第二十話 双子と葵月 後編
「璃央! 夕飯が完成したぞ!」
「ああ。ありがとな、牧本」
「じゃーん! 夕飯はスタミナ丼を作ったんだ!」
「おっ、うまそうだな」
牧本は嬉しそうにスタミナ丼とサラダ、味噌汁をテーブルに並べる。
現在時刻は午後五時。
夕食には少し早い時間だが、腹は減っているので問題はない。
「おい、璃央。お前、私が丼物しか作れないと思ってないか?」
牧本が突然俺の思考を読もうとしてきた。
だが、今回ははずれだ。
「そんなこと思ってねーよ。作ってくれるだけでもありがたいのに」
「ならいいけど」
牧本は懐疑的な目で俺を見ていた。
だが、今回はただの言いがかりだ。
気がつくと牧本はもう俺の隣に座っていた。
……なんだか、さっきよりも距離が近くないか?
「どうしたんだよ? 顔が赤くなってるけど、大丈夫か? あっ、もしかして、風邪でも引いたのか?」
まさか自分に原因があるということに、牧本本人は気づいていないだろうな。
しかしながら、俺はまだ牧本のことを若干意識しているようだ。
早く切り替えないといけないな。
「俺は大丈夫だ。それより、夕飯を食わせてくれよ。腹ぺこなんだ」
「わかった。今回のスタミナ丼もうまいぞー。璃央の怪我が早く治るように、豚肉と野菜をたくさん入れたからな。ほら、いっぱい食べてくれ」
牧本は笑顔になり、スタミナ丼をスプーンですくって俺の口まで持ってきた。
俺はためらわずに口を開けて、それを受け入れる。
……うまい!
豚肉と野菜には濃い目の味付けがされており、一口食べると止まらなくなりそうな味だった。
個人的には、先ほどの親子丼よりも好きな味だ。
加えて、使われた豚肉と野菜は、スプーンですくって食べやすいように、細かく切られている。
牧本の配慮には感謝をしないとな。
「どうだ? これもうまいだろ?」
「ああ、本当にうまい。牧本の料理を食うと、なんだか力が湧いてくる気がするよ」
「そ、そうか……。褒めてくれてありがとな。さあ、たくさん食って元気になってくれ」
牧本はさっきよりも多くすくい、俺の口まで持ってくる。
俺も大きく口を開け、一口で食べきる。
それが、何度も続いた。
「……璃央、この感覚の正体がわかったぞ。これは動物に餌付けをしている感覚に似ているんだ」
スタミナ丼を半分以上食べたときに、牧本がポツリとそう言った。
え、餌付けだと……?
こいつは俺のことをそんな目で見ていたのか。
「おい、牧本。それは、どういう意味だ?」
「べ、別に悪い意味で言ったわけじゃねぇよ。いや、でも動物とはちょっと違うな。……そうか、赤ちゃんだ! 璃央がデカい赤ちゃんに見えてきたんだよ」
「あ、赤ちゃん? 俺がか?」
「おう。私がこうやってお世話しないと、何もできないところが赤ちゃんそっくりだと思ったんだ」
「そ、その考え方は、さすがに傷つくぞ……」
そんなやり取りをしながら、俺はなんとか料理を完食したのであった。
しかし、俺が赤ちゃんか……。
どんな見方をしたら、俺が赤ちゃんに見えるんだよ。
牧本の考えてることはよくわからんな。
夕食後、俺と牧本はリビングのソファーに座って、ニュース番組を観ていた。
画面には明日の天気予報が映し出されている。
「お、明日も晴れなんだな。これなら瑠璃たちも無事に下山できそうだ」
「そうだな。でも、山の天気は変わりやすいって言うだろ? 俺が去年登った山なんか、最初は晴れてたのに、いきなり雨が降ってきて驚いたぜ」
「璃央たちの登った山は大変だったんだな。私が登った山はずっと晴れてて、快適だったぞ」
「へぇ、そりゃ運がよかったな」
去年の登山は本当に初めてのことだらけで、大変だった。
個人的な感想を言わせてもらうと、登山はただつらかっただけだ。
今年は怪我で行けなくて本当によかったな。
できれば、来年の登山も休みたい、と思ってしまっている自分がいた。
「これからどうする? このままテレビ番組でも観るか?」
