第四章 渦を巻く謀略

             第四章 渦を巻く謀略


 「錦吾さま。淀屋の春雪が死にましたぞ」

 北浜の方向から息せききって駆けつけてきた下っ引きの作蔵はそう報告するなり、へなへなと川端の柳の下へ座り込んでしまった。

 「なに、それはまことか。はやり病か、それとも事故か。まさかお前の手の者が殺ったのではあるまいな」

 東町奉行所同心の鶴田錦吾は手下の作蔵にそう問い返すと、横堀川の川面に垂れていた釣り糸を急いで手もとに手繰り寄せた。その声は驚きと不安で心なしか震えている。

 「いや、その…」

 作蔵はそのことに気づいて一瞬、答えるのを躊躇った。

 「どうしたのだ、作蔵。早く答えぬか」

 「春雪を殺ったのはあっしがかねて淀屋へ下女として送り込んでいたおまさという女です。さっき自分で報せにきました」

 「うぅむ…」

 鶴田錦吾は苦しげに呻き声を洩らしながら頭を振った。もし釣り竿を手にしていなかったら、両の手で耳を塞いでいただろう。

 「おまさには淀屋へ送り込んだときから早く春雪を手なずけるようにと命じてありました。また前もって泉州堺から取り寄せた南蛮渡りの毒薬も渡してあったのです。なあに心配など要りませんよ。最近では台所までやって来てお八つをねだるようになっていた春雪に、おまさは何度にも分けた毒薬をこっそり飲ませていたそうですから。生なかの医師ではまことの死因など掴むことはできません」

 「しかし何もそんないたいけない子供を殺さずとも」

 「錦吾さま、今さら何を言われるのです。いたいけない子供だったのは清太郎さまも同じではありませんか。紀代さまたちの仇討ちはまだ始まったばかりなのですよ。そんなお気の弱いことでは、あの憎い淀屋へ復讐することなどかないません」

 作蔵は声を荒げてそう言うと恐い顔をして主人を睨み上げた。

 一刻も早く喜んでもらおうと駈けつけてきたのに、思いもかけなかった主人の激しい動揺ぶりを目にして、作蔵の方が驚かされたのだろう。乱れた息を急いで整えながらさらに言った。

 「春雪はもともと病弱な子どもでした。ですからたとえおまさが手を下さなくともいずれ早死にしていたでしょう。しかしそれとこれとは違います。同じ我が子を失うにしても、あの憎い重当に塗炭の苦しみを味あわせてやらねば、気が済まぬというものです」

 作蔵から重ねて強く窘められたためにようやく我に返った錦吾は、やっと自分の非に気がついて素直に謝罪の言葉を口にした。

 「済まなかったな、作蔵。確かにお前の言う通りだ。驚きのあまりつい取り乱してしまった」

 「いえ、そんな。あっしの方こそ言い過ぎました」

 恐懼した作蔵は地べたに這いつくばって主人へ赦しを乞うた。

 そのあとにしばらく不穏な静寂があった。凝っと身を固くしていた作蔵は全神経をあつめていたその耳に、錦吾が腰に佩いている大刀が立てるかすかな鞘鳴りと、その鯉口がぷつりと切られる乾いた音を捉えた。抜刀の構えを取っているのは明らかだった。這いつくばったままの作蔵は、錦吾はとりあえず謝罪してみたものの下賤の使用人が吐いた無礼な言葉を改めて許せなくなり、このまま手討ちにしようとしているのかも知れない、と思った。それならそれでしかたがない、と覚悟を決めてゆっくり首をめぐらせた。

 するとその作蔵の目に、いましも宙に浮いたばかりの釣り竿が飛び込んできた。紺碧の秋空には雲ひとつ無い。堀端に植えられた柳のしだれ葉が微風に揺れている。そういうどこまでも青やかな作蔵の視界の中で、木漏れ日を浴びた錦吾の大刀がちょうど水面に跳びはねた鯉魚の銀鱗のように鈍い光りを放ったかと思うと、真っ二つに分かれた釣り竿が音も無く堤防の上に転がっていた。またそれよりも早く、大刀は錦吾の鞘の中に収まっていた。

 たびたび眼にしたことのある神明夢想流の抜刀術だった。鶴田錦吾はいま釣り竿とともに自らの弱気の虫を両断したのである。ようやく自分の思い過ごしに気がついた作蔵は、そんな主人の姿を頼もしげに見あげながら、気を取り直してまた報告の続きをはじめた。

 「残念ながら嫡男である広当のほうは、母のもとが死んでから屋敷の奥に閉じこもりがちで、それを案ずる祖母の妙恵がずっと彼に目を光らせており、おまさといえどもなかなか近づけないようです。それに広当はいまだ十一歳にしては大柄な体躯で、身体もすこぶる壮健な質だと聞き及びます。彼奴を亡き者にするためには春雪とはまた別の方法を取らねばなりますまい」

