第三十話 双子の逃避行 後編
「璃央君、身体は温まった?」
「……ああ」
「よかった。そういえば、着替えの服のサイズは大丈夫だったかな?」
「……服はちょうどいい。俺の服は?」
「璃央君の服は洗って、今乾燥機にかけてるよ。ごめん、迷惑だったかな?」
「そうか……。ありがとな……」
「あとホットミルク作ったから、よかったら飲んでね。あっ、勝手に用意しちゃったけど、璃央君ってホットミルクは飲めるのかな?」
「……大丈夫だ」
俺は今、鈴音の家にいる。
鈴音の家は、さっきまで俺がいた公園の近くにある、高級そうなマンションの一室だ。
先ほどまで、俺は鈴音の家の風呂に入っていた。
服を貸してもらえるだけでよかったのだが、鈴音の圧力に屈して仕方なく入ったのである。
おかげで身体は温まって、震えも止まった。
手足の感覚もちゃんと戻っている。
頭痛と吐き気もだいぶ治まっていた。
そのうえ、着替えは新品の服を貸してくれたのだ。
さらに俺の服を洗って、乾かしてくれている。
そればかりか、ホットミルクも用意してもらった。
まさに至れり尽くせりな状態である。
そんな中、俺は鈴音の家のソファーに腰かけていた。
鈴音はホットミルクの入ったマグカップを手渡してくる。
それから、俺の隣に躊躇なく座った。
俺たちの間には、あんなことがあったというのに、鈴音は普通に接してきてくれている。
そのことを嬉しいと思ってしまう反面、どこか悲しくもあった。
用意されたホットミルクに口をつける。
ホットミルクの温かさと優しい甘さが、昨日から何も食べていない胃に染み渡っていく。
「……うまい」
「ならよかったよ。隠し味に、はちみつと生姜をいれたんだ。寒いときにこれを飲むと、すぐに身体がぽかぽかしてくるんだよ」
確かに、身体がぽかぽかしてきた。
同時に、まぶたが少しずつ重くなる。
「どうしたの、璃央君? もしかして眠くなってきちゃった?」
「……ああ、少しな」
そのとき、突然携帯の着信音がリビングに響いた。
俺の携帯は家に置いてきたので、鳴ったのは鈴音の携帯で間違いない。
「そういえば、マナーモードにするのを忘れてたよ。ごめん、璃央君。ちょっと電話してくるね」
鈴音は携帯を持ってリビングから出ていった。
その直後、強烈な眠気に襲われる。
眠気に耐えきれず、俺はそのまま眠りについた。
「……ん? ここは……」
「あ、起きたんだね。おはよう、璃央君」
なんで、ここに鈴音が……?
そうだ、俺は今鈴音の家にいるんだったな。
「……おはよう、鈴音」
俺はある違和感に気づく。
なぜか鈴音の顔が真上にあって、俺を覗き込んでいるのだ。
さらに、頭の下には柔らかい何かがある。
それを触ってみると柔らかく、そして温かい。
「り、璃央君。そんなところを触られたら、くすぐったいよ……」
なんと俺は、鈴音に膝枕をされていたのだ。
しかも、思わず鈴音の脚をがっつり触ってしまった。
「ご、ごめん、鈴音! 今どくからな!」
俺はすぐに飛び起きて、謝罪をした。
恩人である鈴音に、なんて失礼なことを……。
「大丈夫、気にしてないよ。それより、体調はどう? つらくない?」
「え? あ、ああ、体調はさっきよりもいいみたいだが……」
「なら、よかったよ」
「なんで俺は鈴音の膝の上で寝ていたんだ?」
「私が帰ってきたら、璃央君はソファーに座りながら寝てたんだよ。だから、起こさないように隣で静かに座ってたの。そしたら、璃央君が私のほうに倒れてきて、偶然膝枕のような形になっちゃったんだよ」
「そ、そうだったのか……。本当にごめん」
「気にしなくていいってば。これはしょうがないことだったんだよ。はい、この話はもうおしまい。次謝ったら、罰ゲームだからね」
「お、おう……」
さっきから鈴音はずっと笑顔だ。
いったい、あの笑顔の裏にはどんな黒い感情を秘めているのだろうか。
……ん? ちょっと待て。
この部屋は俺が寝る前と少し環境が変わっているな。
なぜリビングのカーテンが閉まって、部屋の灯りが点いているんだ?
