第三十三話 双子の対峙 前編
俺の前に現れたのは、夢でしか会えないはずの『もう一人の俺』だった。
もう一人の俺は夢の中と同じように白い髪色で、俺とまったく同じ顔をしている。
服装はいつもの白いワイシャツではなく、俺と同じブラウンのコートを着ていた。
「やあ、こんにちは。璃央くん。夢の中以外で会うのは、これが初めてだね」
「……俺は白昼夢でも見ているのか? それとも、頭がおかしくなったのか?」
「大丈夫、キミの頭は正常だよ。そこは心配しなくてもいい。でも、白昼夢っていうのは、言い得て妙かもしれない。僕の姿はキミ以外には見えていないだろうからね」
……そうなのか?
しかし、なぜこいつは現実世界に現れたんだ?
そもそも、半ば妄想のような存在であるこいつが、夢の中から出てくるなんてあり得るのだろうか?
「理由はこれから教えるよ。僕も驚いているんだ。まさか、夢の中から出られるとは思ってもみなかったよ」
もう一人の俺は、胸のあたりを軽く押さえるようにしてそう言った。
……こいつ、やっぱり俺の考えていることが読めるのか?
「ああ、わかるとも。僕はキミの分身のようなものだからね。これまで何回も説明しただろ? とりあえず、隣に座ってもいいかい? キミとは話したいことが山ほどあるしね」
もう一人の俺は俺の隣に座った。
それから、こちらに顔を向けてうっすら笑顔を作る。
「さっさと本題に入るとしよう。端的に言うとね、僕はキミを救いにきたんだ」
「俺を……救いに……?」
「正確に言えば、僕たちの身体が本能的に『このままじゃ、危険だ』と感じて、わざわざ僕を現界させたんだ」
「ど、どういうことだ?」
「キミが今、瑠璃のことで葛藤して苦しんでいるのは、僕も知っている。僕はキミをなんとかして助けたいと思っていたんだ。そしたら、珍しく僕と僕たちの身体の意見が一致したらしい。気がついたら、僕は現実の世界に送り込まれていたのさ。まさか本当に現界できるとは思わなかったけどね」
「は、はぁ?」
こいつはさっきから何を言っているんだ?
そんなことが現実で起こるわけがない。
やっぱり、俺は夢を見ているんだ。
おもむろに、自分の頬を強めに叩いてみる。
しかし、自分にどれだけ衝撃を与えても、目の前にいるもう一人の俺は消えなかった。
どうやら、これは本当に現実で起こっていることのようだ。
「まあ、驚くのも無理はないよ。とりあえず、今は目の前で起こっていることをそのまま受け入れてほしいんだ。それじゃあ、まずは僕についての話から始めるとしようか。キミも不思議に思ってるだろ? 僕という存在について」
「お前の……存在について……?」
そういえば、今まで普通に話をしていたが、こいつの存在は謎に包まれているな。
俺以外の人間も、こうやってもう一人の自分と話したりするものなのだろうか?
「普通の人間ならこんなふうに、もう一人の自分を自覚することはできないかもね。僕たちはちょっとだけ特殊なんだよ」
「俺たちが……特殊?」
「僕たちの精神はね、事故をきっかけに分裂してしまったんだよ。つらい記憶を持つ僕と、事故以前の記憶をほとんど忘れてしまったキミにね」
「……何だと?」
「僕たちの身体が最終的に選んだのはキミの精神だった。僕はつらい記憶とともに心の奥底へ閉じ込められたんだよ。そのせいで、僕の精神は表に出ることができなかった。でも、僕たちの身体の判断は正しかったと思ってる。だって、つらい記憶を持ったまま目覚めても、また自殺未遂を起こしてしまうだろうからね。おそらく、一種の防衛機制が働いたんだと思うよ」
「……防衛機制?」
防衛機制……?
