第三章 間諜たち        

 

               第三章 間諜たち


 江戸の神田橋で両替商を営んでいる八幡屋は、見たところ間口は三間(五・四㍍)ほどのさほど大きくない店構えだった。ただ奥行きとなるとこれが結構広くて、坪庭を抱えた住居部分には納戸の他に五つもの部屋があって、千次とゆうたち親子四人が暮らすには十分過ぎるほどである。加えて三ヶ月ほど前から、十六歳になったばかりの長女のもとが武家屋敷へ行儀見習いに出るようになって家を空けていたから、夫

婦とまだ四歳にも満たない次女のいとだけの暮らしには、むしろ心細さを感じるくらいで、地元採用で浅草辺りから通っている丁稚をこのさい同居させてはどうだろうと、夫婦で真剣に話し合っていたくらいである。

 ただこの八幡屋は手広く商いをするために江戸に店を構えているわけではない。実をいうと大坂の淀屋が、と言うよりも淀屋の当主である重当の命をうけた牧田仁右衛門が、知足院住職を務める隆光栄春へ資金的な援助をおこないながら、色々な公儀の情報を収集する目的で設けた江戸の拠点だったのである。だから実際のところは、たとえ丁稚の一人といえども赤の他人を同居させることなど叶わない相談なのだった。

 「ゆう。近いうちにもとが宿下がりするってぇのは本当かい」

 千次は恋女房のゆうに元気のよい声をかけた。

 千次はたったいま外から帰ってきたばかりである。汗と埃にまみれて居間へ飛び込んでくるなり、あわただしく着物の帯を解きはじめた。そのためにゆうは夕餉の支度もそのままに駆けつけてきて、かいがいしく身の回りの世話をやいていたのである。

 「あれ、この人は何を惚けたことを言っているんだろうね。近いうちじゃなくて、もとが宿下がりしてくるのは今日ですよ」

 ゆうは千次が投げ捨てた帯を畳みながら少し気色ばんで答えた。

 「おっと、そうだったっけ」

 「だから昨夜もあんたの無理をきいてやったんじゃないか。もとが帰ってきたらしばらくお前とあれが出来なくなっちまう、俺らは三日もあれをしねえと鼻血が出る質なんだ、とか何とか言っちゃって、さんざ泣き言を並べるもんだから」

 「そう言われりゃそうだったな。済まねえ、すっかり失念してしまってたよ。日がな炎天下の市中を這いずり回ってたもんで、脳味噌が煮え立ってしまいやがったのかな」

 千次はばつの悪そうな顔をしてそう応えた。

 褌ひとつになって居間の畳の上に座り込んだ千次は頻りに足首を揉んでいる。剥き出しになっている胸や脛ばかりか、肩の辺りや臍の周囲までがまるで野猿のような毛深さで、人よりもやや長い脚は見事な筋肉質である。一晩もあれば二十里は走れる、というのが千次の自慢の一つだったから、両替屋などより飛脚屋を装うほうがはるかに似合いそうだった。

 「もとがわたしの連れ子だからそんなに冷たいんでしょ」

 「馬鹿を言うな。もともいとも俺らの大事な娘だ。連れ子だろうと何だろうと変わりはねえよ」

 すぐにそう言い返すと、千次は膨れっ面をしているゆうを宥めにかかった。そして着物の身八口からいきなり火照った手を差し入れると、ちゃっかりゆうの乳房をまさぐりはじめた。

 「あれ、まだ日も高いというのに何てことをするんだい。それにえらく臭うじゃないか、その自慢の足がさ」

 「おっとそうだった。いっときも早く裸になりたかったから、土間の水桶で足を洗ってくるのをすっかり忘れてたよ。なにしろあちこちで長屋のどぶ板を踏み抜いたり、街道に落ちている馬の糞を蹴飛ばしてきた足だからな。そりゃ臭うわけだ」

 「おお厭だ。ちょうどいまいとが、通いの下女と裏の井戸で水遊びをしているところだから、ついでに行水を使わせてやっておくれな。わたしはもとを迎える準備で大忙しなんだから」

