第十九話 双子と葵月 前編


「うう……。この映画は泣けるな……」

「た……たしかに……」


 俺と牧本はリビングで、一緒に動物映画を鑑賞していた。

 ジャンルは保護犬のドキュメンタリー映画だ。 

 猫派の俺は最初、この映画を観るのをためらっていた。

 だが、いざ観てみると結構感動して、泣きそうになってしまっている。

 牧本も涙を流しながら、ティッシュで鼻をかんでいた。


「なあ、牧本? お前はやっぱり犬派なのか?」

「私は犬のほうが好きだぞ。璃央は犬と猫、どっちが好きなんだ?」

「俺は猫派だな。あの肉球がたまらなく好きなんだよ」

「猫の肉球ってぷにぷにしてるから、私も好きだな」

「そうだろ?」

「璃央は猫を飼いたいと思ったことはあるのか?」

「……少しはあるな。だけど、俺は生き物を飼う自信と余裕もなかったから、潔く諦めたんだよ。そういう、牧本はどうなんだ?」

「実は、私も犬を飼ってみたいと思ってたんだ。でも、この映画のおかげで、現実は厳しいってことを痛感させられたよ。命あるものは、生半可な気持ちで飼っちゃいけないんだな」


 意外と真面目な意見が返ってきた。

 本当にそのとおりだと思う。

 劇中、人間のエゴのせいで、殺処分の危機に陥っていた犬たちの映像を観たときは、心が苦しくなったものだ。


「なんだかしんみりしちまったな。次は気分転換に動物コメディ物でも観るか」

「そうだな……っておい! 牧本! なんでお前は俺の家で呑気に映画なんか観てるんだよ!?」

「な、なんだよ。動物映画は不満なのか?」

「そんなこと訊いてないだろ!? なんでお前は登山をズル休みして、俺の家にいるんだよ!?」

「……それなら、さっき説明しただろ。心配するな、私が責任を持って璃央のお世話をしてやるからな」


 駄目だ。

 話が噛み合わない。

 こいつとの会話は平行線だ。 

 まさか学校の行事を休んでまで、俺の世話をしにくるとは思わなかった。


「両親にはちゃんと許可を取ったのか?」

「そんなことするわけないだろ。男子の家でお泊まりしてくる、なんて正直に言って許されると思うか? だから、家を出るときは登山の格好をして、バレないように出てきたんだ」

