第二十六話 双子と心の傷
気がつくと、辺り一面真っ白な空間が広がっていた。
目の前には俺とそっくりな姿をした、白髪の男が立っている。
「やあ、こんにちは。璃央くん。つらいことがあったね。大丈夫かい?」
「……お前はこうなるってわかってたのか?」
もう一人の俺は、俺を気遣うような言葉をかけてくる。
だが、それを無視して、そのまま質問を返す。
「……今回の件については、僕にも予想できなかったんだ。確かに、鈴音さんの好意は度を超えていた。まさかこんなことになるとは思わなかったよ。……ごめん。僕はキミに何もしてあげられなかった」
もう一人の俺は、俺に頭を下げた。
今はこいつを責めてもしょうがないよな。
「……頭を上げてくれ。別にお前が謝ることでもないだろ。悪いのは俺だ。俺が鈴音をあそこまで歪ませてしまった。全部俺のせいなんだ」
「……キミは優しいね。でも、鈴音さんの件に関してはあまり悩まないでほしいんだ。君がすべての責任を背負う必要はないんだよ。だって、あんなことが起きるなんて夢にも思わなかっただろ? あれはしょうがない出来事だったんだよ。だから、あまり思い詰めないでほしいんだ」
「簡単に割りきれるものではないな。たぶん、しばらく引きずることになる。とはいえ、こんな俺のことを心配してくれてありがとな」
俺はもう一人の俺にお礼を言った。
自分自身にお礼を言うのも、なんか変な気がするが。
「別に変なことではないよ。自分自身に感謝をするのはとても大切なことだからね。僕は嬉しいよ。でも、自分を卑下するのはよくないな。そこを直してくれると、僕はもっと嬉しいんだけどね」
もう一人の俺はさも当然のように、俺の心を読んで話しかけてくる。
俺はこいつの考えてることが全然わからないというのに……。
なんか不公平だな。
「とにかく、今のキミに必要なものは休養だね。もしも、つらくなったら家族や友達を頼るといい。きっとキミの力になってくれるはずだよ。じゃあ、今回の話はこれくらいにしておこう。キミは来るべき日のためにゆっくりと英気を養うといい」
もう一人の俺が話し終えると白い空間が崩れだし、俺の意識も遠くなる。
意識がなくなる直前、もう一人の俺が言っていた最後の言葉が、頭の中で引っかかった。
「来るべき日」とはいったい何のことだろうか?
十月三十日。
今日は両親の命日だ。
俺と瑠璃とじいちゃんは、自宅から離れた場所にある霊園を訪れていた。
目的は両親の墓参りである。
俺は記憶喪失のせいで、父さんと母さんのことを覚えていない。
父さんの名前は
生前の写真も見せてもらった。
二人とも車の転落事故で亡くなったらしい。
瑠璃もじいちゃんもさぞつらかっただろう。
当時の俺も悲しんだに違いない。
しかしながら、俺には両親という存在がいまいちピンとこないのである。
両親がいなくても、寂しい、甘えたかった、という感情はまったく湧かなかったのだ。
俺は薄情なのだろうか。
いや、これはたぶん、瑠璃とじいちゃんがいてくれたおかげだろう。
二人がいつも優しく接してくれたから、両親がいなくてもマイナスな感情を抱かなかった。
本当に感謝してもしきれないな。
「璃央。何ぼーっとしてるのよ。もしかして、まだ体調が悪いの?」
「……ちょっと考えごとをしてただけだよ。体調なら大丈夫だ。心配してくれてありがとな」
俺はまた瑠璃に嘘をついてしまった。
本音を言うと、まだ体調は悪い。
瑠璃に余計な心配をかけたくなかったので、つい嘘をついてしまったのだ。
「それじゃあ、お墓参りを始めようかの」
俺たちは、ご先祖様と両親が眠っている墓の前に到着した。
毎年お墓参りをしているので、いつもどおりの手順で行う。
お墓の面積は畳二枚ほどである。
中に落ちている、枯れ葉などのゴミをすべて拾ったあと、大きな墓石を柔らかい布で拭いていく。
拭き終えたら、打ち水をして、墓石を清める。