「うーん、そうだなー。あっ! 私はまたさっきのゲームがやりたいぞ! もちろん、罰ゲームありでな!」
牧本がニヤニヤしながら、こちらを見てくる。
……どうもこいつは、調子に乗っているようだな。
しかも、完全に勝てると思って罰ゲームの提案までしてきやがった。
これ以上、こいつを好き勝手にさせるわけにはいかない。
今度こそ俺の本気を見せてやる。
「牧本、負けても罰ゲームをちゃんと受け入れろよな?」
「当たり前だろ? まあ、勝つのは私だから、そんな心配いらないけどな」
「……言うじゃねぇか。覚悟しろよ!」
「お前こそ後悔すんなよな!」
こうして俺と牧本は再びゲームで対決することになったのだ。
「嘘だろ……? 本当に勝てた……」
「お、おかしい……。私が負けるなんて……」
勝負の結果、なんと俺が勝ち越せたのだ。
本気で勝つ気ではいたが、こうもあっさり勝てるとはな。
なんだか少し拍子抜けしてしまった。
一方、牧本はかなり悔しそうにしている。
おそらく、さっきの勝負で、俺のことを完全に格下だと思っていたのだろう。
今回も余裕で勝てると思っていたに違いない。
だが、今回勝てたのは、どうも俺が強かったわけではなさそうだ。
なぜか牧本はさっきよりも、焦っていて、直感も上手く働いていないように思えた。
何か動揺することでもあったのだろうか?
一つ気になることをあげるのならば、牧本が罰ゲームのことをやたらと気にしていたことだ。
俺が勝つたびに、牧本の動きは明らかに鈍くなっていった。
もしかしたら、俺にどうしてもやらせたい罰ゲームがあったのかもしれない。
本当に勝ててよかったな。
いや、マジで。
「残念だが、今回は俺の勝ちのようだ。さあ、約束どおり罰ゲームを受けてもらおうか」
「うっ……わかったよ。だ、だけどな、璃央! エッチな罰ゲームとかはなしだぞ!」
「しねぇよ! まったく、お前は俺のことをなんだと思ってやがる」
「元パンツ覗き魔」
「お前はいつまでこのやり取りをする気だよ!? その言葉はまだ俺に効くからな!?」
「いいから、早く罰ゲームの内容を言えよ。さっさと終わらせようぜ」
こいつ、自分が負けたら本当につまらなさそうにしているな。
これは少しお灸を据えてやらんといかん。
「じゃあ、これからホラー映画でも観るか。しかも、ただ観るだけじゃない。部屋の電気も消すからな。このくらい問題ないだろ? なあ、牧本?」
「えっ? ホ、ホラー映画?」
俺は牧本の苦手なものを知っている。
そう! 牧本はホラー映画が苦手なのだ!
前に瑠璃と一緒にホラー映画を観たとき、牧本はホラー映画が苦手だということをポロッとこぼしていた。
俺はそれを聴き逃さなかったのだ。
「べ、別に問題ないぞ! い、いいか、璃央! へ、部屋が暗いからって、どさくさに紛れて、私に変なこととかするなよ!?」
案の定、牧本はすでに怯えているようだ。
無理をして強がってはいるが、動揺を隠しきれていない。
さて、これからどんな反応をするかとても楽しみだ。
「そんなことしねーよ。じゃ、電気消すぞー」
「お、おう!」
俺は映画を観る準備をしてから、部屋の明かりを消し、牧本の隣に座る。
観るのは日本のホラー映画で、初見のときは俺も思わず怖くなってしまうほどの映画だった。
しかし、今では先の展開がわかっているので、俺は全然怖くない。
だが、ホラーが苦手な牧本には、さぞつらい時間になるだろうな。
怯える牧本の姿を想像すると、思わずにやけてしまう。
さあ、覚悟しろよ、牧本。
映画の冒頭はあまり怖くないので、牧本も最初は余裕そうな顔をしながら観ていた。
しかし、徐々に暗く、陰鬱な展開になると、牧本の顔から余裕がなくなり、怯え始める。
人が無残に死亡する場面になると、牧本は小さく声を上げて、震え出してしまったのだ。
「おい、大丈夫か? そんなに怖いなら、無理するなよ?」
「……」
俺は少し心配になり声をかけたが、牧本は無言で映画を観ていた。
本当に大丈夫なのだろうか?
