第六章 雪折れの松

            第六章 雪折れの松


 「なんや面白ろうないな。こっそり牛鋤を食わしてくれる店があると聞いたから天王寺くんだりまで出かけて来たんやで。そやのにその辺でちょっと役人の姿を見かけたというだけで、たちまち肉抜きの葱鍋になってしまうんやからな。こんなんやってられへんわ」

 中年の大工がそう言って嘆いた。

 道端に店をひらいた田楽売りが渋団扇で箱炉の炭火を熾している。

 とろ火で焼きあげている豆腐が辺り一面に香ばしい匂いを漂わしていた。中年の大工は、道端に敷かれた荒筵の上へどっかと胡座をかいているのだが、皿に盛られた田楽の串にはほとんど手をつけようともしない。だが連れの若い衆のほうは大工の奢りということもあって、口の周りや指先が木の芽和えの味噌で汚れるのも構わずに遠慮なく頬張っている。

 それでも若い衆はちゃっかり相槌を打つことだけは忘れない。

 「いやあ、ほんまに住み難い世の中になりましたわ。いまや秋刀魚を焼くにも気い使わんとあかんご時世でっさかいにな」

 そして少しも口を休めることなく田楽売りにまた声をかけた。

 「おい、親父。お代りや。早うしてな」

 すると大工はそんな若い衆を苦々しそうに見ながら言った。

 「わいらは寺の坊さんやない言うねん。日がな大汗をかいて働いてる職人や。こんな精進料理ばっかし食ってたんではこの身が持つわけないやろ。何もお犬さままでいただこうと言うてるわけやない。この国では神代の昔から、ご用が済んだ家畜の類いは人間様が有り難く頂戴することになっとるんや。牛や鶏にめでたく天寿をまっとうさしてやって、いったいどこの誰が喜ぶと言うねん」

 「いや兄貴の言う通りですわ。年中肉っ気も無しで精なんかつきますかいな。せやから将軍はんは子供ができまへんのや」

 追従を言った若い衆は早くも両手に次の田楽を握っている。大工はそれを見てさすがに興ざめしてしまったのか、頭陀袋から取り出した悪銭を荒筵の上へぞんざいに放り投げると「あほかお前は。つきおうてられんわ」といまいましそうに言って立ちあがった。田楽売りは団扇を煽ぐ手を休めずに「毎度おおきに」と声をかける。だがその目は抜け目なく荒莚に散らばった悪銭の数を数えていた。

 それに気づいた若い衆は大慌てで田楽を頬張りながら言った。

 「ちょっと待ってえな兄貴。いきなりの置いてきぼりは酷すぎまっせ。なんぼ豆腐かて急いで食うたら喉が詰まりますやろ」

 犬を殺しただけで獄門となり、その犯人を訴え出た者には三十両の賞金が出るというご時世である。世に悪名高い「生類憐れみ令」は大坂の町にも少なからず影響を及ぼしていた。

 この悪政を献策したのは隆光栄春だとする説があるがそうではない。なぜなら、この布令が初めて触れ出されたのは貞亨四年(一六八七年)のことであって、江戸へ下ってからまだ間もない隆光に、将軍綱吉を動かせるほどの実力がすでに備わっていたとは思えないからだ。ほんとうの献策者は音羽護国寺の住職で、隆光を江戸へ呼び寄せた先輩僧の亮賢なのである。つまり以前から徳川家の護持僧を務めていた亮賢は綱吉に対して、お世継に恵まれないのは前世の殺生によるもので、その祟りを取り除くためには生類すべてに今生の功徳を施す必要性がある、と説いたのである。

 初めて出された貞亨年間の布令はそれほど厳しいものではなかった。しかし四十歳も半ばになってもなお世継に恵まれない綱吉の焦慮は募りに募って、狂信的な仏教徒だった母の桂昌院もまた綱吉にさらなる布令の強化徹底を勧めた。そこへ綱吉を取り巻く幕閣たちの阿諛追従が加わって、以後、布令は毎年のように濫発されるようになったばかりか、その内容の異様さと刑罰の苛酷さはどんどん増していったのである。  

 生きとし生けるものを尊んで無益な殺生を禁止する、という生類憐れみ令が持つ本来の精神そのものは決して悪くはない。だがその布令に違反すれば獄門という厳罰が下る、となれば話は別である。ましてこの布令は訴人となることを奨励しているのだった。いつの時代にあっても、権力者から他人を監視するように仕向けられた社会は暗黒といわねばならない。 

 いっぽう、老中格にまで昇った柳沢(出羽守)保明はいよいよ権力の地歩を固めつつあった。そして勘定方の一役人に過ぎなかった萩原重秀を抜擢登用して、かねてから彼が主唱していた貨幣の改鋳作業にさっそく着手していた。このとき萩原重秀が行った改鋳はおよそ次のようなものである。

 【慶長小判に含まれる金の品位を千分の八百四十三から五百七十四へ改鋳して新たに元禄小判をつくる。また慶長銀に含まれる銀の品位を千分の八百から六百四十へ改鋳して新たに元禄銀をつくる】