 「あいよ、合点だ」

 それを聞くなりぱっと破顔一笑した千次は二つ返事で了解した。

 そしてゆうの胸からあっさり手を引き抜くと、踊るような足取りで瞬時に居間を出ていってしまった。

 可愛いさかりのいとは二人が江戸へ下ってから生まれた。

 六年前のことになる。江戸の神田橋で八幡屋を開いたとき、ゆうと千次は仁右衛門が率いる間者の中ではともに古株ではあったが、それでもたんなる仲間同士に過ぎなかった。またゆうにはすでに父無し子のもとという娘がいたから、それを幸いに、八幡屋での二人は子持ちの夫婦者を装ってきたのである。ゆうは大坂にいたころから、千次が自分にぞっこんなことは知っていた。しかしたまたま夫婦を装うことになったのはむろん仕事のためだと割り切っていた。とはいえゆう自身も女盛りのからだだった。だから江戸での暮らしが予想よりも長くなって、一つ屋根の下で夫婦者を気取っているうちに、ゆうは見栄えがしないうえにかなり尻軽なところもあるけれど、心根だけは優しい千次にだんだん惹かれるようになって、やがて身を任せてもよいと考えるようになっていったのである。それは同時に「ある男」とはっきり訣別することを意味していた。

 その男は、かつて旅回りの一座に拾われて曲芸をやっていた孤し児のゆうを、その一座の親方から引き取ってくれ、自らの手で一人前の女間者に育ててくれた恩人だった。 

 伊賀国に生まれたゆうは五歳のときに両親と死別した。顔は覚えていないが、父親はおそらく公儀などに雇われて諸国で情報を蒐集したり、「草」となって一定の土地に棲みついたりする忍びの類いだったのだろう。ゆうは生まれつきからだがしなやかで身のこなしも軽く、五感なども鋭い子どもだった。たまたまそこを曲芸一座の親方から見込まれてその一座に加えられ、厳しい訓練を叩き込まれながら諸国を流れ歩くことになったのである。おかげでゆうは地理や方言に詳しくなり、多彩な曲芸を身につけることができた。

 そんなある日、一座が大坂の生国魂神社の境内へ興行にきて、ゆうがいろいろな軽業を披露したり、白拍子の傀儡を操ったりしていたときのことだ。たまたま前を通りかかったその男は、ほぼ半日ものあいだ境内に座り込んで、ゆうがやる芸の数々を凝っと見つめていた。そればかりかそのあと男は一座の親方にかけあったらしく、大枚の金を積んでゆうの身柄を引き取ってくれたのである。間もなくその男から与えられた女間者という稼業は、曲芸師より辛いものだったけれど、ゆうは水をえた魚のように生き生きと働いた。

 そしてゆうはその男に初めての恋をした。だが男にはすでに妻がいた。それでもゆうは自分の才能を見出してくれ、磨きあげてくれた男の傍にいられるというだけで幸せだった。

 思い返せばそれは十七年前の晩秋のことだった。ゆうはともに旅をした伯耆倉吉の宿で初めてその男に抱かれた。ごつい手のひらでまだ固い蕾みの乳房をゆっくりと揉みしだかれ、ちくちくと肌を刺してくる髭面で口唇や耳朶を吸われるという恥ずかしさに、ゆうは必死の思いで耐えた。曲芸師の仲間たちからは、男と女の交わりはとても甘美で気持ちのよいものだ、と聞かされていたのに、いきなり下半身のあの場所に激しい痛みを感じて、その思いがけなさに戦いたりもした。だがそのとき、それでもゆうはその男に心から感謝したし、生きていて良かったとつくづく思ったものだ。

 とめど無い圧迫をからだ全体で受けとめているうちに、逞しく怒張した男の持ちものがさらに大きく膨らんで、いつのまにか坩堝のようになったゆうの膣の中で激しい爆発を遂げた。ゆうはそれが初めての経験だったにもかかわらず、妊娠したことをすぐに直感した。しかし後悔の気持など微塵も無かった。

 気がつくと白い寝床には赤い紅葉が散っていた。ゆうは自分が流した血の跡がまぶしかった。短いとも長いとも感じた交合が終わると、男はまた怒ったような顔になって部屋を出ていった。襖を引いたその男の逞しい肩ごしに宿の庭園が広がっていて、凛とした椿の木が見えた。まだ晩秋だというのに、早くも湿った雪が葉や枝に降り積もっている。その雪の下からゆうの気持を写し込んだような色鮮やかな花弁とまだ固い蕾が顔を覗かせていた。あのときゆうは庭の寒椿を見つめながら、

 《花は大気の温もりで、女は男の体温で花弁を開くというのに、どうして寒椿ばかりは凍てつくような冷気を好むのかしら》

 と思って、切なさが胸にこみ上げてきたものである。

 ただ至福の時はその一瞬に過ぎなかった。あとにはやがて生まれたもととの二人だけの長くて寂しい歳月が待っていた。男はその後に五十両の金子と、一枚の色紙に我が子の名前を書いて送ってきただけだった。そしてゆうは二度とその男に抱かれることは無かった。それでも決して憾みには思っていない。なぜならそれが、せめて一度だけ、というゆうの我がままを叶えてくれたその男との固い約束だったからである。

