夜明け前

「恋人なんて絵空事だよ、きっと」


 どのお姐さんが言ったか知れないけれど、それが事実だと思っていた。

 だから明子は恋人を持つ夢なんて見ない。




「昨日は失礼致しました。気に食わないことを言われたからって、あんな態度をとるべきではありません」


 明子は挨拶の前に頭をたれて謝った。足元にすりつく猫を無視して、ゆっくりと顔を上げる。

 智昭は、私も失礼をしたと小さく呟いた。

 毎朝、船着き場で練習をしているのではないか。一種の賭けで置屋を出てきた明子は自分の勘が当たったことにほくそ笑む。いたずら心が芽生えたのは智昭があまりにも素っ気ないからだ。


「これがサクソフォンというものですか? なんだか、じょうろみたいですね」


 笑って言ってのけた明子に、智昭はあからさまに気分を悪くした。

 子供みたいな反応をする智昭に明子は冗談ですよ、と掌を返す。智昭の横にしゃがみ込んだ明子は彼を仰ぎ見た。


「何か聞かせてくださらない?」


 明子の願い事に智昭は目を泳がせ、サクソフォンで指を遊ばせた。

 指の長い綺麗な手が羨ましくて、明子は意地悪を付け加える。


「耳が肥えてますので、変わった曲が聞きとうございます」


 少し煽れば、意外とやってくれるものだ。

 智昭はしばらく考えた後、おもむろにサクソフォンを構えた。

 しっとりとした音だった。同じ楽器でも、切れのいい三味線と全然違う。

 確かめるような指使いがなめらかなものに変わった。

 ちゃんと背筋のびるじゃない、と心の中で明子は苦笑した。

 宵になじむ調べは、劇場で聴いた西洋音楽とは拍の取り方が違う。ゆったりとした音はくるりと円を描くように繋がる。時折、拍で遊び心を踊らせ、優雅さと何処かほの暗さを感じさせた。

 音に耳を傾け、明子は答えを探す。


「何て曲かわからないわ」


 結局、明子は答えを見つけられなかった。

 智昭は答えずに時が過ぎるのを待つが、黙りこくる明子に観念して口を開く。


「客船で聞き覚えた曲だ。踊るための曲だと思うが、うろ覚えだから合ってるかどうかもわからない」


 ふうんと明子は気のない返事をして、膝と両腕に顔の下半分を埋めた。


「昨日の曲が聞きたいです」


 明子からこぼれた言葉で、寸の間、空気が固まる。

 口火を切ったのは智昭だ。


「あの曲を知ってるのか」

「いいえ。ただ、懐かしいって思って……変ですね、初めて聞くのに」


 遠い目をする明子に何を思ったのか、智昭はサクソフォンを構え直し奏で始める。

 しなやかにのびる音。音階の上下は少なく、情緒溢れる深みはどこからくるのだろうか。細波と混じる音を聞きながら、明子は膝に自身の頭を預けた。


「響きますね」


 明子は演奏に沿うように夢心地でこぼした。瞼を閉じて遠い記憶を探り、行き着いたものが口をついて出る。


「子守唄みたい」


 まどろむ視界に朝日が入る。

 そろそろ帰らなくてはと思うのに、明子はなかなか動けなかった。

 寝かしつけるように音は閉じる。


「祖母の唄だ。おそらく、子守唄だと思う」


 独り言のような智昭の声に明子は顔をあげる。


「いいですね。私、好きですよ」


 智昭の度肝を抜かれた顔に明子は声をあげて笑った。


 月がどんどん満ちていく。

 智昭は毎度、明子が行き着く前に演奏を止め、必ず明子が来るのを待っていた。そして呆れ顔で言うのだ。また来たのか、と。おどかそうと別の場所から現れても答えは同じだった。

