また今後もゆうにしかできない働きはいくらでもあるし、そのときはこれまでと同じ様に誰よりも頼りにするつもりでいる。だからいまはもっと気を安らかに持って、いとの小さな手が離れるまで暫くからだを休めることだ。それにゆうのことは片ときも忘れたことなどない、とな」

 仁右衛門はそれだけを言うとまたもとに背を向けて青空を睨んだ。

 そっと目を瞑ったもとは、それがゆうだけでなく自分に対しても贈られた精いっぱいの言葉なのだということを覚った。

 『ありがとう』と、もとは胸のうちで短くつぶやいた。それは、この場にいない母に代わって応えた感謝の気持であるとともに、これまでもやもやとしていた自分の心にやっと区切りをつけた言葉でもあった。

 「お頭の言葉はそのまま母に伝えます」

 大きな背中へ向かってもとは擦れ声でそれだけを告げた。仁右衛門が二度と自分のほうを振り返ってくれないことは分かっていた。

 着物の袖を風に翻してもとは淀屋橋の上を歩き出した。

 その足は何のためらいもなく北の方角へ向かっていた。その先には与力町があり、鶴田錦吾の屋敷がある。仁右衛門から申し渡されるまでもなく錦吾や作蔵の動きを追う仕事はすでに終わっていた。これからはもう錦吾に会うこともないのだ、と考えると、もとはもう一度だけ彼の顔を見たくなったのだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る