 大坂に住んでいたころ、千次はそんなゆうを黙って見つめていてくれた。そればかりか心根の優しい千次は、神田橋で夫婦を装って暮らしはじめてからも、もとの父親がどこの誰なのかなどと訊ねたことは一度もない。また千次との間にいとが生まれてからも、生さぬ仲であるもとを何の分け隔てもなく慈しんでくれた。だからゆうはたとえ娘のもとから激しく詰め寄られたとしても、父親であるその男のことは金輪際打ち明けまいと決めている。

 「お義父さま、ただいま帰りました」

 まだ日も明るいうちにもとが宿下がりしてきた。

 敷居ぎわに座ったもとは三つ指を突いて、えらく丁寧な挨拶を言って寄越した。居間にはゆうの心尽くしの膳がすでに並んでいる。

 「よせやい。ここは柳沢さまのお屋敷じゃないんだぜ」

 いとと一緒に行水を済ませていた千次はすでにちびちびと酒を飲んでいた。もとが帰るまで待ち切れなかったらしい。組んだ胡座の中にはいとの小さなからだがあった。

 「言われてみればそうね。時と所を弁えるのが行儀作法というものだものね。わが家に帰ってまであらたまることはないか」

 するともとはいきなり蓮っ葉な物言いになった。

 そしてもとは着物の裾をぱっと翻してその場に立ち上った。さらにつかつかと千次の前までやってくると乱暴に膝を折った。すると何とも言えない良い香りが周りに漂った。

 「おう、そうこなくっちゃ。何と言ったってお前は俺らの娘なんだからな。堅苦しいのは似合わねえや。ほら見てみろよ。いとだってそんなお前に面食らってるじゃねえか」

 「会いたかったわ、いと。しばらく会わないうちにこんなに髪の毛が伸びたのね。明日にでも姉さんが綺麗にしてあげるわ」

 もとはそう言いながらいとの顔に何度も頬擦りをした。

 いとはしつこいくらいの姉の頬擦りが終わると、胡坐の中から父の顔をそっと偸み見た。次にはそこからそろそろと這い出すと、可愛いらしい足音を立てて膳部の周りを半周して、下座にしつらえられた自分の席に行儀良く座った。

 「えらいわね、いと」

 もとはすかさずそんな妹を褒め上げた。

 いとに逃げられてしまった千次はいかにも残念そうである。しかしもとの手前もあるのですぐさま真顔に戻ると、引き寄せた徳利の首をひょいと摘み上げながら言った。

 「まあ、何だな。隆光さまからのご指示があったから仕方なく出したが、武家屋敷の行儀奉公ってやつもなかなか大変だろう」

 「ところが思ったほどでもないのよ。まあ奉公先の柳沢さまが特別だということもあるんだけどね」

 もとはそんな千次の気遣いに苦笑しながら応えた。

 そしてもとは千次が持った徳利を素早く取り上げると、これもお屋敷奉公の成果なのか慣れた手つきで盃に酒を注いでやった。千次としては初めて経験する娘のお酌である。見ると着物の袖口から白い二の腕が覗いている。千次は酒の酔いも手伝って陶然となった。

 「こいつは済まねぇな」

 相好を崩した千次は酒で溢れそうになった盃を口のほうから迎えにいきながら娘に向かってそう礼を言うと、

 「しかし柳沢さまのいったいどこが特別なんでぇ」

 と言い継いで、いまでは何から何まで女房のゆうとそっくりになったもとの顔をまぶしそうに見た。

 柳沢さま、というのは出羽守保明のことである。柳沢保明はもともと上州館林藩の勘定頭に過ぎなかった。ところが館林藩主だった綱吉が将軍に就任(延宝九年、一六八一年)するや、その寵臣として贔屓を受けた彼はたちまち累進を重ねて、早くも元禄元年には若くして牧野成貞に次ぐ側用人に取り立てられていたのだ。

 「どこがって、それは上さまの覚えが格別にめでたいからよ」

 「それでもたかが一万石のお大名に過ぎないんだろう」

 「確かに今はそうだけどね。でもあと二、三年もすれば十万石だという人もいるわ」

 もとは悪戯っぽい笑みを浮かべてまた徳利の底を持ち上げた。

 「馬鹿を言っちゃいけねえや。いくら将軍さまが可愛がっている子飼いの家臣でも、出世には自ずから限度ってものがあらあな」

 すると千次は頓狂な声を上げてそう反論した。

 同時に、台所でやっと夕飯の支度を終えたゆうが居間へ入ってきた。吸い物を並べた盆を大事そうに捧げている。

 「あらあら、父娘で仲のよいことだね。そんなに仲睦まじいところを見せつけられたら、女房のわたしは妬けちゃうじゃないか」

 ゆうは冗談めかしてそう言った。

 少しは本気も混じっている。自分の連れ子を実の子のように慈しんでくれるのは嬉しい、だが心根はいいけれどもほんらいが朴念仁の千次に、義父と連れ娘の危うい関係を気遣ってしまう女の哀しい性までは分かるまい、とゆうは思うのだ。