どこかで聞いたことがある言葉だな。
そういや、前に読んだ心理学の本に書いてあったような気がする。
たしか、心を守るため無意識に働く脳の仕組みだったような……。
「そのおかげで、キミは健全な精神を保ったまま、普通の生活を送ることができたんだ。まあ、その分、僕はちょっとだけ苦しかったけどね」
「……悪かったな。お前にだけ押しつけて」
「いやいや、キミが謝ることじゃないよ。こればかりはしょうがなかったんだ。それに、僕は本来の役目を全うできなかった。謝らないといけないのは、むしろ僕のほうなのさ」
「……その、本来の役目ってのはなんだよ? 初耳だぞ?」
「そういえば、夢の中でも言ってなかったね。説明不足でごめんよ。僕の役目というのはね、大きく分けて二つあったんだ。一つ目は、キミをよりよい未来に導くこと。二つ目は、キミにつらい過去の記憶を思い出させないようにすること。この二つを遂行するのが、僕の役目だったのさ」
「そうだったのか。でも、いったい誰からそんな役目を押しつけられたんだ?」
「役目といっても誰かから任命されたわけじゃないんだよ。これは僕自身が勝手に決めたことなのさ。ただ、キミに幸せになってほしいから始めたことなんだよ」
「お前が勝手に?」
「ああ、そうさ。キミにはつらい過去に囚われず、楽しく毎日を過ごしてほしかったんだよ。自分のことを大切にするというのは、生き物なら当たり前のことだしね」
もう一人の俺は、淡々とした口調で答える。
それにしては、ふわふわとした助言もどきしかしてなかった気がするけどな。
「これは手厳しいね。その様子から見るに、キミは僕との対話をほとんど覚えていないようだ」
「……お前との会話なんて、数回くらいだろ?」
「前にも言ったけど、僕たちは何十回、何百回も夢の中で会話をしてるのさ。まあ、覚えていないだろうけどね。実は、僕の助言どおりに行動していたことも何度かあったんだ。ほんのわずかだけど、キミは無意識に僕の影響を受けていたんだよ」
何十、何百だって?
俺はそんなにこいつと対話をしていたのか。
「去年は大変だったよ。キミは過去に関わってきた人物と偶然にも出会ってしまった。その結果、心の奥底に閉じ込めたはずのつらい記憶が、徐々に漏れだしてきたんだ。しかも、最終的には、ほとんどすべてのつらい記憶と経験がよみがえって、キミと混ざり合ってしまった。結局、記憶の流出を防ぐことはできなかったんだ。僕は本当に無力な存在だったんだよ」
もう一人の俺は悲しみに暮れたような顔をしていた。
本当につらそうだ。
「……話を本筋に戻すとしよう。とにかく、僕はキミを救いにきたんだ」
「その救うっていうのは、具体的にどうするんだよ? 今回ばかりは、お前でも難しいんじゃないか?」
「そうだね、確かに難しい。今のキミを確実に救う方法はないかもしれない。でも、僕は諦めないよ」
もう一人の俺は、なぜか右手を差し出してきた。
その意図がわからず、俺は思わず身構えてしまう。
……こいつは何を考えているんだ?