たしか、俺が眠る前は、カーテンが開いていたはずだが……。
俺は立ち上がり、リビングのカーテンを勢いよく開けた。
外には綺麗な街の灯りが眼前に広がっている。
「り、璃央君? どうかしたの?」
「……今何時か教えてくれないか?」
「う、うん? 今は午後七時頃だよ」
もうそんな時間だったのか。
どおりで外がこんなに暗いわけだ。
「俺の服はもう乾いてるか?」
「璃央君の服なら畳んで、そこに置いてあるけど」
「じゃあ、俺はこれで帰るとするよ。世話になったな。今日は鈴音のおかげで助かったよ。ありがとな」
その場で服を着替え、急いで鈴音の家から出ていこうとする。
これ以上、厄介になるわけにはいかない。
さて、これからどこで一晩過ごそうか。
俺は携帯も金も持っていない。
しかも、今は正月だ。
剛志の家か弘人の家に居候しようとしても、たぶん無理だろう。
それに、勝手な事情で、二人に迷惑をかけたくない。
とりあえず、今日はどこかの公園で一晩過ごすとしよう。
幸い、雨も止んでいるようだしな。
「ま、待って、璃央君! どこに行くの!?
「……自分の家に帰るだけだ」
「それは嘘……だよね?」
「……なんで嘘だと思うんだ?」
「だって、今日の璃央君はどこかおかしかったよ。普通じゃなかった」
「……別にいつもどおりだ」
「絶対に違うよ。……もしかして、何かつらい出来事でもあったの? たとえば、家族と大喧嘩した……とか?」
「な、なぜそれを……!?」
「やっぱり当たってたんだ……。ねぇ、璃央君。もしよかったら、しばらくの間うちに泊まっていかない?」
「……え?」
「璃央君が携帯も財布も持ってないこと、私は知ってるよ。それに、今はお正月だから、剛志君や弘人君にも頼れないでしょ? 行くあてがないんだったら、しばらくうちで過ごすといいよ。公園で何日も過ごすよりかは、よっぽどいいと思うんだけどなー」
驚いた……。
鈴音の推測はすべて当たっている。
もしかして、鈴音はエスパーなのか?
それとも俺の言動がわかりやすかっただけか?
「……気持ちはありがたいが、俺がいると鈴音の家族に迷惑がかかるだろ?」
「その辺は大丈夫。私の家族はお父さんしかいないんだ。しかも、そのお父さんは現在出張中で、あと一週間くらいは帰ってこれそうにないの。あ、そうそう、私のことは気にしなくても、全然大丈夫だよ。困ってる人は見過ごせないからね」
鈴音の提案を聴いて、俺は葛藤する。
正直、鈴音とはあんなことがあったので、なるべく関わりたくはない。
けれども、今の鈴音は、純粋な善意で俺の心配をしてくれているように見える。
ここから出ていったところで、俺には行くあてがない。
……いつまでも悩んでいてもしょうがないな。
ここはひとまず、鈴音の提案を素直に受け入れよう。
「……わかった。ありがたく甘えさせてもらうよ。鈴音、これからよろしく頼む」
「うんうん。素直でよろしい。こちらこそよろしくね、璃央君」
「ああ」
「それじゃ、まずは夕食でも作ろうかな。璃央君は何か食べたいものある?」
「そのことなんだが……。俺は今、食欲がまったくないんだ。俺の夕食は用意しなくていいぞ」
「え?」
俺は鈴音に今の気持ちを正直に伝えた。
ホットミルクのような飲み物なら、普通に飲める。
だが、咀嚼を必要とする食べ物は、食べられそうにない。
たぶん、無理やり食べても戻してしまうだろう。
そうなると、鈴音がせっかく作ってくれた料理を台なしにしてしまうことは明白だ。
「……わかった。璃央君が食べないなら、私も今日の夕食は食べないことにするよ」
「無理に俺と合わせる必要はないんだぞ?」
「大丈夫、あくまで今日の夕食を食べないだけだから。明日以降は普通に食べるよ。だけどね、今日は璃央君と同じがいいの」
「……それはどうしてだ?」
「なんとなく、かな。さて、今日は二人とも夕食は食べないと決定しました。これから二人で何しよっか?」
「鈴音、本当に申し訳ないが、少し俺を一人にしてくれないか? ちょっと考える時間が欲しいんだ」