 「だったらよ、もと。そんな偉いお方のお屋敷奉公がどうしてちっとも大変じゃねえんだい。おかしいじゃねえか」

 千次はちらとゆうを振り返っただけでまた話を続けた。

 「そりゃあ毎日が目の回るほど忙しいわよ。ただ奉公人はどこでも新入りが苛められるものでしょ。ところが柳沢さまのお屋敷は日に日にご家来衆が増えて、奉公人もどんどん増えているから、新入りが多くて古参の人たちがいちいち苛めている暇なんて無いのよ。それで助かっているというわけ」

 「なるほどな。女の苛めや意地悪ってえのは質が悪いというからな。俺らとしてはそいつがいちばん心配だったんだ。だけどお前の話を聞いてほっとしたよ」

 「お義父さんにもそれだけ聞いただけで分かるでしょう。柳沢さまがどんどん出世される方だってことが」

 もとはそう言うと、話に一応の区切りをつけた。そして立ち上がって袖まくりすると、吸い物を膳部に配ろうとしていた母を手伝いはじめた。すると今度は手の空いたゆうのほうが、それまで父娘が交わしていた話の中へ割り込んできた。

 「隆光さまから、もとを是非とも柳沢家へ、と頼まれたときは正直言ってわたしも吃驚したけれど、やはりこの奉公話にはそれなりの意図と含みがあったようだね」

 「まあそうみてえだな」

 「あのとき、その依頼を大坂へ伝えたら、お頭は即座に、そのようにしてくれ、という返事を寄越された。柳沢さまが将来、淀屋にとって鍵になる人だってことはとっくにご存知だったんだよ」

 「江戸の町を日がな這いずり回ったり、たまに幕府のお偉方のお屋敷へ忍び込んでも、そういう雲の上の話は俺らにゃ探ってこれねえや。おい、もと。これからは俺らたちよりもお前の働きのほうが重要になってくるぜ」 

 千次はゆうに目配せをしながら、しっかりもとを持ち上げた。

 「任せてちょうだい。わたしだって子どものころから伊賀の生まれのおゆうさんにみっちり仕込まれたいっぱしの女間者ですからね。きっとお役に立てると思うわよ」

 思惑通りにもとはすっかり上機嫌になっている。千次の目配せを受けたゆうがさらにそのあとを引き取った。

 「この子はわたしよりも素質があるよ。耳や目や頭がよくて、身が軽いだけじゃない。好奇心が強くて我慢強くもある。これは間者にとっていちばん大切なことだからね」

 「わたし、読み書き算盤や曲芸、それに目つぶしや匕首の使い方に至るまで、お母さんからどんなに厳しく仕込まれても、辛いとか厭だと思ったことなんて一度もなかったわ。きっとこれはわたしたち母と娘が天から与えてもらった稼業なのよ」

 「ふん、わたしたち母と娘か…。どうせ俺らは江戸の湯女が父親も分からないままに生み捨てたどこかの馬の骨だよ。お前たちのように忍びの血なんて流れてねえし、頭だってよくねえや」

 すると千次はたちまち面白くないといった顔で拗ねてみせた。

 「あらあら何を拗ねているのさ。お前さんだって立派な間者だよ。その耳は一里も先を駈ける馬の蹄の音だって聞き取れるし、早っ走りときたら猪にも負けはしないんだから。そのうえ如才がないときているから商人に化けても一人前だしね。大坂で唐物屋をやっていたときも、こんな裏稼業をしているなんて思えなかったわよ」

 「そうかな…」

 恋女房からの褒め殺しに会って千次はすぐ機嫌を直した。だがつい調子に乗り過ぎてしまって、

 「ただ断っておくがな、もと。俺らたちは決して隆光さまの手先なんかじゃねぇんだぞ。お頭はあくまで大坂の仁右衛門さまだ。そのことは忘れるんじゃねえぞ」

 とつい言わずもがなの念を押してしまった。

 すると今度はもとのほうが不機嫌になって黙り込んでしまった。千次にはどうしてそうなるのかが分からない。空になってしまった徳利の底を覗き込むふりをして、ゆうに助けを求めた。

