第一章 幼ななじみ
第一章 幼ななじみ
竹本座の浄瑠璃芝居はいま撥ねたばかりである。
帰り客に押し流されるようにして木戸をくぐり抜けると、忙しく人の行きかう往来には、初夏の光が銀の小粒をぶちまけたように舞っていた。道頓堀の川面すれすれに、つばくらめが夏虫を追いかけている。川端をいろどる楊柳が居酒屋の縄のれんのように揺れていた。満員の芝居小屋ほどではなかったが外もあまり涼しくない。しかし観劇による昂奮で火照った勘七の頬には、ときおりそよぐ一陣の川風がひどく心地よく感じられた。
「嬢はん、お疲れにならはりましたやろ。外もえろう暑うおますさかい、そのあたりで辻駕籠でも拾いまひょか。それとも涼みがてらに川舟で帰らはりますか」
扇子をたたみながら勘七は二歩ほど先を行く波瑠に声をかけた。
「そうね。でもお店までは半里の道のりでしょう。大した距離じゃないわ。このまま二人してのんびり歩いて帰りましょうよ」
「それはまあ、嬢はんのほうさえよろしければ、手前などは一向に構いまへんが」
「だったらそれで決まりね。それに今日はわたしのほうが無理を言ってお芝居に付き合うてもろたんやから、帰りの道すがらおぜんざいでもご馳走させてほしいの」
波瑠は勘七を待ちながら愛らしい笑顔でそう答えた。
だが勘七もその場に立ち止まってしまったので、二人の間隔は一向に縮まらなかった。見れば着飾った若い女と貧相な装りをした男である。道行く人々の眼にはおそらく、どこか大店の箱入り娘とお供の使用人、としか映らなかったことだろう。
「いや、そんなお気遣いなんかは無用です。今日は大奥さまからのたってのご指名があったからで、べつに嬢はんが無理を言わはったわけではありまへんさかい」
ちびた草履の先に視線を落して勘七が素っ気なく答えると、
「それはそうだけど…」
波瑠はいかにも不満そうに口ごもった。
大奥さまというのは先代(三代目)箇斎の未亡人で、淀屋重当の母にあたる妙恵のことだ。その妙恵はつね日ごろからまるで実の孫のように牧田仁右衛門の娘である波瑠を可愛がっていた。そしてそもそもこの日の芝居見物も、妙恵が波瑠を連れて行きたいと言い出したものなのだ。ところが肝心の妙恵は芝居見物の日の直前になって夏風邪をひいてしまった。そのために急に勘七のほうへお鉢が回ってきたというわけなのだ。とはいえ妙恵も単なる思いつきから勘七に自分の代役を言いつけたわけではない。勘七と波瑠はもともと淀屋の屋敷うちでともに育った幼なじみだったし、老いたりとはいえしっかり者の妙恵には、波瑠が密かに勘七を慕っている、ということくらい女の勘で分かった。また手代として誰よりも真面目で働き者の勘七に、妙恵はずっと好感を抱いていた。だから妙恵としては夏風邪がもたらした余禄として、これでも二人のために大いに気をきかしたつもりなのである。
「それにしても、今もって店裏を取り仕切っておられるあのお元気な妙恵さまが、この時期に風邪をお召しになるなんてねえ」
「そうですね。久しぶりに嬢はんと二人きりでお出かけになるのを、ずっと楽しみにしておられたのは傍目にも分かりましたからね。さぞやご無念なことでございましょう」
「あのね、勘七さん。悪いんだけどその嬢はんというのはやめてくれる。いくら大奥さまのお気に入りだといっても、わたしはあくまで牧田家の娘であって淀屋のお嬢さまじゃないのよ。だからこれからは波瑠と呼んでちょうだい」
波瑠は人の流れの中でつと道端に立ち止まると、双弓を伏せたような綺麗な眉をひそめてそう訴えた。
「しかし総支配のお子さまなら手前にとってはやはりお嬢さまであることに変わりはありません」
すると勘七はふたたび歩みを止めて強い調子で言い返した。
そのために二人は、間断なく行きかう人波と肩が触れ合うほどの中で、思いがけなく互いに向き合う格好になった。
「総支配と言ったって使用人には変りないわ。手代の勘七さんと同じじゃないの。だからお願い。子どもの頃のように波瑠と呼んで。ね、約束してくれるわね」
波瑠は重ねてそう言うと背丈の高い勘七を見あげた。
だが小柄な波瑠の目線は、履いたぽっくりを懸命に爪先立たせても、同じ高さから勘七の眼を捉えることができない。
