第二十九話 双子の逃避行 前編
気がつくと、俺は何もない白い空間に立っていた。
目の前には、俺と瓜二つの顔をした人物がいる。
俺はその人物に詰め寄り、胸ぐらを掴んだ。
「おい! これはどういうことだ!? なんでお前は今まで黙ってたんだよ!?」
「……すまない。僕の口からは言えなかったんだ。キミが自力で思い出すまで待つしかなかった。ここではそういう決まりなんだ」
「何だよ、それ!? ……俺はこんな過去を見せつけられてどうすればいいんだよ? こんな過去なら思い出したくなかった。瑠璃のあんな姿を見たくなかった……」
もう一人の俺から手を離し、俺は頭を抱えた。
脳内が過去のつらい記憶に支配される。
頭がおかしくなりそうだ。
「璃央くん。キミにはまだ試練が待っている」
「……試練?」
「キミは、過去の記憶を思い出しただけにすぎなかったんだ。今までの記憶は、まるで映画を観ているような気分だっただろ? だけど、今回は違う。現実に戻れば、キミはこれまで受けた精神的、肉体的苦痛をはっきりと思い出すことになる」
「何だって……?」
「キミはこれから過去の苦痛と向き合って、乗り越えなければならない。そうしないと、新たな未来へ進むことはできないんだ」
「……今の俺にはできる自信がない」
「今すぐにとは言わないさ。キミの苦痛は僕もよく知っている。時間がかかってもいい。少しずつ乗り越えていこう」
もう一人の俺は、俺の肩に手を置き、優しい口調で語りかけてくる。
しかし、今は冷静ではいられない。
俺の頭の中は嫌な記憶でいっぱいだ。
そのとき、白い空間が徐々に崩れ始めてきた。
「……俺はどうすればいいんだ?」
「今は何もせず、時間が経つのを待つんだ。時が経てば、その心の傷も少しは癒えるだろう」
「そんな他人事みたいに……」
「ありきたりな助言しかできなくて、ごめん。今の僕にはキミを救うほどの力はないんだ。だけど、忘れないでくれ。僕はキミの味方だ。いつもキミの心の中にいる。キミは一人じゃないんだ」
「……そうか」
「キミの気持ちは痛いほどわかる。けれども、今の瑠璃を怨んでも――」
もう一人の俺が話し終える前に、白い空間は崩壊し、俺の意識はなくなった。
「うわぁ!!」
俺は声を荒らげながら飛び起きた。
すぐに辺りを見回す。
どうやら、ここは俺の部屋のようだ。
悪い夢でも見たのか、寝汗をびっしょりかいており、寝間着が濡れて気持ち悪かった。
それに、少し頭痛もする。
俺は部屋着に着替え、現在の日にちと時間を携帯の画面で確認した。
今日は一月二日で、現在の時刻は午前九時だ。
……一月二日?
たしか、昨日は俺と瑠璃とじいちゃんで、近所の神社へ初詣に行ったはずだよな?
そして、その帰り道、コンビニに車が突っ込んだ事故を目撃した。
そこまでは覚えている。
だけど、それ以降の記憶がない。
俺は昨日のことを頑張って思い出そうとしてみた。
しかし、結局、何も思い出せない。
悩んでいても仕方がないな。
とりあえず、じいちゃんか瑠璃に昨日のことを訊いてみるとするか。
俺は自分の部屋から出て、一階のリビングへと向かった。
「おはよう、じいちゃん」
「ん? おお、璃央か。おはよう」
リビングでは、じいちゃんがソファーに座ってテレビを観ていた。
瑠璃はいないようだ。
「こんな時間まで寝てるとは珍しいのぉ」
「まあ、たまにはそんなときもあるさ。それで……」
「朝食ならもうできておるぞ。ほら、テーブルの上に置いてあるじゃろ?」
「いや、俺が言いたいことは朝食のことじゃなくて……」
「ところで、体調はどうじゃ?」
「……そのことなんだが、昨日俺に何があったか教えてくれないか? コンビニに車が突っ込んだところまでは覚えてるんだが、それ以降のことはまったく覚えていないんだ」
「なんじゃ、そうなのか。しかし、それはちょっと心配じゃのぉ。本当に大丈夫なのか?」
「大丈夫だ。教えてくれ」
「わかったぞい。まあ、立ち話もなんじゃ、そこに座りなさい」
俺はじいちゃんの隣に座る。
じいちゃんは顎髭を触りながら語り始めた。
「事故を目撃したとき、お前はその場にうずくまって、動かなくなってしまったんじゃよ」
「そうなのか?」
「病院に連れていこうか悩んだのじゃが、すぐにお前は立ち直った。それから、何事もなかったように、そのまま歩いて帰宅したのじゃ」
「じゃあ、特に問題はなかったんだな」