 親娘三人で初めて知足院を訪ねていらい、隆光はしきりにもとを可愛がるようになった。節季のごとに帯や簪などを贈られて、もとも満更ではない様子である。だが父親として、また一人の男として、千次はそれが気に入らない。ゆうはすでにそのことに気づいていた。だから妻であり母でもあるゆうには、千次の苛立ちともとの不機嫌

が、二つながら手に取るように分かるのだった。

 「お前さん、そんなことくらいもとだって分かっているよ。ただいきなり大坂のお頭だとか言ったって、この子は仁右衛門さまの顔も見たことがないんだ。だからいまは、親の仕事を助けているんだ、という気持さえあれば、それで十分じゃないか」

 ゆうがそう言ってとりなしてやると、千次は、うんうん、と頷いてから話にけりをつけようと声を張り上げた。

 「さあ、さあ。家族四人が久しぶりに顔を揃えて食べる水入らずの夕食だ。ややこしい話はこのくらいで止しにして、母さんがつくってくれたご馳走を腹一杯いただこうじゃねえか。ほれ、見てみろさっきからいとのやつが痺れを切らして待ってらあな」

 「そうだよ。わたしが昼間っから腕によりをかけて用意した料理だからね。一切れでも食べ残したりしたら承知しないよ」

 「でも、いとはこんなには食べきれないよ」

 母が切った威勢の良い啖呵に恐れをなしたのか、いとは早くも泣きべそをかいてそう言った。

 「まあ、そんなことを言わずに頑張ってお食べな。そして早く大きくなって、姉さんのようにわたしたちを助けてくれなくちゃ」

 「そうだよ。いとは父さんと同じ江戸っ子だ。だからそんな弱音を吐いたりしちゃいけねえや」

 「あらあら、何だよそれは。どうせわたしともとは上方者ですよ。だったら江戸っ子は江戸っ子同士で、上方者は上方者同士で仲良くするわ。ねえ、もと。そうだろう」

 「そうね。そうしようか」

 「おいおい、ちょっと待ってくれよ…」

 口さがない女たちから揃って責め立てられ、千次は贅肉が削げた尻をなかば浮かせて本気で慌てた。その格好が可笑しくて女たちは腹を抱えて笑いこける。よく分からないいとまでがその笑いの渦に加わって、八幡屋の居間からは夜が更けるまで四人のはしゃぎ声が聞こえていた。


 淀屋手代の勘七はその頃、神田橋外の知足院に隆光栄春を訪ねていた。

 牧田仁右衛門の娘の波瑠が大坂島之内の杵屋へ嫁してから、すでに半年が過ぎていた。だが勘七の心は今もって晴れていない。波瑠が嫁いでいなくなってしまうということが、これほどにも長く、重く、心に残るとは思ってもいなかった。 

 「それならいっそ二人で江戸へ下りましょうよ……知足院の隆光さまをお頼りするのよ」

 あのとき大坂の裏御堂で、逡巡している勘七へ波瑠はそう言った。

 その隆光栄春のところへいま自分はやって来たのだ。そこまで思い至ると、勘七にはここに波瑠を伴っていないことのほうが、不思議に感じられるのだった。そして、もしもあのとき波瑠との駆け落ちを実行していたら自分の人生はどう変わっていたのだろう、と考えてみたりもした。だが先ほど神田知足院の山門をくぐったとき、そういう女々しい仮定や想像はすべて橋の下へ捨ててきた。

 むりやり牧田仁右衛門から休暇をもらって、江戸へ下ってみよう、とあわただしく決めたのには理由がある。

 勘七は自分なりに時代が孕んでいる予兆のようなものを感じていた。それは海辺の漁村を丸ごと呑み込んでしまうような大津波が発生するとか、各地に洪水や山崩れをもたらす巨大な野分が襲来するとか、大地に亀裂を走るせて多くの家屋を倒壊させる大地震が起こるかもしれない、といった類いの予兆ではない。また諸国に浪人が溢れている現状とはいえ、国が破れるような大争乱が起きるとも思えない。それでもなおきっと何か大変なことが起こりそうな気がするのだ。いずれにしても勘七は、自分の目でその正体を見極めたい、と思った。いや背後から彼を追い立てる何ものかがあった。その結果としての急な江戸入りなのである。

 「勘七、よくきたな。便りを受け取ってから心待ちにしていたぞ」

 隆光栄春はそう言いながら僧坊に現れた。

 甲高くてよく通る声である。道頓堀の竹本座で波瑠と一緒に聴いたあの竹本義太夫の声に通じるものがあった。だが、心待ちしていたぞ、というその言葉とは裏腹に、すでに一刻(二時間)近くも勘七を待たせているのだった。隆光は墨染の僧衣を翻らせると藺草づくりの円座の上にどっかと結跏趺座した。

