第五章 父と娘
第五章 父と娘
京の堀川には淀屋の別邸があった。
淀屋重当が要人との密会の場として用意したものである。現に公家衆の多くが何度となくこの別邸へ招かれている。また三年前には、手代の勘七が公用で上洛してきた萩原重秀と会うために、主人の許可をえて使用したこともあった。ただ表向きには、京のとある町衆が所有している隠居所ということになっていたから、地元の人ですらこの屋敷が淀屋の持ち物だとは知らなかった。
この堀川に限らず、淀屋は大坂や京を中心にして百八十三ヶ所もの屋敷地を持っていた。淀屋が大金を投じたのは土地だけではない。
俗に「湯水のように金を遣う」と言うが、淀屋をはじめとする近世初期の豪商が持っている特質はまさにその通りだった。稼いだ金は決して金蔵に貯め込むことなく、実に気前よく遣ったのである。吉原・島原・新町などの花街で豪気な散財を繰り返した。あちこちの寺社へ莫大な金を寄進をしたり、造営費や修復費を負担した。また旦那衆として文化や芸能を庇護するために巨額の資金を拠出したりもした。そしてなおも使いきれない金で書画骨董の類いなどを買い漁ったのである。つまり彼らは言わば「底の抜けた溜め池」のような存在だったと言えるだろう。
現代の日本には、少し前のことになるが「昭和元禄」と呼ばれた繁栄の時期があった。それはやがて「バブル経済とその崩壊」につながり、「ビッグバンの時代」や「失われた二十年」を迎えることになるのだが、「昭和元禄」とはよく名づけたもので、最近の日本はこの十七世紀末の状況と酷似している。時代は、経済は、繰り返
すのだ。それでも現代の私たちは破綻を避けられなかった。歴史に学ぶことができなかったのである。
それはともかく、こういう淀屋のような豪商の存在が、皮肉にもかつてない活気と繁栄を近世社会にもたらして、市場経済を一気に発達させる原動力になるのである。
ただ現代と同じように繁栄は社会に大きな歪みをもたらした。庶民は豊かさを享受するいっぽうで猛烈な物価高に泣かされたし、年貢米だけが収入源となる武士階級はたちまちその台所が急迫した。江戸開府から百年、軍事面や政治面では安定しつつあった徳川政権は、いま最も苦手だったといえる経済政策の面で危機に瀕していたのである。
そんな時期のある日、堀川の別邸に淀屋の関係者が集まっていた。
淀屋の四代目当主重当と総支配の牧田仁右衛門、それに手代の勘七と仁右衛門の娘波瑠の四人である。
重当は白濁した目に涙を浮かべながら波瑠に向かって言った。
「波瑠、聞いてくれたか。実はいま仁右衛門が話してくれた通りでな。若気の至りだったとはいうものの、生まれたばかりの我が娘を取り換えるなどと、儂はほんまにひどいことをしてしもうた。そやから儂はいまさらお前に許してもらおうとは思うてない。父と呼んでくれと言うつもりもない。ただ儂はもう老い先が短い。生きているうちにほんまのことを言うておきたかっただけや」
だが重当からそう言って謝られても、波瑠は仁右衛門の背に隠れるようにして押し黙ったままだった。
「それだけやない。知らんかったこととはいいながら、儂は勘七に惚れていたお前をむりやり杵屋はんへ嫁がせてしもうた。お前にはそのことも併せて許してほしかったんや」
重当はさらにそう言い添えると痩せた肩を落とした。
「旦那さま、もういいではありませんか。確かにひどく驚きはしたでしょうが、波瑠はすでに分別しています…」
仁右衛門が穏やかな声でその場を取りなすように言った。
「…またこちらから離縁をお願いした杵屋さんにも意を尽くして十分なご納得をいただきました。幸い勘七もまだ独り身でおりますし、これからいくらでもやり直しがききましょう」
「気負いから生まれた出た儂の浅知恵がみなに迷惑をかけることになった。詫びても詫び切れへん」