「ご、ごめん! 璃央君といられるのが嬉しくて、つい自分本位なこと言っちゃった……」
「鈴音が謝る必要はないよ。俺のほうこそ、泊まらせてもらうのに、期待に添えなくてごめん」
「璃央君……。じ、じゃあ、今から璃央君を寝室に案内するね」
「ああ、頼む」
鈴音は少し残念そうな顔をしている。
だが、すぐに笑顔になって俺を寝室まで案内してくれた。
「ここが璃央君の寝室です。ちょっと服がごちゃごちゃしてるけど、暖房もあるし、寝やすいと思うよ」
鈴音に案内してもらった部屋には、いろんな種類の服がたくさんあった。
身長が高い鈴音でも、全身を映すことができる大きな鏡もある。
どうやら、ここは鈴音専用の衣装部屋のようだ。
おそらく、SNSにあげる写真も、ここで撮影しているのだろう。
「今からお布団の用意をするね。寝る場所はこの辺で大丈夫かな?」
「ああ」
鈴音は押し入れから布団一式を取り出す。
それから、布団の準備や暖房の設定などもしてくれた。
「準備できたよ。そうそう、トイレの場所はわかる?」
「知ってる。この部屋のすぐ隣だろ?」
「正解。ほかにも質問したいことや、わからないことはあるかな?」
「いや、特にないよ。今日はいろいろありがとな。本当に助かったよ」
「うん、どういたしまして。じゃあ、私はもう寝るね。もし何かあったら、起こしてくれても全然いいからね」
「わかった。また何かあったら鈴音を頼らせてもらうよ。本当にありがとな」
「璃央君のためなら、これくらいなんてことないよ。それじゃあ、おやすみ」
「おやすみ」
俺は用意してもらった布団に寝転がった。
それから、今日起きたことや明日以降のことについて考える。
そのとき、過去の記憶が再びフラッシュバックしてきた。
最悪なことに、今回はいじめの記憶と、瑠璃の記憶、その二つが同時に襲ってきたのだ。
そのせいで、激しい頭痛と動悸、吐き気が再発する。
加えて、悪寒、手足の震え、大量の発汗という症状にも襲われた。
俺はすぐにトイレに駆け込んだ。
そこで、朝と同じように空吐きを繰り返し、何度もえづく。
それが翌朝まで続き、俺は結局、その日は一睡もできなかった。
翌日から、俺と鈴音の共同生活が始まる。
初めの三日間は、食事も喉を通らないうえ、睡眠も満足にとれなかった。
鈴音はそんな俺を優しく介抱してくれたのだ。
それだけでなく、常に俺の身を案じて、静かに寄り添ってくれた。
荒んでいた俺の心は、鈴音の献身もあって少しずつ癒されていく。
何より鈴音は、俺が家出した理由を無理やり聞き出そうとはしなかった。
普通だったら理由を知りたいはずだ。
だけど、鈴音は何も言わず、こんな俺を家に置いてくれた。
そういった優しい心遣いが、身に染みる。
そのおかげなのか、四日目以降、記憶のフラッシュバックも減り、症状も軽くなっていったのだ。
調子が戻ってからは、鈴音と一緒に普通の生活を送れるようになった。
食事もできるようになったし、眠れるようにもなったのである。
「璃央君、おはよう! 今日は朝ご飯食べられそう? 一応、用意しておいたけど……」
「ああ、今日は大丈夫そうだ。ありがたくいただくとするよ」
「よかった! じゃあ、はいどうぞ」
「ありがとな。それじゃあ、いただきます。……うまい! 鈴音は料理上手だな」
「あ、ありがとう……。まだまだあるから、たくさん食べてね!」
「おう」
朝は鈴音が作ってくれたおいしいご飯を食べた。
鈴音の作ってくれる朝食は洋食メインだ。
「ねぇ、璃央君。この映画一緒に観ようよ」
「お、いいね。その映画はまだ観たことなかったんだよ」
「この映画は私のおすすめなんだ。きっと璃央君も気に入ると思うよ」
「それは楽しみだな」
「お菓子や飲み物はいる?」
「もちろん」
日中は外にも出ず、鈴音と一緒に映画を楽しんだ。
ちなみに鈴音の好きな映画のジャンルは、サスペンスやミステリーらしい。
「……映画、面白かったね。あ、そろそろお昼ご飯の時間だ。璃央君は何か食べたいものはあるかな?」