 「突然のことで、さぞ驚かれたと存じます」

 勘七は僧房の板敷きへ額をつけて突然の訪問を詫びた。

 「まあ急な報せだったからな。驚くには驚いたが、お前とは久方ぶりの再会じゃ。嬉しくないわけがない」

 隆光はそう言うと、太い下がり眉をぴくぴくと蠢かせた。

 平仮名の《つ》の字を互い違いに並べたような眉である。そのうえ背丈が高くて、がっしりとした体躯の偉丈夫だ。高い鼻筋はすっきり通っており、切れ長な目もとはいかにも涼しげで、まるで歌舞伎役者のように秀麗な顔立ちだった。

 「大和の長谷寺で別れてからもう何年になるかな」

 「ほぼ十五年になります」

 隆光は長谷寺にいたころ、まだ炭焼きの手伝いをしていた勘七の天分を見抜き、自分の手許に引き取って寺子屋に通わせたり、自ら教育をほどこしたりしてくれたことがあった。

 「そうか。もうそんなになるかのう。お前の消息は仁右衛門どのからの折々の便りでたびたび目にしていた。その若さで早やくも手代に取り立てられておるそうではないか」

 「何もかも隆光さまのご威光のお蔭です」

 「いやそれは違うな。商人というものはそれほど甘くない。出世はあくまでもお前の力量だ。それにしても、これが大和竜田の山中で炭焼き修行をして真っ黒な炭塵に塗れていた男か、と見紛ってしまう。まあ拙僧とて似たようなものだがな」

 勘七などより桁違いの出世を遂げていた隆光はややおどけてそう言った。そして水晶のように尖った坊主頭に手をやると、いきなりぴしゃぴしゃと叩いて見せた。 

 真言宗真義派が誇る稀有の英才と言われながら、いつだって手揉みや世辞追従が出来る商人のような磊落さが、隆光栄春という僧の持ち味なのである。またときに相手をぐいと持ち上げてみたり、冷たく突き放してみたりする巧みな人心収攬術は、密教僧が持っている独特の神秘性と相俟って、まるで輝く雲の上から手招きする天人のように、相手を捉えて離さないのだった。

 隆光栄春は慶安二年(一六四九年)、大和の国は二条村にある旧家に生まれた。勘七の家とは遠縁にあたる。九歳のとき唐招提寺に入って修行を積んだ彼は、その後、長谷寺へ移った頃から真言密教僧として頭角を現すようになる。

 まだ霊力や魔力や迷信が信じられ、占いや予言が人心を惑わしていた時代である。法流を極めた隆光の加持祈祷はまことに効験があらたかだ、という評判が巷間でさかんに立ちはじめると、熱心な真言密教徒であった桂昌院(三代将軍家光の側室で五代将軍綱吉の生母)が放っておくわけがない。ほどなく隆光は淀屋重当を後ろ盾とする豊富な資金力による幕閣への根回しと、桂昌院がそれまで尊崇していた先輩僧の亮賢の引きにも助けられ、将軍家の護持僧として江戸に呼ばれることになるのだ。

 「拙僧は今もって好きになれぬのだが、江戸には上方とはまた違った良さがある。淀屋の枝店もあれば、千次の両替屋もあることだ。ま、ゆるりと見聞きして帰るがよかろう」

 隆光は笑みを絶やさずにそう言い継いだ。

 「はい、そのつもりでまいりました。ところでさっそくで恐縮なのですが隆光さまへ折り入ってお願いの儀がございます」

 すると勘七はそう応えて、また僧坊の板敷きへ額を擦りつけた。

 「ほ、拙僧に頼みとな。いったいそれは何じゃ」

 隆光はあまり驚いた様子も見せないでそう言うと、ひときわ優しく微笑んだ。相手の心を蕩かすような慈顔とはこういうものなのだろう。涼やかな目は菩薩の目に通じていた。

 「隆光さまは幕府要路の方々ともお親しいとか。そこでお願いなのでございますが、中でもとりわけ勘定方に詳しいお役人を、手前にご紹介いただきたいのです」 

 「なんと拙僧に幕府の勘定方を紹介せよというのか。それはまた如何なる存念からか」

 隆光は勘七が口にした願いの意外さに思わず首を傾げた。

 「ご不審はご尤もです。実は手前にも、そのお役人に何をお訊ねするつもりなのか、まだはっきりしておらぬのですから」

 「ふうむ。何やら禅問答のようじゃが、ま、よかろう」

 「我がままなお願いで相済みません」

 「じゃが、いきなり勘定方の役人と言われてもな」

 「お心あたりはございませんか」

 勘七はやや落胆した顔になって隆光の口もとの辺りを窺った。

 「いや、ちょっと待てよ。そうだ、一人だけおった。ただし幕府要路の者ではなく、萩原重秀とかいう名の下っ端役人なのだがな。彼奴はいま勘定方で吟味役をしているという話だった。いつか出羽守から紹介されたことがある」