「分かりました。ではこれからそうします」
哀願するような波瑠へ勘七は渋々ながらそう答えた。
するとそのとき、足どりも確かでない男の酔っ払いが、いきなり波瑠の背中にぶつかってきた。爪先立ちでいた波瑠はたちまち男のからだに弾かれて宙へ浮くと、転ぶまいとして空を掴んだ白い手が堪えきれずに勘七の胸に縋りついてきた。とたんに甘い柑子のような香りが勘七の鼻腔をくすぐった。だがそれも一瞬の出来事で、すぐに体勢を立て直した波瑠は慌てて後方へ飛び退っていた。ぶつかった酔っ払いのほうは、まるで何事も起きなかったように、二人が歩いてきた道を左右にからだを揺らしながら去っていった。
道頓堀は成安(安井)道頓と従兄弟の道トが苦心のすえに完成させた横堀である。それからすでに七十年の歳月が過ぎたいま、堀の界隈には芝居小屋や水茶屋が所せましと蝟集して、着飾った女たちや伊達者を気どる男たちの姿が目立つようになっている。だがそういう群集の中にあっても波瑠の美しさは際立っていて、行き交う人たちのほとんどが波瑠のほうを振り返っていく。若い男の中にはわざわざ歩みを止めて、粘っこい視線を投げかける者さえいるくらいだ。それは竹本座の芝居小屋の中でも同じことだった。
その道頓堀に沿ってふたたび歩きはじめた波瑠が言った。
「それにしても『出世景清』のあの見事な義太夫語り、からだの芯までがうっとりしてしまったわ。心を揺さぶるような語りの一言一言が、いまでもこの耳の奥で谺しているもの。勘七さん、また近いうちにつきあってくださいね」
「はい…」
「今度は妙恵さまの代役じゃなくってよ」
短い言葉だったが精いっぱいの想いを込めて波瑠は念押しをした。
だが表情を固くしている勘七はそれには答えを返さなかった。
しばらく西の方角へ歩いて行くと、操橋のほとりに格好のぜんざい屋があった。その前に立ち止まると、波瑠は何かねだりごとをするような目で勘七のほうを返り見た。その目へすぐに頷きを返した勘七は、ぜんざい屋まで走り寄ると、紺の暖簾を手で押し上げて中を覗き込んだ。見まわしてみるとそれほど広くない店内は、芸妓を横にはべらせた旦那衆や芝居帰りの夫婦者で賑わっていた。
「中はかなり混み合ってはいますが、空席も少しありそうですから、二人くらいなら何とかいけそうですよ」
暖簾を掲げたまま振り返ってそう告げた勘七に、
「ありがとう、勘七さん」
と波瑠は顔をぽっと赤らめて礼を言った。
そして背後から勘七の背中を両の手のひらで押し包むようにすると、意外なほど強い腕力で彼をぜんざい屋の中へと押し込んだ。
「いらっしゃあい」
敷居をまたぐと店の奥から威勢のよい女の声がした。だがそれきりである。
しばらく待っていても一向に案内がない。二人はどうしたものかとその場に立ち往生してしまった。するとそのとき突然、どこかから声がかかった。
「勘七はん。そこへお来しのご仁は淀屋の勘七はんですやろ」
波瑠は驚いて声が聞こえたほうを目で追った。
見ると二部屋ある小座敷の一つに四十がらみの男がどっかと胡座をかいている。男はひどく痩せぎすなからだに、白い絽の羽織を着ていた。ただ目つきは異様なくらい鋭くて、刺すような光を湛えている。その光る目にぐっと見据えられたとたん、波瑠は人前で裸身を曝しているかのような奇妙な感覚に囚われた。ところが勘七はそれほど驚きもせずにその男へ挨拶を返した。
「これは、近松さま。この店でお会いしたのはまったくの偶然ですが、今日はきっとこの辺りにたむろしておられるだろうと思っておりました。何といっても『出世景清』の初日ですからね」
「いやこれは参りました。相場や商いの読みも鋭いが、あなたには私の行動もすっかり見透かされとりますな…」
勘七から、近松さま、と呼ばれた男は襟を大きく肌けた胸のあたりを爪の先で掻きむしりながらそう言うと、
「…実はさきほどからずっと話の相手を探しておりましてん。どうですやろ。久しぶりに無駄話のおつきあいを願えまへんやろか」
とくだけた口ぶりで続けたあとで、ようやく勘七の傍に立っている波瑠の存在に気づいたようなふりをして、
「…あっ、これは失礼。まったく気がつきまへんでした。今日は女子はんとご一緒でしたんかいな」