「鈴音の作った料理なら何でもいいぞ。けど、そうだな、今日の昼飯は俺が作るよ。鈴音には世話になりっぱなしだからな」
「え? う、うん、わかった。じゃあ、お願いしようかな……」
俺が鈴音のために料理を作ることもあった。
さすがに、世話になりっぱなしも悪いからな。
「おいしい! 璃央君の作ったご飯おいしいよ!」
「そ、そうか? ありがとな。実は家族以外に一人で料理を作ったのは初めてだったから、結構緊張したんだぞ」
「じゃあ、私は璃央君の初めてをもらえたんだね。ちょっと嬉しいかも。それに、私は璃央君の料理だったら毎日でも食べられるよ」
「そう言ってもらえて嬉しいよ。でも、言い方に気をつけろよ。そんなんじゃ、勘違いされるぞ」
「ご、ごめん……」
鈴音の素直な感想が、嬉しく感じることも多々あった。
他人に料理を振る舞うのは、意外と楽しいな。
「じゃあ、璃央君。また撮影お願いね」
「ああ、次こそ任せろ。それじゃあ、撮るぞ。三、二、一、はい! ……よし、今度はなかなか上手く撮れたんじゃないか?」
「どれどれ。……うん、いい感じ! これならSNSに投稿しても大丈夫そうだね。次はこの服を着てポーズをしてみようかな。璃央君、また撮影お願いね」
「おう。……けどいいのか? こういうのって自撮りが主流なんだろ?」
「確かに自撮りのほうがかわいく写るかもしれないね。でも、他撮りのメリットもたくさんあるんだよ。たとえば、自分のスタイルや自由なポーズが見せられるとか、自然な状態の写真を撮ることができるとかね」
「へー、そうなのか。奥が深いんだな」
「……」
「どうした? 急に黙って」
「あの、今から着替えるから……」
「わ、悪い! すぐに出ていくからな!」
鈴音と一緒にSNSに投稿する画像を撮ったりもした。
いかんせん俺の撮影技術が未熟すぎて、迷惑をかけたのも否めないが……。
「璃央君、夕食のピザが届いたよ!」
「おお、やっときたか」
「早速食べようよ!」
「ああ、それはいいんだが……」
「どうかしたの?」
「鈴音の分はLサイズのピザ二枚だよな? 本当に一人で全部食べられるのか?」
「え? もちろん、全部食べるけど?」
「そ、そうか。俺はよく食べる女子も素敵だと思うぞ……」
「うん? ありがとう?」
鈴音がかなりの大食いタイプだと、改めて実感することもあった。
もしかすると、俺が少食なだけかもしれない。
「璃央君、お湯加減はどう?」
「ああ、ちょうどいいぞ」
「着替えはここに置いておくね。……も、もしよければ、背中でも流してあげようか?」
「そ、それはちょっと……」
「じょ、冗談だよ! 冗談! からかってごめんね。じゃあ、ごゆっくり……」
「……まったく。はぁ……」
鈴音はたまに少しドキッとする言葉を使う。
冗談だとわかっていても、なぜか過敏に反応してしまうことも多かった。
「璃央君、今晩は眠れそう?」
「たぶん、大丈夫だ。心配してくれてありがとな」
「それならよかった」
「それじゃあ、おやすみ。また明日な」
「う、うん。おやすみ……」
「どうかしたのか?」
「あ、あのね。明日、璃央君に話したいことがあるんだ」
「なんだ、そんなことか。話ならいくらでも聴くぞ。なんたって、鈴音は俺の恩人なんだからな」
「あ、ありがと。じゃあ、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
そんなこんなで、鈴音の家に居候をして、一週間が経とうとしていた。
鈴音の言っていた、「俺に話したいこと」はだいたい予想できる。
おそらく、明日父親が帰ってくるから、もう俺を家に泊められないってことだろうな。
冬休みももうすぐ終わる。
さすがにこれ以上、鈴音の家に厄介になるわけにはいかない。
明日からはいよいよ公園デビューか。
本音を言えば、このままもう少し鈴音の家にいたかったな。
「ごめんなさい! 私、ずっと璃央君に黙っていたことがあったの!」
「……え?」
翌朝、なぜか鈴音が俺に謝罪をしてきた。
