日と影とー大坂淀屋闕所始末

歌垣丈太郎

序章 東町同心の怨み       

             序章 東町同心の怨み


√ ねんね ころいち 天満の市よ    

  大根そろえて 舟に積む

  舟コ積んだら どこまで行きゃる 

  木津や難波の 橋の下  ………

 生き馬の目を抜くような取引が終わった青物市場の昼下がりである。どこかで拾った中折れ牛蒡を刀剣に見立てて、戦さごっこをして遊ぶ子供たちが甲高い声で『天満の子守唄』を歌いながら、人っ気の少なくなった市場の中を右へ左へと駆け巡っている。青物に限らず諸物価は連日のように高騰している。そうなってしまうと僅かな元手で商品を仕入れて市中を売り歩く振売り商人などは、資本力や多くの卸し先を持っている仲買人たちに勝ち目などない。

 大坂東町奉行所の同心鶴田錦吾は、その振売り商人がようやく競り落としたあと、仮置きしている荷駄の端に腰を落として、手下の作蔵が戻ってくるのを待っていた。のんびりと煙草をふかしていると、目の前を五、六歳の男の子が駆け去って行った。その男の子はよほどの餓鬼大将とみえて、擦り切れた着物の裾からのぞいている生傷だらけの足は右手に握った牛蒡のように泥まみれで、瞬くうちに葦簀張りの仲買人詰め所の裏手へと消えてしまった。鶴田錦吾はその後ろ姿を目で追いながら深い溜息をついた。そして呻くように短くつぶやいた。

 「清太郎…」

 清太郎というのは鶴田錦吾の妹、紀代の息子である。錦吾にとってはたった一人しかいない可愛い甥っ子だった。

 鶴田錦吾の父親も奉行所の同心を務めていた。だが十年ほど前に、路地裏まで追い詰めた盗賊一味の思いがけない反撃に遭って殉職した。母親もそのあとすぐに病をえて死んだ。だから錦吾は父の跡を継いでから、唯一の身寄りとなった幼い紀代を、ふた親代わりになって育ててきたのである。

 その紀代がやがて年頃を迎える頃になると、錦吾は自分のことなどそっちのけで、奉行所の同役や上役たちへ縁談の世話を頼んで回った。それでもなかなか良縁を得られないままに日を過ごすうち、兄の苦労に気がねしていた紀代は、いきなり島之内の商家へ嫁入りすると言い出したのだ。

 その相手は川口屋清兵衛という紀代より十五歳も年上の男だった。手下の作蔵を使って密かに調べてみると、島之内にある川口屋は地元で五代も続いた米問屋で、当主の清兵衛は身持ちもよくて手堅い商いをするという評判の商人だった。また聞けば、たまたま道頓堀の芝居小屋で紀代を見かけた清兵衛がたちまち一目惚れして、大胆

にも鶴田家出入りの小間物屋を介して付け文を送りつけてきたということで、そういうことがたび重なるうちに、紀代もとうとう彼の真情にほだされてしまったというのである。

 だが鶴田錦吾はその縁談に賛成できなかった。いまや武士といえどもあっさり町人になってしまう時代だ。たかが下っ端役人である同心の妹が米問屋へ嫁したところで何の障りも無かったが、錦吾は紀代の行く末をくれぐれもと自分に託して死んで行った父と母に、それでは申し訳が立たない気がしたのである。ところが当の紀代の決意は彼の予想以上に固く、錦吾の反対や心配をよそにさっさと川口屋へ嫁してしまった。そして夫の清兵衛に心から可愛がられて幸せな日々を送るようになり、十月が経つと当然のことのように子を生した。しかも川口屋としては期待に違わない男の子で、その子は清兵衛の一字をとって清太郎と名付けられたのである。また紀代夫婦はさらにその四年後に娘の綾をえていた。

