夢たがえ

 明子は気付かない振りをしていた。


 智昭が不可思議な力を持つことを。

 そうでなければ、彼が人通りのない場所に現れることもなかっただろう。毎回、手を止めて出迎えることもなかっただろう。

 些細なことでも、偶然で済ますにはあまりにも不自然だった。

 世の中には人力を越えた力を持つ者がいるという。千に一人、万に一人と言われる稀有な存在は異能いのうと崇められ、時には蛭児ひること蔑まれた。

 智昭がそれに当たるかどうか知る術はもうない。

 しかし、明子には何も力がない。

 だから、明子はついていかないと決めた。きっと、自分は足手まといになるからと。




 それでも智昭のことを知りたいと思ったのは明子のわがままだ。佐々木の提案でカフェーに来たのは自分の意思だ。


智昭ともあき・クィルターをご存じですか?」


 心の中で構えていた明子は、彼のちゃんとした名前も知らない自分を笑いたくなった。佐々木の問いに目を伏せ、口を動かす。


「『きゅう』と呼ばれる智昭さんなら存じておりますが、くぃるたーさんは存じ上げません」


 きゅう?と佐々木は目を瞬かせた。合点がついたようで、笑みを取り戻した顔で続ける。


「そちらの方で間違いないですね」

「どうしてですか?」


 どの軍人もちゃんと教えてくれなかったことを、この青年なら答えてくれるような気がした。


QuilterクィルターQきゅうで始まる名前ですから」


 佐々木は異国の言葉を流暢に発音し、指で机に文字を書いた。

 それを知れただけで枯れかけた気持ちが息を吹き返す。

 明子はにじみ出る喜びを笑顔の下に隠して、佐々木に向き直った。


「智昭さんは一度きりのお客様だったと思います。あまりにも珍しい呼ばれ方をしていたので覚えていただけですよ」

「人伝ですが、何度か会っていたと聞いています」


 淀みなく答えた明子に佐々木はやわらかく切り込んだ。

 佐々木に応えるように明子も笑みを深める。


「詳しいんですね。でもご期待に答えられません。私が知っているのは彼が異国人であること。軍楽隊でサクソフォンをされていたこと。たまたま会ったら子守唄を聞かせてくださったこと、ぐらいです」


 ほら、聞こえるでしょうと明子は口元に人差し指を当てた。

 耳を澄ませば、低い女の声が聞こえる。

 佐々木は子守唄ですか、と口の中で呟いた。

 運ばれた珈琲に会話が打ち切られ、苦い香りが二人の間に満ちる。


「本当に。何も。知りません」


 質問を重ねようとする佐々木に明子はゆっくりと言い聞かせた。珈琲に映る自分にも聞かせているようだ。

 見えないはずの佐々木の目が明子の嘘を見破ろうとする。

 明子は痛くも痒くもなかった。何食わぬ顔で、訊いてみる。


「それで、彼がどうかされたんですか」

「軍から消息を絶ちました」


 僕は調査をしている者です、と佐々木は付け加えた。暗に嘘をつけば軍に逆らうことになると示す。

 空気は張りつめたが、明子の心は別にあった。

 その心を他所に置いて明子は知っていることを晒す。


「一度、男の人と話している姿は見ましたが、内容はとんと知りません。すぐ何処かに行ってしまわれましたし、顔も帽子に隠れて見えませんでした……お役に立てなくてすみません」


 後悔するほどに、明子は何も知らなかった。困り果てた顔に見えるよう頬に手を添える。

 佐々木は珈琲を口にした。

 明子も口にふくむ。苦くて酸っぱい飲み物が舌をすべり、喉を通りすぎていく。腹の底に落ちてしまえば、味はもうわからなかった。


「本当にそれだけですね」

「はい、それだけです」


 念を押された明子は微笑んで答えた。

 佐々木は珈琲を飲み干し、立ち上がる。笑顔で礼を言うと、腰を上げる明子にゆっくりしていってくださいと声をかけた。明子を残して会計を済ませると、颯爽と出ていく。

 佐々木を見送った明子は視線を落とした。琥珀に染まる自分を見付けて、笑いが込み上げる。カップの底にひとくちだけ残る珈琲は頼りない。


「何処に行ったのかしら」


 その声は柱時計の音にかき消される。

 明子は珈琲を飲み干して、カフェーを後にした。明子は名もない唄を口ずさみながら、元いた道に戻る。

 佐々木が智昭に繋がると思っていたら、彼を追う者だった。明子は足手まといになりたくないと離れたが、それでは助けることもできない。

 それを誤魔化すように明子は名もない唄を繰り返す。歌詞は聞いたことはないけれど、きっと異国の言葉だ。

 カフェーで聞いた鼻唄は似ているようで、異なる音だった。打ち消すように、想い出の音を追う。

 明子は智昭が教えてくれた唄を忘れたくなかった。

 いつもは鳴りを潜めている心が喚いている。幼いめいが暴れているようだ。

 まだらの薔薇は青い空を仰ぎ、汽車がその横を通りすぎる。耳をつんざく甲高い汽笛が鳴った。

 昼日中ひるひなかにかの人の影はない。


 どうか届いてと明子は唄った。

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初夏色ブルーノート かこ @kac0

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