それでもなお重当の嘆きは尽きなかった。重当はすでに髷も結えないくらい髪の毛が薄くなっている。地肌のほうが目立つ貧相な頭蓋が背後から座敷童にこづかれているかのようにぐらぐらと揺れた。
「何もかも淀屋を守り抜くためになさったことです。誰も旦那さまを憾んでなどおりませんよ。そうだな、波瑠、勘七」
仁右衛門はそう言い足してから二人のほうを振り返った。波瑠は黙ったままかすかに頷くような素振りを見せた。勘七のほうは膝を進めてすぐさま如才ない答えを返してきた。
「総支配のおっしゃる通りです。そもそも手前には人を憾む資格などございません。もしあるとするならおのれの不甲斐なさだけです。そのために波瑠さんには辛い思いをさせてしまいました」
「いやいや、それかてお前のせいやない。隆光さまから預かった人質のようにお前を扱うてきた儂が悪かったんや」
重当はそう言って柔らかく勘七の言葉を制すると、次にはずっと黙りこくっている波瑠を覗き込むようにして訊ねた。
「ところで、波瑠。お前の気持はどうなんや」
離縁がなってようやく実家へ戻れたと思っていたら、いきなり自分の出生の秘密を告げられて、波瑠は動揺しているはずだった。こんな短い時間では心の整理すらついていないだろう、と誰しもがそう思っていた。ところが意外にも、仁右衛門の背後から横へからだをずらせた波瑠は、きつい眼差しで重当の顔を見据えると、透き通るような声できっぱりと答えたのである。
「わたしは旦那さまのご指示があったから杵屋さんへ嫁したのではありません。自分なりに勘七さんとのご縁は無かったものと諦めたうえ、父の仁右衛門がそれを望んだから納得ずくで嫁ったのです。ですからわたしも誰ひとりとして憾んだりはしておりません。それともう一つ。こうして真実を聞かされたいまも、わたしはやはり牧田家の娘に変わりないということを、このさい旦那さまにはっきり申し上げておきたいと思います」
波瑠がこんなことを言い出すとは誰も考えていなかった。
明らかに狼狽の色を顔に泛べて仁右衛門は重当の顔をそっと窺った。
心身ともに弱っているいまの重当が受けるであろう衝撃の強さを懸念したのである。だがそれは彼の杞憂に過ぎなかったようだ。重当の答えもまた波瑠と同様に意外なものだったからだ。
「よう言うた。波瑠よ、その通りやで。分別のある答えを聞けて儂は嬉しい」
「しかし、それでは…」
仁右衛門はいよいよ狼狽してすぐさま異議を唱えようとした。だが重当は気だるそうな動きでそれを制すると、
「まあ待て、仁右衛門。実はな、後妻のもと(素月)が臨終の床に臥せながら儂にこんな頼みごとをしよったことがあるんや。あいつは苦しい息の下からこう言うた。波瑠は実の娘ではありましょうが決してお前さまの手駒ではありません、ましてその波瑠を淀屋の人柱にするようなことがあれば、妾はあの世でお会いする日円(えん)さまに対して申し訳が立ちません、ですからこれからの波瑠の人生はお前さまや淀屋の都合で左右するのではなく、あくまでも一人の女としての幸せを考えてやってほしい、とな」
とさらに意外なことを言い出したのである。
「何ですと。すると素月さまは何もかもご存知だったのですか」
仁右衛門が仰天して目を白黒させた。
あの花街育ちで世事には疎いと思っていたもとが、世間の古女房なみに夫の秘密を嗅ぎ分けていたなどとは、考え及びもしなかったからである。妻のれん(蓮)を亡くしたあとはずっと独り身を通していた仁右衛門にとって、重当が迎えた後妻のもとという女性は、言わば淀屋ゆかりの山城八幡の野に咲いている女郎花のような存在だった。知性と教養を秘めた(当時の一流の遊女はみなそうだった)奥ゆかしい物言い、性の奥義を極めてきたとは思えない少女のような可憐さ、人に倍する不幸と孤独を味わい尽くしたすえに培われた心根の優しさ、そういったすべてのものが堅物で知られる仁右衛門という男までも魅了していたのである。