その後、花立に持ってきた菊の花束を立て、水鉢に水を入れ、線香をあげて三人で合掌をした。
最後に後片付けをして、お墓参り完了だ。
帰り際、俺は墓誌を眺めていた。
そこには両親の名前とともに、ご先祖様の名前も刻まれている。
そういえば、毎年お墓参りに来ているが、墓誌をしっかりと見たことがなかったな。
墓誌を改めてよく確認してみると、気になる表記を発見する。
そこには「
しかも、その咲夜という人物が亡くなった時期は、俺の両親が亡くなった時期と近い。
しかし、咲夜という人物について、俺は何も知らなかった。
とりあえず、じいちゃんに訊いてみるか。
「じいちゃん。この咲夜っていう人は、俺たちとはどんな関係なんだ?」
「……咲夜はな、明仁の姉じゃよ。八年前に病気で他界したんじゃ」
「そうなのか。ということは、俺の伯母さんなんだよな? じゃあ、咲夜さんの分もちゃんと合掌しないとな」
「……そうじゃな。そうしてくれると、咲夜もきっと喜ぶ」
俺は咲夜伯母さんの分も合掌した。
そして、俺たちはお墓に一礼し、お墓参りを終えた。
翌日、俺は一週間ぶりに葵月との早朝ランニングを再開した。
まだ完全に調子が戻ったわけではない。
とはいえ、走っているときは、嫌なことを忘れることができる。
ランニングは、今の俺にはちょうどいい『精神安定剤』のようなものなのだ。
「おい、璃央。もう少しペースを落としたほうがいいんじゃないか? 走るのは久々なんだろ? あまり無理をするなよ」
「おいおい。いったいどうしたんだよ、葵月? いつもは俺を気遣ったりしないじゃないか。心配しなくても、このとおり元気だぜ?」
「長年スポーツをやってる私の目はごまかせないぞ。この先の公園まで走ったら、そこでいったん休憩にしよう。それに話したいこともあるしな」
「……わかった。葵月の言うとおりにするよ」
公園に到着した俺たちは、ベンチに座って休憩し、話をすることになった。
さっきまでは、まだまだ走りたい、と思っていたが、やはり体力は衰えていたらしい。
俺は肩で息をするほど消耗していた。
「……そ、それで、話ってなんだよ?」
「まず、話をする前に息を整えてくれ。ここまでよく頑張って走ったな。つらかっただろ?」
「は、はぁ? さ、さっきも言っただろ。俺は元気だって……」
「表面上は元気そうに見えるが、空元気だってばればれだぞ。瑠璃も心配してた。鈴音の件で、お前は相当落ち込んでるって聞いてるぞ」
「……」
鈴音の件については、みんなにも伝えてある。
米原は怒っていたし、剛志と弘人とじいちゃんは信じられないといった顔していた。
瑠璃と葵月に至っては、鈴音の身勝手な復讐対象になっていたのだ。
だから、俺は鈴音に謝罪をさせた。
しかし、鈴音が謝罪をしても、瑠璃と葵月は鈴音を赦さなかったのである。
最終的に、みんなは鈴音と縁を切った。
それから、俺を励ましてくれたり、優しくしてくれたのだ。
そのことについては感謝している。
だけど、俺の心はひどく消耗していた。
できれば、今は鈴音についての話をしたくない。
思い出すだけで、胸が苦しくなるのだから。
「すまん、葵月。その話題はちょっと……」
「私は鈴音のしたことが赦せないんだ」
「……え?」
「私は、大切な友達を傷つけた鈴音を赦せそうにないんだよ」
急に葵月の声が低くなり、顔に暗い影を落とす。
こんな表情をした葵月は、今まで見たことがない。
「おかしいよな。つい最近まで鈴音とは友達だったはずなのに、今は憎くてたまらないんだ。あんなに純粋でいい子な千歳を脅迫し、恐怖を植えつけた鈴音のことが憎いんだよ」
「お、おい、葵月……。落ち着けよ」
「そのうえ、璃央の心に傷を作り、瑠璃にもひどいことをしようした。私の大事な友達になんてことを……」
葵月の様子を見て、あのときの鈴音を思い出す。