 「出羽守さまというとあの柳沢保明さまで…」

 「そうじゃ。あまり人を褒めたことがないその出羽守が、珍しく荻原重秀のことだけは誉めちぎっておったのだ。この男の才覚がいつか幕府の財政を救うことになるだろう、とか申してな。ま、出羽守自身が館林藩で勘定方をしていたから、その種の目利きができるのだろうな。それで拙僧は覚えているのだ」

 「そのお方をご紹介ください」

 話を聞いたとたん、勘七は隆光が呆れるほどの大声で叫んでいた。

 「それはいと易いことだが…」

 だが隆光はどういうわけかそこで言葉を濁した。

 「何か不都合なことでもございますので」

 「実はな、勘七。あの萩原重秀という男には、凶相の類いというか、あまり良くない相が見えるのじゃよ。そのことが拙僧にはずっと気にかかっておるのだ」

 「凶相…ですか」

 「ま、それが彼奴の身にだけ祟るものなのか、それとも世間や他の人にまで害悪を及ぼすものなのか、一度会っただけなのでそのあたりの見極めはまだついておらんのだが」

 隆光はそう言うとぐっと宙を睨んだ。

 それは柳沢保明と同席の場でただの一度しか会ったことがなく、すでに記憶のかなたに消えかけている萩原重秀の面貌を、再び網膜に甦らせようとしているかのようだった。

 「つまり、荻原さまには会わぬほうがよいということですか」

 「いや、そこまでは言っておらん。虎穴に入らずんば…のたとえもあることだ。お前が会いたいと言うのであればそうして見るがよかろう。二、三日のうちにその手筈を整えてやろう」

 「それならば是非お願いいたします」

 「それに人にはみな何がしかの凶相があるでな。たとえば上さまにだってある。萩原重秀にも劣らぬほどの凶相がな」

 「えっ。しかし将軍さまといえばすでに人臣位を極められたお方ではありませんか。とても信じがたいお話です」

 「そういう類いの凶相もあるのだ。だから恐ろしいとも言える」

 「では、手前などはいかがでしょう」

 気になっていたことを勘七は思い切って訊ねてみた。

 「うむ、そのことじゃがな。竜田の山中で炭焼きをしていた頃のお前にはとてつもないほどの吉相が感じられた。だからこそ拙僧はお前を引き取って教育をほどこし、江戸へ下るに際しては淀屋の丁稚として送り込んだのだ。しかし…」

 隆光はまたそこで宙を睨むと、その先を語ることにかすかな逡巡を見せた。勘七は不安に駆られながらも話の続きを促した。

 「どうぞご遠慮なく仰ってくださいまし。手前は何をお聞きしても驚いたり、落胆したりは致しませんから」

 それでも隆光栄春はしばらく迷っているようだった。だがやがて意を決したように話を続けた。

 「では、言おう。その吉相がいまのお前から消えてしまっている。竜田の炭焼きが日の本一番の大店で早々と手代にまで出世したというのにな。それが拙僧にはとても信じられんのだ。見たところお前が持っていた運気はそのくらいの出世で使い果たすようなものではなかった。いったいあれからお前に何があったのだ」

 隆光からそう問い詰められても勘七には思い当たるふしが無かった。いやある。一つだけあった。それはこれまで生きてきた中で最も辛かった幼なじみの波瑠との別れである。

 「勘七。お前はまだ独り身だったな」

 森羅万象を読むだけでなく、鬼神をも動かすと言われた密教僧である。隆光栄春はさすがに鋭かった。

 「はい」

 「縁談は無いのか。いや、その歳で無いわけはなかろう」

 さらにそう問い詰められて、勘七はようやく覚悟を決めた。

 あのとき裏御堂の境内で「もういいのです」と言って泣きじゃくった波瑠の顔が、また頭の中を過っていった。

 「縁談は幾つもありました。ただその気になれませんでした」

 「誰か好きな女性がおったのじゃな」

 「はい。仁右衛門さまのお嬢さまの波瑠さんです」

 勘七は少しのためらいも見せずにそう答えた。そう応えることでほんの僅かでも波瑠への償いができたと思いながら。

 「ほ、仁右衛門どのの娘御とな。それはまことに結構なことではないか。して、その波瑠どのとやらの気持は確かめたのか。仁右衛どのはどう言っておられるのか」

 隆光は瞳を輝かせて矢継ぎ早やの質問を浴びせてきた。まるである日いきなり舞い戻ってきた家出息子から、結婚しようと決めた相手がいる、と打ち明けられた父親のようである。