「そうや。もとは何もかも知ってたんや。もとはな、お前さまがどれほどお隠しになろうとも、妻なら、女なら、それくらいのことは肌で分かります、とも言うた。そやから、きっとこのことは母さまもご存知のはず、とまでぬかしおったわ」
「えっ、妙恵さままでが…」
重当の話に仁右衛門ばかりか波瑠や勘七までが言葉を失った。それが事実なら、いまもなお知らぬふりをしている妙恵が憐れだった。
「またそういう理屈ならえん(日円)も知っていたことになる」
重当はさらにそうも言い添えた。先妻のえんはむろん波瑠の実母である。前述のように養母となったれんとは双子の姉妹だった。
「すると私の亡き妻(れん)も知っていたことになります」
「そういうことになるな。つまり儂は武士やったお前を汚れた商人の世界へ引っぱり込んだだけや無い。妻や子や母親まで巻き込んだこんな罪深い所業にまで道連れにしたことになる」
「…何と言うことだ」
あまりのことに仁右衛門はそう呻いて言葉を失った。
波瑠は二人の父親が交わす話を聞いているうちに胸が切なくなってきた。そして、えんとれんという二人の母はいったいどんな思いで死んで行ったのだろう、と考えて涙ぐんだ。
鈍い動きで薬湯が入った茶碗を取り上げると、重当は皺だらけの唇をすぼめながら一口だけ啜った。その薬湯は淀屋岡本家のかかりつけ医師である玄斎が、しばらく京に滞在するという重当のために処方してくれて、同道看護させる弟子の一人に託してくれたものだった。玄斎はえんやもとなど妻子の臨終に際しても持てる医術の限りを尽くしてくれた。贅を尽くした日々の酒食と花街における放蕩三昧で、早くからぼろぼろになっていた重当の身体を、何とかここまでもたせてくれたのもすべて医師玄斎のおかげなのである。
重当はほっと一息をつくと、さらに話を続けた。
「女子どもにも覚られるような愚かな策を弄しながら、いっぱしの切れ者を気取っていた儂はほんまに浅はかやった。もうこんな詭計の類いは懲り懲りや。そやからな仁右衛門よ。儂は春雪が死んだいま、波瑠を倉吉へ遣る、という当初の計画は取り止めることにした。もし波瑠が勘七と所帯を持ちたいと言うのならそれもよかろう。また勘七がこんな情けない当主がいる淀屋には愛想がつきて、独り立ちしたいというのなら支援は惜しまんつもりや」
その言葉を耳にした仁右衛門は、先ほどの衝撃を打ち払うような勢いで、めずらしく真っ向から反対した。
「いいえ、旦那さま。それとこれとは別問題です。春雪さま亡きあとの倉吉にはどうしても波瑠が、いえ淀屋岡本家の血が必要なのです。そうでなければこれまで積み重ねてきた苦労が水泡に帰してしまいます。なにとぞお考え直しください」
いかつい容貌とは裏腹に穏やかな性格で知られる仁右衛門が、これほど激昂している姿を目にするのは誰もが初めてのことだった。
だが重当のほうも負けてはいない。
「まあ待て、仁右衛門。もとはそのとき、さらにこうも言い遺しよったんや。もしも世間の人を苦しめたり悲しませたりするような淀屋ならいっそ潰れたってよいではありませんか、たとえばいま世間では川口屋さん一家を心中に追いやったのは淀屋だと噂しています、もちろん妾はそんな根も葉もない噂など信じたりは致しませんが、お店が大きくなればお前さまの知らないところで大きな罪を犯していることもあるかもしれません、とな」
「確かにその通りでしょう。ですが旦那さまは大事なことをお忘れになっておられる。それは、淀屋はそこいらのたんなる大店ではないということです。淀屋にはつねに天帝をお守りし、王政復古をお助けするという大事な使命があったはずです」
「てんてい?」
「おうせいふっこ?」
聞き慣れない言葉に波瑠と勘七は首を傾げた。