憎しみが連鎖していく、この気持ちの悪い感覚。
この状態の葵月を放っておいてはダメだ。
何とかして俺が止めないといけない。
憎しみの連鎖は、ここで断ち切らなければならないんだ。
「葵月!」
俺は葵月の両肩を掴み、真正面で葵月と向き合う。
向き合ってみて、わかったことがある。
葵月の目は、あのときの鈴音の目とそっくりだったのだ。
「璃央、痛いぞ。離せよ」
「いいや、離さない。お前は鈴音と同じ目をしている。間違っても、鈴音に報復しようするな。考えを改めるんだ」
「別に報復したいとかは……考えてない……。だけど、私のこの気持ちはどうしたら抑えられるんだ? なあ、教えてくれよ、璃央?」
葵月は俺に難しい質問をぶつけてきた。
俺は鈍い頭をなんとか回転させ、どうすればいいか考えてみる。
しかし、いい言葉がすぐには思いつかない。
だが、迷っている時間もないのだ。
葵月を鈴音のようにさせないためには、頑張って言葉を紡いでいくしかない。
「……葵月。その憎しみの気持ちを抑える必要はない」
「は? 何言ってんだよ? 意味わかんないぞ」
「大切な友達を傷つけた鈴音が憎いのは理解できる。だけど、鈴音も制裁を受けているんだ。これ以上、鈴音を追い詰めるのはいじめと同じなんだよ。その感情を、今の鈴音にぶつけるのは正しい行いじゃない」
「そんなことはわかってる。璃央は何が言いたいんだよ?」
「言っただろ? その気持ちを抑えるんじゃない。否定したりしないで、ありのまま全部受けとめるんだ」
「……それは難しいな。私にできるか不安だ」
「憎しみを受け入れるのは、つらくて苦しいことだ。容易じゃない。だけど、何回も何回も受け入れているうちに、だんだんと気持ちを抑えられるはずだ」
「本当に……本当にそれで抑えられるようになるのか?」
「ああ。ただ憎んでるだけでは、自分自身も疲れてしまうからな。でも、もし全部の憎しみを受け入れるのが難しいのなら……。まずは憎しみを赦せない自分だけを受け入れればいい」
「それは、どういうことなんだ?」
「赦せないものは赦さなくていいんだ。今は赦せない自分をそれでいいと何度も受け入れ続けるんだよ。そうすれば、憎しみの感情も次第に薄らいでいって、鈴音に執着する気持ちも少しは減るはずだ」
これが今の俺が精一杯捻り出した答えだ。
もちろん、この言葉は俺自身にも刺さる言葉でもある。
葵月はしばらくの間、無言でうつむいていた。
果たして、俺の想いは葵月に届いたのだろうか。
「……葵月、大丈夫か?」
心配になり葵月に声をかける。
すると葵月は、突然顔を上げ、自分の頬を両手でぱんっと叩く。
そして、笑顔を作り、俺を見つめてきた。
「璃央、ありがとな。お前のおかげで少し楽になれたよ。まだ鈴音が憎い気持ちはあるけど、お前の言うとおりにしてみるよ。心配かけて、ごめんな」
葵月は憎しみの感情から解放されたようだった。
先ほどまで影を纏っていた顔には光が差している。
どうやら俺は葵月の力になれたようだ。
本当によかった。
「葵月、もう少し走らないか? 俺はまだ走りたい気分なんだ」
「おう、いいぜ。だけど、無理はするなよ。璃央の体調が少しでも悪くなったら、そこで終わりだ。私が無理やりにでも中断させるからな。わかったか?」
「ああ。ありがとな、葵月」
「なあ、璃央。お前昼飯はそれだけで足りるのか?」
俺と剛志と弘人は、教室でいつものように昼食をとっていた。
剛志は俺の昼飯に疑問が湧いたのか、そんな質問をしてきたようだ。
「ちょっと食欲がなくてな。まあ、心配するな。そんな大したことじゃない」
「そうやって、ごまかすのはよせよ。君は美藤の件以降、昼食はいつもそれだけじゃないか。しかも、明らかに身体が前より細くなっている。その様子だと、朝食や夕食も満足にとれてないんだろ?」
弘人の言葉が俺の心に刺さる。
指摘されたように、鈴音の件以降、食事が喉を通らなくなっている。