と大袈裟に叫ぶなり、手に持った扇子の背で広い額をぴしゃりと叩いてお道化て見せた。しかしそんな瓢軽な仕草が、それまでじゅうぶん余裕があった勘七をかえってあわてさせた。
「嬢はん、いや…波瑠さん。この方はね、竹本座の座付き作者をしておられる近松門左衛門さまなんですよ。ほら、さっき二人で観た『出世景清』の台本をお書きになった方です」
「そう…」
しかし波瑠の反応は意外に素っ気無いものだった。
近松門左衛門といえば今をときめく人気浄瑠璃作家である。その当人が目の前にいて、わざわざ声をかけてくれているのだから、大抵の人なら目の色を変えるところだろう。だが波瑠はどこまでも浮かない顔をして勘七の背に隠れたきりなのだった。
「波瑠さんとおっしゃいますか、これは突然のお目もじで恐れ入ります。いまも勘七はんからご紹介いただきましたように、私は筆一本で世すぎをしているしがないもの書きで、近松門左衛門と申します。以後どうかお見知りおきを」
近松門左衛門は波瑠の顔を覗き込むようにぐるりと頭をめぐらすと、丁寧すぎるくらいの挨拶をして寄越した。
「初めまして。波瑠でございます」
しかたなく波瑠は消え入りそうな声で自分の名前を名乗った。
「お話から察しますと、お二人はいま竹本座からのお帰りのようですな。これはまさしく好都合というもの。ずっとこの店で、芝居帰りの客が交わす話に耳ををそばだて、なおかつ誰か知り合いでも来てくれぬものかと、長らく待ちうけていた甲斐がありました。是非とも今日の芝居のご感想を伺いたいものです」
波瑠は勘七の背からは離れたもののそれには答えなかった。
勘七のほうは「はあ」と気のない反応を返したあとで「近松さま、実は波瑠さんは総支配の娘さんでしてね」と付け加えた。
「ほう…」
話をはぐらかされた近松門左衛門は、それでもとくに気を悪くした様子もなく、また射るような目で波瑠を見つめてから言った。
「勘七はんもご存じやけど、仁右衛門はんなら私はよう知っとります。私と同じように武士を捨てはったお人ですさかいな。重当はんから紹介されていらい他人とは思えず、今も親しゅうお付き合いさせてもろうとるわけです」
思いがけないことを聞かされたので、波瑠は困惑したように勘七を見あげた。勘七はそんな波瑠をなだめるように小さく頷いた。
「しかしあの厳つい仁右衛門はんに、こない美しい娘御がおありやったとは知りまへんでしたな。察するところ波瑠さんはきっと母上に似ておられるのでしょうな」
近松門左衛門はさらにひとり言のようにそうつぶやいた。
するとそのとき、四、五人の新しい客が店の中へどっとなだれ込んできて、案内を待とうともせず勝手に空いている席を占領してしまった。勘七と波瑠は顔を見合わせて諦めの視線を交わした。そこを抜け目なく近松門左衛門が急き立てる。
「さあ、さあ、こっちの部屋は私が借り切っていますから空いておりますぞ。波瑠さん、袖すり合うも他生の縁と言いますやないか。どうか遠慮せんとお上がりください」
それで二人はやむなく近松門左衛門が一人で占領している小座敷へと上がった。彼はどうやらこの店の常連客らしく、慣れた様子でぽんぽんと手を打った。すると今度は待つほどもなく、前垂れ姿の小女が走り寄ってきて、手早く二人の註文を取っていった。
「ところで早速ながらご両人にお伺いしたい。今日の芝居の出来映えはどないでしたやろ。遠慮はいりまへん。どうぞ忌憚の無いご意見のほどを聞かせとくれやす」
店の小女が立ち去るのを待ちかねていたように、近松門左衛門はすぐさま身を乗り出してそう訊ねた。
膝を揃えて座布団の上に腰をおろしたものの、着物の裾をしきりに気にしている波瑠は、依然として黙りこくったままである。それで勘七のほうが感じたままを述べることにした。
「いやまことに素晴らしい浄瑠璃芝居でした。いつもながらの歯切れのよい語り口、そしてまるで宮大工が乾いた桧材に手斧を揮っているような澄み渡った心地よい美声。竹本義太夫はんはすでに名人の域に入っていると言えましょう…」
「いかにも」