 その頃になると、同心の鶴田錦吾は役目がらの市中見廻りのついでに川口屋清兵衛の家を訪ねて、しばしばその庭先を覗くようになっていた。すると兄の姿を目ざとく見つけた紀代は縁側で娘の綾に乳首を含ませながら、

 「あら、いらっしゃい。このごろ少しばかり痩せたみたいだけど、三度の食事はちゃんと摂っているんでしょうね。兄さんもそろそろ良い年なんだから、いつまでも独り身でいるもんじゃないわ。いいかげんにお嫁さんを貰いなさいよ」

 などと言ってえらそうに兄の尻を叩いたり、清兵衛とののろけ話を聞かせたりする始末なのだった。

 そうこうするうちに鶴田錦吾は、しばらく清兵衛の家の庭先にしゃがみ込んで、早くも悪戯ざかりになった甥の清太郎を刀剣に見立てた枯れ木の枝で遊ばせながら、紀代が自分の意志で得たそういう幸せそうな生活を眺めることが楽しみになっていた。だが貞亨五年が元禄元年(一六八八年)と改まった三年前の秋のことである。好景気の波に乗ってどんどん業容を広げていた川口屋を突然の不幸が襲ったのである。

 思い出したくもない、というふうに鶴田錦吾は強く首を振った。

 あまり手入れが行き届いているとは言えない錦吾の月代を夏の日差しがじりじりと焦がしている。その強い光線がいきなり目の前に立った人影でほんの一瞬だけ翳りを見せた。続いて日ごろ聞き慣れている下っ引きの作蔵の声がした。

 「錦吾さま。ただいま戻りました」

 錦吾の前に五十がらみの男がそう言って膝をついた。作蔵は父の代から使っている鶴田家のたった一人の私偵である。

 「おお、待ちかねたぞ…」

 錦吾は切れ長な眼を眩しそうに瞬いてそう応えた。煙管の火はとっくに消えてしまっている。

 「して、首尾はどうだ」

 「上々です。数多い使用人の中でも下調べを重ねて、飛び切りの不満分子を選びましたからね。まずは明日を手始めに、手代の嘉助が実行する手筈になっています」

 「そうか。臍を噛む重当や仁右衛門の顔が早く見たいものだ」

 いかにも満足そうにそう応えると、錦吾は端正に整っている顔立ちには似合わない残忍な笑みを泛べた。

 「あの二人、自分たちが使う手の内を読まれたうえ、それを逆手に取られるわけですからな。そりゃあ大慌てするでしょうよ」

 作蔵は日がな市中を走り回っているために治るひまもない足指の血豆を撫でながら応えた。

 重当というのは豪商として名高い淀屋の四代目、岡本三郎右衛門重当のことである。また仁右衛門は彼の腹心ともいえる存在で、店の総支配を務めている牧田仁右衛門のことだ。

 徳川家康による江戸開府いらいすでに八十余年が経つが、幕藩の体制には財政的な歪みが生まれていた。急速な商品経済の発達が一部の町人階級への富の集中を呼んで、諸藩の財政を窮迫させることになったのである。そして蔵元と呼ばれる有力町人は、何年も先の年貢までを質草にとって、諸藩へ巨額の金を貸しつけた。その代表

的な存在といえるのが大坂の淀屋だったのだ。幕府といえども諸藩とそれほど事情は変わらない。そこで幕府は二つの荒療治をおこなった。それが大小名の改易・減封・移封であり、淀屋のような豪商の力を削ぐことだった。

 重当たちはそういう幕府の動きを事前に察知して、万一の場合に備えた色々な対抗策を打ってきていた。その一つがお店の不祥事を装った現銀の隠匿である。つまりあらかじめ言い含めた信頼できる使用人に、逃亡先や回収方法を細かく指示命令したうえで、あえて莫大な現銀の拐帯逃亡事件を起こさせるという方法である。もちろん淀屋は世間の信用を少しばかり失うことになる。だがこの策はそういう負の側面を補って余りある成果をもたらした。