「いや、問題はあったぞ。昨日お前は、昼食も夕食もとらず、すぐに寝てしまったんじゃよ」
「……それで?」
「これで終わりじゃよ」
「なんだ、そんなに大したことじゃなかったんだな」
「そうかのぉ? ワシはちょっと不安じゃが……」
「大丈夫、大丈夫。今の俺はバリバリ元気だぜ。それに、腹も減ってるしな」
「バ、バリバリじゃと? 若者のくせにずいぶんと古くさい言葉を使うのぉ……」
じいちゃんのツッコミを無視して、朝食が用意されているテーブルに着く。
昨日の記憶がないのは不安だが、別に身体に不調があるわけじゃない。
現に食欲もちゃんとある。
俺はあまり気にしないことにした。
「そういえば、瑠璃はどこに行ったんだ?」
「瑠璃なら今シャワーを浴びてるはずじゃ。今日は友達とどこかに出かけるらしいぞ」
「そうなのか。正月なのに瑠璃は活動的だな。俺は朝飯を食ったら、二度寝しようと思ってたくらいなのに……。それじゃあ、いただきまーす」
「あら、やっと起きたのね。おはよう、璃央」
朝飯を食べようとしたとき、ちょうど瑠璃がリビングに入ってきた。
その瞬間、過去の記憶が噴水のように勢いよくあふれて、俺の頭の中を満たしていく。
同時に、激しい吐き気が襲いかかってきた。
俺は気持ち悪さに耐えきれず、リビングを飛び出して全速力でトイレに駆け込んだ。
「おえっ! おええっ!」
俺はトイレで激しくえずいた。
しかし、口からは何も吐き出されない。
たぶん、昨日の昼から何も食べていないので、胃の中は空っぽだったのだろう。
だが、口から何も出ないのに、なぜか吐き気が治まらない。
それから数分間、空えずきが止まらなかった。
「ちょっと!? 大丈夫!?」
瑠璃が心配そうに近づいてきた。
しかし、今の俺は瑠璃を見ただけで、激しい動悸と吐き気に襲われる。
「うるさい! 俺に近づくな!」
俺は無意識に大声で叫び、瑠璃を拒絶していた。
過去の記憶、特に今は瑠璃についての記憶が頭の中を満たしている。
俺は吐き気をなんとか抑えながら、トイレから廊下へ出た。
そして、瑠璃と正面から向かい合う。
「な、なんでそんな大声で叫ぶのよ? それに、顔がちょっと怖いわ。とりあえず、落ちつ――」
「そんなことはどうでもいい!」
「――っ!?」
「なあ、瑠璃。聴いてくれよ。俺……過去の記憶をまた思い出したんだ」
「そ、そうなの? それはよかっ――」
「いいわけあるか! こんなつらい記憶、思い出したくなかった!」
気づいたら俺はまた叫んでいた。
激しい動悸のせいで呼吸がしづらい。
若干過呼吸気味だが、なんとか言葉を絞り出そうとした。
「璃央、 私はあなたの味方よ! あなたに危害は加えないわ! だからお願い、落ち着いて私の話を聴いて!」
「味方……だと?」
「ええ、私はいつでも璃央の――」
「味方だったら、なんでお前は俺に『死ねばいい』なんて言ったんだよ!? しかも、本当の姉じゃないくせに実の姉だと偽りやがって! どうしてそんなすぐバレる嘘をついたんだ!?」
「……あなたはそこまで思い出したのね。ごめんなさい。そのことについては弁解できないわ。でも、今は違うのよ! 私は本当にあなたの味方なの! 私を信じて、璃央!」
「いいや、信じられない! 俺を自殺に追い込んだやつの言葉なんて、信用できるわけないだろ!」
「そ、それは……!」
俺は思っていることをすべて瑠璃にぶつける。
これが正しいか正しくないかはわからない。
だけど、吐き出さずにはいられなかった。
「どうしたんじゃ、二人とも? 姉弟喧嘩か?」
異変を感じ取ったのか、じいちゃんがリビングから出てきた。
ちょうどいい、じいちゃんにも訊きたいことが山ほどある。
「じいちゃん……。じいちゃんはなんで俺に嘘をついたんだ? なんで瑠璃が本当の姉じゃないってことを黙ってたんだよ? なんで咲夜母さんのことを伯母だなんて言ったんだ?」
俺はじいちゃんにも質問をぶつけた。
すると、じいちゃんは悩ましげな表情を作る。
「……実はな、医者に言われたんじゃよ。お前が大人になるまで過去のことは教えないほうがいい、とな」
「……医者が?」
「ああ、そうじゃ。お前が記憶喪失になったとき、医者にこれまであった過去のことを打ち明けた。それを聴いた医者はそう言ったんじゃ」
「……ほかにはどんなことを言われたんだよ?」