 つまりこれを大雑把に言い換えるなら、慶長小判三枚を鋳潰して五枚の元禄小判をつくり、慶長銀三枚を鋳潰して四枚の元禄銀をつくった、ということになる。

 改鋳によって殖えた貨幣は『出目』と呼んだ。

 この出目が幕府の御金蔵に転がり込むという仕組みなのだ。しかし幕府財政の赤字体質はそのままなのだから、出目はたちまち支出に回されて消えてしまう。ために改鋳は何度も繰り返されることになるのだが、こういう場当たり的な政策は現代の財政政策とすこぶる似通っている。ただ現代ならその種の政策がもたらす弊害は誰にでも予測できるのだが、柳沢保明や萩原重秀にはそういう知識とか経験則の持ち合わせは無かった。そのぶん現代の政治家や官僚のほうが罪が重いと言えるだろう。

 『悪貨は良貨を駆逐する』という。この法則の通り、幕府から貨幣改鋳の示達がなされると、純度の高い慶長金銀はたちまち隠匿されてしまい、幕府を慌てさせた。だがそれでもなお次々に脅迫的な施策を用いてこれを吸い上げ、改鋳作業を進めていくのである。

 淀屋はすでに四年も前からこの情報を掴んでいた。手代の勘七が京の別邸で萩原重秀から聞き出していたのである。

 隆光栄春の紹介で京堀川の別邸にやってきた萩原重秀は、まだ柳沢保明からの抜擢登用をうける前だったから、勘七から質問されるままに得意になって持論を述べ立てた。まさかそれがそのまま政策化されることになる日が来ようとは彼自身も予想すらしていなかったに違いない。もちろん勘七はその会見で知りえた内容の逐一を仁右衛門へ報告した。だから淀屋は、隆光から萩原重秀が抜擢登用されたという知らせを受けるや、いちはやく慶長金銀の隠匿をはかるとともに、米の売買においても強気な相場を張ることができたのである。

 このまさに錬金術的な貨幣の増発と減価によって、新しく登場した元禄金銀は急速に市場の信頼を失ってしまう。貨幣への信頼が失われると財貨への依存が高まって、諸々の物価が騰貴するというのは経済の常識である。当時は米価がすべての物価の基準になっており、連年の天災や凶作で米はつねに不足気味だったから、この趨勢にさらなる拍車がかかったのは当然である。

 好景気に浮かれていた元禄の世は、いままさに激しいインフレのただ中へと突き進んでいたのだ。

 そんな元禄九年(一六九六年)の早春のことである。

 播磨の国(兵庫県南部)から因幡の国(鳥取県東部)へ抜ける険阻な山道を、三人の男女が名残雪に足を取られながら旅していた。

 浅くとも春はそこまで来ている。三人が大坂を出たとき、梅の花はあらかた散ってしまっていた。また伯耆の国(鳥取県西部)から帰ったばかりの商人や、茅渟の海に着いた北前船の舟子たちに訊ねてみても、山陰地方はすでに大山や三徳山に僅かな冠雪を残すのみだ、という話だった。ところが戸倉峠(兵庫県と鳥取県の県境にある)越えを前に投宿した旅籠の一夜が明けてみると、宿の外は一面の銀世界に変わっていたのである。最近続いている異常気象のせいだった。

 幸い新たに降り積もる雪は無い。街道には早立ちの旅人が踏み固めていった足跡もあって、男二人はとくに難渋することも無かった。だが見るからにひ弱そうな若い女の方は、雪道に何度も足もとを掬われて転びそうになり、前後を固める男たちの手や肩に助けられている。それでも三人はようやく山道を上り切った。

 戸倉峠を越えると、鳥取と畿内を最短距離で結んでいる若桜街道は、このあと日本海へ向けてひたすら下り坂となる。

 「ようやく若桜へ入りました。いま少し雪道が続くものと思われますが、このぶんなら里の雪は融けかけておりましょう」

 つづら折れの街道をしばらく下ったところで、三十がらみで先導役を務めている男がそう言って、あとに続く二人を励ました。その男は淀屋手代の勘七である。

 「儂は大丈夫だ。それより波瑠のほうを頼む」

 すると山伏装束に身を包んだしんがりの男が答えた。

 いかつい顔とがっしりした体格に兜巾と錫杖がよく似合っている老年の男のほうは総支配の牧田仁右衛門で、今朝、旅篭を発つときにあわてて買い求めた藁づくりの雪沓を踏みしめている若い女はその娘の波瑠だった。

 またよろめきながらも波瑠はすぐ気丈に言い返した。

 「わたしだって大丈夫よ。こんなに厚く積もった雪道は初めての経験だし、下り道にまだ慣れないだけだから。でもだいぶ要領が分かってきたみたい。ねえそう思うでしょう、勘七さん」

 「とはいえ油断は禁物です。雪の下は凍っています。ですから雪が少ないところほど滑って転びやすくなっています。転ぶとしたたかに腰などを打ってたちまち歩けなくなりますからね」