 すると柔和な表情に戻った錦吾は懐手になって言った。

 「まあそう慌てることはあるまい。まずは春雪を亡くして嘆き悲しむ重当の姿をじっくり見物させてもらおうではないか」

 「なるほど。そうでございますね」

 「それにこの思わぬ不幸で彼奴らの計画には大きな狂いが生じるはずだ。早急な軌道修正を迫られることになる重当と仁右衛門が、これからどういう動きを見せるか、しっかり見極めていかねばなるまい。作蔵、二人から目を離すなよ」

 「言われるまでもないことです。ただそれとは裏腹なお願いになって恐縮なのですが、折り入って錦吾さまへご相談がございます。あっしにしばらくのお暇をいただき、伯州まで出張らせてはもらえないでしょうか」

 「ほう伯州といえば例の倉吉にか」

 「そうです。あっしが調べましたところ、あの二人にはゆくゆく春雪を倉吉へ下らせる計画がありました。その春雪が死んでしまったのです。きっとそれにからんだ動きが出るはずです」

 「なるほど。牧田仁右衛門が彼の地で何か新しい手を打つ、とお前は読んでいるのだな」

 「はい。とはいえこちらが掴んでいるのはそこまでで、重当の意を受けた仁右衛門が以前から倉吉で何を企んでいるのか、その実体はとなるとまだ何ひとつ検べがついておりません。ですから今のうちにそれを確かめてきたいのです」

 たとえ春雪の死に不審な点が見つかったとしても必ず闇に葬られるはずだ、という確信で作蔵は気負っていた。何と言っても鶴田錦吾は現役の同心なのである。もし淀屋重当が疑念を抱いて奉行所へ真相の究明を願い出たとしても、それをうやむやな処理で済ませたり、八方に手を尽くして揉み消すことも可能なのだ。 

 「いいだろう。あのとき淀屋から嘉助が持ち出した現銀の大半はすでにこちらの手元へ戻っている。資金ならたっぷりあるぞ」

 「いいえ。その金はこの先々でまだまだ入り用になりますから取っておいてください。あっしも先代さまいらい鶴田家から長らくお給金を頂いてきた身です。多少の蓄えくらいございますよ」

 「だがそれはこれまで独り身を通して鶴田家に仕えてきてくれたお前が、老後に使うためにこつこつと蓄えてきた大切な金ではないか。そんなものを使わせるわけにはいかん」

 「それならばお言葉に甘えまして、あっしがおまさへ渡すと約束した礼金だけはご用立て願います。長患いで臥せっている故郷の母親への仕送りにいまも四苦八苦しているようなので」

 「そんなことは言うまでもない。おうそうだ。何なら用心棒として浪人の近藤軍太夫を連れて行くがよい。軍太夫なら剣の腕が立つ。倉吉でひと暴れする際にはきっと役立つだろう」

 「いいえ、それはなりません。近藤のような不逞浪人の動静には、いま公儀がいちばん神経を尖らせているところです。そんな輩を伴って旅をするのは決して得策ではありません」

 「だがな作蔵。この大坂の地を一歩離れれば奉行所の支配は及ばなくなってしまう。万が一にも、やつらの仲間の手でお前が闇討ちに遭ったとしても救ってやることはできないのだぞ」

 鶴田錦吾は心から作蔵の身を気遣ってそう言った。

 確かに、窮鼠猫を噛む、の譬えもある。ほんらい刃傷沙汰は好まない商人といえども、お家の秘密を守るためには手段を選ばないこともあるだろう。まして牧田仁右衛門はもともとが武士であり、多くの間者や手下を動かしている曲者なのだ。遠国を一人でうろついている作蔵を密かに消してしまうことなど造作もない。

 しかし気負っている作蔵はさらに言い募った。

 「もとより因伯の海にこの身を浮かべようともそれは覚悟の上です。ただ出雲大社詣でを装って行くのに、一人旅というのはかえって不審の目を向けられますし、探索をするにあたってもあっしだけでは何かと自由がききません。ですから、何かと小才のきく噺家の彦六を連れて行こう、と考えているところです」

 「何だと。選りにも選ってあの信用ならぬ口先男をか・・」

 吐き捨てるようにそう言うと、錦吾は横堀川を囲む堤防の草むらに青蛇でも見つけたように顔を顰めた。

 「まあ、まあ、そんなお顔をなさらずにここはあっしにお任せください。それより錦吾さまのほうこそこれ以上は奉行所から睨まれないようにしていただかねばなりません。いまあなたさまに同心を辞められるようなことがあれば困ります。やはり最後の仕上げには公儀の力も必要になりますからね」