 「男としてまことに恥ずかしいことですが、波瑠さんの方から先に好きだと告げられました。そしてもし一緒になれないのなら駆け落ちをして、隆光さまをお頼りしようとまで」

 「ふうむ。それで…」

 「ですが手前はその申し出を断りました。波瑠さんと手前は絶対に夫婦にはなれないからです」

 「なぜじゃ。なにゆえじゃ。その理由を申せ」

 「それは申し上げられません。たとえ隆光さまでも」

 「もしかするとこの隆光栄春のせいか。拙僧がおのれの立身のためにお前を人質として、いやありていに申せば途中で金主の心変わりがないかを探る間諜として、淀屋へ送り込んだからか」

 それならば責任の過半は自分にあることになる、となかなか本音を表にあらわさない隆光としては珍しく激昂していた。

 「それは違います。総支配の仁右衛門さまは手前が置かれた立場をじゅうぶんに知りながら、まるで息子のように可愛がってくださいました。それは淀屋の旦那さまも同じことです。ですからいまの手前は、人質でも間諜でもありません。淀屋のためになるのならこの一身を捧げる覚悟でいる一人の手代なのです」

 「ならば何ゆえだ。その理由を教えてくれ」

 「これは淀屋の大事に関わることがらです。たとえ隆光さまといえどもお教えするわけにはまいりません」

 「なに淀屋の大事だと…。そうか」

 隆光はそうつぶやくと急に穏やかな表情になった。

 勘七はそんな隆光を見て、ようやく自分が言ってしまったことの重大さに気がついた。なぜなら重当にとって隆光は、仁右衛門と同じくらい大切な協力者であり軍師でもあるのだ。その人に対してすら匿し通しているお家の大事があるのだ、と自分はいま明らかにしてしまったことになる。誇り高くて自負心の強い隆光にしてみれば何より耐えがたい屈辱と感じたに相違ない。

 だが間もなく口をひらいた隆光の言葉は意外なものだった。

 「その波瑠さんとかいう仁右衛門どのの娘御に、拙僧は一目なりとも会いたかったな。会えば分かっただろう。お前の類いまれな吉相を失わせることなく、この先々まで生かせる女性だったかどうかが。つまりお前と力を合わせて淀屋を救うことのできる女だったかどうかがな。しかしその様子からするともう手遅れのようだ。このことが凶と出ねばよいが…」

 隆光栄春と面会してそんなやりとりがあったその日から、勘七は十日ばかり江戸に滞在して知足院からの報せを待った。

 その間の宿はもちろん八幡屋である。千次とゆうは、仁右衛門が抱えている多くの間諜の中でもいちばんの古株だったから、勘七もよく見知っている。だがその二人が江戸へ下ってからは夫婦になっており、新たにいとという娘まで生していることや、もとがいま柳沢家へ奉公に出ていることなどは、このとき初めて知った。

 八幡屋へ入った勘七は、すでに知足院の隆光さまへの挨拶は済ませてきた、と二人に告げた。しかしその隆光へ、幕府の勘定方を紹介してほしいと依頼してきたことや、波瑠との別れやその隠された秘密をめぐっての微妙なやりとり、またなぜいま急に江戸へ下る気になったのかという理由については話さなかった。それで勘七は、しばらくのあいだ宿を借りたい、とだけ言い残して、物見遊山を装いながら毎日のように江戸の市中を歩き回った。

 江戸と大坂はいったいどこが異なるのか、勘七はそれを自分の目で確かめたかった。江戸には時の政権としての幕府があり将軍がいる。だからあらゆる意味でこの国の中心である。だがそのことを除けば両者にさほどの変わりがあるとは思えない。それなのにとりわけ経済の面で、江戸はなぜこれほど大坂に遅れを取っているのか、その理由を知りたいと思ったのである。

 たちまち八日が経って、勘七はいろいろなことを見聞きした。江戸の町が持っている長所と弱点をいくつか知った。そんなとき、待ちに待った報せが知足院の隆光からもたらされた。しかしその内容は、勘定方として公務繁多な萩原重秀には、いますぐ面会の機会をつくることはできない、ただ近々にも京へ上る用向きがあるので、その時にでも上方で会おうと言っている、というものだった。

 勘七はもはや江戸にいる必要を感じなかった。

 千次やゆうにすぐさま別れを告げると、訪れたときと同じように慌しく大坂へ帰っていった。ただ勘七が実際に萩原重秀と会えたのは、報せにあったような近々のことではなく、それから三年余りも後のことになる。

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