 鶴田錦吾たちは淀屋の内情を探っているうちにそのからくりに気がついた。そしていまそれを逆にこちらから仕掛けようとしているのだった。ただ錦吾は奉行所からの命令を受けて淀屋を探っているわけではない。むしろこの三年ばかりというもの、錦吾は上司の命令には一切服さずに、私的な怨みから淀屋を追っているのだった。

 「それで嘉助は明日、いかほどの現銀を持ち出すのだ」

 「三千貫(約五万二千両)くらいにはなりましょうか」

 「何と気の遠くなるような額だな」

 「なあに淀屋にとっちゃはした金ですよ。それにこれまでと同じように奉行所へ被害届けを出すことは無いでしょう。そんなことをすれば要らぬ詮索を受け、恥の上塗りになるだけですからね」

 「ふむ…」

 作蔵の読みは正しい、鶴田錦吾はそう思った。

 淀屋重当の腹心である総支配の牧田仁右衛門はかつて武士だった。つまり商人としてはかなり異色な出自であり、自分と同じ武士であっただけに、錦吾には彼の心のうちが読める気がするのだ。その仁右衛門はかなり以前から淀屋の用に供するために多くの私偵を使っている。ゆうと名乗っている女遊芸人や、千次という唐物屋を表向きにする男などだ。だから当然ながらこちら側の動きもある程度は掴まれているものと覚悟しなければならない。たとえば明日、淀屋の嘉助が作蔵の指示通りに拐帯逃亡を成功させれば、彼らは裏で糸を引いている者が誰なのか、すぐにも探り当てるだろう。だが下手をすれば、自分たちが始めた現銀隠匿の手口までが暴かれかねない奉行

所へ、恐れながら、と届け出るわけはないのだ。

 『それでよい。いまさら奉行所などに出張られたのでは、これまで一人で辛抱強く重ねてきた苦労が泡と消えてしまう。やつらを追い詰めるのはこれからなのだからな』

 心の中でそう呟きながら錦吾はようやく荷駄から腰を上げた。

 ここは大坂中之島にある天満の青物市場である。かつてこの市場は淀屋の初代当主だった岡本常安(个庵)の屋敷内で開かれていたのだが、その後、京橋片原町を経て水運のよいこの中之島へ移ったのである。ここには市内各所に散在する八百屋へ卸している仲買人のほかに、僅かな青物を買い取って直かに市民へ売り歩く振売り商人がいた。いつもならこの時刻にはその姿のほうが目立つのだが、早暁から高値で捌けてしまう昨今はめっきりその数が減っている。近ごろは青物に限らず全てがこんな調子だったから、誰もがその日の暮らしにすら青息吐息するという有様だった。

 とはいえこの青物市場は鮮魚類を扱う雑喉場や北浜の米市場とともに、いまや大坂三郷(大坂城下にある北組・南組・天満組という三つの町組の総称で、現在の大阪市域よりはるかに狭い区域)に住まいしている三十万人の胃袋を満たす場になっていたのである。淀屋はこれらの三市場を完全に掌握していた。

 「錦吾さま。明後日は川口屋さんご一家のご命日にあたります。泉下の紀代さまもさぞやお喜びでございましょう」

 下っ引きの作蔵は土佐堀川に沿って京橋方面へ歩きはじめた鶴田錦吾の背後からそう声をかけると、

 「あのとき川口屋さんご一家が入水されたのはこの川の上流でした。たまたま通りかかったくらわんか舟が、清兵衛さんと紀代さま、それに綾さまのご遺体を引き上げてくれましたが、清太郎さまはとうとう見つからずじまいに終わりました。お可哀相にきっと茅渟の海(大坂湾)まで流されておしまいに…なったのでしょう」