「何を言うか。家祖の常安が遺した訓えをどうしてこの儂が忘れよう。だがな、淀屋はいまだけや無うて、これからもずっと天帝をお守りしていかねばならんのや。長い間にはお店が傾くこともあろう。子孫に恵まれないで岡本家の血が途切れることもあろう。だがいかなる時にあっても、淀屋に繋がる誰かが天帝を守護し奉ればそれでよいのだ、と儂はそう考えることにしたんや」
「しかし…」
さらに食い下がろうとしたけれども、仁右衛門はそこで口ごもってしまった。そしてこれまでに重当から何度も聞かされたことがある岡本家の家訓を思い出していた。
今からおよそ百年前、すでに岡本家は皇室御料地の被官として千年の家系を誇る名族だった。たまたま常安のときに戦国の争乱に巻き込まれ、御料地を追われて伊勢の国の辺りをさ迷うことになるのだが、常安は不屈の精神と優れた才覚でこの危機を乗り越えたばかりか、材木商として淀屋の基盤を整えることになるのである。そして豪商淀屋の家祖となった常安はその晩年に、かつては皇室御料地の被官だったという縁から、大和竜田の地へ御幸された後水尾天皇に拝謁するという栄誉をえて、御手ずから「个庵」という名前を下賜されるという恩寵に浴し、改めて天帝に対する至誠を誓ったというのが、岡本家の嫡子に伝えられている家訓の内容だったのである。
「前から言っているように、伯耆倉吉での事業はお前と孫三郎にすべて任せる。また儂が死んだあとの淀屋の五代目は、とりあえず広当に継がせるが、もし総支配であるお前が、広当には当主としての資質が無いと判断したならば、すぐさまこれを隠居させ、お前一人の裁量によって跡目を決めてくれ。母さまにも遠慮は要らぬぞ。そして何としてもこの淀屋を存続させるのや」
二人のやりとりを聞いているうちに、勘七はすぐに「てんてい」と「おうせいふっこ」という言葉が意味するところを覚った。またいつか波瑠と立ち寄った道頓堀のぜんざい屋で、重当と京の公卿衆が親しい交遊を重ねていると洩れ聞いて不安を覚えたとき、近松門左衛門が急に不機嫌になった理由にもようやく思い当たった。
だがそのとき、それまで凝っと二人の父の話に聞き入っていた波瑠が、またもや思いがけないことを言い出したのである。
「旦那さま、しばらくお待ちください。てんていとか、岡本家の家訓とか、使命とか、そんな難しいことは分かりませんが、わたしは伯耆倉吉へまいります。いえ、どうか行かせてください」
「波瑠…」
重当は驚いて波瑠を凝視した。そしてすぐさま反対した。
「ばかなことを言うものではない。倉吉といえば僻遠の地や。儂は十年ほど前に仁右衛門に連れられて一度だけ行ったことがあるが、まだ元気だったにも拘わらずその往還にはひどく難渋した。お前のようにか弱い女の足でとなれば、ひとたび行けば二度と帰れぬものと思わねばならん。それに倉吉は大坂とは違って雪深いところや。これからがその厳しい季節になる。お前はそういうことを知った上で言うてるのか」
「もちろん知っております。旦那さま、そもそもわたしが杵屋さんから戻してくださいとお願いしたのは、倉吉へ行くためなのです。父の願いを何としても叶えたかったからなのです。もう一度大坂へ戻る気など端からありません」
「そうは言うてもお前は母親のえんに似てひ弱な質や。気候も厳しく、知る人とていない見知らぬ土地で、耐え抜けるとはとても思えん。すぐにも死んでしまうかも分からんのやで」
重当はなおも諦めなかった。仁右衛門ははらはらしながらそんな二人のやりとりを見守っている。勘七はなぜか苦しげに顔を伏せていた。
「それも覚悟しています」
だが波瑠はまたもやきっぱりと言い切った。
「そうか…」
重当はとうとう言葉に窮して大きな吐息を洩らした。
四人がそろって沈黙した広間には、お互いの息遣いまでが聞こえるような静寂が訪れた。淀屋の別邸は堀川通りに面していたが、広い庭園が屋敷の周りを取り囲んでいて、邸内は表通りの喧騒とは無縁だった。久々に客を迎えて各所には灯りが点されている。すでに夜も更けており、秋虫のすだく音はか細くなっている。前裁の真ん中に