 「うむ、そうだな。同心の職などにさらさら未練はないが、まだまだこの十手は役に立つからな」

 作蔵から痛いところを突かれて錦吾は頭を掻いた。

 川口屋事件が起きていらい、鶴田錦吾は奉行所の上司から出される命令のほとんどを無視し続けていた。だから上司から呼び出されて譴責を受けたことも一再どころではない。つまりいまの錦吾はいつ謹慎や免職を命じられても不思議ではない状況だったのである。


 「えっ、波瑠さんが離縁ですと…」

 淀屋手代の勘七はそう言って絶句した。

 ここは枯葉が舞いはじめた大坂福島天満宮の境内である。

 「そうだ。明日にも家へ連れ帰ろうと考えている」

 総支配の牧田仁右衛門はいかつい顔を苦しげに歪めてそう言った。

 「お前も知っての通り、波瑠は島之内の杵屋さんへ嫁してから早や四年になるが、いまもって一人の子も生せずに思い悩んでいた。『七去』にも、嫁して子なきは去れ、とあるように、いつ離縁されても仕方がないところを、杵屋さんは波瑠を責めもせずに随分よくしてくださったそうだ。ただ波瑠にはその気配りがかえって重荷となっていた。これまでにも牧田の家へ戻してほしいと何度も言ってきていたのだが、儂はそんな波瑠をずっと窘めてきたのだ」

 「では何ゆえいまになって」

 勘七の声は胸の高まりで擦れていた。心臓がばくばくと音を立てている。ただ仁右衛門にはそれを知られたくなかった。

 福島天満宮の境内で目立っているのは楠などの常緑樹である。それなのに、何処からともなく橡の木の枯葉が舞い落ちてくるのだった。仁右衛門はその中をゆっくりと拝殿へ向かっている。勘七は肩の辺りをかすめて落ちてくる枯葉を払いつつその後を追った。

 「実は旦那さまがな、それほど波瑠が望んでいるのなら戻してやれ、と裁可されたのだ。それに儂自身も最近になって、そうするほうが波瑠のためにも良いのではないか、と思うようになった」

 「春雪さまが亡くなられたからですか」

 「まあそれもある。だがそれだけではない」

 「どうしてです。総支配はなぜそのほうがよいとお考えなのです。どうか手前にも教えてください」

 勘七は拝殿前の石段の下から仁右衛門を見あげながら迫った。

 しかし仁右衛門はそれには答えずに拝殿の前で二礼二拍手一礼を終えたあと、ぐいと伸ばした太い腕で鈴緒を揺らして本坪鈴を三回鳴らした。ガラガラという騒がしい音が境内いっぱいに響き渡る。するとその音に驚いた一羽の鵯が、堂屋の屋根に「ピィ」という鋭い鳴き声を残して茅渟の海(大坂湾)の方角へ飛び立って行った。

 かつて淀川本流に面していた福島の地(現在の大阪市福島区)は、瀬戸内海や外洋へと漕ぎ出していく船がしばらく留まって風を待つ場所だった。福島天満宮はその地にあって、商売繁盛の神としてあがめられた大国主命(大黒さん)や事代主命(恵比寿さん)を天神の相殿神として合祀したことから、より広く庶民の信仰をあつめるようになっていた。寺社への帰依や信心が篤かった淀屋重当もその例に洩れなかったようで、元禄二年には薩摩の島津家と協力してこの天満宮の社殿を修復している。

 型通りの拝礼のあとしばらく瞑目していた仁右衛門が言った。

 「いま思えばまことに迂闊だった。あの波瑠がお前に惚れていたとは夢寐にも思わなんだからな。だから波瑠にはああいう酷いことを強いてしまった。いや勘七、お前にもだ」

 「いえそんな…」

 不意を突かれて勘七は思わず天を仰いだ。

 目を閉じると、波瑠との別れの場となった裏御堂の光景が脳裏に甦ってくる。それは場所こそ違え同じ神社仏閣の拝殿の前だった。そこでまたこのような話を聞くことになろうとは…、勘七は神仏の存在とともに奇しき因縁に鳥肌が立つ思いだった。そして思わずわが身の前後左右を見まわしていた。あれから一度として会っていない波瑠が、いまこの境内のどこかにいて、勘七の背に向かって微笑みかけているように感じられたからである。

