初夏色ブルーノート

かこ

昼ひなか

 芸者の明子あかこには複数の恋人がいる。

 もちろん、本物ではなく、みな仮初めだ。明子はそれで満足していた。




 明子は手紙の使いを頼まれ、軽装で置屋を出た。

 線路に沿うようにしてできた街道を歩くと、戦勝を祝う旗がそこかしこに掲げられている。

 明子は、赤と白がはためく様を見上げながら通りすぎた。轟音と共にもうもうと煙を上がる汽車を見送り、その先で薔薇を見つけた。明子は薔薇を目の前にして思う。


「よかったねぇ。刈り取られなくて」


 柵に絡み付いた薔薇はそれだけ残されたようで、他には草の欠片も見られない。砂利の横で咲く薔薇はまだらの躑躅つつじに似ていた。

 明子は面妖な模様に時間を忘れて感心する。


「明子さんですよね。ちょっとお時間、よろしいでしょうか?」


 明子はこういう手合いには慣れている。いきなり声をかけられたからといって、いつも答えることは一緒だ。


「お座敷に呼んでくださるなら、いくらでもお付き合い致します」


 明子は愛想のいい笑顔の裏で相手を見定めた。

 洋服姿の青年は今では普通になってしまった。上質なものではないが、清潔な出で立ち。他と違うところと聞かれたら、髪色が明るいと答えるぐらい。

 誰かの使いか、誰かの回し者か。この両者を候補に上げるが、そのどちらとも言いがたかった。

 何故なら、青年との視線が交わらず、心意が読めない。目と目が合っているのに青年の焦点は少しずれていた。


「困りましたね。あまり手持ちがないものでして」


 やわらかな口調で言われ、明子の罪悪感が顔を出す。しかし、数年揉まれてきた明子が少々で折れることはない。

 困ったと言ったはずなのに全然その素振りを見せない青年は首に手をあてて目をさ迷わせた。体を揺らし、その横を人が通りすぎていく。

 ちょっとした不自然に明子は興味がわいた。

 青年は鼻を引くつかせ、いいことを思い付いたように口端を上げる。


「カフェーで一杯ごちそうする、で手を打ちませんか?」


 少し歩いた所にできたばかりのカフェーがある。開店直後は物珍しさから人で溢れていたが、落ち着いた頃合いだろう。男と連れだって入るにもおかしな場所ではない。

 いつもなら断る申し出に明子は珈琲を飲む時間ぐらいなら、と微笑んだ。

 青年は迷いなくカフェーまで進み、間違いなく扉を開けたのだ。違和感を覚える明子を他所に、床にある段差も難なく避ける。


「あの。失礼ですが、目が見えないのでは?」


 明子が確かめたくなるぐらいには動きが自然だ。以前、会ったことのある盲目者はぎこちない動きで、何をするにも手をさ迷わせていた。

 青年が特別敏さとい、では済まされない。


「耳と鼻が利くだけですよ」


 青年は顔だけ振り返り、笑って言った。

 案内された席に座り、佐々木と名乗った青年は品書きを差し出してくる。

 常人と変わらない動きに明子の胸がざわついた。素知らぬ振りで明子も名乗り、品書きを受け取る。品書きの文字を追いながら不自然ではない時間を稼いだ。

 明子は間取りを確認し、机や椅子の配置を計算する。異国風の店内を楽しむ余裕も、ソファに張られた幾何学模様を数える暇もなく頭を回す。逃げる算段を付け、いざと言う時のために調度品を見定めていると誰かの鼻唄が聞こえてきた。

 台所仕事をしている女中が歌っているのか、奥から響く声は低い音でも女の物とわかる。

 記憶の片隅に焼き付いた音を思い出すのは、警鐘か、予兆か。どちらでも明子にとっては思ってもみなかった好機だ。

 回ってきた女中に注文を終えた二人は向きなおった。

 佐々木は、単刀直入にうかがいますと前置きをする。


智昭ともあき・クィルターをご存じですか?」


 それを聞いた明子は確信した。

 目の前に座る青年も、彼と同じ不可思議な力を持っていると。


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