 と続けてぐっと喉を詰まらせた。

 くらわんか舟というのは、京へつながる淀川を往来している三十石船に漕ぎ寄って、飯、酒、田楽、餅、団子などを「食らわんか、食らわんか」と怒鳴りながら船客に売った商い舟のことである。船客の注意をひくために悪口雑言を吐き散らしたことで有名だった。

 川口屋清兵衛は好景気に後押しされて家業を伸ばした。だがそれでつい自分の能力を過信してしまったのだろう。手固い商売をすることで知られていた彼が、まるで魅入られたように米投機へ手を伸ばし、まさしく一朝にして丸裸になってしまったのだ。そして悲嘆にくれた一家はその日のうちに淀川へ身を投げてしまう。

 鶴田錦吾はそのことを川番屋からの報せで知った。

 三人の検死に立ち会ってきた仲間の同心が、錦吾のところへやってきて、しっかりと油紙に包まれている二通の封書を置いていった。そのうちの一通は妹の紀代からの遺書で、中にはこれまで色々と世話になったことへの感謝の思いと先立つ不幸を詫びる言葉が短く綴られていた。そしてもう一通は清兵衛からのものだった。だがそれ

は義兄にあたる錦吾への書置きというよりも、奉行所の役人としての彼に託した訴状ともいえる内容だった。その遺書には、米市場で米価を不当に操作しているのは淀屋であり、自分はそのからくりに填められてこういう結果を招来してしまったのだという意味のことが、乱れた筆遣いで切々と認められてあった。読み終えた錦吾は悲しみに驚きと怒りが加わって逆上した。

 鶴田錦吾はすぐさま清兵衛の訴状(書置き)を上司の与力へ差し出して真相の究明を願い出た。与力くらいでは埒があかないと知るや、直に奉行へ掛け合ったりもした。だがそのときの奉行所は、その勢威の極みにあった淀屋をむやみに刺激することを懼れて、ついに探索許可を出さなかったのである。もちろん錦吾としては納得がいかない。それなら自分一人ででもことの真相を究明して、紀代たちの恨みを晴らしてやると固く心に決めたのである。  

 それが三年前の元禄初年のことだ。しかしこの三年の間に幕府の方針は急転換していた。いまや大坂奉行所は幕閣から伝えられた密命を受けて、与力のみならず奉行自らが淀屋の動きの詳細と、そのあら探しに取り組んでいたのだ。しかし近ごろはほとんど奉行所へ顔を出していない錦吾はそんなことを知らない。

 「あのとき、紀代や清太郎とともに儂の人生も終わった。だからいまの儂は復讐の心に取り憑かれてしまった悪鬼と同じだ。もはや米価の操作があったか否かなど、どちらでもよい。ともかく淀屋の一族に紀代たちと同じ苦しみを味あわせてやるのだ」

 鶴田錦吾は誰に言うともなくそう呟いた。そして土佐堀川の対岸に他の家々を威圧するように並んでいる淀屋の屋敷群と、その店前に今日も蝟集している人の群れを遠目に眺めた。

 「そうですとも錦吾さま…」

 耳ざとくそれを聞きつけた作蔵はすかさず相槌を打った。

 「…拐帯逃亡という公儀を欺く荒業で現銀を隠匿したり、浄瑠璃作家を使って京の公家どもへ近づいてみたり、果ては質素倹約令を無視した贅沢と遊蕩三昧。そもそも川口屋さんの一件が無くとも、淀屋重当の所業には許しがたいものがあります」

 「確かに大名家から迎えた先妻が死んだと思ったら、その喪も明けないうちに新町の遊女を身請けして後妻に据えるなど、重当のやつめ、言語道断の振る舞いだ。必ず天罰を下してやる」

 「後妻になったもと(素月)は新町では揚巻太夫と名乗っていましてね。あっしなんかは遠くからただ拝んだだけですが、震えがくるほどのいい女でしたよ。そのもとも去年亡くなっちまいました」