「目覚めたばかりの璃央に本当のことを伝えたら、混乱して精神が錯乱してしまう確率が高い。心と身体が大人になって精神が安定するまで、過去のことは秘密にしたほうが賢明だろう。必要があれば嘘をついてもいい。とにかく今は、璃央の精神を安定させることを最優先にしてほしい……そう言われたのじゃ」
「……ほかには?」
「今のがすべてよ、り――」
「お前には訊いてない! 今しゃべっていいのは、じいちゃんだけだ!」
「……っ!?」
「今まで本当にすまなかった。じゃが、時がきたら、お前には全部正直に話そうと――」
「馬鹿馬鹿しい! 結局、その藪医者の言ったことは裏目に出てるじゃないか! 俺はショックだったんだぜ!? 信頼していた二人にずっと騙されていたことがな!」
過去のつらい記憶が頭の中だけでなく、全身にも巡っていき、俺の身体を蝕んでいく。
記憶と感触がよみがえり、さまざまな負の感情が内からあふれて、心がぐちゃぐちゃになりそうだ。
「瑠璃、お前はいったい俺をどうしたかったんだよ? お前はあんなにも俺を嫌っていたじゃないか? それに、今までの姉弟ごっこに何の意味があったんだよ? お前の目的が全然わからねぇよ」
「わ、私は璃央のことが――」
「はっきり言わせてもらうが、お前気持ち悪いんだよ。本当の家族でもないくせに、必要以上にベタベタしてきやがって。それに、過去の行いのせいで、お前の言動すべてが信じられなくなった。……お前みたいなやつは俺の家族なんかじゃない! お前なんか大嫌いだ! お前の顔なんて見たくない! 今すぐに俺の前から消えてくれ!」
瑠璃は顔面蒼白になり、その場に膝から崩れ落ちた。
はっ、いい気味だ。
「璃央! さすがにそれは言いすぎじゃぞ! 瑠璃に謝るんじゃ! 瑠璃はな、本当にお前のことを大切に――」
「じいちゃんは黙っててくれ! これは俺と瑠璃の問題なんだよ!」
俺はもう限界だった。
今の俺はじいちゃんと瑠璃と一緒にいることに、多大なストレスを感じてしまっている。
気がつくと、考えるより先に行動を起こしていた。
俺は瑠璃とじいちゃんの前を素通りし、そのまま家を飛び出す。
「どこに行くんじゃ! 待ちなさい、璃央!」
じいちゃんの制止を振り切り、全速力で家から離れる。
外は土砂降りの雨だったが、俺は気にせず無我夢中で走り続けた。
気がつけば、見慣れない公園を訪れていた。
いったい俺はどのくらい走り続けたのだろう。
身体には相当疲労が溜まっていた。
頭も痛いし、ひどい吐き気もする。
俺はひとまずこの公園で休憩することにした。
土砂降りの雨のことなんて気にもかけず、ただのベンチに腰かける。
これからどうしたらいいんだろう。
何も思いつかない。
一月の冷たい雨にうたれながら、俺はしばらくベンチに座っていた。
雨のせいで全身びしょ濡れだ。
濡れた服が肌に張りついて気持ちが悪い。
そのうえ、身体が芯まで冷えてしまったせいか、寒さで震えが止まらなくなってきた。
手足の感覚も、徐々になくなりつつある。
このままだと命に関わるかもしれない。
しかし、俺はうなだれたまま、じっと座っていることしかできなかった。
もう動く気力も残っていない。
……まあ、自分の命なんて今さらどうでもいいか。
本来なら、俺は中学生のときに死んでいたはずなのだからな。
「あの……こんな雨の日に傘もささないでどうしたんですか?」
そのとき、突然誰かが俺に話しかけてきた。
その人はこれ以上濡れないように、自分の傘の中に俺を入れてくれた。
「……ありがとうございます。ちょっと考えごとをしてただけなんですよ。どうかお気になさらず――」
「えっ? もしかして、璃央君? こんなところでどうしたの?」
声をかけてくれた人物は、なんと鈴音だった。
なんでこんなところに鈴音がいるんだ?
「よ、よお、鈴音。ひ、久しぶりだな……」
「のんきに挨拶してる場合じゃないよ! 璃央君、顔が真っ青だよ!? 身体も雨で濡れてすごく寒そうだし、唇も紫色になってる……。私の家、この近くだから来なよ。お風呂も着替えも貸してあげるから」
「心配してくれてありがとな。でも、大丈夫だから……」
「全然大丈夫じゃないよ! こうなったら、何がなんでも璃央君を私の家に連れて帰るからね!」
「お、おい、鈴音……!」
俺は一応、抵抗はした。
しかし、鈴音の力には抗えず、そのまま彼女の家に強制連行されてしまったのである。
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