「…近松さまの台本がまたその声にぴったりと合っておりました。ですから義太夫はんの語り口の一つ一つが、聞いている者の心の奥深くまで泌々と迫ってまいります。それがさらに見事な人形遣いと溶け合っているわけですから、まるで人形たちが生きているようで、その息遣いまでもが感じられるようでした」
「いやいや、お恥ずかしいかぎりです。まあそういうふうに誉めてもろたら作者としては本望ですけどな。と言いますのも、ほんらい正根なき木偶にいかにして息吹を与え、生身の人間と変わらない情を込めるか、というのが私の目指すところですさかい」
近松門左衛門は面はゆそうな表情を浮かべてそう言うと、冷めてしまった湯をずるずると啜り上げた。
「波瑠さんも同じ思いでして、その昂奮が今もって冷めやりません。そこで熱くなったからだをしばし冷やしてからゆるゆる店へ戻ろうと、このぜんざい屋に立ち寄ったという次第です」
「ほほう。波瑠さんもねえ」
茶碗を持ったままで近松門左衛門は頬を緩めて波瑠の顔を見つめた。
波瑠は近松との距離がそれまでより縮まったぶん、より強くて鋭い視線を感じていた。しかし不思議なことに少しも不快さは感じなかった。何となく身が引き締まっただけである。
それは一年ほど前のことになる。
波瑠は町中で出会った見知らぬ絵師からいきなり声をかけられて、あなたの姿絵を描かせてほしい、としつこく頼み込まれたために拒めなくなり、こわごわながらも細工谷にあると聞いた工房を訪ねたことがあった。そのとき、絵筆を口に咥えたままの絵師の目に凝っと見つめられ、ひしとからだに感じたものに近松門左衛門の視線はよく似ていた。今をときめく流行作家かどうかは知らないけれど、正直なところ波瑠は、勘七と二人きりでぜんざいを食べるという願ってもない機会を、近松に邪魔されて大いに不満だったのだ。だからいくら話しかけられてもずっと押し黙っているつもりでいた。しかし女とは実に不思議な生き物である。無遠慮きわまりない近松門左衛門のその視線が、逆に女心を開くことになった。
そういうわけで波瑠は自分のほうから口をひらいた。
「女には難しいことなど分かりません。わたしはたんに泣いたり笑ったりができて、心の底から楽しむことのできるお芝居なら、すべて本物だと思っておりますから」
「まさしくその通りですよ、波瑠さん。芝居にむつかしい理屈なんぞ要りまへん。市井に漂っている、もののあはれ、をこの手で掬いとり、それをそのままお客へ伝えることができたらすべてがええ台本やし、ええ芝居なんですわ」
「それと、『出世景清』にかぎらず近松さまがお書きになるお芝居は女子どもにも分かりやすうございます」
波瑠は近松の顔を初めて正面から見据えるとそう言い足した。
すると「うん、うん」と何度も頷いた近松門左衛門の頬がいよいよ緩んだ。それがもっとも彼の目指すところだったから、我が意を得たり、というところなのだろう。
「今や世間をあげての浄瑠璃流行りですからね。文字も読めない多くの庶民がこうしてお芝居を楽しめるようになったのも、すべて近松さまがお書きになる台本のおかげです」
勘七も波留に負けてはならじと近松を持ち上げて、場の空気はだんだん盛り上がっていった。
波瑠はしばらく話を交わしているうちに、近松門左衛門のくだけた物言いと飄々とした仕草が、可笑しくて堪らなくなった。彼がかつて武士だったなどとはとても信じられない。父の仁右衛門にはいまなお武張ったところが残っている。武士だけが持っている過剰な矜持さえも捨て去れないでいる。それなのに近松門左衛門は、自分のことを『世のまがひもの』と貶して、自らを嘲り、まるで噺家のようにしきりと周囲を笑わせるのだった。
「ところで、重当はんはお変わりなくご壮健ですかいな。ここしばらくご無沙汰しとりますが、気にかけておりました」
机上に置いた煙草入れからきざみ煙草を出して煙管に詰め込むと、近松門左衛門はいきなりそう言って話題を変えた。
「はい、それはもうお元気でいられます」
「ご不幸続きでさぞお気落しやろうと、かねがね心を痛めとりました。お店へお帰りになりましたら、いつか交わしたお約束は必ず果たしますさかいご安心を、とお伝えください」
近松門左衛門が、ご不幸続き、といったように、淀屋重当はこれまでに多くの子どもをまだ幼いうちに亡くしていただけでなく、先妻のえん(日円)や後妻のもと(素月)まで立て続けに失っていた。