 それにしても仁右衛門はなぜそのことを知ったのか。すると、まるで勘七の疑念を解き明かすように仁右衛門は言った。

 「波瑠が杵屋さんへ嫁いだ直後だったと記憶しているが、お前はいきなり江戸へ行きたいと言い出した。そのとき儂はどういうわけか分からぬが厭な胸騒ぎを感じたものだ。もしかするとお前はもう儂のもとへ、いや淀屋へは戻ってこないのではないか、とそんな気がふとしたのだ。まあ幸いそれは杞憂に終わったが、お前が江戸から帰ったあとに送られてきた隆光さまからの手紙で、儂はようやくそのときに感じた胸騒ぎの正体を知らされた」

 「隆光さまが総支配へどんな手紙を…」

 「うむ。その手紙にはな、お前が波瑠との結婚を諦めるに至るまでの経緯や、隆光さまがいくら問い質しても、これは淀屋の大事にかかわることなので、と言って頑なにその理由を言わなかったこと、またその結果としてお前の類いまれな吉相が失われてしまったことまでが、信頼に足ると思ってお前の身柄を託した儂への怒りを含んだ筆使いで、事こまかに書き記してあった」

 「申し訳ありません」

 勘七は思わず遠縁の隆光に代わって謝っていた。それはまた、それほどまでに自分を気遣ってくれた隆光への感謝の気持でもあった。

 「何を言う。謝らねばならないのは儂の方だ。確かに杵屋さんとの縁談は旦那さまの強い意向だった。だからあのとき、たとえお前たちの想いを知っていたとしても、儂にはどうすることも出来なかっただろう。だが二人とも実の子ではないにしても、波瑠とお前が儂にとって大事な宝物であることには変わりはない。そんな大事な子どもたちの気持を、まるで察してやることができなかった儂は父親失格だ。救いようのない朴念仁だったよ」

 「いいえ、それは違います。あのとき女の身でありながら自ら告白するという恥ずかしさに耐えて、波瑠さんのほうから一緒に駆け落ちしようとまで迫られながら、手前にはそれが出来ませんでした。手前に男としての勇気が足りなかっただけです」

 「なに駆け落ちだと。そうか、波瑠はそんなことまで言ったのか。その激しい想いは嫁してなお断ち切れなかったのだろう」

 「だから子も生さず、離縁を願い続けたと…」

 「うむ。おそらくそうだろう。まことに不憫な娘じゃ。だがその波瑠を儂はまだ苦しめようとしている」

 仁右衛門は吐き出すようにそう言って横を向いた。

 「ではやはり波瑠さんを倉吉へ…」

 だが仁右衛門はそれには答えずにゆっくりと拝殿に背を向けて歩きはじめた。まだ拝礼を済ませていなかった勘七は、祭神への祈りもそこそこにあわてて仁右衛門の後を追った。

 福島天満宮を出て蜆川沿いに北東へ向かって行くと、辺りは急に騒がしくなってきた。道行く人々へさかんに声をかけている煮売り屋や、半裸になった鰻屋の親父が渋団扇を手にして一心に炭火を熾している姿などが眺められる。また蜆川に沿った川べりには、浮き御堂のように幾つもの茶屋が迫り出していて、その欄干に凭れた遊女たちが舟遊びをしている男客たちへ熱い視線を送っている。真夏の時季にくらべれば舟遊びの客の数はずいぶん減ってしまったが、ときおり川面に色とりどりの紅葉を浮かべて流れる蜆川の風情もまた捨てがたいようである。淀屋重当と牧田仁右衛門が「いろは蔵」を建てるための下調べに来たそのあとに、公儀から茶屋株が許された堂島新

地は早くも新町に劣らない花街として賑いを見せていたのだ。

 今しも二人の眼下を一艘の小舟が過って行った。見おろすと、勝山髷に優美な小袖を着た遊女たちが嬌声を上げ、坊主頭に裾からげして脛毛も露わな幇間が恍惚とした表情で三味線を弾いている。昼酒に酔って真っ赤な顔をした馴染み客は、人目もはばからないで遊女の股間へ手を差し入れている。舟底一面に敷かれた緋毛氈の上に散乱している丁銀が秋の日差しを浴びて鈍い光を放っていた。

 勘七はそんな光景を眺めながら、天満宮を出てからずっと黙り込んでいる仁右衛門へ語りかけた。

 「蜆川の川風はもうかなり冷たいのでしょうね。早くも掻い巻きを着けている客がいます。舟遊びも手仕舞いの時期のようです」

 そんなことは今更言わずもがなのことだった。ただ勘七はあれから黙りこくったままの仁右衛門と、話を再開するきっかけが欲しかっただけである。すると仁右衛門はそういう勘七の意図を察したらしく、めずらしく冗談を交えてすぐに応じてくれた。