 勘七があらためてそう注意すると「そうなの。気をつけます」と波瑠は素直にその助言を受け入れた。

 仁右衛門は若桜街道の道端にしばらく立ち止まった。

 見あげると、氷の山などの山塊がつづら折れの狭い街道を両側から押し包むように迫っている。急峻な傾斜を見せている山肌は、いずれもみごとな杉の古木に覆われていて、その姿はまるで閉じた番傘が厚い雪を被って立ち並んでいるようである。また井戸の底から見あげたような谷間の小さな空は、左右の峰の頂きから頂きへ物干し竿が差し渡せるのではないかと思われるほど狭い。その空はまだ灰色の雲に塞がれているけれど、若桜の村里などがあるらしい麓の方角には、途切れた雲間から明るい春の日ざしがこぼれはじめていた。

 街道のそばを見え隠れしつつ小川が流れていた。

 周囲の山塊から豊かに湧き出す清水を蒐めた無数の小川は、山腹のあちこちで合流を繰り返しながら次第に水嵩を増していき、麓の村里で八東川となってさらに北流を続ける。それはやがて千代川となり鳥取の城下へ、さらには日本海へと注がれていくのである。

 つづら折れが尽きる辺りまで街道を下っていくと、谷あいに僅かな数の民家が散見しはじめた。若桜の里である。この山里に住む人たちは、標高二百㍍から六百㍍の高所にあって林業を営み、山裾を切り拓いた狭い田畑を耕している。だが次第に集落が近づいてきても辺りに人影はなく、街道にはつきものの茶店も見あたらない。

 「どこか熱い白湯でもふるまってくれるところは無いかな」

 仁右衛門は波瑠の体調を気遣いながら勘七に向かって言った。

 「そうですね。幸いなことに向こうに一軒だけ民家があります。さっそく手前がかけあってまいりましょう」

 勘七はそう答えると街道を小走りに駈けて行った。

 やがて勘七は、小川に架かった小橋を渡ったところに、ぽつんと建っている古びた農家の庭先へ入って行った。すると彼の雪沓が立てるざくざくと雪を踏みしめる音に驚いたのか、南天の木の枝で赤い実を啄ばんでいた寒雀たちが、かすかな羽音を残して萱葺き屋根の上に組まれた千木をめがけて飛び上がっていった。その反動で南天の細い枝が上下にしなって、溶けかけの雪がばさりと落ちた。

 「幸い家人がいて、快く承諾してくれました」

 仁右衛門と波瑠がしばらく農家の庭先で待っていると、勘七はまた小走りに駈け戻ってきて、白い息を吐きながらそう報告した。

 「そうか。ではしばらく休ませてもらおう」

 ほっとした表情を見せた仁右衛門は、手に持った錫杖をがしゃがしゃ鳴らしながらそう応じた。

 「勘七さん、ありがとう。助かったわ」

 波瑠は凍えた両手を胸もとで擦り合わせながら感謝した。

 勘七に導かれるまま農家の軒先をくぐると、家の中は思いのほか暗くて、右手に土間があり、左手に上がり框があるのが、どうにか判別できるくらいだった。この農家には窓とか外に面した障子などは見あたらない。明かり取りになるものといえば煙抜きを兼ねた天井の破風だけだ。雪に灼かれた目が間もなく屋内の暗さにも慣れてきて、土間の奥のほうに粘土づくりの粗末な竈や台所が並んでいるのが見えたのは、かなり後になってからのことである。

 「さあさあ、早う上がってごしなはい。火の周りは暖かだけ」

 囲炉裏の傍にぽつねんと座っていた老婆が手招きをしながらそう言って声をかけてくれた。大きな囲炉裏の真ん中でさかんに燃え立っている炎が、煤けきった居間の板戸を赤々と染め上げている。

 「では遠慮無く温もらせていただきます」

 老婆に向かって慇懃にそう答えると、勘七はまず上がり框に波瑠を座らせて、濡れそぼった雪沓を脱がせにかかった。波瑠は勘七の肩に手をかけて、されるがままにまかせている。

 「世話になりますな。地獄で仏とはこのことじゃ」

 先に座り込んだ仁右衛門はそう言って顔をほころばせた。

 「これは、山伏さんもご一緒じゃったかいな。日ごろ山野に起き伏しされる御身とはいえ、だいぶお年を召されているご様子。雪の戸倉峠越えはさぞかし難渋されたことじゃろう」

 「いかにも。昔ならば何ほどのことも無かったのだが、こたびの雪道はことのほか難渋いたした。年は取りたくないものですな」

 「婆も足腰がすっかり弱ってしまってのう。若い頃なら山を三つくらいは越えて柴刈りをしたものじゃが」

 老婆はそう言うと前歯の欠けた歯ぐきをにっと剥き出しにした。

 この地方の人々は山伏の姿に慣れていた。因幡と伯耆の両国は昔から山岳信仰が盛んで、多勢の山伏が峰々に割拠して六根を浄め、時には里へ下り来たって浄財を集めていたからである。因伯両国には霊気や嵐気を感じさせる山が数多くある。大山や氷の山を〈やま〉でなく〈せん〉と読ませるのも、このあたりの事情に由来している。

 「どこからおいでかのう」という老婆の問いかけに「大坂からまいった」と仁右衛門が答えた。

 「ほう、それはまた遠くからじゃのう。してこれからどちらまで」

 「まずは鳥取のご城下へ入って儂の小用を済ませ、そのあと二人を送って倉吉までまいるつもりじゃ」

 「それはまたこの先もまだまだ長旅になりますのう。してあちらのご夫婦は山伏さんのお子ですかいな」

 両手で掴んだ枯れ柴を立て膝で折ってから、やや火勢が衰えた囲炉裏の中へくべながら、老婆は上がり框で藁沓を脱ぐのに手間取っている勘七と波瑠のことを訊ねた。すると二人は、老婆からいきなり「ご夫婦」と呼ばれたのを聞きつけたらしく、驚いて思わず顔を見合わせた。