「承知いたしました。必ず伝えます」
勘七は思わず背筋を伸ばしてそう応えた。近松門左衛門の表情が急に変わったことに気がついたからだ。
「私はかつて武士のころ、後水尾天皇の弟君や公家の正親町公通さまにお仕えしたことがありましてな。重当はんとはその頃からの長いお付き合いですねん。その後に武士を捨てて浄瑠璃作者を志した私は、長いこと日々の食にも事欠くほどの貧乏の極みにありましたんやが、重当はんはそんな私を陰になり日向になって支えてくれはりました。そやから弁護するわけやおへんけど、いま世間ではあの人のことを放蕩者とか穀潰しとかさんざんに噂しとりますが、絶対にそんなお人やないということはこの私がいちばんよう知っとります。ただあの人はたった十四歳で日の本一番の大店を継ぎはってから、背中にいつも重たい荷物を背負い続けてはりますのや。余人には分からないその苦しみが、ときに羽目を外したお大尽遊びになったり、人も怪しむ奇怪な行動になったりはしますけど、そんなことはちっとも心配することおまへん」
すでに重当や仁右衛門の絶大な信頼をかちえて、淀屋の枢機に関わることまで参画することを許されている勘七には、そういうことは今さら言われなくとも承知している。重当が新町や島原などの遊郭で人が眉をひそめるような派手な遊びを繰り返したり、夜中に半裸の状態で市中を走り回ったりするという狂気じみた奇矯な行動には、すべて何らかの意味と目的があるのである。
しかしそういう勘七にも近松門左衛門の話の中に一つだけ初めて耳にすることがあった。それで内心の動揺を見透かされないように気をつけて、勘七はさりげなく訊ねてみた。
「旦那さまは京のお公家はんとも交わっておられるのですか」
「そうどす。それがどないかしましたんか」
近松門左衛門が不審げにそう問い返すと、勘七は「いや…」とつい口ごもってしまった。すると近松はさすがに勘七の心の中をすっかり見透かしたのか、少し冷ややかな口調になって応えた。
「重当はんは商いの世界だけや無うて、能舞、茶の湯、謡曲、連歌、蹴鞠、香合わせなど、芸能や学問にも造詣の深いお人ですさかいな。そのような場を通じて京の町衆やお公家衆にも知己が多うおます。そればかりやおまへんで。名だたるお大名や幕閣のかたがたはもちろんのこと、儒学者や朱子学者、僧侶、茶人、俳諧師、はては戯作者や歌舞伎役者に至るまで、当代一流と世間で評判をとってはるようなお人で、重当はんとお付き合いの無い人を探すほうが、はるかに難しいくらいですわ」
「それは手前もよく存じていますが」
「そやったら話は早い…」
近松門左衛門はぎろりと白眼を剥くと突き放すように言った。
「…あんたはんが不安な気持を抱きはったり、そういう気配が私のような者にもすぐ伝わってくるようなことがらや。あの無類に聡明な重当はんに分からないはずがおへん。つまり心配は無用ということですわ」
その場の雰囲気が少しおかしくなりかけた。しかし波瑠にはまるで禅問答のような会話の内容をまったく理解できない。だからはらはらしながらも二人の顔をただ見くらべているだけだった。
やがて近松門左衛門は雁首を灰吹きに叩きつけると、長い煙管を煙草入れに仕舞い込んだ。そして「よっこらしょ」と掛け声をかけてその場に勢いよく立ち上がってから言った。
「いや、たいそうお邪魔をいたしましたな。いつまでも私などがおりましてはせっかくのぜんざいが不味うなりますやろ。お二人からは『出世景清』の貴重なご意見も伺えたことですので、邪魔者はそろそろ退散することにいたしましょう」
「いや、邪魔者などと決してそんな…」
勘七が慌ててそう言うと、波瑠も頬を染めてうつむいた。
立ち上がると近松門左衛門はたちまち身のこなしが軽くなった。そして大きな声で店の小女を呼び寄せて自分の勘定だけを済ませると、店の入り口を見やりながらやや声をひそめて二人に告げた。
「それにあんまり長話を続けとりますと、この暑い最中に、ご苦労にも表で見張ってくれている町方に怪しまれますからな」
「えっ、表に町方ですって…」
勘七は怪訝な顔になって近松門左衛門を見あげた。
