想い出話

「あんたの手、赤子あかごみたいだね」


 だから、明子あかこ

 先の大火で家族も居場所も失った少女はそうやって名前をもらった。

 花柳界花街で生きていくため、主人お母さんがつけてくれた大切な名前だ。




 戦争が始まっても、明子の生活は変わらない。客に軍人の割合が増えて、戦争で儲けた客の羽振りが良くなるだけだ。

 いつもと同じ生活を送ろうとした矢先、明子は海岸近くに位置する倉庫の影に連れ込まれた。

 人通りのない所に連れ込まれても平静を装うこと。慌てたり、泣いたら男が喜ぶからね。

 いつだったか呟いたお姐さんの言葉は何処か見下していた。

 明子はそんなことを思い出しながら、素直に言い付けを守る。

 鼻息の荒い男が迫っても、明子は薄い笑みを張り付けた。


「明子、どうして私の身請けを受けてくれないんだ?」


 性格に難ありなんで、ごめんです。なんて、口が裂けても言えない明子は愛想のいい笑顔を取り繕った。少しだけ苦みをまぜて返事に困ったような素振りをする。


「私には勿体ないお話です」


 明子はまだ言い募る男を前にして、お姐さんに断り文句も習っておけば良かったと後悔する。

 男に両腕を捕まれ、明子は身動きが取れなくなった。恐怖に負けて助けを求める。口が震え大きな声は出ず、男は黒い笑みを深めた。

 しくじったなぁと明子が諦めかけた時、男は吹き飛んだ。

 唐突に恐怖から解放された明子は頭がついていかない。

 明子の横を通り抜けた新参者は、動かなくなった男に意識がないことを確認した。何かが投げ捨てられ、男が引きづられていく。

 明子は無言で立ち去る背中を慌てて呼び止めた。


「あの、どうされるんですか」

「詰め所に連れていく」


 見かけよりも若い声に明子は瞬きをした。暗がりでよく見えなかったが、目を凝らせば鉄色の軍服を着ているとわかる。ほっと息をついた明子は小さくなる背中に言葉を投げつけた。


「お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」

「名乗る者でもありませんし、名乗るほどのこともしてません」


 男はきっぱりと言い捨て、姿を消してしまった。


  ♯


 半玉はんぎょくの明子は忙しい。昨晩のことを思い返す余裕もなく猫に餌をやり、お姐さんの世話や舞や三味線の稽古をこなす。お腹に物を軽くいれたら、息つく暇もなくお座敷に呼ばれた。

 今夜は軍楽隊ぐんがくたいの一行で昨晩のことが脳裏を過ぎるが、それも一瞬のことだ。乾杯の音頭がすめば、舞を所望され明子が前に出た。

 お姐さんの三味線は小気味よく場を盛り上げていく。振袖を器用に扱う明子は手拍子に踊りを乗せた。一曲こなすだけで陽気な空気に満ちたお座敷が出来上がる。

 今日は初鰹が振る舞われていた。口々に縁起がいいなぁと会話をはずませ、舌鼓を打つ。

 賑やかな場でお酌に回る明子の耳にひそめた声が滑り込んだ。


「いい加減にしないか」


 耳が拾った声に明子は酒を受ける猪口を落としてしまった。お姐さんにひと睨みされて、素早く拾い上げる。


「この子、ちょっとじゃ嫌だってごねたみたいです」


 おどけた明子は猪口を顔の横に持ち上げ、悪戯っぽく笑ってみせた。

 明子がお姐さんの顔を見れば、軍人の破顔に妥協点だとばかりに小さくため息をつかれる。場をしのぎながら、明子は周りをうかがった。

 声の主を見つけて、心の中で絶句する。うっとうしい、それが第一印象だった。

 目元までのびる縮れ髪。軍人には珍しくもない浅黒い肌は抜きにしても、気鬱な雰囲気と丸まった背中は近寄りがたい。声を聞いてやっと昨晩の軍人だと気付いたが、目も耳を疑った。二度の巡り合いの印象は天と地の差である。

 それでも客だ。明子はお姐さん仕込みの愛想のいい笑顔を取り繕った。ちょうどよく切れた酒を見止めて銚子を傾ける。

 男は義故知なく猪口を差し出した。


「どういった楽器をされるんですか」


 何気ない風を装った問いに猪口を持つ手がぴくりと動く。

 期待を込めて明子は顔を上げたが、男の口元は固く結ばれていた。

 何も答えない男を見かねて、隣の男が割り込んでくる。


「こいつはサクソフォンをやってます。なかなかの腕前なのに、この見た目と性格でしょう。楽団に拾われなかった外れ者ですよ」


 軽快な口調だが、相手をけなす物言いだ。だいぶ酒の回っている連れに男は何も言い返さなかった。

 会話に困る明子は座敷遊びに呼ばれ、詫びてから腰を上げる。

 軍楽隊に紛れてきた男は、周りに『きゅう』と呼ばれていた。不思議そうな顔をする明子に名前が呼びづらいからそう呼んでいると連れが教えてくれる。明子はおもてに出さなかったが、小間使いを呼ぶような雑多さに眉をひそめた。