突然のことすぎて、思わず驚いてしまう。
「なんで鈴音が謝ってるんだよ? 俺はお前に何もされてないぞ? いったいどうしたんだよ?」
「私はね、ズルい女なんだよ。璃央君を独占したくて、みんなに悪いことをしちゃったんだ。私は怒られて当然の行為をしたの……」
鈴音は今にも泣きそうな顔で俺を見つめてくる。
いったい鈴音が何をしたというんだ……。
「……詳しく教えてくれないか? 怒ったりしないから」
「ほ、本当に?」
「当たり前だろ。鈴音は大切な恩人なんだからな」
「……じゃあ、話すね」
鈴音はあふれ出る涙を手で拭う。
それから、深呼吸をしてから話を始めた。
「実はね、私は璃央君が家出した理由を事前に知ってたんだ……」
「……何だって?」
「瑠璃ちゃんから、璃央君が家出した、って連絡があったんだよ。もし見つけたら連絡して、って言われてたんだ。でも、私は璃央君と少しでも一緒にいたくて、瑠璃ちゃんに連絡をしなかったの」
「……そうか」
「瑠璃ちゃんから何度か連絡はあったんだ。でも、私は嘘をつき続けたの。たぶん、瑠璃ちゃんは今も町中を探し回ってると思う。それに、私に連絡するってことは、きっとほかのみんなにも連絡してると思うんだよね。私のせいで、みんなには無駄な時間と労力を割かせちゃったの。だから、私はみんなにも謝んなくちゃいけないんだ……」
鈴音は再び両目に涙を溜めている。
どうやら、鈴音も反省しているようだな。
しかし、俺だけならまだしも、ほかのやつらを巻き込んでしまったのはよくない。
かといって、今の鈴音が謝ったところで、余計に話が拗れるだけだろう。
ここは俺が一肌脱ぐとするか。
「正直に話してくれてありがとう。たしかに、鈴音がしたことはいけないことかもしれない。だけど、俺は感謝してるんだ」
「……え? どういうこと?」
「実のところ、俺は家に帰りたくなかったんだ。今俺と瑠璃の間には、大きな溝ができてるんだよ。そんなわけで、瑠璃とは会いたくなかったんだ」
「そ、そうなの?」
「ああ。結果論だが、鈴音のおかげで助かったんだよ。ありがとな、鈴音」
「わ、私にお礼なんて言わないでよ! 私は自分のことしか考えてなかったのに!」
「たとえそうだとしても、俺は救われたんだ。だから、何度でもお礼を言わせてもらうよ。ありがとう、鈴音」
「り、璃央君……」
「あと鈴音の家に居候してたことは、秘密にしておくからな。もしバレても、全部俺のせいにしてくれていいぞ」
「で、でも……」
「俺は恩人である鈴音を巻き込みたくないんだ。今回の件は、俺が代わりに謝罪をするから心配するな」
「ご、ごめんなさい。私って本当に……。あ、ありがとう……。うう……」
「お、おい! 泣くなよ! ……弱ったなぁ」
鈴音は安心して気が緩んだのか、涙を流し始めた。
俺は近くにあったティッシュを取り、鈴音の涙を拭こうと顔の近くに手を伸ばす。
「っ! ごめんなさい! 反省してるから殴らないで……!」
鈴音の顔に俺の手が触れようとした瞬間、彼女は怯えたような表情をする。
それから、自身の身体を抱きながら震え出した。
「ど、どうしたんだ? 俺が鈴音を殴るわけ……」
そのとき、俺は思い出した。
後夜祭のとき、鈴音に平手打ちをしたこと。
人生で初めて人を殴った、あのときのことを。
「もしかして、俺があのとき殴ったから、鈴音にトラウマを……」
「ち、違うの! これはつい反射的にしちゃったの! り、璃央君のせいじゃないから安心して!」
俺は内心穏やかじゃなかった。
鈴音の過去について触れていいものかと悩んだ。
だけど、ここまできたのだから、聴いておかないといけないな。
「鈴音。嫌じゃなければ、過去に何があったか教えてくれないか? 少しでも力になりたいんだ」
「う、うん、ありがと。でも、そんなに大したことじゃないよ。今は離婚していないけど、私は過去にお母さんから虐待を受けていたんだ。ただ、それだけだから……」
質問したことを後悔した。
実の母親から虐待を受けていただと?