この一週間、朝食も昼食も夕食もゼリー飲料だけだ。
それが原因で体重も減った。
あまり食べていないせいか、ふらつくことも多い。
「確かに食事はあまりとれてない。だけど、しょうがないだろ。食欲がでないんだから。無理に食っても戻すだけだ」
「そりゃ、無理に食べろとは言わないけどさ。……とにかく、僕たちは璃央のことを心配してるんだ」
「前にも言ったが、つらかったら俺たちを頼ってくれていいんだぞ?」
二人が俺のことを気遣ってくれているのはわかる。
それは、とてもありがたいことだ。
でも、この状態を相談しても、今すぐ何かが変わるわけじゃない。
時が過ぎるのを待つしかない、と俺は思っていた。
ある程度時間が経過すれば、この複雑な気持ちも少しは落ち着くはずだ。
「……まあ、相談しただけじゃ何も変わらないこともあるだろう。だから、無理に話さなくてもいい。お前が落ち着いて相談したいと思ったとき、俺たちを頼ってくれ。そのときは存分に協力してやるからな」
「剛志……」
「剛志の言うとおりだよ。そのときがきたら、遠慮せずに何でも言ってほしい。僕もできるかぎりのことは協力するからね」
どうやら二人は、俺の気持ちを汲んでくれたようだ。
本当にありがたい。
「剛志、弘人、お前らが友達で俺は嬉しいぜ。気持ちが軽くなったよ。ありがとな」
「おう」
「うん」
俺は二人に感謝の言葉を伝えたあと、昼飯のゼリー飲料を一気に飲み干した。
放課後、俺は机に突っ伏していた。
今日もなんとか一日を乗りきれたな。
疲れたし、さっさと帰るとするか。
教室から出ようとしたとき、ふと鈴音の机が目に留まる。
鈴音は、もうかれこれ一週間以上も登校していない。
俺は余計な感情が湧き出す前に、足早に帰宅した。
「おかえりー」
「……なんでお前がここにいるんだ?」
自宅のリビングにはなぜか米原がいた。
しかも、ソファーに座ってお菓子を食べながら、テレビを観ている。
「瑠璃はどうした?」
「瑠璃なら買い物に行ったよ。さっき買い物したんだけど、買い忘れがあったみたいで……って、ちょっとどこ行くの?」
「……自分の部屋に行くだけだが?」
「まあまあ。瑠璃が帰るまで、お菓子を食べながら、あたしとおしゃべりでもしようよ」
俺は別に米原と話すことはない。
しかし、米原にはきっと大事な話があるのだろう。
過去の言動からだいたい予想がつく。
俺は仕方なく米原の隣に座って、話を聴くことにした。
「……ちょっと近くない?」
「お前が座れって言ったんだろ」
これでも気を遣って結構距離を空けてるつもりなんだが?
それに、これ以上離れるのは物理的に無理だ。
もうすでに俺はソファーの端にいるんだぞ。
「それにしても、ちょっと距離が近いんじゃない? あたしには彼氏がいるんだけど?」
「わかった。俺は自分の部屋に戻る」
「ま、待って! 冗談だよ、冗談。会話の導入を円滑にしようと思ってさ」
「どんな冗談だよ。……それで、お前の話したいことはなんだ? 導入なんて気にしないでいいから、さっさと話せよ」
米原はテレビのほうに顔を向ける。
こいつは何がしたいんだ?
「米原、テレビなんか――」
「瑠璃と葵月を……あたしの大切な友達を守ってくれて、ありがとう」
米原は俺に感謝の言葉を述べてきた。
なぜかテレビのほうを向きながら。
「鈴音の様子がおかしいのは、薄々気づいてた。だけど、まさかこんなことになるとは思わなかったんだ。あたしは何もできなかった。でも、璃央は情けないあたしの代わりに、大切な友達を守ってくれた。そのことは本当に感謝してる」
どうやら、瑠璃も葵月も米原も、互いに大切に想い合っているようだな。
俺にも十分伝わってくる。
しかし、米原は頑なに俺を見ようとはしなかった。
よく見てみると、米原の耳が真っ赤になっていることに気づく。
もしかして、照れてるのか?