牧本が本気で怖がったとき、すぐにテレビを消せるよう、リモコンを片手に持って備えることにした。
映画が中盤に差しかかった頃、牧本がもぞもぞと動き出す。
そして、なぜか俺との距離を詰めてくる。
気づいたら俺たちは、お互いの肩が触れる距離まで近づいていた。
牧本のやつ、いったい何を考えてるんだ?
映画が後半に入り、最も怖い場面に突入する。
それと同時に、なんと牧本が俺の腕に抱きついてきたのだ。
同じシャンプーやボディソープを使ったはずなのに、明らかにそれとは違う別のいい香りが俺の鼻孔をくすぐる。
牧本は黒いキャミソールとグレーのショートパンツという薄着な格好だ。
なので、体温がじわじわと腕に伝わってきた。
牧本の体温は非常に高く、熱いくらいだ。
しかも、牧本の胸が少しだけ腕に当たってしまっている。
健全な男子である俺は、その柔らかな感触が気になりすぎて、もはや映画どころではない。
「ま、牧本。ちょっとくっつきすぎじゃないか?」
「……」
牧本は俺の言葉を無視して、無言で映画に集中している。
もしかして、無意識でやっているのか?
しかし、いくら無意識といっても、さすがにこれはまずい。
俺は悶々としながらも、この状況を受け入れるしかなかったのである。
映画を観たあと、俺の部屋に移動した。
牧本は何事もなかったように、いつもの調子に戻っている。
俺はそんな牧本を見て、何を考えているのかが余計にわからなくなった。
とりあえず、この件については置いておこう。
それに、もう夜も遅い時間だ。
今日はこの辺で寝るとするか。
俺は最初、牧本を瑠璃の部屋で寝かせようと思っていた。
しかし、瑠璃の部屋は鍵が閉まっていたのだ。
次に、俺は牧本に一階の和室で寝るように促す。
だが、牧本はなぜか俺の部屋に居座った。
それだけではなく、牧本は俺の部屋に和室の布団を運び込む。
そして、俺と一緒の部屋で寝る、と言い始めたのだ。
「ああ、怖かった。やっぱり私は、ホラー映画があまり得意じゃないらしい」
「おい、牧本。話をそらすな。今は映画の感想なんて訊いてないだろ? なんでお前は俺の部屋で寝ようとしてるんだよ?」
「え? だって、璃央が夜中にトイレ行くときとか、私が付いてないとダメだろ?」
「俺は夜中にトイレに行くほど歳は食ってねーよ」
「それに、璃央がさっきの映画の影響で、一人だと怖がって寝られないかもしれないしな」
「俺はホラー映画を観ただけで、眠れなくなるほど幼くもねぇ……」
牧本の様子はどこかおかしかった。
というか、怖がって一人で寝られないのは、牧本のほうではないのか?