 「いや儂の子ではない。あの夫婦には大坂に逗留していた折にいかい世話になったでな。そのお返しに倉吉まで知り合いを訪ねて行くというあの夫婦の道案内を買って出たというわけじゃ」

 すると仁右衛門は、少しの躊躇いもなく「あの夫婦」を二度も繰り返したばかりか、ことさらその言葉に力を込めてそう答えた。

 それを耳にした波瑠は大きく瞠った目に涙を浮かべた。

 「ところでこの家は婆さまお一人でお住まいか」

 奥のほうをさし覗きながら仁右衛門はさりげなく話題を変えた。

 「いやいや、一人じゃありゃせんわい。清作とあさは夜明け早々から雪折れ松を片づけに後ろの山へ入っとります。婆はいまでは留守番しかでけんようになった」 

 清作とあさというのはどうやら息子夫婦のようである。

 「雪折れ松…」

 仁右衛門がそう呟いて首を傾げると、

 「そげだわ。この冬はえろう雪が降り積もったうえ、ように湿っとりました。湿った雪は降り積もると、がいに重いでな。その重みに耐えられん木が出てくるんじゃ。松はすっきりと真上に伸びる杉などとは違うて、こげに大きゅう左右に枝ば広げとろうが。だけ、それだけぎょうさんの雪を被ることになるわけでな。もともと脆い木質の松の枝はあっさり折れてしまうんじゃ」

 枯れ枝のような両腕を広げて老婆はそう説明してくれた。

 「なるほど。その枝を持ち帰って薪にするわけですな」

 「そげだわ。じゃが、春先は山にまだ雪が残っとりますけな。雪を被った松の枝がいきなり裂けて頭の上へ落ちてくることもあれば、雪がどすんとずり落ちた時のはずみで撓んだ枝が跳ね上がり、身体ごと弾き飛ばされることもあるんじゃよ」

 老婆はそう言うと息子たちの身を案じて辛そうに目を背けた。

 そして天井の梁から吊り下げられた自在鉤の先でさかんに沸き立っている鉄瓶を、火傷をしないように汚れた布きれを巻いた手で取り外した。見たところ鉄瓶は伯耆の産鉄を使っているらしく、貧しい山里の暮らしには似合わないほどの立派な代物である。その鉄瓶を凝っと見つめながら《この産鉄が淀屋を救ってくれることになるのだ》と仁右衛門は心の中で一人ごちていた。

 「さあ、何にももてなしはでけんが、せめて熱い湯を飲んでごしなはい。胃の腑まで温まりますけん」

 飲み口が欠けた茶碗を差し出して老婆はそう言った。

 三人は老婆から勧められるままに揃って白湯を啜った。その白湯は身体の芯まで染み透ってくるような美味しさで、いかにも霊峰から涌き出た清水、という味がした。 

 やがて老婆は背を向けて、毀れかけの茶箪笥の引き出しを空けると、ごそごそと中のものを引っ掻き回し始めた。

 「あんたがたご夫婦にはまだお子が無いようじゃが」

 そして老婆は引出しの中から油紙にくるんだおひねりを取り出すと、それを大事そうに波瑠の膝の上に置きながらそう訊ねた。

 「はい…」と波瑠は当惑して口ごもった。

 「とはいえお若いからすぐにもできなさろうが、うちの嫁のあさはどうやら石女のようでしてのう。婆はいつまで待っても孫の顔を見れんのですわ」

 「……」

 「ただうちのあさは根っからの働き者で気立てもよい。たまに町へ出かけたらこういう菓子の一つも買ってきてくれますのじゃ」

 老婆は嫁への不満と自慢をこもごもに語った。波瑠はその話からは逃げるように渡された油紙のおひねりを開いてみる。その中には形状の不揃いな茶色い駄菓子がいくつか入っていた。

 「これは何という名のお菓子なのでしょう」

 波瑠はざらざらした手触りの菓子の一つを摘みあげながら訊ねた。

 「あれ。名前なんぞ知らんだけ。橡の実の菓子じゃがな」

 すると老婆は呆れたような顔になって素っ気無く答えた。

 橡の実でつくったという菓子のひと欠けらを口にすると、さくさくした歯ざわりのあとで木の実の香りがぱっと口腔に広がった。甘味よりも苦味のほうが舌に残ってしまう。京菓子に慣れた波瑠にはお世辞にも美味しいとは言えなかったが、我慢して一つだけ食べた。 

 三人はそれから半刻(一時間)ばかり休息して農家を辞した。

 街道を歩き続ける波瑠の心には、さっき老婆が言った石女という言葉が、鳥取の城下に着くまで重くのしかかっていた。自分もそうだとは思わない。だが杵屋に嫁していた四年のあいだ、夫とは何度も閨事を重ねたけれどもついに子はできなかった。そしていまでは勘七と夫婦になるという夢すらも叶わなくなったのだ。だから波瑠は、わたしはこれからもずっと子を持てないのだろうな、と考えて心が凍りついてしまうほどに哀しくなるのだった。