だが勘七が発した問いかけなどまるで無視して、小座敷の上がり框に揃えてあった草履をひょいと突っかけた近松門左衛門は、あとは二度と声をかけたり後ろを振り返ることもなく、さっさと店を出て行ってしまった。
近松門左衛門がいきなり居なくなってしまった小座敷には、呆然としている勘七と波瑠、そして冷めかけのぜんざいだけが残された。
いざ二人きりになってみると、勘七と波瑠は話の接ぎ穂が見つからずに、たちまち伏し目がちになった。やがてどちらからともなく塗り箸を取り上げてぜんざいを啜りはじめる。すると、椀の中のとろりとした小豆の煮汁が、二人の思いを代弁しているように甘く、重苦しく、喉を通り過ぎていった。
「ねえ波瑠さん。道すがら裏御堂さんへ立ち寄りましょか」
先にぜんざいを食べ終えた勘七がまず声をかけた。
御堂さんというのは難波別院(南御堂)と津村別院(北御堂)のことである。庶民から浄土真宗の寺院として親しまれており、当時はこれを裏御堂、表御堂と呼んでいた。
「そうね。そうしましょうか。子どもの頃には二人でよく遊びに出かけたものね。最近はちっとも誘ってくれなくなったけど」
少し遅れて箸を置いた波瑠は、上気した頬をぷっと膨らませたものの、いかにも嬉しそうに応えた。
「まだ小僧だったあの頃といまは違います。いまの手前には皆さまの期待に応えなければらない大切な仕事がありますから」
「そんなありきたりの言い訳は聞きたくないわ。勘七さんはわたしが嫌いなの、それとも好きなの」
波瑠は勘七を非難するような強い口調でそう迫った。そして引き寄せた湯呑みを柔らかく両の手で包み込むと、まるでその中に恐いものが潜んででもいるかのようにそっと覗き込んだ。
「もちろん大好きですよ」
「それならわたしをお嫁にもらって」
女のほうから発した突然の求婚だった。波瑠はさすがに湯呑みを覗き込んだまま顔をあげられなかった。
「えっ…」
勘七は我が耳を疑った。断崖から身を投げるほどの覚悟で告白した波瑠自身も、くらくらするような恥ずかしさに身の置き所がない様子である。しかしそれほどの思いで告白したというのに、勘七は波瑠の求婚に対してすぐには答えられなかった。というのも勘七は、波瑠は牧田仁右衛門の娘ではなく実は淀屋重当の娘なのだ、という
ことをすでに二人から聞かされていたからだ。
それは二十年以上も前のことになる。
ある日、淀屋岡本重当は浪人武士の牧田仁右衛門と運命的な出会いをする。そしてしばらく親しく交友を重ねているうちに、重当は仁右衛門という男の魅力的な人柄にすっかり惚れ込んでしまい、ちょうど武士の身分に見切りをつけて商人になることを望んでいた彼を、いわゆる「三顧の礼」をもって淀屋へ迎え入れるのである。いらい重当は仁右衛門を、互いに腕の血を啜り合ったような盟友として大切にしているし、淀屋を護り抜く戦いで采配を揮ってくれる軍師とも仰いできたのである。そればかりではない。兄弟姉妹のいない重当は仁右衛門を実の弟とも思ってきたのだ。
淀屋入りした仁右衛門は一商人に徹して重当をよく補佐した。右腕になったというよりも一体になったと言ったほうがよいだろう。またお互いに年令が近かった二人は、常に「日と影」の関係であり続けようと決めた。日の本一の豪商として光り輝いている淀屋重当という日輪に対しては、一挙一動のすべてに世間や公儀の目があつまってしまう。つまり重当がやる日々の言動の一つ一つが、三つの市場を無用な混乱に陥れたり、公儀をいたずらに刺激するという結果を招きかねないのだ。そういった宿命的な不自由さを克服するとともに、世間や公儀の眼を晦ませながら淀屋の将来にとって必要な布石や施策を打っていくために、重当という輝く日輪の影法師に徹した仁右衛門が自由自在に動こうというわけである。またある時には、その日輪と影法師がぴったりと重なり合うことによって、公儀や世間の目を欺くことができた。だから二人はあえて婚礼まで同時に挙げることにした。
二人を結ぶ因縁の糸はそれだけではなかった。