「つまり、両親は、お前が真面目に登山に行っていると思っているのか? でも、勝手に休んだら、家に連絡がいくんじゃないのか?」

「お前なー、連絡もなしに休むわけないだろ。稲田先生には、体調不良で休む、ってちゃんと連絡しておいたぞ」

「そ、そうか……」


 牧本のことだから、どこか抜けていて、あとで面倒なことになると思っていた。

 だが、そこら辺の対策はしっかりしているようだな。

 しかし、まだ懸念はある。


「瑠璃たちにはこのことを話してあるのか?」

「……いや、話してないぞ。私は瑠璃たちの力を借りずに恩返しをしたいんだ」


 牧本は真剣な顔をしてそう言った。

 こいつは変なところで真面目だな。


「あ、でも、源一さんが帰ってきたら、どう説明するかちょっと悩むな」

「実はな、じいちゃんは明日の昼まで、この家に帰ってこないんだ」

「えっ! そうなのか!? じゃあ、明日の昼まで、私たちは二人っきり……ってことだよな?」


 牧本は動揺しているようだった。

 じいちゃんがいるという前提条件があったからこそ、ここまで大胆な行動ができたようだ。


「だから、璃央はそんなに嫌がってたのか?」

「別に嫌がってたわけじゃねぇよ。いくら仲の良い友達でも、異性と二人っきりになるのはまずいと思っただけだ」

「そうなのか……。うん、でも大丈夫だ。私は別になんとも思ってないぞ」


 牧本は冷静さを取り戻し、真顔で答える。

 けれども、なんとなく気まずい雰囲気が、俺たちの間には漂っていた。

 これ以上この話を続けても意味はなさそうだ。


 とりあえず、牧本の滞在を認めてやることにするか。

 こいつは一度決めたことを曲げたりはしないはずだ。

 こいつのしつこさは、友人である俺自身がよく知っている。

 ここは俺が折れるしかない。


「牧本、お前がこの家に泊まるのを許可してやる。ただし、このことは絶対に口外するなよ」

「わかってる。私たち二人だけの秘密ってことだよな?」


 牧本は悪戯っぽく笑いながら、口の前で人さし指を添える。

 そんな牧本を見た瞬間、なぜか俺の心はざわついてしまった。

 

 なんだこの感じは?

 まさか、よりにもよって、俺は牧本のことを意識してしまっているのか?

 いや、そんなはずはない。

 牧本は大切な友人だ。

 それ以上でも、それ以下でもない。


 このおかしな状況のせいで、俺自身が少し混乱しているだけだ。 

 というか、牧本は真剣に心配してくれているのに、俺が変に意識してどうする。

 そんなんじゃ、牧本に対してあまりにも失礼だろうが。

 