「何って、握手だよ握手」
「なんでお前と握手なんかする必要があるんだよ?」
「これから、僕だけが知っている瑠璃の記憶をキミに渡す。この記憶はキミにも知っておいてほしいんだ」
「……やっぱり、お前も瑠璃の味方なのか?」
「正直に言うとね、君たち二人には仲直りをしてほしいと思っているんだ。キミが本当に望むなら、険悪な関係のままでも受け入れるよ。でも、この記憶だけはどうしてもキミに渡しておきたいんだ」
「俺は瑠璃のことなんて――」
もう一人の俺は距離を一気に詰めてきた。
そして、俺の右手を自分の右手で掴み、強制的に握手の形にもっていく。
「ちょっとごめんよ」
次の瞬間、右手に電気が走ったような痛みを感じた。
すると、視界が急に暗転して、俺は意識を失ってしまったのである。
気がついたら、俺はどこかの部屋に立っていた。
匂いも温度も無色で何も感じない。
しかし、水が落ちるような音や機械が稼働するような音は聞こえてくる。
そんな空間の中に、ベッドが一つ置いてあり、そこには中学生くらいの見た目をした少年が寝ていた。
少年には呼吸器と点滴がついており、全身が包帯やギプスで覆われている。
この場所と少年にはどこか見覚えがあるな。
……そうだ、思い出した。
ここはたしか、俺が入院していた病院の病室だったはず。
おそらく、目の前に寝ているのは、過去の俺だ。
「気がついたかい?」
いつの間にか俺の隣に、もう一人の俺が立っていた。
ポケットに手を入れ、過去の俺をじっと見つめている。
「俺に見せたかった記憶はこれなのか?」
「ああ、そうさ。これからキミが意識不明だった、約半年間の記憶を見せようと思う」
「……このときの俺たちの精神はどんな状態だったんだ? 俺が知らないってことは、このときはまだお前の精神が残っていたってことか?」
「そのとおり。このときはまだ僕の精神が主体だったんだよ。だから、キミは何も知らない。キミの精神が選ばれたのは、キミが目覚めた瞬間からなんだよ。同時に、僕はそのとき心の奥底に閉じ込められた。……そろそろ時間を進めるとしよう」
もう一人の俺は、指をパチンと鳴らした。
その瞬間、目の前の空間が変化し、瑠璃が病室に現れたのだ。
このときの瑠璃は、まだ中学生なので背も低く、幼さを残した顔をしている。
『璃央、ごめんなさい。私、あなたになんてことを……』
瑠璃は俺を見ながら、肩を小刻みに震わせている。
口からは蚊の鳴くような弱々しい声が漏れていた。
『璃央の手術は無事終わったようじゃな』
『おじいちゃん……』
俺と瑠璃だけだった病室に、じいちゃんが現れた。
じいちゃんの姿は、特に今と変わっていない。
『お医者さんはなんて言ってたの?』
『身体のあちこちに怪我をしているが、幸い臓器は無事で、命に別状はないらしい』
『そう、よかった……。ねぇ、おじいちゃん。璃央はちゃんと目覚めるのかな?』
『医者は、少なくとも今すぐに目覚める確率は低い、と言っておったな』
『そう……なんだ。おじいちゃん、私ね。璃央にひどいことを言ってしまったの。だから、璃央は目覚めても、私がいるから嬉しくないと思うのよ』
『……そんなことはないじゃろ。お前たちは、この世界で二人だけのかけがえのない姉弟なんじゃ。璃央も――』
『私は璃央に、「あんたが死ねばよかったのに」って言ったのよ! そのせいで、璃央が自殺未遂までしてしまったの! 全部……全部私のせいなのよ! 璃央はきっと私を怨んでるに違いないわ……』
『……瑠璃。これはお前だけの問題ではないんじゃよ。お前も璃央も、あのときは冷静ではなかった。お前たちの心のケアをしてやれなかったワシにも問題がある』
『違うの! これは私の――』
『いいか、瑠璃。たしかに、お前は璃央を傷つける言葉を言ってしまったかもしれない。しかしな、璃央がここまで追い詰められたのは、いじめや親がいなくなったということも大きく影響しておる。じゃから、すべての責任が瑠璃にあるわけではないのじゃよ。それだけはよく覚えておきなさい』