 「いくら風流といえどもほどほどにしないとな。風邪をひく前に役人にしょっぴかれてしまう」

 まさに仁右衛門の言う通りだった。幕府からはたびたびの質素倹約令が出ているご時世だというのに、空前の好景気にはしゃいでいる大坂の町は、豆を煎る火鍋の中のように喧騒にあふれていた。だが余りの加熱ぶりに、やがてその火鍋そのものが爆発することになろうとは、いまはむろん誰一人として想像もつかない。

 やがて話をもとに戻して仁右衛門は言った。

 「旦那さまはな、倉吉の多田屋はお前の養子の孫三郎に任せる、と言われた。だがそれでは儂が何のためにこれまで倉吉の店へ心血を注いできたのか分からなくなってしまうのだ」

 西の空には鰯雲がたなびきはじめている。憮然とした顔をかくすように、仁右衛門はその鰯雲を仰ぎ見た。勘七のほうは何かものをを言いたげにその横顔を凝っと見つめていた。

 「確かに孫三郎なら儂の夢を叶えてくれるだろう。だがそれでは駄目なのだ。あくまでも淀屋の血族が興してこその隠れ淀屋なのだからな。だがいまの旦那さまは春雪さまを亡くされた哀しみで、そういうことを考える気力すら失っておられる」

 「それは違いますよ」と思わず声に出しそうになって、勘七は唾を呑み込んでどうにか思いとどまった。

 《それは違いますよ、仁右衛門さま。旦那さまへの至誠を誓われるあなたのお気持のほどはよく分かります。しかしたとえ人の心が不易だとしても、お店のありようまでが不易であるわけはないのです。時代とともに淀屋は変わらねばなりません。いやそれが出来なければ淀屋は、また岡本家は、滅びてしまってもしかたがないのです。誰かに取って代わられてもしかたがないのです。そんなことくらいあなたはすでに百もご承知のはずです》

 そう勘七は心の中でつぶやきながら、ふたたび仁右衛門の三尺あとに付き従った。それを知ってか知らずか仁右衛門はさらに話を続けた。ただその表情は依然として苦渋に満ちていた。

 「これまでの儂と旦那さまなら、まるで光背を共にした阿弥陀仏のようにお互いの心のうちが読み取れた。二人は言わばつねに日と影であり、表と裏の関係だった。だが三十年余りも繋がっていたその太い絆がいま切れかかっているのだ」

 このとき淀屋重当は六十歳を過ぎていた。当時の六十代といえばすでに老年だ。僅か十四歳で日の本一の大店の当主となった重当は人に倍する働きをしてきた。また公儀を欺いて安心させるためとはいうものの、長らく遊蕩や奇行の限りを尽くして自らの身体を痛め続けてきた。そればかりか現実に六人もの妻と子を失う悲しみにも耐えてきている。その末に見舞われた春雪の死なのである。老残の身に堪えないはずはなかった。実際、春雪の葬儀を終えてからの重当は見るに忍びない有様で、たるみ切った肌には黒斑が目立ちはじめ、もともと少なかった髪の毛はさらに抜け落ちて、いまや歩行もままならない状態になっていたのだ。

 陽が翳ってくると足裏から冷気が這い上がってきた。

 勘七が首をすくめて着物の襟を合わせると、いきなり香ばしい香りが襟もとに漂ってきた。見まわしてみると目の前に、さっき遠目にした鰻の蒲焼屋がある。荒筵で囲炉裏の周囲を覆っただけの露店である。勘七はとたんに空腹を覚えて言った。

 「仁右衛門さま。すでに午どきを過ぎて久しくなります。道端ではありますがここで鰻飯でも食していきませんか」

 鰻は仁右衛門の大好物である。その答えは決まっていた。

 「確かにこの匂いを嗅いでしまっては素通りなどできないな。お前が嫌でなければちょっと付き合ってくれるか」

 「いえいえ、鰻は手前も好物でよく食します。美味しければぜひ旦那さまへも持ち帰りましょう」

 「そうだな。贅を尽くした膳部も悪くはないが、たまにはこういう野趣に溢れたもので精をつけていただくのも良いだろう」

 「では鰻の肝なども別に土産として頼んでおきましょう」

 勘七はそう言うといきなり荒筵の中へ駈け込んでいった。そして相も変わらずばたばたと汚れた渋団扇で炭火を熾している半裸の親父へ何やらぶつぶつと訴えながら交渉をはじめた。

 それを待っているあいだ、仁右衛門は太い丸太を真ん中で縦割りにした長椅子の上に腰をかけて、道行く人たちをぼんやりと眺めていた。庶民の服装が以前に比べると華美になってきている。そういう傾向は武家の間にも広がっていた。そのために代々決まった俸禄しかもらえない武家の暮らし向きは苦しさを増しており、ひいては武士道の緩みをもたらす原因にもなっていた。例えば刀剣である。鞘には漆などの華麗な塗りが施してあり、柄には凝った貝殻細工などが填め込まれるようになっている。だが肝腎かなめの刀身そのものはひどく細身になっていて、果たして実戦に耐えられるのかどうか危ぶまれるほどだった。