重当が妻に迎えたえん(日円)はお国腹であるとはいうものの、米津田盛という歴とした大名家の娘だった。ところがえんには生まれてすぐ家臣の家に貰われたれん(蓮)という名の双子の妹があった。そのれんが奇しくも牧田家へ嫁すことになるのである。いちばん驚き慌てたのは実父の米津田盛だった。そのために米津田盛はしかたなく娘のえんとその婿となる重当に対して、またそれまで養父として育ててきた件の家臣はれんと仁右衛門に対して、それぞれがその事実を打ち明けなければならないという羽目になった。
こうして重当と仁右衛門は期せずして義兄弟の関係になってしまうのである。さらに二人の因縁の深さは、えんとれんがほとんど相前後して波瑠と都璃という女子を生む、という結果をもたらした。すると重当はいきなり「いま天啓の閃きがあった!」と称して、「お互いの赤子を取り替えようではないか」と言い出したのだ。
「双子の姉妹がほとんど同時に生み落とした娘たちや。まだ産褥を出ぬうちに赤子を取り替えれば誰にも気づかれる恐れはない。それに他家へ出した子は元気に育つという俗信もあるやないか」
それが重当の勝手な言い分だった。とても賛同はしかねたけれど、仁右衛門はついに押し切られる格好になった。
だがそんな経緯があって淀屋重当の娘となった都留は、俗信にもかかわらず一歳にもならないうちに死んでしまう。いっぽう牧田仁右衛門の娘になった波瑠のほうは、絵師の心をそそるほど美しい娘に育っていたのである。
勘七と波瑠は押し黙ったままぜんざい屋を出て操橋を渡った。
久宝寺筋を北の方角へ向かい、やがて裏御堂の境内へ入った。二人は御堂さんの前に並んで長い祈りを捧げた。だがその祈りが終わると波瑠はとうとう我慢しきれなくなって、
「お願い。何か言ってよ、勘七さん」
と絞り出すような涙声で幼なじみを促すのだった。その声で意を決した勘七はようやく重い口をひらいた。
「さっき波瑠さんから、お嫁にもらって、と言われたときは嬉しくて天にも昇る心地でした。ですが手前などには、お嬢さんをください、と総支配へお願いすることなど、到底できません。それに総支配は絶対にお許しにならないでしょう」
「なぜなの。どうして父が許さないなんて勘七さんに分かるの」
「それは…」
強い決意にもかかわらずたちまち勘七は言い淀んでしまった。すると波瑠はその眼に溢れるほどの涙を湛えて言った。
「わたしにはいま島之内の杵屋さんとの間で縁談が進められています。それは勘七さんも知っているでしょう」
「はい。店の者たちがさかんに噂していましたから」
「知っての通りわたしは今年で十九歳になります。もう嫁き遅れに近いくらいの年齢だから、このままだと間違いなくその商家へ嫁ぐことになってしまうわ」
「杵屋さんとのご縁談は旦那さまじきじきの肝入りで進められていると伺っています。ですから波瑠さんの気ままなどまず通りはしません。そればかりかこのご縁談は、おそらく総支配といえども断るわけにはいかないでしょう」
「そうね。わたしもそう思うわ」
波瑠はあっさり勘七の見解を肯定してから振袖で涙を拭うと、
「それならいっそ二人して江戸へ下りましょうよ。神田知足院の隆光さまをお頼りすれば何とかなるわ。わたしたち、淀屋とはこのさいすっぱり縁を切ってしまうのよ」
熱に浮かされてまたまた思いもかけなかったことを口走った。
《なるほど、隆光さまか》
勘七は波瑠から目を逸らしながら胸の裡でつぶやいた。
遠縁にあたる隆光栄春の大きな顔と太い眉が勘七の目に浮かんできた。真言宗真義派の僧である隆光は、大和国長谷寺の学僧だった頃からすでに異彩を放つ存在だった。学識の深さに加えて加持祈祷がまことに効験あらたかだと世間では評判だったのである。重当と仁右衛門はいちはやくそんな隆光に近づいて、これまで巨額の資金援助を行ってきた。仏僧ながら野心に溢れていた隆光が将軍家へ食い込もうと目論んでいたからで、これは公儀の動きを探りたい重当と仁右衛門にとって願ってもないことだったのだ。つまり隆光への資金援助は淀屋を護るための先物買いなのである。
その甲斐あってか隆光は先輩僧である亮賢の推挙で江戸へ招かれ、今では将軍家の祈祷所(神田外の知足院)を預かる身分になっていた。そして隆光が江戸へ下るにあたって、監視役と人質を兼ねるかたちで淀屋へ送り込んでいったのが、大和国の竜田の生まれで、彼の遠縁にあたる勘七だったのである。