 ……とにかく、話題を変えるか。

 まずは、映画でも観て、気を紛らわすことにしよう。


「じゃあ、さっきお前が言ってた動物コメディ映画でも観ようぜ。その映画、前から気になってたんだよ」

「わかった。この映画は私のお気に入りで、ぜひ璃央に観てほしいと思ってたんだ」

「それは楽しみだな」

「あとポップコーンと炭酸飲料も買ってきたんだ。これを食べながら、映画を観ようぜ」

「準備がいいな。さすが牧本だ」

「へへっ、そうだろ?」


 俺たちは大盛りポップコーンと一人一リットルもある炭酸飲料をお供にして、映画を観ることにした。

 映画の内容は、子ブタが主人公の物語で、結構昔の映画のようだ。

 でも、今観ても別に古臭さを感じさせないくらい面白い映画だった。

 俺はポップコーンを食べるのを忘れてしまうほど、映画に熱中していた。

 牧本は何回もこの映画を観ていて余裕があったからか、ポップコーンと炭酸飲料を完食していたようだ。

 相変わらず、牧本はよく食べるな。


 映画を観終わって、感想を二人で話したあと、少し早いが昼食をとることにした。

 どうやら、牧本が昼食を作ってくれるらしい。

 俺は少し不安になったので、牧本が料理を作る様子をしばらく監視していた。

 しかし、俺の予想とは裏腹に牧本は料理をそつなくこなしている。

 ……これなら大丈夫そうだな。

 俺はテーブルに着いて、料理の完成を待つことにした。







「よし! 完成したぞ!」


 牧本は作った料理をテーブルに並べた。

 サラダに味噌汁、そしてメインの親子丼。

 親子丼の卵は半熟になっており、いい匂いと相まって非常に食欲をそそるものとなっていた。

 しかも、量がかなり多い。

 さっきのポップコーンを完食していたら、たぶん食べきれなかっただろう。

 料理を運び終えた牧本は、なぜか俺の横の席に座った。


「じゃあ、食べようぜ」

「な、なんで俺の隣に座ってるんだ?」

「璃央はまだ利き手が使えないだろ? だから、学校のときみたいに食べさせてやろうと思ってな」

「そ、それくらい、自分でできるわ! いただきます!」


 俺はスプーンを左手で持ち、親子丼をすくって食べようとした。

 しかし、手が震えて、なかなか口まで持っていけない。

 そんな俺の様子を見かねた牧本は、スプーンを奪い取り、口まで優しく運んでくれたのだ。

 親子丼は、味付けもちょうどよく、卵もとろとろとしていて、俺好みの味だった。


「う、うまいな……」

「そうだろう? 私だって料理くらい作れるんだ。やっぱり、一人じゃ食べられないだろ?」

「そ、そうだな……。すまん。やっぱり、牧本を頼らせてもらうことにするよ」

「つまらない意地を張ったりするなよな。私たち友達だろ?」


 牧本は微笑みながら、親子丼をスプーンですくい、また俺の口に持ってくる。

 なんだか学校で食べさせてもらったときよりも、恥ずかしい気がする。

 やはり二人きりというのが地味に響いてるな。


「おい、何ぼーっとしてるんだ? 早く口を開けろよ。せっかくの料理が冷めちまうだろ」

「わ、悪い。あーん」

「ほらよ」

「むぐ……。ありがとな……」

「まだまだあるからな。たくさん食べろよ」

「牧本は食べないのか?」

「私のことは気にするな。ほら、あーんしろ」

「わ、わかった……」







 昼食後、満腹になって苦しかった俺は、ソファーに座りテレビを観ていた。

 牧本は台所で洗い物をしてくれている。

 いくら俺が怪我人だからといっても、他人に家事をやらせるのは、申し訳なく思ってしまう。


「ふぅ、終わったぞ」

「悪いな、牧本。洗い物までさせちまって」

「私は別に何とも思ってないぞ。これくらいの家事なら慣れてるしな」

「ありがとな。ところで、午後はどうする? また映画でも観るのか?」

「それもいいけど……」

「じゃあ、ゲームでもするか?」

「ゲ、ゲームか……。私はゲームをあまりやらないからできるか不安だ。それに、璃央はコントローラーも持てないのにできるのか?」

「大丈夫だ、牧本。初心者にも優しく、片手だけでも遊べるゲームがあるんだ」

「そうなのか?」


 俺はゲーム機を起動させて、あるゲームを始めた。

 これは、世界のテーブルゲームやミニゲームが何十種類も収録されているゲームだ。

 これなら初心者の牧本も、片手しか使えない俺でも、ある程度遊ぶことができるだろう。


「牧本、どちらが多く勝てるか勝負でもするか? もちろん罰ゲームありで」