 「近いうちに波瑠を倉吉へやろうと思っている」

 出された鰻飯を頬張りながら仁右衛門が言った。やはりそうか、と思いながらも勘七はそれを冷静に受け止めた。

 「ところで勘七。お前も波瑠と一緒に倉吉へ行ってやってくれぬか。旦那さまがたとえどのように反対されようと、この度ばかりは儂が責任をもって説き伏せてみせるから」

 さっき天満宮の境内で、波瑠を婚家の杵屋から戻すことにした、という話を聞かされた時点から、これも勘七には既に予想されたことだった。だから答えはもう決まっている。だが勘七は黙っていた。

 すると仁右衛門はまた話を変えて言い継いだ。

 「春雪さまが突然亡くなられたことからも分かるように、ここのところ淀屋の周辺にはまたもや不穏な雲行きが感じられる。だから儂は千次たちを江戸から大坂へ呼び戻して、もう一度自分の足もとを固め直すつもりでいる」

 「では仁右衛門さまも春雪さまの死には疑念を…」

 「いや待て、勘七。滅多なことは口にするものではないぞ。公儀の間者や町方の目と耳はどこにでも光っておる。たとえばこの鰻屋の親父といえども信用はできない」

 そういえば、芝居見物の帰りに波瑠と立ち寄った道頓堀のぜんざい屋でも、近松門左衛門が同じことを言っていた。実際、今日も勘七は淀屋の勝手口を出たときから何者かの視線を背中に感じ続けていたのである。そういうことに鈍感な自分ですらそうなのだから、仁右衛門が気づいていないわけはないだろう。

 仁右衛門はそこで少し声を落して話を続けた。

 「江戸の八幡屋へは千次とゆうの代わりに金太夫婦をやるつもりでいる。聞けば隆光さまは間もなく大僧正になられるそうだ。これで隆光さまの所期の目的はほぼ達したといえるだろう。淀屋の後ろ盾はもうそれほど要らなくなるはずだ」

 「しかしもとさんは江戸を離れられないのでは」

 「いや。お前には言っていなかったが、もとはすでに柳沢家への屋敷奉公を辞めている。ゆうの話によれば、自分はやはり女芸人の娘で堅苦しい生活は性に合わない、と言っているそうだ」

 「それはもったいない。もとさんほどの器量よしなら、柳沢さまのお手がつく可能性もあったでしょうに」

 母のゆうによく似たもとの容姿を思い出しながら勘七は言った。

 「実はゆうも密かにそれを狙っていたらしい。だが柳沢出羽守はことのほか用心深い男でな。聞くところによれば、上さまから拝領した側女にすら手を付けなかったらしい。とはいえもとはゆうという抜け目のない蛙の子だ。ただでは辞めたりしない」

 仁右衛門はなぜか苦々しげにそう言うと、湯呑みの湯を飲んだ。

 「と申しますと…」

 「柳沢出羽守は先ごろ側用人から老中格に出世した。その彼がどうやら貨幣の改鋳を目論んでいるらしいということを、もとは奉公を辞める前に掴んできたのだ」

 「そうするといよいよ萩原重秀の献策を取り入れるのですね」

 「そのようだな。お前は三年前だったか、隆光さまの紹介をうけて萩原重秀という勘定方に会っている。そのときにも、幕府のいまの財政的な苦境を打開するためには貨幣の改鋳を断行する以外に考えられない、と彼は強く主張していたそうだな」

 「ええ。自分がそういうことができる立場になれば、すぐにでも実行するだろうと…」

 「なるほど。しかし改鋳によって貨幣の量を殖やせば、幕府は一時的に助かりもするだろうが、世の中はおそらく一変してしまうに違いない。どう変わるのかその辺の事情に疎い儂などにはとんと分からぬが、これからはしっかりと見極めていかねばなるまいな」

 「正直言って手前などにも想像がつきません」

 「おそらく当の萩原重秀にだって分からんと思うよ。もちろん柳沢出羽守もだ。未曾有の施策だからな……ところでもとはな、もう一つ重要なことを探ってきた」

 「それこそが淀屋にかかわる重大事と見ましたが」

 勘七は口の中に残った鰻飯をぐっと呑み下してそう言った。。

 「さすがに鋭いな、勘七。その通りだよ。柳沢出羽守は近ごろ、しきりに大坂の東西の町奉行を江戸まで呼び寄せ、自分の屋敷へ招いたうえで何やら密談を重ねているのだそうだ」