『……璃央は私のことを赦してくれるかな?』
『瑠璃が本当に反省している姿を見れば、璃央もきっと赦してくれるじゃろう。もちろん、ワシもお前たちが仲直りできるように、協力はするつもりじゃ』
『ありがとう、おじいちゃん。……決めた。私はこれから毎日璃央のお見舞いに来るわ。璃央がいつ目覚めてもいいようにね』
『ああ、そうしてあげなさい。璃央もずっと一人で病室にいるのはさみしかろう。ワシも仕事が休みのときは、できるだけお見舞いに来るからの。頼んだぞ、瑠璃。でも、無理は禁物じゃぞ?』
『わかってるわ。私のことも心配してくれてありがとね、おじいちゃん』
瑠璃とじいちゃんの動きがピタリと止まる。
それだけでなく、病室の時計の針も止まり、点滴のしずくが落ちる音すらも聞こえない。
まるで、この空間そのものが止まってしまっているようだ。
「とりあえず、僕が持っている記憶の一部をキミに見せた。キミがこれ以上見たくないなら、ここで終わりにしてもいい。さあ、どうする?」
「……このまま最後まで続けてくれ」
「本当にいいのかい? キミはまだ瑠璃のことを赦せていないんだろう?」
「ああ、俺はまだ瑠璃を赦してはいない。だけど、あんなに俺のことが嫌いだった瑠璃が、変われた理由を知りたいんだ」
「……わかった。キミの言うとおりにするよ。それじゃあ、このまま時を進めるとしよう」
もう一人の俺は一瞬だけ笑顔になり、再び指をパチン鳴らす。
その瞬間、空間がぐにゃりと曲がり、瑠璃とじいちゃんの姿は目の前から消えてしまった。
その後、すぐに元の病室の空間へと戻る。
病室には相変わらず寝たままの俺と、ベッドのそばの椅子に座っている瑠璃がいた。
そして、ここから約半年間、俺が目覚めるまで毎日病室に通う瑠璃を見ることになったのだ。
『こんにちは、璃央。今日はね、新しく転校した学校で一日過ごしたのよ。転校生になるって結構緊張するのね。それでね、今度の学校は前の学校と違って、いじめとかはなさそうだったわ。だから、璃央が目を覚まして新しい学校に転校しても、きっと大丈夫よ』
瑠璃が緊張するなんて珍しい。
そういや、この頃はまだ子どもだったんだよな。
『璃央、聞いて。私に友達ができたの。それも三人も。もう少し仲良くなったら、友達も一緒にお見舞いに来てくれるかもしれないわ。ほら、私とおじいちゃんだけじゃ、ちょっとさみしいでしょ? 璃央が起きたら、きっとみんなも璃央の友達になってくれると思うの。だから、早く起きてよね』
中学の頃の瑠璃の友達って、あいつらのことか。
今はみんな別々の学校に進学したけど、あのときはみんなで遊べて楽しかったな。
『ねぇ、璃央。私ね、家事をやることにしたの。おじいちゃんは仕事が大変で、家のことまで手が回らないのよ。だから、私が家事をすべて引き受けることにしたの。でもね、いざ料理を作ったり、掃除をしてみると全然上手くいかないのよ。璃央はちゃんとできてたのにね。ダメなお姉ちゃんでごめんなさい。でも、これから頑張って続けていくから応援してね、璃央』
瑠璃はこの頃から家事を始めたのか。
やっぱり、瑠璃でも最初は上手くいかなかったんだな。
『璃央、遅くなってごめんね。今日は進路相談があって遅くなったの』
『璃央、元気にしとるか? おお! 今日は少し顔色が良さそうじゃのぉ!』
『あのね、私には将来なりたい職業があるの。それは……』
『なんと瑠璃は医者を目指したいそうじゃ』
『ああーっ! ちょっとおじいちゃん! なんで私より先に言っちゃうのよ!』
『すまんすまん。まあ、それはさておき、璃央に医者になりたい理由を、瑠璃の口から話してやりなさい』
『……わかったわ。私がお医者さんになりたい理由はね……。璃央やおじいちゃんが怪我をしたり病気になったとき、私が治してあげられると思ったからよ』
『ううっ……。瑠璃はいい子じゃのぉ。ワシは瑠璃の優しさに涙が止まらんぞい。璃央もそう思うじゃろ?』
『これからはもっと勉強を頑張らなくちゃいけないわね』