 お酌、座敷遊び、お酌、お酌と途切れ途切れの会話で集めた男の情報は話の種にもなりそうにない。

 これきりの縁だったのだろう。倒れるように入った布団で、明子は男のことをばっさりと切り捨てた。


  ♯


 明子は寒くて目覚めた。目を擦り、布団にいるはずの猫がいないことに気が付く。

 猫は死に際は見せないと言う。

 何処かで果ててしまったのだろうか。明子は気だるい体に羽織を着せて、夜明け前の街に足を踏み出した。

 宛のない探し物。夜道に慣れた明子は提灯も持たずに気ままに歩みを進める。

 霧に紛れて、音が聞こえた。

 夜にまぎれる音色に明子は興味を引かれ、導かれるように音を求めて進む。途中で海風が音を運んでいることに気付いた。船着き場に足を踏み入れた時、男の姿が見てとれる。

 船留めに腰かけ、黄土色の楽器を抱えた男は奏でる調べに没頭していた。

 三度目の印象もまた違った。

 哀愁を帯びた横顔に明子はぞわりと総毛立ち、早鐘を打つ胸を押さえた。

 しなやかにのびる音。か細く、太く変わりいく音色に心の臓が握りしめられる。

 音の名前を探そうとする明子は音が止んだ途端に口を尖らせた。まだ聞いていたかったというのが本音だ。


「誰だ、あんた」


 低いうなり声に猫を重ねたのは失礼にあたるだろうか。呑気な明子は悪びれもなく褒めそやす。


「すてきな演奏でした。腕前はなかなかって本当だったんですね」


 男は嬉しそうな素振りを見せずにますます顔をしかめる。

 自分が二度もあった女子おなごだとわかっていないと明子は勘づいた。息を吸い、声をはる。


「名乗る者でもありませんし、名乗るほどのこともしてません。――こいつはサクソフォンをやってます。なかなかの腕前なのに、この見た目と性格でしょう。楽団に拾われなかった外れ者ですよ」


 明子は覚えがいい。あの夜にぶつけられた言葉とその場にいないとわからない言葉を反芻してやった。

 瞬きを繰り返す男はまさかと呟き、子供じゃないかともらす。

 化粧をした明子はお姐さん達にも化けると称される。化粧も冥利みょうりにつきるね、と笑われたのは一度や二度のことではない。

 先に言わせてもらうと、明子の逆鱗に触れたのは男の方だ。

 顔色を変えた明子は男の目の前まで勇み足で歩き、縮れ髪の奥に隠れる目をまっすぐ睨み付けた。


「もう十七です。子供ではありません!」


 男は明子から守るように楽器を抱えていた。

 黙りこむ男に明子はにじり寄る。


「私は明子。できれば貴方のことを名前で呼びたいのですが、私も皆さんと同じように『きゅう』と笑えばよろしいでしょうか」


 明子は男の胸に指を突きつけてまくし立てた。

 勢いに負けた男は楽器を抱え直す。


智昭ともあき、だ」


 言いにくそうに口をまごつかせた智昭に明子は勝ち誇った顔を向ける。そして見つけた、見たことのない瞳の色を。


「貴方、朝焼けの瞳をされているのね」


 縮れ髪の奥にひそむ目が見開かれる。笑顔が映る朝焼けの瞳は動揺が隠せない。


「恐くないのか」


 何を言われているか図りかねた明子は小首をかしげる。

 答えあぐねる明子の足元に何かがすり寄ってきた。

 明子は体を強ばらせ、正体を掴もうと下を見る。探していた猫がすり寄ってきただけだった。胸を撫で下ろし、甘える猫を抱えあげた明子は顔を音のする方へ向ける。

 細波の先を見れば、空と海の境界線に太陽が顔を出していた。空の青と陽の色が混じりあい、紫苑しおんを織りなす。水面に映る陽は何層にも別れて輝いていた。明子の思った通りの色だ。


「貴方の目、とってもきれいですよ」


 明子は紫苑の瞳を真っ直ぐ見て笑った。

 智昭は目を丸くして、耐えるように目を細める。朝焼けと同じ瞳は様々な感情を映して消した。

 猫が明子の両腕を飛び出し、明子はそれを追う。

 竜巻のように去った後、智昭は重い息を吐き出した。



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