 「えっ、加藤泰貞さまと松平忠固さまをですか。それで、もとさんはいったいどんなことを聞き込んできたのです」

 「前後に交わされた詳しい話は分からぬそうだがな。もとが客間へ茶を運んでいったとき、柳沢出羽守が、幕政を改革するにあたってはまず諸国に散らばる浪人どもと、豪商の中でもとりわけ大坂の淀屋が邪魔になる、この二つは喫緊の課題として取り組み、取り除かねばなるまい、京の都に近い奉行所を預かっている両名はやつらが朝廷と結びつかぬよう心して取り組むように、と命じているのをはっきり耳にしたそうだ。ただこのことは旦那さまへはまだお伝えしていないし、そのつもりもない」

 そう言うと仁右衛門はほっと安らぎの溜め息を洩らした。

 いつも沈着冷静な仁右衛門が、この日にかぎって落ち着きなくころころと話題を変えた。不思議だったが、勘七はその理由にいまようやく思い当たった。

 たとえ日と影や光背を共有する阿弥陀仏の関係であっても、春雪を失ったことで悲嘆のきわみにあるいまの重当へ、そういう残酷な現実を告げられるはずがなかった。だから仁右衛門はたった一人でそれを抱え込み、これまで苦しみ抜いてきたのだ。そして誰よりも信頼を寄せている勘七へ打ち明ける機会をえたことで、ようやく重荷の一部を下ろすことができたのである。


 大坂町奉行所は東西二つながら大坂城の京橋口門外にあった。

 江戸と同じく月番交替制で、大坂三郷や町続きの在方、また兵庫西宮などの司法と民政を司るとともに、地方・川方・寺社方をも管掌している。下僚としてはそれぞれ与力三十騎と同心五十騎ずつが配属された。旗本の中から選ばれるのが通例で、官位や俸禄はそれほど高くないが、老中が直接支配する幕府の重職だった。

 この月は東町奉行の松平玄番頭忠固が月番である。

 松平忠固はその日、非番にあたっている西町奉行の加藤大和守泰貞を自邸に呼んで碁盤を囲んでいた。加藤泰貞はあまり碁が得意でない。できれば碁を指すのではなく旨い酒でも酌み交わしたかったのだが、招かれる側の立場ではそうもいかない。しかたなく付き合ったが、案の定、何局かを立て続けに負けてしまうと、加藤泰貞はだんだん不機嫌になっていった。

 やがて松平忠固は白石を握りながら陽気に言った。

 「ところで大和守どの。柳沢さまもたいそう気にしておられたが、近ごろ大坂あたりにも、とみに浪人の姿が目立つようになってきておる。このさき大事が出来せねばよいがのう」

 碁盤の局面は相変わらず劣勢である。加藤泰貞は黒石を投げ出してしまいたいような思いで答えた。

 「それよ、そのことでござる。大坂は江戸と違って京の都に近い。朝廷に繋がった浪人どもがいつ決起するかと、拙者などは内心冷や冷やしておるわ。現にそういう兆しも見える」

 だが加藤泰貞がそう応えている間にも、松平忠固はぴしりと白石を右隅に決めながら話を続けた。

 「霊元院(上皇)さまは英邁なかたであらせられるが、まことに気性の激しいおかただ。まだ幼い主上(東山帝)へ突然帝位を譲られたのも、たび重なる幕府の容喙にご立腹あそばされたからで、折りあらばご親政の復活をと願っておられる。浪人どもはそういう院の御心を知った上で禁裏に出入りしているのだ」

 「そういう浪人どもをそそのかしている公家どもの動きも、いちいち気に障るでな…」

 「公家どもに繋がっているのはなにも浪人だけではないぞ。たとえば淀屋なども同類じゃ。淀屋重当め、禁裏では岡本个庵などと呼ばれておるそうじゃが、相変わらず食えぬやつじゃ。京都所司代から聞いた話では、かなり前から霊元院さまに近い花山院定誠卿や中御門資煕卿と通じているらしい」

 「まことか。そこまでの事実を掴んでいながら幕閣はなぜもっと早く淀屋重当を処断しなかったのだ」

 「幕府転覆の謀議をしているという事実でも掴めば別だが、表向きは蹴鞠とか連歌の付き合いに過ぎないからな。それに淀屋の処断はどうやら上さまがお許しにならなかったらしい」

 「なんと、上さまが。それはまたなぜじゃ」

 「淀屋は諸大名に対して何億両もの金子を貸し付けている。そればかりか幕府も大枚の金子を借りておる。そういう淀屋をいい加減な罪咎でむりやり取り潰してみろ。それこそ世間が、これは武家による一方的な借金の踏み倒しだ、と一斉に騒ぎ立てて、淀屋へ同情があつまるに違いない。それは公儀にとって得策ではないと上さま