淀屋の屋敷うちで育った幼なじみとはいうものの、勘七よりずっと年下の波瑠はもちろん隆光をめぐるそんな経緯を知らない。
「勘七さんは淀屋と縁を切るのが嫌なの?」
だから波瑠からもう一度そう言って詰め寄られても、勘七にはまたしても返す言葉が無いのだった。
淀屋へ丁稚として送り込まれた勘七はつらい立場に置かれてしまった。江戸の隆光は大和竜田に住んでいる勘七の兄の藤吉を介して、淀屋の内情を細大漏らさず報告するように求めてきたのである。しかたなく勘七は何度かその要請に答えた。そしてそのたびに上司の仁右衛門や主人の重当への後ろめたさに苛まれた。
だがまことに幸いなことに、隆光がめざましい栄達を遂げるにつれて、そういう要求はだんだん途絶えはじめるようになった。そしていつしか重当と仁右衛門が、何かと商才がきく勘七に対して、にわかに信じがたいほどの目をかけてくれるようになった。勘七よりはるかに幼いころからの叩き上げできた丁稚たちを差し置いて、真っ先に手代に取り立ててくれただけではない。いまでは総支配の仁右衛門とともに重当を助けるべく、淀屋の枢機にまで関わる存在になっていたのである。つまり本来なら、大和竜田の地で貧しいままに朽ち果てていたであろう身がここまで出世できたのは、隆光栄春のおかげというよりはむしろ重当と仁右衛門のおかげなのだ。だからそういう勘七としては、二人がともに進めている波瑠の縁談に異論を唱えることなど出来るはずがない。まして駆け落ちなど論外だった。だがそれでも勘七の心は激しく揺れていた。
勘七はようやく重い口をひらいた。
「波瑠さん、ありがとう。あなたの気持は生涯忘れません」
御堂に背を向けて波瑠を見据えると勘七はさらに言い継いだ。
「女のあなたから駆け落ちをしようとまで言われながら、それに応えることのできない手前は本当に臆病者です。卑怯者です。それでも勘七は死ぬほど波瑠さんが好きです。それはどうか信じてください。そしてもしこの身が淀屋の雇い人でなかったなら、いますぐにでも波瑠さんをこの手に奪い取って、地の果てまでも逃げて行きたい、と思う心に偽りはありません」
「…」
「人も羨む淀屋という大店を辞め、手代という職を失うことを惜しむからではありません。ですがいまの手前には、これまで望外の大恩をいただいてきた旦那さまや総支配の期待を、波瑠さんとの駆け落ちというかたちで裏切るような真似は、たとえ天地が逆しまになろうともできないのです。どうか許してください」
勘七がそう言って深々と頭を下げると、波瑠の目から堪えきれなくなった涙がどっと溢れ出た。
幼いころ、波瑠はかなり年上の勘七にまとわりついて離れなかった。もっと近くでお城を見たい、とせがんでは京橋口までこっそり連れて行ってもらったことがある。天神祭りや堀川戎や神農さんの祭礼に必ずお供してくれたのも勘七だった。波瑠はそのたびに、足が痛くなったと言っては駄々をこね、彼の背中をねだったものである。ところが急速に大人びて美しくなった波瑠は、いつしか勘七によそよそしくするようになり、屋敷内でたまに顔を合わせてもわざと視線を逸らす時期がこのところ続いていたのである。
「波瑠さん。手前はいま御堂さんの阿弥陀仏さまに約束してきました。たとえこのさき離れ離れになろうとも、幼い頃のようにずっとあなたをお守りしますとね。そしてその約束を守り抜くためにも手前は、生涯、妻を娶ることはありませんと」
「もういいのです、勘七さん」
波瑠は泣きじゃくりながらそう言うのが精一杯だった。
自分でも遣り切れなくなるほどの激しい愛の告白だった。そればかりか女の身でありながら、ともに手を携えて駆け落ちしよう、とまで口走って男に迫った。いまそのことが波瑠の心に重くのしかかっていた。だが少しも後悔はしていない。
妙恵の夏風邪がもたらした突然の芝居見物が、幼なじみの男女が初めて経験する逢瀬となり、同時に悲しい別れの場になってしまった。もともと結ばれない運命にあったとはいえ、お互いの心の内を確かめ合えたことが幸せだったのか、不幸せだったのか、それはいつの時代も同じで誰にも分からない。
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