こんな様子の米原を見るのは初めてなので、なんだか新鮮な感じだ。
剛志、お前の彼女には意外と可愛らしいところもあるじゃないか。
「俺は当たり前のことをしただけだよ。瑠璃と葵月は俺にとっても大切な存在だ。それに、米原が情けないわけじゃない。あまり自分を責めないでくれ。瑠璃も葵月も、米原がいてくれるだけで嬉しいと思っているはずだ。いつもありがとな。これからも瑠璃と葵月をよろしく頼むよ」
俺は米原に感謝の気持ちを伝える。
その言葉を聴いて、米原はやっとこちらを向いてくれた。
「……ありがとう、璃央。あんたがいてくれてよかったよ」
「どういたしまして」
「ただいまー。あ、璃央、帰ってたのね」
米原との湿っぽい会話が終わった直後、瑠璃が買い物から帰ってきた。
咄嗟に俺と米原は、平静を装うために、テレビのほうに顔を向ける。
「おかえり。お前が買い忘れなんて珍しいな」
「私だってミスすることくらいあるわよ。一紗、待たせて悪かったわね。それじゃあ、私の部屋に行きましょうか」
「うん。じゃあね、璃央。また学校でね」
「おう、またな」
米原はお菓子を持って、そそくさと二階の瑠璃の部屋まで行ってしまった。
その様子を見て、瑠璃は不思議そうな顔をしている。
「ねぇ、璃央。一紗と何話してたの? あの子の耳が赤くなっていたけど……」
「普通に雑談してただけだ。……って、なんだその顔は?」
「もしかして、一紗を口説いてたの? 剛志君がいるのに?」
「そんなわけないだろ!? そんなことしたら、俺が剛志に殺されちまうよ!」
「なんでそんなに焦ってるのよ。冗談よ、冗談」
「冗談にしては、顔が怖かったけどな……」
まったく、米原も瑠璃も冗談を言ってからかうのはやめてほしいぜ。
米原がいなくなってからも、なぜか瑠璃はリビングにとどまっている。
瑠璃は身体をもじもじとさせながら、俺に何かを伝えようとしていた。
「ところで、お願いがあるんだけど。こ、今晩、私の部屋に来てくれる? 璃央に話したいことがあるのよ 」
「ん? 今日は瑠璃の部屋で話すのか?」
「ええ、そうよ。それで返事は?」
「……じゃあ、今夜お邪魔させてもらうよ」
「わかったわ。またあとでね」
瑠璃は俺と約束を交わしたあと、自分の部屋に戻っていく。
特にやることもない俺は、ソファーに寝転んでテレビを観ることにした。
時刻は午後十時。
俺は言われたとおり、瑠璃の部屋の前まで来た。
扉をノックをすると、部屋の中から「どうぞー」という声が聞こえてくる。
俺はゆっくりとノブを回し、扉を開けた。
「いらっしゃい」
「おう、邪魔するぞ」
シンプルな部屋着姿の瑠璃がベッドに腰かけている。
そういや、瑠璃の部屋に入るのは久しぶりだな。
好奇心に負けて、つい部屋の中を見回してしまう。
瑠璃の部屋はきちんと整理整頓されている。
棚には本や雑貨が綺麗に並べられており、勉強机にも無駄なものは置かれていない。
一方、ベッドにはクッションや人形が置いてあって、女の子らしさも感じられる。
「ねぇ、璃央。恥ずかしいからあんまりジロジロと見ないでほしいんだけど……」
「わ、悪い。久しぶりなもんで、つい見ちまった」
「そんなことより、早く隣に来なさいよ」
「ああ」
俺は躊躇なく瑠璃のベッドに腰かけた。
一方、瑠璃はなぜかそわそわしているように見える。
「それで、話したいことって何だよ?」
「ち、ちょっと待って。その前に少しの間、目を閉じててほしいの」
「はぁ? どうしてそんなことをしなきゃいけないんだよ?」
「い、いいから目を閉じなさいよ」
「はいはい」
俺は瑠璃の圧に負けて仕方なく目を閉じた。
その瞬間、俺の背中に柔らかくて温かいものが覆いかぶさってくる。
おい、これはまさか……。
「璃央。もう目を開けていいわよ」
目を開けると、瑠璃が後ろから俺を抱きしめていた。
瑠璃の温かい体温と女子特有のいい香りに、俺は包みこまれる。
「おい、瑠璃! 何してるんだよ!?」
「夜中なんだから大きな声を出さないで。これはね、バックハグよ。今夜は璃央を癒してあげようと思って部屋に呼んだの。ほら、前にハグしたとき、ストレスが多少は軽減できたでしょ?」