 伯州倉吉は鳥取の城下から十里余り西へ行ったところにある。

 倉吉はまた因幡・伯耆両国のほぼ中央に位置していて、打吹山の麓に広がっている市街を天神川という清流が流れる美しい町だ。鳥取を江戸、米子を大坂になぞらえるなら、倉吉はさしずめ山陰の小京都ということになるだろう。かなり古くからあった町で、商工業が栄えて多くの蔵(倉)が建ち並ぶことになったところから、倉吉と呼ばれるようになったのは天正十年(一五八二年)のことだと伝えられているから、ちょうど明智光秀の謀反によって天下取り直前の織田信長が本能寺で殺された頃のことになる。

 藩主の池田光仲が岡山から鳥取へ移封されてから、倉吉は荒尾志摩守という池田家の家老が支配するところとなり、その荒尾氏によって「自分政治」と呼ばれるまことに異例な領地経営が行なわれていた。自分政治なるものの詳細はいまもって不明である。ただ勝手な推測が許されるなら、荒尾氏はどうやら、隠れ切支丹でもあった池田光仲の密命を受けて、倉吉の町をたとえば泉州堺のような自由都市にしたい、と考えていたようである。

 鳥取の城下を出て日本海沿いの道を西へと下った仁右衛門たちは、泊という湊町から南下して倉吉へ至る本来の道筋を取らず、そのまま西行して橋津の湊に立ち寄り、そこで三日間の時を過ごした。

 橋津には、大坂から海路を取った先発の熊吉に続いて千次たちもすでに到着していて、いまや遅しと三人を待ち受けていたのである。また大坂から廻送した金銀や物資なども届いていた。泊からわざわざ迂回して橋津にやって来たのは、それらの荷駄を巨細に検分したあとで、倉吉の町へ運び込む手筈を整えるためだった。

 橋津の湊には、灘倉と呼ばれる鳥取藩御用の蔵が建ち並んでいて、御手船と呼ぶ米の廻送船がさかんに出入りしていた。またすでに二十年余り前の寛文十一年(一六七一年)には、出羽の国(山形県)から下関を経て大坂へ至る西廻り航路が、河村十右衛門(瑞賢)らの手によって開発されていた。つまり、米をはじめとする鳥取藩の物流の要衝であり、北前船の主な寄港地でもあった橋津の湊は、日本海と瀬戸内の長い海路を経て大坂の淀屋へ、さらには堂島の「いろは蔵」へと直結していたのである。

 こうして三人が倉吉の地へ到着したのは雪の戸倉峠を越えてから十日後のことだった。倉吉にはもちろん孫三郎が住んでいる。孫三郎はついに男子には恵まれなかった牧田仁右衛門が、その優れた商才を見抜いて養子に迎えた男で、倉吉近郊にある農家に生まれている。早くから仁右衛門の指示を受けてこの地で「隠れ淀屋」を興すべく奔走しており、その甲斐あっていまでは「多田屋」という大店を構えるまでになっていた。また彼は先述の荒尾志摩守を通じて鳥取藩へも深く食い込んでいた。

 三人は天神川のほとりに新しく建てられた屋敷へ入った。その屋敷は思わず目を瞠ってしまうほどの立派なつくりで、元はと言えば孫三郎が、今は亡き春雪を迎えるつもりで用意したものだった。

 「親父どの、待ちかねておりましたぞ」

 知らせを受けてやってきた孫三郎が言った。

 急いで天神川の屋敷へ駈けつけてきたためか、髪の生え際にはうっすらと汗をかき、怒り肩を大きく波打たせている。吐く息も乱れていた。孫三郎はそれほど背丈は高くないが、骨太さを感じさせるがっしりとした体格で、商人というよりも日本海の荒海へ乗り出していく屈強な漁師を思わせるところがあった。しかしその物腰や表情

となると、これがとても柔らかで包容力に満ちており、大店を差配している責任者だという気負いなどはまるでない。血の繋がらない義父にはなるが、仁右衛門によく似た人柄と風貌だと感じて、波瑠はとりあえずほっと安堵した。というのも波瑠は、ほとんど孫三郎のことを知らなかったからだ。義兄だというのに孫三郎は、牧田家へ養子に入る前もその後も大坂には全く住んでおらず、ずっと倉吉に滞在していたからである。だからこれまでに顔を合わせた記憶はたった一度しかなく、それも波瑠があわただしく杵屋へ嫁入りした四年も前のことになるのだった。

 「おう孫三郎か、久しぶりだな。倉吉の店に変わりは無いか」

 孫三郎をいかつい顔を綻ばせて迎えた仁右衛門は、そう声をかけてまずは多田屋の現状を問うた。

 「波瑠さま、ざっと四年ぶりのおめもじになりまするな。この遠い倉吉の地までよくぞまいられました」

 だが孫三郎は義父の質問をまったく無視して、波瑠のほうへひどく丁重な言葉をかけた。それを見て仁右衛門は苦笑いした。

 「義兄さん、まことにお久しゅうございます。波瑠は義兄さんの迷惑をも顧みず、自分のわがままから倉吉へやってきました。どうか気を悪くしないでくださいね」

 波瑠は勧められた上座を固く辞退しながらそう応えた。

 だが孫三郎はしつこく上座を勧める。なぜなら春雪のために用意したものとはいうものの、倉吉にあるこの屋敷へ入ったからには、波瑠はもう逃れようもなく隠れ淀屋の当主なのである。