掘られた泉水の辺りで鯉魚の跳ねる音がした。
ややあってから、重当は勘七に膝を向けて言った。
「勘七、いまも聞いての通りや。大名家のお姫さんの血を引いているだけに、波瑠は母親のえんと同じで一度言い出したらきかん質とみえる。どうやろ。こうなったらお前も一緒に倉吉へ行って、波瑠を助けてやってはもらえまいか」
すると勘七はそれを予期していたように決然と顔を上げて言った。
「分かりました。お供いたしましょう。また波瑠さんが倉吉の地に落ち着かれるまではお傍でお助けもしましょう。ですがその務めを終えましたなら、手前は大坂へ帰らせてください」
その答えを聞いて今度は波瑠のほうが顔を伏せた。
その小さな肩が小刻みに震えていた。重当と仁右衛門はともに茫然としてそんな
二人を交互に見くらべている。勘七だって言い出したらきかない質であること二人ともをよく知っていたからである。
「千次、危ないところだったな」
京を流れる大堰川の川面を眺めながら仁右衛門が言った。
すると渡月橋の欄干にぐったりと凭れかかっていた千次は、大きく肩で息を接ぎながら口惜しそうに答えた。
「ちえっ。敵の野郎がもう一人いるとは思わなかったぜ」
「それは間諜として考えが甘いな。お前たちだって二人組ではないか」
「なるほど。言われてみりゃもっともだ。俺らはそのお蔭で命拾いしたんだっけ。くわばら、くわばら」
千次は息を整えてからそう言うと相棒である娘のもとの方を見て苦笑した。
もとは二人からは三間ほど離れた渡月橋の袂に立って、秋風に吹かれながら虚空蔵参りの人々を見つめている。
「しかし鶴田錦吾の手下の作蔵がなぜ京にいるのだ。お前の報告では、噺家の彦六を連れて倉吉へ下る、ということだったが」
「そう、それなんですがね。どうやらお頭たちが揃って京へ上ると聞きつけたらしく、行きがけの駄賃に何か重要なことを探れるんじゃねえかと、奴さんたち、助平心を起こしやがったようなんで。昨日まで作蔵の後を追けていたゆうから、急に見張りを交替してくれという伝令が届きましてね。それでゆうと俺らたちがやつらの尾行役を替わったのは、ちょうど枚方を過ぎた辺りでした」
「そうか。それでゆうのほうはどうした」
仁右衛門は相変わらず川面を眺めたままで訊ねた。
どこか物憂げなその視線の先をたどると、カイツブリの親子連れが羽根を接して大堰川を遡っているところだった。
「ゆうのほうはそのまま大坂へ引き返しやした。金太とその情婦は俺らたちの後釜としてすでに江戸へ送り込みましたし、熊吉たちは波瑠さまのために尼崎の沖合いから北前船に乗せて倉吉へ先乗りさせましたからね。大坂の方がちょっと手薄になっておりやすんで」
「なるほどそれはよい判断だ。奉行たちや鶴田錦吾の動きも引き続き気にかかるからな。ゆうなら少ない手勢でもしっかり指揮を取ってくれるだろう。それにしても千次ともあろう者がなぜあのようなドジを踏むことになったのだ」
「面目ねえ。奴さんたち、どうやら別邸の在り処を知っていたらしく、京へ入るなり真っ直ぐに堀川へ向かいやがったんで。別邸に到着すると作蔵が表のほうで見張りに立ち、小柄な彦六のほうが縁の下へ潜り込みました。それでこっちはもとを作蔵に付け、俺らが彦六の汚ねえ尻に張りついたってわけで」
「それで…」
仁右衛門はそう言うとようやく川面から視線を上げた。
嵯峨の嵐山はめっきり秋色を深めつつある。色づいた木々の葉が粛条たる錦繍を織りなしていた。
「彦六のやつ、噺家だけに口は立ちますが耳はあまりよくねえ様子でしてね。大広間の下あたりの羽目板へ守宮みてえに張りついてずっと耳をくっつけてやした」
「それなら儂らの話は全て聞かれたのだな」
「ああ、波瑠さんが淀屋岡本家の娘だというお話ですかい。あれが彦六のよくねえ耳にまで届いたかどうかは、実のところ俺らにも判断がつきかねているんで」