『瑠璃、本気で医者を目指すなら協力するぞい。ちょうどワシの知り合いに、有名大学出身の塾の経営者がいるんじゃよ。そこの塾へ通うのはどうじゃ?』
『……確かに塾でもっと勉強すれば、成績も上がりそうね。おじいちゃん、今日これから見学に行きましょうよ』
『おお! さすが瑠璃じゃ! 行動が早いのぉ! それでは、早速行くとするかの。璃央、少ししか会えなかったが、また改めて来るからのー』
『私はまた明日も来るからね』
瑠璃が医療系の大学に行きたいと決心したのは、このときだったのか。
しかも、理由が俺とじいちゃんのためって……。
『はぁ……。ごめんね、璃央。あなたの前でため息なんかついて。私ね、塾についていけないの。特にテストが難しいのよ。周りの子たちはみんないい点数をとるんだけど、私だけ全然ダメなの。なんだか勉強が嫌いになりそう。……でも、私は諦めない。ちゃんと勉強しないとお医者さんにもなれないし、璃央が目を覚ましたときに勉強を教えてあげることもできないわ。璃央のためにも、もっと頑張るわね』
この発言に俺は驚いた。
瑠璃はいつも、テストでは九十点以上しかとったことしかない。
勉強のことで悩んでいたなんて初耳だった。
『璃央、聞いて! 今日はいいことがいっぱいあったのよ! 家庭科の授業で作ったハンバーグが先生と友達に好評だったの! 璃央が起きたら作ってあげるわね! それに、学校のテストでも初めて平均九十点以上とれたのよ! これで今日の塾のテストにも少しは自信を持って臨めるわ! それじゃあ、また明日ね!』
瑠璃は満面の笑みを浮かべ、嬉しそうに身体を左右に揺らしながら話をしていた。
できなかったことが、できるようになったのだから、これは当然の反応だろう。
『……璃央、遅くなってごめんなさい。ちょっと一人になりたかったの。今日の私はダメダメだったわ。家庭科の授業で焼き魚を作ったんだけど、私のミスで丸焦げにしちゃったのよ。私ってハンバーグ以外満足に作れないの。そのうえ、塾でのテストの結果もボロボロだったわ。後ろ向きなことばっかり言ってごめんなさい。今日はもう帰ることにするわ。……また明日も来るから待っててね』
このように、瑠璃は毎日俺の見舞いに来た。
瑠璃はその日あった出来事を、寝ている俺に話してくれていたのである。
瑠璃はできるだけいいことだけを言おうと頑張っていた。
だが、できなかったことを漏らすことも少なくなかったのである。
俺が知っている瑠璃は完璧超人で、どこか人間味が薄く感じる部分も少しあった。
しかし、この頃の瑠璃は、失敗だらけだが毎日苦悩しながら頑張っている。
年相応の共感ができる普通の女の子だったのだ。
「……そろそろこの記憶も終わりに近い。一応、訊いておくよ。この記憶を最後まで見るかい?」
もう一人の俺は時を止めて、再び俺に尋ねてきた。
だが、俺の答えはもう決まっている。
「ここまできたんだから、見るしかないだろ。最後まで続けてくれ」
「……わかったよ」
俺は確かめたい。
瑠璃の真意を……。
もう一人の俺は指を鳴らし、また時を進めた。
『璃央、聞いて。最近、家事も勉強も、一通りできるようになってきたの。これで前より自分に自信が持てるようになったわ。これも毎日璃央が私の話を聞いてくれたおかげね。いつもありがとう、璃央』
瑠璃は今日も寝ている俺に話しかけている。
しかも、自信が持てるようになったのを俺のおかげだと言っていた。
けれど、俺は何もしていない。
俺はただ寝ていただけだ。
ここまでこれたのは、お前自身が頑張ったからなんだよ。
『……今日であなたが意識を失って半年なのね。なんだか長いようで短かったわ。ねぇ、璃央。今日はあなたについての話をしてもいい?』
瑠璃は俺を見つめながら、静かに話を始める。
その瞳は、柔らかく優しげだった。
『……私はあなたのことが嫌いだった。理由は、あなたがお母さんをないがしろにしたから。あのときは、本気であなたがいなくなってほしいと思ってた。だけど、あなたが事故に遭ったとき。あなたが自殺をしようとしたことを知ったとき。本当にあなたがいなくなるかもしれないとわかったとき。私はすごく怖くなったの……』