さっきの映画の一場面に、一人で寝ていた人物が襲われるシーンがあった。
そのとき、牧本がかなり怯えながら観ていたのを俺は知っている。
牧本は今も少し震えているようだった。
やはり苦手と知っていて、あえてホラー映画を観せたのは、やりすぎだったのだろうか。
……仕方ない。
ここは牧本の言うとおりにしてやるか。
俺もこんな状態だし、牧本も信頼できるやつだ。
一緒の部屋で寝ても、間違いなど起きるはずもないだろう。
「今晩だけは一緒の部屋で寝てもいいぞ」
「えっ!? 本当にいいのか!?」
「今日はたくさん世話になったからな。そのお礼に言うことを聞いてやるよ」
「やった! ……あ、いや、しょうがないなー。璃央がそこまで言うなら仕方ないよなー。あ、でも、寝てる私に悪戯とかするなよ?」
「やっぱり一人で寝るか?」
「じょ、冗談だよ! 璃央が変なことをするはずがないよな! わかってるって!」
まったく調子のいいやつだ。
さっきまで怯えていた顔をしていたのに、もう笑顔になってやがる。
しかしながら、このことは瑠璃と鈴音にはばれないようにしないとな。
まあ、やましいことはしてないので、詫びるほどのことでもないと思うが……。
「じゃあ、寝るとするか。牧本、すまんが、部屋の電気を消してくれ」
「……ちょっと待ってくれ。寝る前に少しだけ私に時間をくれないか? 璃央に話したいことがあるんだ」
牧本は布団から立ち上がり、ベッドに腰かけている俺の前まで迫ってきた。
牧本の目はいつの間にか真剣な目つきに変わり、声色も低くなっている。
それに、ホラー映画を観たときよりも身体を震わせていて、かなり緊張しているようだった。
「ど、どうしたんだ、牧本? そんな真剣な目をして?」
「これから大事な話をするんだ。真剣になるのは当然だろ? それで、私の話は聴いてくれるのか?」
「……ああ、いいぞ。俺たちは友達なんだから、遠慮せずに何でも話してくれ」
「ありがとな、璃央」
先ほどまで和やかだった雰囲気が一変し、今度は緊張感が高まる。
牧本は何を言い出すつもりなのだろうか?
「璃央! 私が悪かった! 今まで迷惑かけてごめん!」
「……え?」
牧本は突然謝罪の言葉を述べ、俺に頭を下げた。
いったいこれは、何についての謝罪なのであろうか?
「お、おい、牧本。なんで俺に謝罪なんかしてるんだよ? 怪我の件については、お前の責任じゃないってことで解決しただろ?」
「怪我の件についても、私はいまだに自分に責任があると思ってる。だけど、今の謝罪の内容はそれだけじゃないんだ」
「怪我の件じゃないなら、五月にお前を助けたことについてか?」
「それも含めるが、本命はそこじゃない。璃央もわかってるんだろ? 私とお前は小中学生のとき、同じ学校で同じクラスだった。そのときのことについて謝ってるんだよ」
そういえば、俺が怪我をしたきっかけは、牧本に記憶が戻ったことを話したからだったよな。
この数週間、俺は怪我のことで頭がいっぱいだった。
なので、そのことをすっかり忘れていたのだ。
あの日、俺はただ牧本に確認をしたかっただけなのだが……。
しかし、あのときの牧本はどこかおかしかった。
「確かに俺とお前は同じ学校で同じクラスだった。しかし、思い出した記憶を辿っても、俺が牧本に何かをされた記憶はない。俺の記憶はまだ完全じゃないんだ。何があったのか、教えてくれないか?」
牧本は顔を曇らせながら、次の言葉を探しているように見えた。
それに、少し苦しそうだ。
「……何もできなかった」
「え?」
「私は璃央がいじめられているのを、ただ見ていることしかできなかったんだよ……」
牧本は悲しそうな顔をしながら、今にも泣きそうになっている。
言葉もなんとか絞り出したようだった。
「恩人である璃央がいじめられていても、私は何もしてやれなかった。私は怖かったんだ。璃央の味方をして、自分が標的になるのが。だから、わざと見ないようにしてた。私って最低だよな。私は璃央の友人失格だよ」
牧本は目に涙を浮かべながら、立ち尽くしていた。
……そうか。