千次がぬけぬけとそう答えると、仁右衛門は苦笑しながら言った。
「脚だけでなくお前の耳は特別だからな。彦六には聞こえなかったかも知れない話でも、お前には何もかも筒抜けだったようだな。まあそれはこのさい致しかたあるまい」
すると千次はやっと自分の失言に気づいたらしく、
「おっと、調子に乗ってつい余計なことまで言ってしまった。こんな大事は女房にだって洩らしゃしませんよ。ご心配なく」
とすかさず弁解してから話を続けた。
「そうこうするうちに彦六め、一日の疲れが出てきたのか大胆にも床下で寝込んでしまいやがったんで。それで俺らは馬鹿馬鹿しくなって奴さんをおっぽり出し、もとと一緒に表のほうで作蔵を見張ることにしたんですがね。それなのになんとこの作蔵までが用水桶の陰で白河夜舟というわけでさ」
「それはまた暢気なやつらだな。朝までか」
「へい。さすがに肌寒くなったらしくて寅の刻あたりにまず作蔵が目を覚まし、明け方になってから彦六が床下からのこのこ出てきやした。そんな二人の頓狂さについ気を許したってわけじゃねえんですが、お頭への報告のほうはもとに託して、俺らは別邸を離れた奴さんたちのあとを追けることにしたというわけです。二人は旅支度をしていたんで予定通りに倉吉へ向かうはずで、こっちの方面へ向かうのは分かってやした。因伯への近道ですからね」
「だからもとはすぐお前に追いつけたというわけだな」
仁右衛門は朝日を浴びて橋の袂に立っているもとの姿をまぶしげに見やりながらそう言った。
「その通りです。それに要所、要所には目じるしの小豆粒を置いてきやしたしね。ところが作蔵と彦六のやつ、ここまで来ると急に松尾大社の中へ入って行きやがったんで。それで俺らは、あとから追って来るもとが追い越してしまっては面倒になると思って、すぐには境内へ入らずに、植込みの陰からやつらの様子をそっと窺っていた
んですが…」
「するとそのとき遅れてやってきた近藤軍太夫にいきなり肩を掴まれてしまったというわけだな」
「いやあ、そうなんで。さすがに俺らも肝を潰しやした。軍太夫のやつ、早くも大刀の柄へ手をかけていましたからね。まったく生きた心地はしませんでしたぜ」
千次はその時のことを思い出したのか肌を粟立たせ、
「あのとき遠くから、俺らと軍太夫が遭遇した場面を目撃したもとがとっさの機転で大声を上げてくれなければ、この首と胴はとっくの昔に離れてしまっていたところでした」
と言って岸にあがったカイツブリのように身ぶるいして見せた。
「実はな。洛中へ放っている別の間者からすでに報せが入っていたのだ。近藤軍太夫が三日前から京にきており、お公家衆とさかんに密談を交わしているが、明日の朝早くに、嵯峨の松尾大社辺りで作蔵たちと落ち合う模様だとな」
「いやあ、そうだったんですかい」
「だから近藤軍太夫のあとは引き続きその間者が追けていた。だから危急のときはきっと助けに入ってくれただろう。ただ軍太夫はかつて剣道師範を務めていただけにすこぶる剣の腕が立つ。まともに相手にしては二人がかりといえども敵うまい。それで儂はちょっと心配になって、別邸まで伝令で走ってくれたもとにこうしてついて来てみたのだが、ともかく大事には至らなかったので安堵した」
「なんでえ、そうなんですかい。冷や汗をかいて損しちまったな」
千次はそう言うと、ようやく平静さを取り戻して乱れた着物を手早く身繕いした。そしていきなり大声をあげて、おーい、こっちへ来いよ、と橋の袂にいるもとへ声をかけてから、
「ときにお頭。俺ら、ほっとしたら急に腹が減ってきやした。その辺りの店で何か旨い物でも食べさせておくんなさいよ」
とねだりごとをして、まるで路上で客をひく夜鷹のような手つきで仁右衛門の着物の袖を引いた。