や幕閣がたは判断されたのだ」

 庭に広がっている白州をのんびりと眺めながら、松平忠固は相変わらず余裕綽々の顔で言った。

 「それはそうかも知れぬが、淀屋重当といえどもたかだか町人の一人ではないか。武士が町人を無礼討ちにしたところで、とやかく言われる筋合いのものではなかろう」

 加藤泰貞は相手との見解の相違と碁の帰趨の双方に苛立ちながら言った。そして悩み抜いた末にようやく次の一手を打ち終えた。

 「実を申すとな、上さまや幕閣がたが淀屋を斬って捨てられぬ理由にはもう一つ、将軍家護持僧の隆光さまの意向があるらしい」

 「ほう、こたびは桂昌院さまではなく、隆光さまからの横槍か。ふう、将軍家というのはいよいよもって分からぬのう」

 しかし加藤泰貞がそう言い終わらないうちに、松平忠固は早くも次の白石を打ち込んでいた。思いもよらない一手である。

 「ところで話は変るが貴殿は斎藤町家淀屋の安左右衛門という男をご存知かな」

 「常安橋家を先祖に持つあの斎藤町家の婿養子か」

 「そうだ。これはここだけの話だがな、拙者はある伝手があってその男をこちらの味方に引き入れることに成功したのだ」

 「なに、安左右衛門を貴殿の手の内に取り込んだと…」

 あまりのことに加藤泰貞は唖然としてる。

 「然様、つまり淀屋は獅子身中の虫を飼うことになる」

 松平忠固はすでに連勝を確信したこともあって得意満面である。

 「しかし見かたを変えればそれは危険極まる仕掛けだ。もし彼奴がさらなる寝返りでもすればそれこそ一大事ではないか」

 声を荒げて加藤泰貞はそう言うと、手に持った黒石を碁笥の中へ乱暴に投げ入れて見せた。反論にことよせて劣勢極まりない対局を中止しようという魂胆なのである。だが松平忠固は生欠伸をしただけで動じる気配もなかった。

 「まあ、ご心配めさるな。彼奴には寝返りなどできない弱みがあるのだ。拙者はそれを握っている。それにゆくゆく利用価値が無くなれば、それこそ手討ちにすればすむことだ」

 「そんなに巧く行くかな」

 むくれた加藤泰貞は精一杯の皮肉を言った。

 「ふん。獅子身中の虫はこの奉行所の中にもおるのだぞ。もしその虫が大事を引き起こせば貴殿とて同罪だ。お役御免くらいでは済まぬだろう。それだけに何事も巧く行かせねばならんのよ」

 「下っ端同心の鶴田錦吾のことか。聞くところではあやつも相当に執念深い男じゃのう。淀屋の春雪が急死したのも、あの男の仕業だという噂があるくらいだ」

 「我らにとっては有り難い噂ではないか。彼奴を始末するときにはきっと役立つだろう。毒は毒をもって制する。安左右衛門と鶴田錦吾、この二人は利用するだけ利用し尽くすのだ。それより貴殿のほうが受け持っている仕掛けだが、鴻池を使って淀屋を追い落とすという策はその後どうなっておるのだ」

 いきなり話の向きを変えられて、加藤泰貞は一瞬身がまえた。

 だが彼は自分の思い通りにならない囲碁とは異なって、行政手腕には絶対の自信があった。それでたちまち能弁になった。

 「それはご心配めさるな。前にも少しお話したと思うが、鴻池は柳沢さまからいただいた添え書き状のおかげで、諸藩との取り引きを日に日に拡大しておる。それはそうだろう。どこの藩も淀屋にこれ以上の借金の無心はできない。そこへ鴻池という新しい金主を紹介してもらえるのだから、まさに渡りに舟というところよ。まあ当然、この仕掛けは淀屋の機嫌を損じることにはなるが、諸藩としても背に腹は代えられないわけで、いまや鴻池の取引先は淀屋からの鞍替え組を含めると三十余藩にものぼっておるわ」

 「それはまことに重畳でござる。貴殿のお手並みにはこの玄蕃頭、いつもながら感服つかまつる。このことは逐一、詳しく江戸へ報告なされよ。柳沢さまもさぞお喜びになることでござろう」

 「いや、それほどでもござらぬが」

 予想通りに激賞されて加藤泰貞は満足だった。だがどうおだてられようとも碁の局面は変わらない。話が一段落してしまうと、加藤泰貞はまた憂鬱な気分になって、渋々ながら自分の碁笥に手を伸ばした。


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