瑠璃は両腕で自らを抱きしめる。
震える声を抑えながら、話を続けた。
『家族と呼べる人たちが、この世界からいなくなるとわかった瞬間、私はものすごい孤独感に襲われたわ。私は独りになることが、とても怖かったの。もちろん、今はおじいちゃんがいるし、璃央もいるから平気だけど……』
瑠璃の身体はまた小刻みに震え始める。
心配になってきたが、今の俺には何もできない。
『自分勝手なことを言ってごめんなさい。あなたをここまで追い詰めたのは私なのにね』
瑠璃は寝ている俺にだんだんと近寄っていく。
そして、俺の顔を覗き込んだ。
『あなたはいじめに遭ってつらいときも、家事を一人で頑張っていたのよね。そのうえ、仲が悪い私に料理を作ってくれた。あのときは、あなたの料理をまずいと言ってごめんなさい。本当はおいしかったけど、素直にそう言えなかったの。特にあなたの作ったハンバーグはおいしかった』
瑠璃のその言葉を聴いて、俺は驚いた。
あのときの瑠璃が、俺の料理をおいしいと思っていたなんて知らなかったからだ。
あのときの俺の頑張りは、無駄じゃなかったんだな……。
『もしあなたが目覚めて元気になったら、また作ってくれると嬉しいわ。……でも、それは無理よね。あなたはきっと怨んでるだろうし、私の顔なんて二度と見たくないわよね』
瑠璃は絆創膏だらけの手で、俺の左手に触れた。
料理は一応できるようになったらしいが、まだまだ発展途上である様子が窺える。
『あなたが私のことを怨んで嫌いになっても、潔く受け入れるわ。離ればなれになったっていい。だって、私はあなたが生きているだけで十分嬉しいもの。だから……』
瑠璃はか細い声で喋りながら、俺の左手を両手で包み込むように握った。
瑠璃の手はまだ震えている。
『だから、早く目覚めてよ。お願い。私は元気になったあなたの姿を、一目でもいいから見たいの。もし……もし神様がいるならどうか私の願いを叶えてください。私は璃央のためだったらなんでもします。もう二度と璃央を傷つけたりしませんから……』
瑠璃は涙を流しながら、震えた声で、そう言ったのだ。
瑠璃はそれからしばらく泣き続けた。
そんなとき、寝ている俺の身体がピクリと動いたのだ。
そして、目がゆっくり開いていく。
目覚めた俺は周りを見回したあと、独り言をボソッとこぼしていた。
『璃央!!』
瑠璃が叫んだ瞬間、空間が歪み、辺りが真っ暗になった。
次の瞬間、真っ暗な空間からいきなり真っ白な空間に変化する。
「璃央くん、お疲れ様。僕のわがままに付き合ってくれてありがとう」
気がつけば、もう一人の俺は真正面に立っていた。
さっきよりもニコニコと笑っていて、正直気味が悪い。
「少しは瑠璃のことがわかったかい?」
「……ああ」
「今はどんな気持ちだい?」
「……瑠璃が本気で反省しているのはわかった。……だけど、俺はまだ……瑠璃を完全に……赦すことは……できない……」
俺の心の中では、赦す、赦さない、という想いが、熾烈な攻防を繰り広げている。
その葛藤のせいで、頭と胸がズキズキと痛む。
これ以上瑠璃のことを考えると、頭と身体がおかしくなりそうだ。
「……それが、キミの答えなんだね。少し残念だけど、僕はキミの意見を尊重するよ」
もう一人の俺は声量が小さくなり、少しだけ声も低くなる。
心なしか、表情も悲しげだった。
「じゃあ、もう一回握手をしよう」
もう一人の俺は、なぜかまた手を差し出してくる。
俺はこの行為の意味がわからなかったので、思わず身構えてしまう。
「……なんだその手は? これで終わりなんだろ?」
「いや、今度は記憶の受け渡しじゃないよ。これは現実世界に戻るための儀式みたいなものなんだ」
「……わかったよ。すればいいんだろ?」
俺は仕方なく、もう一人の俺とまた握手をする。
その瞬間、目の前が真っ暗になり、再び意識を失った。
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