 やがて仁右衛門が押し問答を続けている二人へ目配せをして、自分の横へ座るようにそっと促したので、こっくり頷いた波瑠はしかたなくその指示に従った。

 「気を悪くするなどとは滅相もない。確かに春雪さまを失ってしまい、いっとき落胆したのは事実です。ですがこうして波瑠さまをお迎えできたのです。これほど嬉しいことはありません。おかげで親父どのの計画も頓挫せずに済みます」

 「義兄さん、お願いだからそんな言い方はやめてちょうだい。わたしたちは牧田の家では兄と妹なのよ」

 「しかしそう言われましても…」

 「わたしは淀屋重当の娘としてこの倉吉へ来たわけではありません。ただただお義父さまの力になりたかっただけなのです。大坂を出るとき、旦那さまにはきっちりとそう申し上げてきました」

 「えっ、重当さまに。それで旦那さまは納得されたのか」

 「そうよ。わたしはあくまで牧田家の娘だって言ったら、逆に褒めてくださったくらいだわ。わたしも愕いてしまったけど」

 「そうか。よくぞ言ってくれたな波瑠。義兄からも褒めてやるぞ」

 孫三郎はそこでようやく義妹の名を呼び捨てにした。そして畳の上を勢いよく膝行して傍までにじり寄ると、波瑠のか細い指を痛いくらいに握り締めてさらにこう言い継いだ。

 「だがな、波瑠。いつかその時がくればお前はやはり重当さまの娘に戻ってくれなければ困るのだ。隠れ淀屋とはそういうものなのだ。またそうでなければ親父どのの計画は成就しない」

 「その時がくれば…」

 波瑠は低い声でそうつぶやいた。そして堀川の別邸で二人の父から聞かされた話を思い出していた。また、わたしが淀屋の娘に戻るときはすなわち大坂の店が潰れるときなのだ、と考えて暗澹となった。

 「波瑠や。まあ孫三郎とはつもる話も多々あるだろうが、今日はそのあたりまでにして、奥の部屋でしばらく休むがよい。初めての長旅だったのだからずいぶんと疲れておろう」

 暗い表情になってしまった波瑠を気遣って仁右衛門がそう勧めると、勘七がすかさずそれに同調した。

 「波瑠さん、そうなさいませ。お顔の色がすぐれませんよ」

 「いや、これはうっかりしていました」

 すると慌てた孫三郎がそう言って謝ってから、それまで廊下にずっと顔を伏せていた下女に向かって大声で命じた。

 「おい、おまさ。波瑠をすぐ奥の部屋へ案内してくれ」

 「おまさ…」

 仁右衛門と勘七はそろって怪訝な顔をしながらその下女を見た。

 「総支配さま、勘七さん、お久しぶりでございます」

 おまさと呼ばれた下女はそう挨拶しながら恐る恐る顔を上げた。

 「やはりあのおまさか。お前がどうしてここにいるのだ。春雪さまが亡くなられたあと、故郷へ帰ったと聞いていたが」

 仁右衛門が強い口調でそう訊ねると、

 「はい、その故郷というのがこの倉吉に近い橋津なのです」

 おまさは小さな声で答えた。そこを孫三郎が引き取った。

 「いやいやこれは紹介が遅れていました。このおまさは橋津の知り合いから頼まれたので雇い入れたのですが、聞けば長く大坂にいて、奇しくも淀屋で台所の賄いをしていたとのこと。それならば波瑠の世話係りとしてうってつけと思い、わざわざこの屋敷勤めを命じたというわけです。いけませんでしたか」

 「いや、いけなくはないが…。ちょっと驚いただけだ」

 仁右衛門はそう言って言葉を濁した。だが何となく厭な気分が残ったことは否めない。小さく頭を振った勘七も同じである。

 「倉吉の多田屋さんと大坂の淀屋さんが、遠く離れていながらもこんなご関係だったとは知りませんでした。わたしも不思議なご縁にいま面食らっているところでございます」

 胸を反らせたおまさは、一転、はきはきとした口調に変わってそう言った。どこかおどおどしていた態度はすっかり消えており、経験を積んだ下働きだという自信を身体中に漲らせている。

 「そうか。以後、波瑠のことをよろしく頼む」

 仁右衛門はそれだけの言葉を短く告げると、もういいから波瑠を連れて奥へ退ってくれ、というようにそっぽを向いた。

 間もなく波瑠は三人の勧めに従っておまさが導くままおとなしく奥の間へ消えた。ただ部屋を出て行くとき、波瑠は少しばかり不安げな顔を勘七に向けた。その目は《約束通りもう少しこの倉吉にいてくださいね。わたしが知らない間に勝手に大坂へ帰ったりしては厭よ》と言っていた。だから勘七はそっと頷き返した。