 それをこそばゆく感じていた明子も大概だ。

 夜明け前、明子は最初に聞いた音を必ずねだった。仕方ないとでもいうように嘆息した智昭は子守唄を吹いてくれる。

 名もない音を聞きながら、取り留めもないことを話すのが明子の日課になった。猫のこと、お姐さんお母さんのこと、稽古のこと。

 演奏する智昭は聞いているかわからないが、話がひと息つくまで音を止めなかった。

 明子は話すが、智昭は何も話さない。

 明子はそれでいいと思っていた。


  ♭


 明子がお座敷から出るとちょうどお姐さんが戻ってくる所だった。


「ねぇ明子。あんた、恋人と会ってんじゃないだろうね?」


 お辞儀をしようとした明子は固まる。図星をつかれたわけでもないのに、心臓が跳ねた。


「しませんよ、そんなこと」


 明子は笑顔で返すが、ほどよい言い訳が見付からない。

 お姐さんは片眉を器用に上げて、それ以上は言ってこない。そうかい、と含みのある言い方をした後、明子の背後に注意を投げた。


「また、あの人が来てる」


 明子は振り返ると、丸まった背中が一瞬見えた。付きだした横長の鞄が追いかけるように消えていく。


「よく来ているんですか」


 笑顔を取り繕った明子は訊いた。

 お姐さんは胡散臭そうに顔をしかめる。


「今日は護衛だ、今回は余興だ、て言ってたけど。どうだかねぇ」


 お姐さんの言葉を鵜呑みにできるほど、明子は馬鹿じゃなかった。


  ♭


 月がどんどん欠けていく。

 明子は子守唄が聞きたいだけだ、と自分に言い聞かせて置屋を出る。

 しかし、今回は少々違った。いつもなら聞こえてくるはずの音は聞こえてこず、船着き場に着いた明子は智昭と話す男を見た。

 夜なのに目深にかぶった帽子のせいで男の顔はわからない。

 明子は二人の会話を聞かないように距離を取ったまま待った。

 男が去り、智昭が振り返る。いつもその道から来るとはいえ、宵闇でも会話が聞こえない距離だ。智昭は確信を持って振り返っていた。


「もう来なくていい」


 いつもの場所にしゃがもうとした明子に言葉を落とされる。


「どうしたんですか、目が赤いですよ」


 明子は笑顔を取り繕ってわざと話題をそらした。

 智昭は何か言いたそうにするが、明子に流されることにしたらしい。


「目敏いな」

「初めて誉められました」


 明子は子供のように笑って、あの子守唄を聞かせてくださいなとねだる。

 智昭は目を細め、サクソフォンに息を吹き込んだ。

 明子はこの音を聞きながら朝を迎えるのが好きだった。ほの暗い音が寄りそってくれる気がしたからだ。

 最後の一音が夜にしみていく。


「付いてきてくれないか」


 船着き場に打ち付ける波にかき消されそうな声だった。

 明子は紫苑の瞳に見つめられる。朝を待つような静かな色だった。

 明子は力なく首を振る。


「……何も訊かないんだな」


 智昭は圧し殺した声で呟いた。

 聞かないだけですと明子は言い訳した。


「きっと貴方も私も困るから」


 明子はそう言って、今も聞きたい気持ちを押し込めている。

 細波の音だけが響いていた。

 静寂を破ったのは明子だ。


「残念ですね。もう子守唄が聞けなくなります。今までいーっぱい聞かせてもらったから何かお礼をしなくっちゃ」


 ことさら明るく振る舞う明子に智昭は顔を歪めた。

 明子は気付かない振りをして続ける。


「何か、私にしてもらいたいことはありますか」


 智昭はうつむき、指先をこねるように動かした。


「名が、欲しい」


 途切れ途切れにこいねがわれた言葉は明子の心を戸惑わせるのに十分だった。

 他の誰にも与えられていない自分だけのもの。明子は一人で抱えていくものだと思っていた。

 熱望と悲愴の混じった瞳に明子はあらがえない。


めい、です」


 明子は久方ぶりにその名を口に出した。恐々と智昭を見つめ返す。

 夜闇で唯一光る双眸は水面に映る太陽のように歪んだ。


「明。いつか、また」


 それが別れの言葉だった。

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