牧本はそんな昔のことを後悔していたのか。
それも、俺なんかのために苦しい思いをさせてしまった。
やっぱり、牧本は真面目なやつだな。
俺のことなんて、そんなに気にすることでもないのに。
「牧本、話してくれてありがとう。お前の気持ちは十分伝わったよ。俺はお前を恨んだりなんかしてないから安心してくれ。それに、友達失格とも思ってない。そんなに自分を責めないでくれよ」
「そ、そうなのか? でも――」
「俺が牧本と同じ立場でも、たぶん同じことをしたと思う。いじめって怖いからな……」
話し終わる瞬間、過去の記憶が突然フラッシュバックし、軽く目眩と吐き気を催した。
冷や汗が出て、頭がクラクラする。
「璃央! 大丈夫か!?」
「ああ、なんとかな……」
「……私のせいだよな? 私が過去のことを思い出させたから……。ごめんな、璃央」
牧本は俺の背中を優しくさすってくれた。
そのおかげなのか、だんだん症状が落ち着いてくる。
「ありがとな、牧本。だいぶ調子が戻ったよ」
「そ、そうか。ならよかった……」
牧本にはいつもの元気がなく、今はとても弱々しく見えた。
牧本をここまで追い詰めてしまったことに、俺は罪悪感を感じてしまう。
これ以上、牧本を苦しめないためにも、俺はもう一度、ちゃんと伝えないといけないよな。
牧本のことを恨んでいない、ということを。
俺は牧本の右肩を左手で掴み、目を合わせる。
急に肩を掴まれたせいか、牧本は驚いたような表情をしていた。
それに、少し不安そうだ。
「何度も同じことを言うが、俺はお前のことを恨んではいない。過去のことについても、お前が罪悪感を持ったりしなくてもいいんだ。今まで苦しませて、ごめん。お前が罪だと思っていることは、俺が全部赦すよ。こんな俺のために悩んでくれてありがとな」
俺は嘘偽りない言葉を牧本に伝える。
今まで牧本にはずいぶんと世話になった。
そもそも俺は、牧本に悪い感情など、これっぽっちも抱いていない。
だが、牧本は今でも過去に縛られ、自分を責め続けている。
この呪縛から牧本を解き放つためには、俺の赦しが必要なんだ。
だから、俺は牧本を赦した。
これから牧本が前を向いて歩けるように。
「り、璃央……。ありがとう。こんな私を赦してくれて……。多目的室で璃央と話したとき、私は怖かったんだ。璃央が私のことを軽蔑したらどうしようって……。それで……ついあんな態度を取ってしまったんだ」
「俺が牧本のことを軽蔑するわけないだろ。牧本は大切な友達なんだから」
「……こんな私が友達で本当にいいのか? 璃央?」
「当たり前だろ。そんなに自分のことを卑下するなよ。俺は牧本が友達で本当によかったと思ってる。だから、もっと自分に自信を持ってくれよ」
「う、うん……」
「湿っぽい話は以上だ。これからも友達としてよろしくな、牧本」
「璃央……。ありがとう……」
牧本はそう言った直後、急に抱きついてきた。
咄嗟のことで反応できなかった俺は、そのままベッドに押し倒されてしまう。
「お、おい、牧本。何するんだよ。これでも一応怪我人なんだが?」
「ご、ごめん! だ、だけど、少しこのままでいさせてくれ……」
牧本は俺の胸に顔を埋め、声を殺しながら静かに泣き始めた。
いったい牧本はどのくらい悩んでいたのだろうか。
そのつらさの度合いは俺にはわからない。
だけど、この様子から察するに、相当溜め込んでいたのは明らかだった。
ありがとな、牧本。
お前は本当に友達想いのいいやつだよ。
「……仕方ない。今だけだぞ……」
俺は牧本が泣き止むまで、しばらく胸を貸してやることにした。
鳥のさえずりを聞いて、俺はハッと目を覚ました。
窓からは穏やかな朝の光が漏れ出している。
どうやら、昨日はあのまま寝てしまったようだ。
……なぜか左腕が重い。
左腕には何かが乗っているようだ。
確認してみると、牧本が俺の左腕を枕にして寝ていた。
若干目の周りが赤かったが、静かな寝息を立て、穏やかな表情で寝ている。
俺はそれを見て安心した。
さて、もう一眠りするか。
……っておい!