「いやこれは儂としたことが迂闊だった。夜っぴの張り番をしてくれたのだからそれは腹も空くはずだ」
やがて千次の横まで走り寄ってきたもとの姿を目の端にとらえながら、仁右衛門はそう言って二人の労苦をねぎらった。
「まあたまに糒くらいは噛んでいましたがね。もとはどうだ」
千次は細い目ををさらに細めてもとに訊ねた。
「わたしだってもちろんぺこぺこだわ」
鬢のほつれを指で掻きあげながら、もとは上目がちに答えた。
だがそう言いながらも、狐目の千次とは似ても似つかないもとの大きな目は、仁右衛門のほうを凝っと見つめていた。
渡月橋を渡ってしばらく東へ行くと、大堰川沿いに湯豆腐を食べさせる店があった。千次は少し物足りなさそうな顔だったが、もとの希望で三人はその店へ入った。まだ朝も早かったから千次はさすがに、酒のほうは控えやす、と言って遠慮した。それで食い意地の張っている千次のためにと、仁右衛門は名物の湯豆腐の他にもあれこれと註文してやった。千次は運ばれてくる料理のほとんどを次々に平らげている。しかしもとのほうは自分も腹ぺこだと訴えた割にはあまり食が進まない。湯豆腐だけを齧って他の料理には手をつけず、溜め息のようなものを洩らして何度も箸を置いた。
仁右衛門はそんなもとから目を逸らして言った。
「千次、もとはゆうにそっくりだな」
すると早くも腹を満たした千次は小鼻をうごめかせながら答えた。
「やっぱりお頭もそう思いますかえ。知足院の隆光さまも、江戸で再会したときの勘七さんも、そう言ってやした。俺らはこんな器量よしの女房と娘を持てて天下の幸せ者だ」
「それにお前は江戸へ下ってからゆうとの間に、いと、という女の子をもうけたそうではないか。その子の可愛さはまた格別なのです、と八幡屋で会ったという勘七が言っていたぞ」
「へえー。勘七さんがそんなことをねえ。いやあ、いとは何と言ってもまだガキですからね。ガキが可愛いのは当たり前でさあ」
千次は照れてそう答えながらも相好を崩した。
もとは相変わらず無表情なまま豆腐の角を齧るばかりである。仁右衛門は初めてその横顔を凝っと見つめながら言った。
「いや千次とゆうの娘ならもとよりも器量よしになるかもしれん」
だが仁右衛門からそこまでいとを褒められると、千次には逆に実の娘ではないもとに対しての気兼ねが生まれてくる。
「でもね、お頭。もとにはどことなく気品があるんだが、孤児のゆうと湯女が産み落として棄てた俺らの間に生まれたいとには、そういうものがからきし無えんですよ。だからいとの場合はどんなに人から頼まれたって、もとみたいに二つ返事でお屋敷奉公へ出すなんてこたあ出来ねえ。赤っ恥をかきますからね」
千次がそう言ってまぜかえすと、仁右衛門の表情が急に曇った。
それを見て千次は思わず生つばを呑み込んだ。また俺は何か気に障ることを言ってしまったのではないかと気を揉んだのだ。
「良い機会だから言っておくがな、千次」
「へい」
だから千次は緊張のあまり細い目をぱちぱちさせた。
「お前とゆうは確かに儂の大事な間者だが、もとやいとは違うんだぞ。この際そのことをしっかり覚えておいてくれ。だから大切なお前の娘たちに危ない真似などはさせられないのだ」
「……」
その意味が充分に解せない千次は首を傾げながらも黙って頷いた。
「隆光さまの頼みでもとを柳沢家へ奉公に出したときもそうだ。ゆうからその相談を受けたとき儂は、そういう危ない橋を渡らせてはいかん、と強く反対した。だがゆうの強引さに押し切られてしまった」
「あれ、そうですかい。俺らにや、これは大坂のお頭からのお指図でもあるんだって、ゆうは言ってましたぜ。そんなの知らなかったな。お頭が反対だったなんて」
「今回だってそうだ。そもそもこの場になぜもとがいる。儂はこれまでただの一度として、もとを間者にしてくれ、などと頼んだ覚えはないぞ。大坂へ立ち戻ったら、仁右衛門がそう言って怒っていたとゆうに伝えるのだ。きっとだぞ」