 波瑠がいなくなると仁右衛門は目を瞬きながらつぶやいた。

 「若桜の里で会った婆さんが雪折れ松の話をしていたが、これからはその松のように、波瑠の両肩へはずっしりと重みがのしかかるだろう。か弱い女のあいつに耐え切れるかどうか」

 だがそのつぶやきには誰も答えられなかった。

 屋敷の裏手を流れる天神川のせせらぎが物悲しく聞こえてくる。しばらく沈黙が続いたあとで、気を取りなおしたのか表情を引き締めた仁右衛門がまた話を続けた。

 「どうだ、孫三郎。千歯扱きの改良は進んでいるか」

 「はい。すでに立派に完成して出荷をはじめていますが、生産のほうが追いつかないという状況です」

 孫三郎もあらためて正対すると着物の襟を直しながら答えた。

 「そうか。それは繁盛で結構なことだ。伯耆の良質な産鉄を使えば文字通り鬼に金棒となるからな。まもなく倉吉の千歯扱きは備中鍬をしのぐ農具となるに違いない」

 仁右衛門は茶を啜りながら満足そうに言った。

 「これで私たちの商いも泉屋(住友家)さんに伍することができましょう。因伯両国の和紙や材木を商うだけでは、この小さな町で隠れ淀屋を興すことなどできませんからね。さすがに親父どのの目のつけどころは違います」

 「米を商って大きくなった淀屋が、今度は米をつくる千歯扱きに助けられるのだ。まことに面白い因縁だな」

 「おっしゃる通りです」

 これまで農家での稲扱き作業には、手に持った二本の割り竹に稲の穂を挟んで扱き取るという、いわゆる『扱き箸』なるものが使われていた。一度に数本の稲穂を扱き取るのがせいぜいという代物だったから、面倒で非能率なことこの上ないという作業である。ところがこの頃、台の上に何本もの割り竹や鉄製の歯を櫛状に並べたものへ稲束の先を引っ掛けて一気に稲穂を引き扱ぐ、というまことに便利な農具が考案された。この新しい農具をその形状と便利さから、千歯(千刃)扱き、あるいは千把扱きと呼んだのである。

 倉吉の地へは元禄の初め頃、鉄砲鍛冶になるために泉州堺へ修行に出ていた佐平という職人がその技術を持ち帰り、鍛冶町でつくったのが最初だと言われている。

 「じっさい百姓は大助かりですよ。これでこの国の農業はすっかり様変わりをすることでしょう。空いた時間や余った労力で米以外の作物だってどんどんつくれるわけですから」

 勘七は橋津の湊にある多田屋の倉庫に山積みされていた荷駄を思い出しながら言った。あのとき、すでに先着していた千次はその荷駄の山を指さしながら、

 「あれが孫三郎さんがつくった千歯扱きという代物でさ。いま諸国で大売れに売れているそうで、これから北前船に載せて奥州へ向けて積み出されるところなんですよ。大したもんじゃねえすか」

 と我が事ことのように誇らしげに告げたものである。

 千歯扱きは農作業の能率を飛躍的に上げた。津々浦々にまで爆発的に普及したこの農具は、このとき以降、明治に至るまでの二百五十年余りのあいだ長く重宝されることとなる。

 そもそも仁右衛門が千歯扱きの製造と販売を思い立ったのは、泉屋という新興勢力の商いに触発されたからだった。泉屋は、業祖となった蘇我理右衛門という人が「銅吹きの秘法」(銅鉱から金銀を抽出する法)なるものを編み出して財を成し、その跡を継いだ理兵衛(住友友以)と吉左衛門(住友友信)が、奥州の阿仁・尾去沢・幸生や伊予の別子、また備中の吉岡など各地の鉱山を次々に開発して、急速に業容を広げていたのである。

 泉屋の商いは、公儀からもらった権益にすがっている淀屋の商いとは根本的に異なっていた。ただ俗に「山師」とも呼ばれるように、鉱山の開発にはつねに投機的・一発屋的な要素がつきまとう。その点に確かな商いとしては疑念を抱く向きもあったのだが、泉屋はそういう見方すらも積み重ねた経験と技術で今や克服しつつあった。倉吉の隠れ淀屋はこの泉屋に学ばなければならない、と仁右衛門はそのとき心にそう固く決意したのである。その考えはいまも変わらない。

 「ところで話は変るが、作蔵が連れてきた男があれからずっと倉吉に住みついているそうではないか」

 ややあってから、仁右衛門がいきなり別なことを言った。

 不意の問いかけだったので孫三郎はしばしの間ぽかんとして仁右衛門の顔をみつめていた。しかしすぐに頭の中を切り替えたらしく、うんうん、と一人で勝手に合点をすると、陽に灼けた頬に苦笑を浮かべて応えた。

 「ああ、彦六とかいう男のことですか。やつらは去年の秋に乗り込んできました。しばらく多田屋やその周辺を探っていた作蔵のほうが先に大坂へ帰ったあとも、そのまま倉吉に居残った彦六は大坂では噺家をしていたとかで、得意の舌先三寸を使ってさっそく仲ノ町にある一膳飯屋の若後家をたらしこみ、最近ではいっぱしの亭主面を