なんで俺は牧本と一緒に寝てるんだよ!?
お、落ち着け! 俺!
昨日のことをよく思い出せ!
俺は牧本に何もしてないはずだ!
……そうだよな?
くそ! 寝る前の記憶が曖昧でよく思い出せない!
昨日、俺は牧本に抱きつかれた。
それから、牧本が泣き止むまで、胸を貸してやったのだ。
そこまでは覚えている。
だが、それ以降が思い出せない。
なんで牧本は俺の左腕を枕にしている?
まさか昨日、勢いで一夜の過ちを犯してしまったのか?
しかし、お互い服はちゃんと着ているし、そもそも牧本とそうなる確率は低いはずだ!
そうだよな?
なんだか自信がなくなってくる。
すると、牧本の目が突然開き、お互い見つめ合う形となった。
「お、おはよう……。牧本……さん?」
俺は緊張しながらも朝の挨拶をし、様子を伺った。
牧本は目をこすりながら、あくびをする。
その後、パッと表情を変え、白い歯を見せた。
「おはよう、璃央。昨日はありがとな」
「お、おう」
「ん? なんでそんなに緊張してるんだよ?」
「いや、だって、この状況をよく見てみろよ。牧本は何とも思ってないのか?」
牧本はゆっくりと起き上がり、俺を見つめてきた。
牧本の顔には朝日が当たり輝いて見える。
「ただ一緒に寝ただけじゃないか。別に友達ならこれくらい気にしなくてもいいだろ?」
「そ、それって大丈夫なのか? 俺にはよくわからんが……」
「まあでも、みんなには秘密にしておいたほうがいいかもな」
「あ、当たり前だろ! こんなことほかのやつらに言えねぇよ! それで、一応訊くが、昨日俺たちの間には何もなかったよな?」
「……」
牧本は急に沈黙した。
え? なんでそこで黙るんだ?
心臓に悪いから早く言ってくれよ。
「……璃央」
「な、なんだ?」
「昨日のことは秘密だぞ」
牧本は悪戯っぽく笑いながらそう答えた。
ほんの少しだけ、牧本は頬を赤らめている。
「そ、それはどういう意味だ?」
「よーし! 腹も減ったし、朝食でも作るか!」
「お、おい、牧本! 俺の話を聴いてるのかよ!?」
牧本は俺の話を聴かずに、ベッドから降りて、部屋から出ようとしていた。
しかし、なぜか牧本は部屋の扉の前で動きを止める。
そして、俺のほうを見てから、口を開いた。
「あ、そうだ。今日から私のことは名字じゃなくて名前で呼んでくれよ」
「い、いきなりどうしたんだよ。牧――」
「私の名前は葵月だ」
「お、おう……。 あ、葵月……」
「よーし、それでいい。じゃあ、朝食を作るからな」
葵月は名前を呼ばれて嬉しいのか、笑顔になっていた。
なんで今そんな提案をしたんだよ……。
「あ、そうそう。これから牧本って言うたびに罰ゲームだからな?」
「え? おい、ちょっと待て! あ、葵月!」
葵月はなぜか満足したような表情をして、部屋から出て行ってしまった。
こうして、俺と葵月の二人っきりの生活は終わりを迎える。
葵月とは今までよりもさらに仲が深まった。
……なんとなくそんな気がしたのである。
ちなみに朝食は、昨日の丼物とは打って変わって、理想的な和食料理が用意されていた。
味つけもちょうどよく、すごくおいしかった、ということを俺は今でも覚えている。
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