「……いいぜ。その安い挑発に乗ってやるよ」


 俺と牧本の勝負の火蓋が切られた。


「よっしゃー! 私の勝ちだな!」

「む、無念……」


 結果だけ言うと、俺のボロ負けだった。

 序盤の頭を使うゲームでは俺が勝っていたのだが、スポーツ系のゲームでは、牧本の圧勝だったのだ。

 初めは、ただのビキナーズラックだと思っていた。

 しかし、終盤にはどんなゲームにも適応していったのである。

 最終的には、運が大きく左右するゲーム以外、俺は牧本に勝つことができなくなった。


 さすが陸上部のエース。

 ゲームのセンスも抜群とは驚いたよ。

 まあ、俺も右手が使えれば、もっと勝てたに違いない。

 ……たぶんな。


「いやー、ゲームって結構面白いもんだな。今までゲームに偏見を持ってたが、いざやってみるとはまりそうだ」

「……牧本が楽しそうでよかったよ。お前にはゲームの才能があると思うぜ」

「へへっ、そうか? でも、友達とやるゲームだから面白い、っていうのもあるかもな。一人だったら、これほど熱中はしてなかったと思うぞ?」

「俺でよかったらまた付き合うぜ。しかし、次に勝つのは俺だがな」

「おう、また遊ぼうぜ。まあ、次やっても璃央には負ける気がしないけどな」

「やけに挑発的じゃないか。もう一勝負やるか?」

「その前に、璃央の罰ゲームが先だろ?」


 やはり、牧本は罰ゲームのことを覚えていたか。

 だが、牧本の考えた罰ゲームなんて、そんなに大した内容じゃないだろう。


「いいぜ。何でも言ってみろよ」

「……何でも? 本当にいいのか? 後悔するなよ?」

「男に二言はない。ほら、言ってみろよ」

「じゃあ……」







 俺は今とてつもなく後悔している。

 現在、俺は水着姿になり、風呂場でイスに座っていた。

 当然、右手と右足には防水ギプスカバーをしている。

 俺は風呂の湯船には入ることができない。

 しかし、風呂にはお湯がなみなみとたまっている。

 これは俺が入るためにためたわけではない。

 牧本が入るためのものである。


「よし! 着替えたから入るぞ」

「お、おう。わかった」


 牧本の声が聞こえ、後ろにある扉が、勢いよく開けられた。

 そして、水着姿の牧本が堂々と入ってくる。

 牧本の水着は、夏休みにプールに行ったときと同じ水着だ。

 紺色のフィットネス用の水着。

 部活で鍛えられた健康的なスタイルのよさが、はっきりとわかる水着だ。


 牧本が提案した罰ゲームとは、「一緒にお風呂に入る」というものであった。

 果たして、これは罰ゲームなのであろうか?

 むしろ俺にとってはごほ……。

 ……いや、なんでもない。


 それより、牧本はどう思っているのだろうか?

 普通はこんなこと提案しないだろ。

 やっぱり、こいつの考えてることはよくわからないな。


「じゃあ、早速、璃央の背中でも流してやるか」


 牧本はボディスポンジを持ちながら、俺に近づいてくる。

 俺は風呂場に水着という、普段あまりないシチュエーションに動揺を隠せなかった。


「ま、待て、牧本。俺はまだ心の準備ができていないんだ。落ち着くまで時間が欲しい。だから、先に湯船に入っていてくれ。それから少し話をしよう? な?」

「おいおい、璃央ー。なんで今さら、水着姿の私に緊張なんかしてるんだよ? 前も見ただろ? ……あっ! でも前は……」

「そ、その件についてはもう和解したはずだろ!? ほら、頼むから湯船に入ってくれよ!」

「しょうがないなー。わかったよ」


 牧本はシャワーで身体を軽く流し、湯船に浸かった。

 次の瞬間、なみなみたまっていたお湯が一気にあふれだし、風呂場が軽く洪水のような状態になる。


「す、少しお湯をためすぎたな……」

「璃央。お前まさか、私に恥をかかせるためにこんなにお湯をためたのか? 私が太っているとからかうつもりだったんだろ?」

「い、いや、違う。これは故意にやったわけじゃないんだ。し、信じてくれ」

「……まあ、今日のところは許してやるよ。そういえば、話があるんだろ? 早く話せよ」


 誤解が解けてよかった。

 牧本はなんだかんだ言っても、最終的にはいつも許してくれるな。

 心が広いやつだ。


「ああ、わかった。……牧本、お前無理してないか?」

「……無理って何をだよ?」

「え? いや、だから、この状況のことだよ。お前と初めて出会ったときも、体調が悪かったのに無理して走ってたよな? 前と同じように、今も結構無理してるんじゃないのか?」