 「あれはいい気味だった。しかし先妻のえん(日円)はついに子を遺せなかったが、もとは死ぬ前に二人の男子を遺しおった。重当というやつ、どこまでも悪運の強い男だな」

 「そんな不埒な商人を奉行所はなぜいつまでも放っておくのです」

 「さあな。下手に突っつくと困る者がいるのだろう」

 「なるほど。いまの淀屋にはお上ですら頭が上がりませんからね」

 「儂としてはそのほうが助かる。自由に動けるからな」

 それはそうだと作蔵は合点した。錦吾が言うように今さら奉行所に動かれてはこれまでの苦労が泡になってしまうと思った。

 鶴田錦吾と作蔵はそのまま淀屋橋を渡った。

 その昔、店頭に群がってくる人たちの便宜をはかろうと、淀屋が私費で架けたといわれる橋である。その橋を渡り切るとたちまち雑踏に巻き込まれた。二人は人波をかき分けて足早やに淀屋の店先を通り過ぎると、北浜の外れを南へ折れた。右手には高い板塀に囲まれた淀屋の屋敷群が延々と続いている。

 木材を扱っていた淀屋初代の岡本常安は、慶長二十年(一六一五年)、大坂夏の陣に際して徳川方へ陣小屋を献上した。豊臣家を滅ぼすに至った戦いの後、常安はその功績によって家康から山城八幡の地を知行地として安堵され、苗字帯刀を許される。そればかりか当時は田畑の肥料として貴重だった干鰯の専売権をえて巨大な財をな

したのである。

 淀屋はその後、常安の娘のきいが養子を迎えて跡を継いだ常安橋家、そこから岐れた大川町家と斎籐町家、また大豆葉町家というように四つの分家を生んでいた。だがここで取り上げる淀屋とは、常安の嫡男だった岡本言当が二代目を継いだ、本家になる「淀屋橋岡本家」のことだ。言当の甥でその養子となった三代目は箇斎と言った。四代重当の父である。

 淀屋は現在の地名で言うと大阪市中央区北浜三丁目の辺りにあった。その屋敷の威容は想像を絶するものがあり、たとえば惣構えなどは百間(百八十㍍)四方にも及び、敷地面積は二万坪(六万六千平方㍍)を数えた。またそこには手代だけでも三十人が働いている巨大な店舗の他に、当主一家が住んでいる贅を尽くした本宅と、多

くの使用人が住む長屋まであったのだ。

 今しもその長屋の裏手とおぼしき辺りに二丁の町駕籠が据えられていた。駕籠かきの男たちが毛脛もあらわに膝を折っている。間もなく通用口の潜り戸が開いて二人の男女が出てきた。

 その姿を見つけるなり錦吾と作蔵は慌てて物陰に隠れた。

 男はまだ若いが世間では切れ者として評判になっている手代の勘七で、女のほうは牧田仁右衛門の娘の波瑠だった。

 通用口を出た勘七はやさしく波瑠の手を取ると駕籠の中へ導き入れた。そして駕籠かきの男たちへ何やら短い指示を与えてから、自らも急いで後ろの駕籠へ乗り込んだ。耳ざとい錦吾と作蔵には、そのとき勘七が「道頓堀の竹本座まで行っておくれ」と告げたように聞こえた。だとすれば二人はこれから芝居見物に出掛けるのである。

 錦吾は作蔵へ黙って目くばせをした。二人の跡を追跡せよという合図である。竹本座は『出世影清』の初日と聞いている。作者は淀屋重当に繋がっていると思われる近松門左衛門だった。

 『それなら近松門左衛門はきっと道頓堀の辺りにいるはずだ。そして仁右衛門の命を受けた勘七は芝居見物のふりをして、彼と密かに接触をはかるつもりなのかもしれない』

 二丁の駕籠を追って遠ざかる作蔵の後姿を見つめながら、錦吾はそのように思いをめぐらした。そしてふたたび夢を見るような目つきになって紀代と清太郎の顔を思い浮かべた。 


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