それは、大ごとじゃないか。
「小学生の頃、私は太っていて、不細工で勉強もできないダメな子だったの。お母さんは私のことを『失敗作』って言いながら、毎日私に暴力を振るってたんだ」
「お、おい、鈴音。つらかったら無理に話さなくてもいいんだぞ」
「……大丈夫。今は少し落ち着いてきたから、話せるよ。それに、璃央君も少しは関係してることだから」
「お、俺が?」
鈴音はなんとか冷静さを取り戻したようだ。
その証拠に、淡々と話を続けている。
「あのときは、お母さんからの暴力に加えて、クラスのみんなからもいじめられていたんだ。だけどそんなとき、ある男の子に私は救われたんだ」
「そ、その男の子って……」
「私を救ってくれた男の子は世界にたった一人しかいない。璃央君、君だよ」
鈴音は俺を瞳に捉え、指をさしてきた。
あまりにも真剣な表情だったので、少し恥ずかしくなってくる。
「や、やっぱり俺のことだったのか」
「璃央君はいじめから救ってくれたうえに、ありのままの私を褒めてくれた。それに、璃央君が話してくれた『ペンギンの話』のおかげで、私は強くなれたんだよ。だから、お母さんに反抗することができた。そして、お父さんに虐待のことを打ち明けることができたの。その結果、お母さんと離婚できて、今に至るんだよ」
「……そうだったのか。過去の俺が鈴音の力になれたのならよかったよ。でも、『ペンギンの話』って何のことだ?」
「……やっぱり、璃央君はまだ思い出してないんだね」
鈴音は残念そうな表情をしていた。
それを見て、俺は罪悪感を覚える。
「ご、ごめん。俺は……」
「いいんだよ。こんな私のことなんて、忘れてもしょうがないからね」
「そんなに自分を卑下するなよ。鈴音は素敵な女の子なんだから」
「……ありがとう。お世辞でも璃央君に言われたら嬉しいよ……」
「お世辞なんかじゃない。……それはそうと、俺も鈴音に謝らないといけないな」
「……え?」
「あのときは殴ってごめん! ほかにも鈴音を止める手段はあったはずだ。なのに、俺は鈴音のトラウマをえぐるような行為をしてしまった。本当にごめん!」
鈴音は意外そうな顔をして、また見つめてくる。
この表情はどういう意味なんだ?