穏やかだが仁右衛門の口調には凛とした響きがあった。
「分かりました。きっと伝えます」
千次はまるで生湯葉のようにちりちりと身体を縮めてそう言った。
すると、それまで黙って二人のやりとりを聞いていたもとが、仁右衛門をきっと正面から見据えて口を挟んだ。
「仁右衛門さま。母のゆうがどのように言ったのかは存じませんが、あのとき柳沢さまへのご奉公を強く願ったのは、このわたしのほうなのです。またいまこうして間諜の役目をしているのも、べつに父や母に頼まれたからではありません。この稼業が好きだからわたしが勝手に手伝っているだけなのです」
「なに、この稼業が好きだと」
仁右衛門は呆れたようにもとを見て、まぶしそうに目を瞬いた。
「そうです。幼いころからわたしは女間者として必要なことはすべて母から教わってきました。わたしがいまのいとの年令になった頃からです。また母からはいつも、お前は間者としての筋がよい、いつかわたしたちを助けておくれ、と言われ続けてきました」
「そんな頃から、ゆうがお前を…」
「ですから、いまここで改めて仁右衛門さまにお願いします。父や母と同じように、わたしをあなたの配下に加えてください」
「しかしゆうにはまた違った考えがあるのではないか」
仁右衛門は戸惑いを隠せずにそう応えるのが精いっぱいだった。
おそらくゆうは間者としての娘の筋のよさについ惚れ込んでしまって、自分が学んできたものの全てを教えたのだろう。しかしそれは、このさき女一人が厳しい世間を生きていくうえで何かの役に立てばよいと考えた親心であって、儂の配下にするためなどではないはずだ。仁右衛門はそう思ったのである。
だがもとは大きな目を見ひらいて仁右衛門を見据えたまま、瞬きもしないでこう断言したのだ。
「いいえ。母はわたしが仁右衛門さまの配下に加わることを心から望んでいます。それは間違いありません。そんなことくらい実の母娘なら聞かなくても分かります」
「そうか…。ところで千次のほうはどう思っているのだ」
仁右衛門は傍目にもすっかりしょ気返っていると分かる千次に訊ねた。
「俺らは何も…。ゆうともとがお互いそう思ってるんなら、俺らなんかにゃ何も言うことなどねえよ」
千次は力なくそう答えた。
そんなことくらい実の母娘なら聞かなくても分かります、と仁右衛門に向かって言い放ったもとの言葉が、ずっしりと胃の腑に堪えていた。
《ちぇ、また実の母娘ならか…。そうだよな。俺らともとはしょせん他人だもんな》
義父である彼にはそんな引け目がどこまでもついて回るのである。
「お前を間者にするためにゆうが何を教えたかは知らんが、ときにはその身を売ることすら求められるのが女間者というものだ。そういうことにもお前は耐えられると言うのだな」
生娘を前にしてそこまで諭した仁右衛門の声は少し震えていた。
もとは一瞬、そんな仁右衛門を憐れむような目つきになった。しかしすぐさま何の躊躇いも見せずに言い切った。
「はい、わたしにはその覚悟ができています。でも母の場合は違いますよ。母は女間者の役目を果たすために身を売ったから、わたしのような父無し子が生まれたのではありません。心から好きな人の子どもがただ欲しかったからわたしを生んでくれたのです。それは信じてやっていただけますか」
「信じるとも。しかしなぜ儂にそんなことを訊く」
かすかにたじろぎを見せながらも仁右衛門ははっきりとそう問い返した。
するともとはひどく明るい声になって答えた。
「別に深い意味などありません。繋ぎの伝令で走った堀川の別邸で初めてお会いしたときから、大坂のお頭だ、と聞かされていた仁右衛門さまが何だか他人のような気がしなかったからですわ」
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