「いくら姉弟でも、バックハグはダメだろ。離してくれ」
「あら、璃央は前からのハグのほうがいいの?」
「そういう意味じゃねぇ……」
「いいから黙って受け入れなさいよ。落ち着くでしょ?」
「こんなことで落ち着くわけ――」
……あれ? おかしいな。
なぜか前にハグをされたときより、心が落ち着いている。
瑠璃の言うとおりだ。
「……まあ、前よりはそこそこ効いてる気がするな」
「そう、それならよかったわ」
瑠璃は腕の力を少しだけ強めた。
俺は抵抗せずに、そのまま受け入れる。
「璃央、私はね。鈴音の件で心に深い傷を負ったあなたが心配なの。あなたは周りに気を遣って元気なふりをしているでしょ? でも、ご飯も食べられないほどやつれているのは、みんな知ってるのよ。それに、睡眠も満足にとれていないんじゃない? 目の下の隈もすごいわ」
瑠璃の発言はすべて的を得ている。
実は睡眠も十分にとれているとはいえない。
寝つきが悪いし、寝ても一時間くらい経つと起きてしまう。
「私たちは双子の姉弟なんだから、つらいことも二等分できる。私をもっと頼ってもいいのよ。つらいなら、つらいって言ってもいいの。だから、今のあなたの気持ちを正直に話してほしい。全部私が受けとめるから」
瑠璃の手が優しく俺の頬に触れる。
瑠璃の優しさに触れたことで、今まで抑えていた感情があふれてきそうだった。
「……聴いてくれ、瑠璃。鈴音にあんな行為をさせてしまった原因は、俺自身にあると思ってるんだ。でも、みんなは俺のせいじゃないって言ってくれている。だけど、俺と関わったせいで、鈴音が憎しみに囚われたのは事実なんだ。俺がいなければ、鈴音はもっと楽しい人生を送れていたんじゃないか、って思うんだよ……」
俺は頬に触れていた瑠璃の手を震えながら握る。
瑠璃はその手を優しく握り返してくれた。
「今朝、葵月も鈴音と同じような目をして、憎しみに囚われそうになってたんだ。そのときは、なんとか防ぐことができた。けれども、俺は怖かったんだ。俺のせいで誰かが狂うのは、もう見たくないんだよ」
俺は自然と涙を流していた。
誰にも言えなかった本当の気持ち。
やっとそれを打ち明けることができたのだ。
「話してくれてありがとう、璃央。あなたの本音が聴けて嬉しいわ」
瑠璃はさらに強く俺を抱きしめた。
同時に、瑠璃の柔らかな部位が背中全体に押しつけられる。
「でも、自分と関わらなければよかった、なんて思わないでほしいの。あなたは周りの人たちに希望を与える存在なのよ。それは、自覚してほしいの」
瑠璃はさらに自分の身体を俺の背中に密着させる。
俺は瑠璃の熱い体温に包まれた。
別に嫌な気持ちではない。
今の俺にとっては心地いいくらいだ。
「鈴音をいじめから救ったこと。葵月を助けたこと。一紗と剛志君を恋仲にしたこと。南條敦を赦し、千歳の心を解放してあげたこと。そして、いつも私の味方でいてくれたこと。あなたは多くの人たちに希望を与えていたのよ。そのことを忘れないで」
瑠璃は俺の耳元で優しく語りかけてくる。
……そうか。
そういう見方もできるのか。
どうやら、俺は悲観的になりすぎていたのかもしれないな。
「……ありがとう、瑠璃。おかげで心が楽になったよ。瑠璃が家族で本当によかった」
「私も璃央の力になれて嬉しいわ。じゃあ、そろそろ離れるわね。ごめんなさいね、いきなり抱きついたりして」
「あー、そのことなんだが。もう少しこのままでいいぞ。なんか今日は、瑠璃と密着してると妙に落ち着くんだよ」
「えっ? やだ、もう璃央ったら……。そんなに私のことが好きなの? なんか照れるわね」
「おい、照れるなよ。こっちも恥ずかしくなるだろ」
俺はしばらくの間、瑠璃にハグをしてもらった。
気が済むまで堪能したあと、おやすみの挨拶をして、俺は自分の部屋へと戻る。
今夜は瑠璃のおかげでよく眠れそうだ。
ありがとな、瑠璃。
こうして、心が安定した俺は、久しぶりに翌朝までぐっすり眠ることができたのだった。
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