「……なんで璃央君が謝るの? あのときいけないことをしたのは私なんだよ?」
「確かにあのときの鈴音はいけないことをした。だけど、その原因は俺にもあると自覚している。鈴音があそこまで狂った大元は、結局俺なんだ。俺が………俺がこの世に存在したから起きた出来事なんだよ。俺がいなければ、鈴音にこんな……」
話をしている最中、鈴音がいきなり俺の手を両手で握ってきた。
握る力は花火大会のときとは違って、かなり優しく柔らかい。
「す、鈴音? 何してるんだよ?」
「もう何も言わないで。好きになった人が、自分を責めているのをこれ以上見てられないの。あのとき璃央君が止めてくれなかったら、私はもっと罪を重ねていたかもしれない。だから、感謝してるの。私を止めてくれてありがとう、璃央君」
「鈴音……」
「だからね、自分を責めるのはこれで終わり。わかった?」
「……わかった。この話はこれで終わりにするよ」
「うん。そうしてくれると、私も助かるよ。ありがとう、璃央君」
「……おう」
そのとき、この家のチャイムが鳴った。
俺と鈴音はその音に驚き、お互いに距離を取る。
「す、鈴音……。誰か来たぞ。見に行ったほうがいいんじゃないか?」
「そ、そうだね。いったい誰が来たんだろう……」
「――うっ!?」
俺は突然激しい眠気に襲われた。
……なんでだ!?
こんな朝っぱらから眠くなるはずが――。
「……ごめんね、璃央君。私はやっぱり悪い女なんだよ」
鈴音は乾いた笑顔を作る。
今回の笑顔はどことなく哀愁を帯びているようにも見えた。
一方、俺は激しい眠気のせいで、その場に倒れ込んだ。
身体に力が入らない!
「……薬が効くまで結構時間がかかったね。やっぱり耐性ができちゃったのかな? それじゃ、玄関で待っている人たちを迎えに行ってくるね」
鈴音はリビングからいなくなった。
俺は激しい眠気で目も開けていられない。
耐性……?
それにこの眠気どこかで……。
そ、そうか、これはホットミルクを飲んだあとに感じた眠気と同じだ。
おそらく、あのときも鈴音が俺に睡眠薬を盛ったのだろう。
……だが、なぜ鈴音はこんなことを?
「璃央! ここにいたのね!」
聞き慣れた声と足音がした。
この声の主は嫌でもわかる。
……瑠璃だ。
「おお! 璃央! ここにおったのか!」
瑠璃のあとに、また聞き慣れた声の人物が現れた。
同時に、鈴音らしき足音も聞こえてくる。
「璃央! 大丈夫!? 鈴音! 璃央に何をしたの!? 正直に答えなさい!」
「瑠璃ちゃん、そんなに大きな声を出しちゃダメだよ。心配しなくても大丈夫。璃央君には睡眠薬を盛っただけだから。この状態のなら、家に連れて帰りやすいよ」
「鈴音! あなたは!」
パンッという乾いた音がリビングに響く。
なんとか目を開けて確認してみると、目の前で瑠璃が鈴音の頬をはたいていた。
「鈴音! あなたはまた過ちを犯したわ! どうせ璃央を独り占めしたくて黙ってたんでしょ!? やっぱりあなたは最低ね! 何の反省もしてないじゃない!」
瑠璃は怒りが収まらないのか、鬼のような形相で鈴音に迫る。
それから、もう一度腕を大きく振りかぶった。
「る、瑠璃。鈴音に暴力を振るうのはやめてくれ……。鈴音にとってはトラウマなんだ。全部俺の――」
「瑠璃ちゃんの言うとおりだよ。全部私が悪いんだ。私は璃央君を独占したかったの。この一週間、璃央君を十分に堪能させてもらったよ」
「鈴音! あんたは!!」
「や、やめてくれ……」
またしても、室内にパンッと乾いた音が響く。
先ほどよりも衝撃が強かったせいなのか、鈴音の身体が倒れたような音も聞こえてきた。
「ごめんね、璃央君。私は君の『つがい』にはなれなかったよ……」
鈴音が小声でそう呟いていた。
……つがい?
何のことだ?
次の瞬間、唐突に鈴音との記憶がよみがえる。
……くそっ!
今頃思い出しやがって。
もっと早く記憶が戻っていれば、俺と鈴音の関係はこうならずに済んだのかもしれない。
瑠璃たちとの仲も拗れず、鈴音が傷つくこともなかったかもしれないのだ。
俺はそんな可能性を考えた。
あったかもしれない未来のことを……。
そして、俺は眠気に耐えきれなくなり、そのまま意識を失った。
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