してその店に居座っています。若後家から無心した金でしょっちゅう三朝や東郷あたりの温泉へ出かけて湯女と遊んでいるようですが、一膳飯屋の二階にたむろしているときは日がな酒ばかり飲んでいるそうですよ」

 仁右衛門はいかにも苦々しげにその話を聞いていた。そして無精ひげのままの頬を歪めて孫三郎に注意を与えた。

 「やつはおそらく波瑠の素性を知っている。何をしでかすか分からないからこれからはじゅうぶんに気をつけてくれ」

 「大丈夫ですよ。作蔵たちが倉吉へ来ていらい、千次が遺していってくれた手下がつねに見張ってくれていますから」

 それでも孫三郎はいたって暢気な様子である。

 これはお話にならない、と言わんばかりに仁右衛門は頭を振って目を逸らすと、今度は勘七のほうへ向き直って言った。

 「勘七。何と言っても孫三郎はしょせん田舎者だからな、上方あたりのごろつきの恐ろしさを知らないようだ。済まないがやつらの行状や正体をこいつに詳しく聞かせてやってくれんか」

 「分かりました」勘七は即座に承知した。

 正直なところ彼の心配もそこにあった。自分たちは若干の時期的なずれがあったとしても、あと一・二ヶ月もしないうちにこの倉吉の地を離れることになるだろう。再び倉吉に来た千次にしても同じことであり、その代わりに手下の数を増やすといっても自ずから限度がある。そのときいったい誰が波留の身を護ってやれるのか。要は義兄の孫三郎自身がその核となって波留を守ってやらねばならないのである。それがまだ彼には分かっていない。そういう焦りがあったのだ。 

 「作蔵は大坂町奉行所に勤めている鶴田錦吾という同心の下っ引きをしています。確かに下っ引きとしては多くの下手人やお尋ね者を検挙して手柄を挙げた実績はありますが、実はその数に倍するくらい大勢の罪も無い人間を泣かせたり、殺めたりしてきているのです。また作蔵という男は水田に棲んでいる蛭のように一度食いついたら離れない男で、川口屋さんの事件が起きていらいすでに十年近くも鶴田錦吾の手足となって淀屋をつけ狙っていることは、孫三郎さんもすでにお聞きおよびのことでしょう。さらに淀屋に勤めていた嘉助という者に現銀を拐帯して逃亡させるという事件を引き起こさせたのも作蔵ですし、このたび春雪さまがお亡くなりになった裏にも彼が絡んでいると、私たちは見ています」 

 「なんと春雪さまの死にも作蔵たちが…」

 さすがに驚いた孫三郎はそう呻いて絶句した。

 「そうです。またその仲間の一人である彦六は、大坂で人気を博した噺家彦八の弟子だったという触れ込みですが、これなどは真っ赤な嘘っぱちでして、実は夜店などで出まかせのお題目を並べ立てて贋物などを商っていた香具師の倅に過ぎません。変に弁が立つのが災いしてこれまで何度も詐欺や騙りの罪で捕まっていますし、不逞浪人や町のごろつきとの付き合いも深いので、陰に回ればもっともっと悪らつなことをやっているものと思われます」

 「そんな恐ろしい男たちだったのか」

 勘七の話が終わると孫三郎は身震いしながらそう言った。

 孫三郎は利発で十分な商才もあった。しかし義父のように豪胆さや深謀遠慮の才を兼ね備えた男ではなかった。とはいえ彼にそこまで求めるのは酷というものだろう。仁右衛門と勘七はこの先々、何事も起こらないことをひたすら願うのみだった。

 山陰きっての商工の町だったとはいうものの、倉吉はやはり小さな地方都市にすぎなかった。大坂からやってきた多田屋の妹が、孫三郎が用意していた天神川の新しい屋敷へ入ったという噂は、三日とたたないうちに市中を駆け巡った。そして人々はさかんに言い合った。

 「こんど大坂からきなはった牧田家(げ)の娘っ子だけんど、これがえらい器量良しやという話やが」

 「そげ、そげ。さすがに上方育ちの女子は違うだけ。その昔、羽衣石(うえし・倉吉近郊の東郷町)に舞い降りたという天女もかくや、と思わせるほどの美形らしい」

 「それはそうと、仁右衛門はんは先に孫三郎さんという養子を貰うて多田屋を任せておきながら、何でまた今頃になって娘っ子まで倉吉へ連れてきなはったんやろ」

 「そりゃ多田屋さんは千歯扱きの商いがいま有卦に入っとるからのう。これからは兄と妹で店を分けたり、あちこちに枝店をつくって、がいに大きゅうしなはるつもりなんじゃろう」

 このとき波瑠は二十六歳だった。すでに妙齢とは言いがたい。

 だが波瑠は人で溢れる大坂の道頓堀に佇んでいても、道行く伊達男たちの視線をあつめるくらいの美人だった。倉吉の人たちから注目されたのは当然である。波瑠はまた母のえん(日円)からは武家の娘としての矜持を、父の重当からは商人としての才知を受け継いでいた。失恋と出戻りという経験も身の肥やしになっている。そういう意味では、波瑠は隠れ淀屋の女主人になる資質を持っていた、と言えるかも知れない。だがいかんせん余りにひ弱で無防備な質だった。

 山陰の風土は人情ほどには甘くなかったのである。

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