 牧本はこの数日間、身を粉にして、俺の介助をしてくれていた。

 そのうえ、「牧本は悪くない」と何度も伝えても、それを否定して、「自分が悪い」と言い続けていたのだ。

 俺はそんな牧本を見て思ったことがある。

 それは、牧本が無理をしてるんじゃないか、ということであった。

 もし無理をしているのなら、今すぐにそれをやめてほしいと思っている。


 牧本は俺の言葉を聴いて黙ったままだ。

 そのせいで、牧本の感情を読み取ることができない。


「……璃央。お前は、私がまだあの頃のままだと思ってるのか?」


 牧本はいつもより低い声を発し、それから、はっきりとした口調で話しかけてきた。

 俺はそれに驚き、思わず身構えてしまう。


「ち、違うのか?」

「はぁ……。お前はそういうやつだったな。いいか、璃央。私はあの頃みたいに無理をしてまで、何かを達成しようとは思ってねぇよ」

「そうなのか?」

「前までは親の評価を気にして、無我夢中で何かを残そうと必死だった。だけど、そのたびに怪我をして、余計に心配をかける悪循環に陥ってたんだ」

「……それは、つらいな」

「でも、瑠璃と出会って説教をされてから、改めて自分のことを見直すことができたんだ」

「瑠璃が……?」

「わからないときや上手くいかないとき、瑠璃はいつも相談に乗ってくれた。しかも、一緒になってどうすればいいか悩んでくれたんだよ。そのおかげで、今は無理することも少なくなって、怪我をすることもなくなったんだ。瑠璃には本当に感謝してるよ」


 二人の仲の良さは前々から知ってはいたが、まさかここまで深い仲だとは知らなかった。

 どうやら、俺の知らないところで、二人は絆を深め合っていたようだ。

 そういえば、瑠璃は以前、牧本のことを放っておけない、なんてことを言っていたな。


「……そうだったのか。俺は毎日お前と一緒にいるのに、全然気づけなかったよ。鈍くて、すまん」

「別に気にしてねぇよ。だけど、わかってほしいんだ。私は無理して璃央のお世話をしてるわけじゃない、ってことをな。私がしたいことを、できる範囲で手伝ってるだけなんだよ」


 牧本の目は真剣そのものだ。

 これはもう、こちらも真面目に受け入れるしかないな。

 これからは牧本の好きなようにさせてやろう。


「わかった。あとはお前の好きなようにしてくれ。文句はなるべく言わないようにするから」

「そうか! わかってくれたのか! じゃあ、早速背中を流してやる! ……いや、まずは頭を洗ってやるよ!」

「お、おい……。背中だけじゃないのか?」

「文句は言わないんじゃなかったのか?」

「うっ……。好きにしろよ」

「じゃ、始めるぞ」


 牧本は風呂から上がり、シャンプーを手に取り泡立てたあと、俺の頭を洗い始めた。

 牧本の意外に細い指が、俺の頭全体をかき回していく。

 家族以外に髪を洗ってもらうなんて、床屋でしか経験したことがないので、不思議な気分だ。

 だけど、悪い気分には全然ならなかった。

 むしろ、気持ちいいな。


「どこかかゆいところはありませんかー?」

「それはよく言われるが、洗われてる側からすると、具体的に指示を出すのは結構難しいんだが?」

「それじゃあ、全体をこうしてやる! うりゃー!」

「うわぁ! ま、牧本。ちょっと激しいぞ……」


 牧本はシャンプーを何回か足してから、頭全体を高速でかき混ぜる。

 今気づいたが、使われてるシャンプーは瑠璃用のシャンプーだ。

 これは、明日瑠璃に怒られるかな。


「ほい! 頭は無事洗い終えたな」

「あ、ありがとな」

「まだ礼を言うのは早いぞ。これから本命の背中流しを始めるからな」

「ああ、頼むよ」


 牧本は頭の泡をシャワーで洗い流してから、ボディスポンジを持って、俺の背中を洗い始めた。

 俺は家族以外に背中を洗ってもらったことはない。

 なので、スポンジを背中に当てられたとき、一瞬ビクンと反射的にのけぞってしまったのだ。

 だけど、牧本は何も言わず、俺の背中をスポンジで擦り続けていた。


「……」

「どうした牧本? 急に黙ったりして」

「い、いや、なんでもないぞ。ただ、璃央の背中って意外と大きいんだなぁ、と思っただけだ」

「洗いづらいのか? すまんな」

「そういうわけじゃないんだけどな……」


 牧本の洗う力は、俺にとってちょうどよい強さだった。

 やはり、鍛えてるだけあるな。

 瑠璃やじいちゃんだと少し物足りなかったので、牧本の力加減が一番気持ちよく感じた。


「璃央、終わったぞ」

「ああ、ありがとな。気持ちよかったぞ」

「ならよかった。ちなみに前はどうする?」

「ま、前なら自分でできるわ!」

「そ、そうだよな……。へ、変なこと訊いてごめん」


 まずい、なんか変な雰囲気になってきたな。

 俺は、自分で前を洗い、シャワーで素早く泡を洗い流す。

 そして、風呂場から出ようとした。

 しかし、出ようとした瞬間、左腕を牧本に掴まれる。


「……じゃあ、次は私の背中を洗ってくれよ」

「……は? お前は自分で洗えるだろ? それに、俺は左手しか使えないから上手くできるかわからんぞ?」

「これも罰ゲームの一環だぞ」

「うぐ……! そうか罰ゲームの一環なら仕方ない。ほら、後ろ向けよ。洗ってやるから」

「ああ、頼むよ」


 牧本はイスに座って背中を向けている。

 俺も牧本の後ろに別のイスを置いて座ることにした。

 女子の背中というものを洗ったことがないので、少しドキドキしてしまっている。

 そのうえ、牧本の水着は後ろが大きく開いていて、素肌の露出面積が多いのだ。


 落ち着け、俺。

 相手は牧本だ。

 さっきは緊張したが、もう水着姿には慣れてきた。

 このまま平静を保って、ただ洗えばいいだけだ。

 俺は自分にそう言い聞かせて、新しいスポンジで牧本の背中をゆっくりと擦り始めた。


「ひゃっ!」


 気のせいだろうか?

 聞いたことのない声が浴室に響いたぞ。

 俺は無心になり、そのまま牧本の背中を洗い続けることにした。


「ひゃうっ! んっ! あっ!」

「お、おい。大丈夫か、牧本?」

「だ、大丈夫……。ちょっとくすぐったかっただけだ。気にせず続けてくれ……」


 俺は心を無にして、背中を洗い続ける。

 牧本の背中は俺から見れば小さく、女子の身体であることを嫌でも意識してしまう。

 加えて、背中をスポンジで擦るたびに、いつもは出さないような甲高い声を発するのだ。

 そのせいで、俺の心の中ではいけない感情が芽生えそうになる。


「り、璃央。ま、まだ終わらないのか?」


 牧本の一声で、俺は現実に戻ってくることができた。

 俺としたことが、何度も同じ場所を洗っていたようだ。


「す、すまん。終わったぞ」

「わざわざ洗ってもらって悪いな」

「罰ゲームだからしょうがないだろ」

「……そうだったな」


 俺は今度こそ風呂場から出ようとして立ち上がった。

 できるだけ牧本の身体を見ないよう、必死に視線を壁や天井に向ける。


「牧本はまだ風呂に入るのか?」

「おう、もう少し入らせてもらうぞ」

「それじゃ、ごゆっくり」


 俺は風呂場の扉を開けて、脱衣場に出る。

 不覚にも、俺はまた牧本のことを、女子として意識してしまった。

 まだまだ俺も未熟だな。

 そう思いながら、タオルで身体を拭き始める。

 それから、脱衣場にあるカゴから自分の服を取り出そうとした。


 そのとき、不意に何かが俺の視界に入る。

 それは別のカゴに入っていた、牧本の服と下着だった。

 不運にも、俺はそれらをガッツリ見てしまったのである。

 その瞬間、俺の心臓の鼓動は大きく高鳴った。

 俺は急いで身体を拭きあげ、服を着てから脱衣場をあとにする。

 このときの俺は、怪我をしているのに、まるで、猫から逃げる鼠のように素早く行動できた。


 リビングまで移動したあと、ソファーに座る。

 そして、すぐに態勢を崩し、ソファーにうなだれた。

 果たして俺は、こんな状態で牧本と普通に接することができるのだろうか?

 心を落ち着かせるために、とりあえず深呼吸をする。

 それから、意識をテレビに集中させ、余計なことを考えないように努めたのだった。

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